愛の交差

円寺える

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第36話

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 このまま一生、劣等感を抱えながら生きていくのは嫌だ。
 玄関の扉に鍵をかけ、ふらりとした足取りでその場を離れる。
立ち上がった琴音はキッチンへ入った。夕飯の支度か、と智之はリビングのソファに腰を沈めた。テレビをつけて、ニュース番組を選択する。
迅は今、琴音の実家にいる。話し合いが終わったから迎えに行った方がいいのだろうか。もう寝ているだろうか。明日は月曜日なので、学校があると思いきや、カレンダーを見ると振替休日と琴音の字で書きこまれている。そういえばこの間、休日に課外授業があったと迅が言っていた。その振替か。ならば迎えは明日でもいいだろう。今日はもう寝ているはずだ。
ただ迎えが面倒なので、それらしい言い訳を考えて、琴音が聞いてきたときの回答にする。
琴音はキッチンにある棚を開けて目当てのものを取り出す。
数日前、研いだばかりの包丁だ。切れ味は良い。
ぴかぴかと光るそれを右手で握り、ふらりふらりと智之の背後に立つ。
一生このままは嫌だ。
ATMのくせに浮気するなんて。結婚してやったのに、逆にお前が妥協するなんて。
今まで何のために頑張ったのだろう。
専業主婦になりたかった。働きたくなかった。
でも家事は嫌い。育児も面倒だった。
 でも人並みの生活はしたい。
 ママ友や同級生のように、子どもが二人以上いて、旦那と協力して家事育児をして、休日は絵に描いたような家族サービスをしてくれる旦那。
 理想だった。それがよかった。
 本当はそれが蓮だったらよかったけれど、弟だからできない。何かあれば、また警察を呼ばれる。
 仕方ないから、智之でいい。そういう人並みの、ありふれた生活をしたかった。
 幸せな家族。良き旦那。
 そして偶に蓮の話が聞けたなら、それでいい。
 人から羨ましがられる日常が欲しかった。
 それで、妥協してやろうと思った。
 蓮と幸せになれないのなら、せめて二番目の男と並の生活をしたかった。
 妥協した結果がこれだ。
 智之とこれから先、一緒に暮らしてもそこに愛はないどころか、屈辱を味わいながら日々を送ることになる。
 そんなもの、望んでいない。
 智之がいなかったらどうだろう。
 迅と二人。
 離婚してシングルマザーになるのと、未亡人は全く違う。
 後者の方が儚げで、響きもいい。
 同じシングルマザーでも全然違う。
 迅と二人で実家に帰ろう。
 そうすれば蓮の近況はすぐに入ってくるし、あの女と別れさせることだって可能だ。
 テレビから流れる綺麗な活舌を耳に入れ、画面に集中している智之の首をめがけて、思い切りそれを刺した。

「ぐああ!」

 突然走った激痛に、腹の底から虫を出すように呻く。
 骨に突き刺さったのか、筋肉に挟まったのか、包丁の柄越しに堅いものを感じる。
一撃では息を絶やすことはできない。
 項に手を当てようとする智之より早く、二度目を刺した。
 汚い声を出しながら倒れ込む智之。
 ソファをまわりこんで、床に蹲っている智之に馬乗りになる。
 男の力には勝てないと思っていたが、一刺しが効いているようで力ない抵抗ばかりしている。

「あんたさえ!いなくなれば!」

 首にある動脈を切れば人間は死ぬ。
 いつかサスペンスのドラマで得た知識を引っ張り出し、首を集中的に狙う。
 声帯が潰れたのか、聞き慣れた声は口から出てこない。
 それでもまだ動いている智之。
 琴音は髪を振り乱し、狂ったように刺して切りつけてを繰り返す。
 何回刺したか、切りつけたのか、記憶にない。
 床に腕が落ち、全身から力が抜けている智之から離れる。
 その姿は素人目でも死んでいると分かる。
 智之が死んだ。
 奈津江を死なせてまで手に入れた智之を、この手で亡き者にした。

「はは、は」

 迅と二人で。なんて思い描いていたが、血まみれの智之と血まみれの手元を見て悟る。
 逮捕されて、終わりなのだと。
 喪失感で心は空になり、頭は冴えている。
 きっと、警察が真っ先に疑うのは妻だ。
 ここから逃げ出したところで、どうにもならない。ここではないどこかで生きていけるとは思えない。知らない男に匿ってもらうことくらいはできるかもしれないが、逃げ出したら蓮とは二度と会えない。逃げ出さなくても蓮とは会えない。
 刑務所へ行き、出所したところで殺人者というレッテルを貼られ、蓮は会ってくれないだろう。人殺しはお断りだと。警察を呼ぶぞと。
 逃げても、逃げなくても蓮と会えない。
 会いたい、会えない。そんな葛藤と共に生きる。

「蓮、蓮」

 こんなはずじゃなかった。
 蓮と一緒になりたかった。
 できないから、智之と普通の生活をしたかった。
 それもできなかった。
 もういない奈津江の顔を宙に浮かべる。
 すぐに散る桜のような女だった。弱々しく、今にも折れそうな奈津江。死後に力を発揮するとは思わなかった。
 今、こうなっているきっかけは奈津江だ。
 奈津江さえ自殺しなければ、あの女が琴音の領域に侵入してくることはなかった。
 そして思い出す。
 奈津江が自殺したのは、自分が原因だと。
 ならば、今こうなっているのは、自分のせいか。
 なんだか、どうでもよくなった。
 自分のせいだとか、奈津江のせいだとか、智之のせいだとか、あの女のせいだとか、もうどうでもいい。
 結局、なんだっけ。
 何を考えていたんだっけ。
 あぁ、そうだ。
 蓮を愛している。
 ただそれだけ。
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