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 琴莉は、凪の使い魔になりたい。
 でも、なかなかそれを伝えることができなかった。迷いは消えず、自分なんかが使い魔にしてもらってもいいのかと悩んでしまう。
 しかし、恩も返さないまま彼から離れることもできない。けれど、どのように恩を返せばいいのかもわからない。
 頭を悩ませながら、琴莉は校内をうろうろと歩き回っていた。気づけば、体育館まで来ていた。ドアの向こうから、女子生徒達の騒がしい声が聞こえてくる。
 琴莉はドアを開け、中に入った。体育館の中を駆け回る生徒達をなんとなく眺めていると。

「危ない!」

 そんな声が聞こえて、反射的にそちらへ顔を向ける。すると、琴莉の目の前にバスケットボールが迫っていた。避ける間もなく、顔面を直撃した。

「はぶっ……!?」

 変な声を漏らし、琴莉はその場に尻餅をついた。

「大丈夫……!?」

 生徒達が駆け寄ってくる。
 琴莉を心配そうに見ているが、なぜ制服姿の琴莉がこんなところをうろついているのか、琴莉が誰なのか、そういう疑問を抱くことはない。
 琴莉はよろよろと立ち上がった。

「だ、大丈夫です……」

 笑顔で顔を上げると、鼻からつうっとなにかが垂れてきた。咄嗟に手で押さえると、血がついていた。

「は、鼻血だよ! 保健室に行こう!」

 青ざめた生徒が、琴莉に言う。恐らく琴莉は彼女の投げたボールに当たったのだろう。しかし悪いのは琴莉で、彼女はなにも悪くないのだ。

「私は大丈夫です、授業をつづけてください」

 そう言って、そそくさと体育館を後にする。
 琴莉の姿が見えなくなれば、琴莉と関わった記憶は薄れ、すぐに忘れてしまう。琴莉と会ったこともボールをぶつけたことも記憶にとどまることなく消えていくのだ。
 琴莉はティッシュで鼻を押さえながら保健室へ向かった。
 ティッシュはじわじわと血を吸い、取り替えてもすぐに真っ赤に染まる。ハンカチも持っていたが、自分の血で汚すのは申し訳なく使えなかった。
 止まらない血に焦っていた琴莉はノックもせずに保健室のドアノブを回し、ノックを忘れたことに気づいて動きを止めた。僅かに開いたドアの隙間から、声が聞こえてくる。

「ねー、凪せんせー」
「手当ては終わったんだから、いい加減教室に戻りなさい」
「やだー、もっと凪せんせーと一緒にいたいー」
「君が授業サボってたって、僕から担任に報告しておこうか?」
「いやーっ」

 女子生徒の甘い声と、それを軽くあしらう凪の声。盗み聞きしている状態になり焦るけれど、琴莉はその場から動けなかった。

「もー、意地悪しないでよー」
「意地悪じゃないよ。当然の対応だよ」
「用がなきゃ保健室に来ちゃダメって言うしー、来たら来たで終わったから早く戻れって、それって意地悪じゃんっ」
「当然のことを言ってるんだけどね」

 凪の声は優しい。
 彼が女子生徒から甘えるような視線を向けられ、あからさまなアプローチを浮けることは多々あった。
 琴莉は何度も保健室での彼の生徒に対する対応を見てきた。
 凪は優しい。誰にでも、平等に。優しく声をかけ、笑顔を向け、相手の話に穏やかに相槌を打ち、丁寧に処置を施していく。
 優しいから、琴莉にも声をかけてくれた。行き場のない琴莉を放っておけず、家に連れて帰り、なんの見返りも求めず、今もこうして面倒を見てくれている。
 そして彼のその優しさは、琴莉だけに向けられるものではない。
 それは、既にわかっていたことのはずなのに。
 だって何度も見てきたのだから。
 それなのに、今、どうしてこんなにも心がざわつくのだろう。
 とても嫌な感情が沸き上がる。
 泣き出したくなるような、叫び出したくなるような。
 この気持ちはなんなのか。
 そのとき、校内にチャイムの音が鳴り響いた。
 琴莉ははっと我に返る。
 気づけば鼻を押さえていたティッシュはもう使い物にならないほど血が滲み、手までべっとりと汚れていた。
 手を洗わなくては……と、どこか他人事のように考えていると、目の前のドアが開いた。
 凪と話していた女子生徒だろう。ドアを開けた彼女は琴莉の姿に驚き、「おっと、ごめんねー」と笑顔で手を振りながら去っていった。その背中を、ぼんやりと見つめる。

「琴莉?」

 保健室の中から名前を呼ばれ、琴莉はそちらへ顔を向けた。
 凪が驚いたように琴莉を見て、その顔は見る間に険しいものになる。

「どうしたの、血が出てる、早くこっちに来て」

 凪の剣幕に、琴莉は慌てて中に入ってドアを閉めた。

「なにがあったの」
「大したことじゃないんです。ただの鼻血で、ボールがぶつかって、出ちゃって」

 しどろもどろに説明しながら、凪の近くへ行く。

「手を離して」
「はい」

 鼻を押さえていた手を離す。
 凪は琴莉の顎を持ち上げ、上向かせた。そして、血塗れの鼻に舌を這わせる。
 琴莉はぎょっと目を見開いた。

「なっ、ぎ、さま……!?」
「じっとして」

 琴莉は凪に逆らえない。けれど鼻血を舐められる現状は受け入れ難い。
 やめてほしい。こんなことはしてほしくない。させてはいけない。
 しかし制止の声を上げることもできない。硬直したように体も動かない。
 凪は琴莉の小さな鼻にちゅっと吸い付き、鼻血を啜る。

「ひぅっ……」
「ん、終わったよ」

 そう言って凪は口を離した。
 ぽかんと凪の顔を見上げれば、彼は唇についた血をぺろりと舐め、微笑んだ。
 鼻血が止まっていることに気づいて、彼が魔力を使って治してくれたのだと理解する。鼻血を舐める必要があったのかはわからないけれど。

「…………ありがとう、ございます」
「うん、さ、手を洗って」

 凪に促され、保健室にある水道で手についた血を流す。
 凪は後ろに立ち、琴莉の頭を撫でていた。

「治してあげられるけど、怪我には気をつけてね。もし怪我したら、我慢しないですぐに僕に教えるんだよ」
「はい」

 優しく語りかけるように話す凪の言葉は、確かに琴莉を心配するものだった。
 こんな風に心配されるのはいつぶりだろう。
 ドジな琴莉はよく怪我をした。最初は心配されていたはずだ。でもいつからか、怪我をすれば溜め息を吐かれ、呆れたようなうんざりしたような目で見られ、やがて気にも留められなくなっていた。
 こんな風に、たまに家族のことを思い出す。
 けれど琴莉の胸が痛むことはない。悲しいとも思わない。懐かしいとも思わない。会いたいとも思わない。
 琴莉は確かに家族に捨てられた。
 でも、薄情なのは琴莉の方だ。
 ここまで育ててもらった恩があるはずなのに、彼らに対して、もうなんの感情も抱いていないのだから。
 捨てられたときだって、涙一滴流れなかった。
 今では殆ど思い出すこともなくなって、思い出したところで感情はなにも動かない。
 既に琴莉の心は凪でいっぱいで、彼の存在だけが占めていた。
 彼以外のことが、どうでもいいと思えるほどに。
 凪にとって琴莉は、偶然出会った、可哀想な悪魔でしかないのに。
 自分の考えに、ズキリと胸が痛んだ。
 そんなの最初からわかってることなのに、どうして今更胸が痛むのだろう。
 琴莉は自分の感情がわからず戸惑った。





 放課後。琴莉は仕事を終えた凪と玄関に向かって歩いていた。

「あ、凪せんせーっ」

 ぶんぶんと手を振り、満面の笑みを浮かべながら一人の女子生徒が近づいてくる。保健室で凪と話していた生徒だ。
 親しげに声をかけてくる彼女に、仕方なさそうに微笑む凪。
 そんな二人を見ていると、またざわざわと琴莉の胸が騒ぎだす。
 心を掻き毟られるような、抉られるような。
 痛くて、苦しい。
 けれどそれを琴莉が顔に出すことはなかった。
 表情を変えず、声も出さず、ただじっと、凪を待つ。
 楽しそうな女子生徒と、それに優しい笑顔で応える凪の様子を見ているだけなのに、苦しくて苦しくて堪らなくなる。
 それでも琴莉は、ズキズキと痛む胸を抱えながらその場に立ち尽くしていた。
 やがて女子生徒が去っていく。

「ごめんね。帰ろう、琴莉」

 凪に促され歩き出すけれど、胸の痛みはなかなか治まらなかった。




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 読んでくださってありがとうございます。



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