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個人が作られるのは誰のせい?
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私は物心がついた頃から父親のことが苦手だった。
初めて自覚したのは幼稚園の頃だろうか。
一度、もっと小さい頃に父がスポンジ素材でできたミッキーのお面を顔につけて遊んでいた際、私は興味本位でミッキーのお面の鼻を思い切り押した。ボタン感覚で。
すると父はとても痛がり、激怒した。
「痛い! 謝りなさい!」
私はその圧に押されて黙ってしまい、謝る機会を失った。
その後もずっと父は
「謝りなさい! 謝りなさい!」
と繰り返し、母もそれに便乗した。
お面の鼻は出っ張っていたので、人間の鼻に到達するとは思わなかった。
父の鼻を潰そうと思ってやったわけではない。事故だ。
だから、謝るべきはもちろん私だ。
けれど、あまりの圧に恐怖心が芽生え、その時は泣きながら謝ったものの、それ以降、父のことが苦手になった。
父はわりと厳しいタイプだったが、よく一緒に遊んでくれたし、自転車に乗る練習にも付き合ってくれた。
休みの日にはスポーツ会館のような場所に連れて行ってくれ、子供でも使える筋トレマシンを使わせてくれた。
仕事仲間でバドミントンのチームを組んでいたので、それも教えてもらったし、大会の会場にも連れて行ってもらったりした。
田舎の遊園地にも連れて行ってくれた。
そんな父を『苦手だ』と思っていたのは、半ば、母の暗示のようなものだったのではないかと思う。
母は毎日のように父の愚痴を幼い私に聞かせ、
「パパって嫌だねー!」
と言われたら
「ねー!」
と返すと喜んだ。
それを繰り返すうちに、私は父が苦手になっていったのではないだろうか。
父の仕事は船乗りだったため、1~2ヶ月ほど家を空けることもあった。
そんな時は夜更かしをしても母は怒らない。
「寝なさい!」
の言葉が聞こえない夜は、夜鷹の私にとってストレスにならなかった。
窓の外から車のドアの音が聞こえると、家の中の空気がピシッと音を立てて緊張し、今まで砕けていた母も背筋を伸ばして父が入ってくるのを待つ。
仕事の後に飲んで帰ってくる日も同じだった。
私は夜遅くまで起きていて、車の音がしたら慌てて布団に入って寝たふりをする。
そのまま寝てしまうこともあるし、
「寝たふりかぁ~! このやろぉ~!」
と酔った父にバレて、夜遅くにキャッキャとはしゃぐこともあった。
父は基本的に子供が好きなので、よく遊んでくれてはいた。
そんな父のことを苦手と思い、それが大人になっても抜けなかったのは、少し申し訳ないような気もする。
私が幼稚園に入る前、母が作曲した曲に私が適当に歌詞をつけて歌い、それを小さなカセットテープに録音して遊んでいた。
当時から歌を歌うことは大好きで、中森明菜さんの『飾りじゃないのよ涙は』を十八番にしている3歳もまた稀だろう。
音楽好きは母ゆずりで、母は結婚する前から友達とバンドを組んで音楽活動をしていた。
コンテストでわりといい成績を残しているラジオなんかも残っている。
その母から、私はよく、こう言われるようになった。
「ママはね、お腹に明ができたから、バンドを辞めなきゃいけなくなったんだよ」
当時はなんとも思わなかったが、これは今考えるととんでもなく酷い言葉に聞こえないだろうか。
母は、そこで私を生まない選択もできたはずだ。
生む選択をしたのは母のはずなのに、どうして私のせいみたいに言うのだろう。
今でこそ、『HSP』という言葉がある。
──ハイリー・センシティブ・パーソン。
生まれつき、非常に感受性が強く、敏感な気質を持っている人のことだ。
私は今までの人生を振り返れば振り返るほど、子供の頃からHSPだったのだろうな、と思うと納得のいくことが多い。
人間は、お腹の中で形成されることが誰のせいかと言われると、誰のせいでもない。
生まれてくる本人のせいではもちろんないし、子供を作った両親だって、例えば『私』という人間を作ろうと思って作ったわけではなく、偶然着床してできた子供が私だったというだけだ。
母は悪気があって言ったわけではないにしろ、私の中では深く傷ついてずっと残っている言葉だったりするのだ。
私を妊娠した時、喜んでくれなかったのだろうか。
おそらく父は子供が好きなので喜んだことだろう。
私の祖父・祖母も喜んだだろう。
母はというと、私と同じで子供が嫌いな人種だったため、素直に喜べなかったのではないだろうか。
ましてや組んでいたバンドを辞めなければならないというオマケ付きだ。
きっと、父に説得されて生むと決心したのではないだろうかと睨んでいる。
後に、母に
「子供が嫌いなのに、どうして私や弟を生んだの?」
と聞いたことが何度かあるが、
「自分の子供は嫌いじゃないよ」
という、質問の答えにあまりならない言葉が返ってくるだけだった。
やはり、作ろうと思って作ったわけではないけれど、嫌いではないよ、というふうに聞こえてしまうのは、私がHSPだからなのだろうか。
初めて自覚したのは幼稚園の頃だろうか。
一度、もっと小さい頃に父がスポンジ素材でできたミッキーのお面を顔につけて遊んでいた際、私は興味本位でミッキーのお面の鼻を思い切り押した。ボタン感覚で。
すると父はとても痛がり、激怒した。
「痛い! 謝りなさい!」
私はその圧に押されて黙ってしまい、謝る機会を失った。
その後もずっと父は
「謝りなさい! 謝りなさい!」
と繰り返し、母もそれに便乗した。
お面の鼻は出っ張っていたので、人間の鼻に到達するとは思わなかった。
父の鼻を潰そうと思ってやったわけではない。事故だ。
だから、謝るべきはもちろん私だ。
けれど、あまりの圧に恐怖心が芽生え、その時は泣きながら謝ったものの、それ以降、父のことが苦手になった。
父はわりと厳しいタイプだったが、よく一緒に遊んでくれたし、自転車に乗る練習にも付き合ってくれた。
休みの日にはスポーツ会館のような場所に連れて行ってくれ、子供でも使える筋トレマシンを使わせてくれた。
仕事仲間でバドミントンのチームを組んでいたので、それも教えてもらったし、大会の会場にも連れて行ってもらったりした。
田舎の遊園地にも連れて行ってくれた。
そんな父を『苦手だ』と思っていたのは、半ば、母の暗示のようなものだったのではないかと思う。
母は毎日のように父の愚痴を幼い私に聞かせ、
「パパって嫌だねー!」
と言われたら
「ねー!」
と返すと喜んだ。
それを繰り返すうちに、私は父が苦手になっていったのではないだろうか。
父の仕事は船乗りだったため、1~2ヶ月ほど家を空けることもあった。
そんな時は夜更かしをしても母は怒らない。
「寝なさい!」
の言葉が聞こえない夜は、夜鷹の私にとってストレスにならなかった。
窓の外から車のドアの音が聞こえると、家の中の空気がピシッと音を立てて緊張し、今まで砕けていた母も背筋を伸ばして父が入ってくるのを待つ。
仕事の後に飲んで帰ってくる日も同じだった。
私は夜遅くまで起きていて、車の音がしたら慌てて布団に入って寝たふりをする。
そのまま寝てしまうこともあるし、
「寝たふりかぁ~! このやろぉ~!」
と酔った父にバレて、夜遅くにキャッキャとはしゃぐこともあった。
父は基本的に子供が好きなので、よく遊んでくれてはいた。
そんな父のことを苦手と思い、それが大人になっても抜けなかったのは、少し申し訳ないような気もする。
私が幼稚園に入る前、母が作曲した曲に私が適当に歌詞をつけて歌い、それを小さなカセットテープに録音して遊んでいた。
当時から歌を歌うことは大好きで、中森明菜さんの『飾りじゃないのよ涙は』を十八番にしている3歳もまた稀だろう。
音楽好きは母ゆずりで、母は結婚する前から友達とバンドを組んで音楽活動をしていた。
コンテストでわりといい成績を残しているラジオなんかも残っている。
その母から、私はよく、こう言われるようになった。
「ママはね、お腹に明ができたから、バンドを辞めなきゃいけなくなったんだよ」
当時はなんとも思わなかったが、これは今考えるととんでもなく酷い言葉に聞こえないだろうか。
母は、そこで私を生まない選択もできたはずだ。
生む選択をしたのは母のはずなのに、どうして私のせいみたいに言うのだろう。
今でこそ、『HSP』という言葉がある。
──ハイリー・センシティブ・パーソン。
生まれつき、非常に感受性が強く、敏感な気質を持っている人のことだ。
私は今までの人生を振り返れば振り返るほど、子供の頃からHSPだったのだろうな、と思うと納得のいくことが多い。
人間は、お腹の中で形成されることが誰のせいかと言われると、誰のせいでもない。
生まれてくる本人のせいではもちろんないし、子供を作った両親だって、例えば『私』という人間を作ろうと思って作ったわけではなく、偶然着床してできた子供が私だったというだけだ。
母は悪気があって言ったわけではないにしろ、私の中では深く傷ついてずっと残っている言葉だったりするのだ。
私を妊娠した時、喜んでくれなかったのだろうか。
おそらく父は子供が好きなので喜んだことだろう。
私の祖父・祖母も喜んだだろう。
母はというと、私と同じで子供が嫌いな人種だったため、素直に喜べなかったのではないだろうか。
ましてや組んでいたバンドを辞めなければならないというオマケ付きだ。
きっと、父に説得されて生むと決心したのではないだろうかと睨んでいる。
後に、母に
「子供が嫌いなのに、どうして私や弟を生んだの?」
と聞いたことが何度かあるが、
「自分の子供は嫌いじゃないよ」
という、質問の答えにあまりならない言葉が返ってくるだけだった。
やはり、作ろうと思って作ったわけではないけれど、嫌いではないよ、というふうに聞こえてしまうのは、私がHSPだからなのだろうか。
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