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 凪は人間界の学校に勤めているらしい。高校で保健医をしているのだと彼は言った。
 琴莉は凪が用意してくれた高校の制服を着て、彼と一緒に学校へ行く。
 凪は勤務時間の殆どを保健室で過ごす。最初は琴莉も彼から離れずずっと保健室にいたが、校内を自由に見て回っていいと言われて、たまに外へ出ることが増えた。
 人間に、琴莉の姿はきちんと見えている。でも、琴莉の存在を気に留めることはない。校内にいる間は、凪が魔力でそういう風にしてくれているのだ。
 だから授業中、制服姿でうろつく琴莉を教師が見つけても、それを咎められることはない。
 存在しているが、存在していないような、不思議な感覚だった。
 本当は凪の仕事を手伝いたいが、ドジで不器用な琴莉が手伝えば仕事を増やす結果になるのは目に見えている。本当にちょっとした手伝いだけさせてもらい、あとは自由に過ごしていた。
 そして仕事を終えた凪と一緒に帰る。まっすぐ帰る日もあれば、買い物をして帰る日もある。
 人間界に来てはじめて入ったスーパーは、見たことがない物で溢れていて、いつも琴莉の目を楽しませてくれる。何度来ても新鮮で飽きない。
 目をキラキラと輝かせながら商品を見る琴梨に、凪は丁寧にわかりやすく商品について説明してくれた。
 それを聞くのが好きだった。
 凪の声は優しくて穏やかで、聞いているだけで胸が温かくなる。耳に心地よく、ずっと聞いていたい気持ちになった。
 だから、彼に名前を呼ばれるととても嬉しい。
 名前を呼ばれるだけで自然と笑顔になる。
 そして琴莉が笑うと、凪も嬉しそうに微笑むのだ。
 彼の笑顔に琴莉の心は更に歓喜し、痛いくらいに心臓が高鳴った。
 こんなことははじめてで、琴莉は困惑した。
 自分の感情がよくわからない。
 家に帰れば、凪が夕食を作ってくれる。手伝いたいけれど、やはり琴莉に手伝えることは少ない。サラダに使う野菜を洗ったり、簡単なことだけ手伝わせてもらい、その後凪が料理している間、琴莉は洗濯物を畳む。タオルやシーツを畳むくらいは琴莉にもできた。
 ここには、失敗してもそれを咎める者はいない。失敗するたびに溜め息をつかれることもない。
 呆れられることを恐れることも、早く終わらせなければと焦る必要もない。
 落ち着いて時間をかけて行えば、失敗することは少なかった。
 自分のペースでいいのだとわかってから、少しずつだが琴莉にできることは増えていった。
 ほんの僅かでも、凪の役に立てることは嬉しかった。
 もっと彼の役に立ちたい。
 恩を返したいというのもあるが、純粋に彼の為に尽くしたいと琴莉は思った。
 焦らず、徐々に自分にできることを増やしていった。





 仕事が休みのときは、凪は琴莉を遊びに連れて行ってくれた。
 はじめて訪れた水族館に、琴莉は感動しっぱなしだった。
 巨大な水槽の中を泳ぐ魚の迫力と美しさに目が離せなくなる。
 頬を紅潮させて水槽を見上げる琴莉を見て、凪も嬉しそうに微笑む。

「すごいね。楽しい、琴莉?」
「はいっ。魚が泳ぐ姿がこんなに綺麗だったなんて、知りませんでした。それに、種類の多さにもびっくりしました」

 幻想的で、なんだか夢の中の世界にいるような感覚だった。
 心がふわふわして、気持ちが浮き立つ。
 傍らに顔を向ければ、優しくこちらを見下ろす凪と目が合う。
 そのたびに胸がドキドキして、頭がくらくらして、本当に自分は夢を見ているのではないかと思うくらい楽しくて、楽しいという気持ちで心が満たされていた。
 時間になると、凪に連れられ屋外に出た。そこはイルカのショーが行われる場所だった。
 凪と並んで席に座り、迫力のあるショーを観覧した。水飛沫を上げながらジャンプし、巨大なプールの中を悠々と泳ぎ回るイルカ達の姿に琴莉は目を奪われた。

「すごいです! あんなに大きな体で、あんなに高くジャンプできるなんて……っ」

 興奮で口数の多くなった琴莉を凪は微笑ましそうに見つめ、一つ一つに相槌を打つ。
 やがてショーが終わっても、なかなか感動が冷めず、琴莉はすぐにその場から動けなかった。
 ステージを見つづける琴莉を凪は急かすこともなく、穏やかな顔で見守っていた。
 一通り館内を回り、凪が最後に立ち寄ったのはお土産屋だった。
 ぬいぐるみやキーホルダー、お菓子など様々な物が棚に並べられている。

「琴莉、どれが欲しい?」
「っえ……?」
「琴莉の欲しいもの、教えて」

 凪の言葉に、琴莉は緩く首を横に振る。

「欲しいものは、ありません」
「遠慮してる?」

 凪の言葉に、彼が琴莉にお土産を買ってくれようとしているのだと気づいた。けれど、本当に欲しいと思うものはなかった。
 ここに、凪と来られたことが嬉しい。連れてきてもらえただけで、ここで得られた思い出だけで充分で、他に欲しいものはない。

「本当に、欲しいものはないんです」

 そもそも琴莉は物欲がなかった。なにかを欲しいと思うことは殆どない。
 ぬいぐるみやキーホルダーを、可愛いとは思う。でも、欲しいとは思わない。

「そっか……」

 凪は微苦笑を浮かべ、琴莉の頭を撫でた。
 その顔がなんとなく残念そうに見えて、琴莉は自分は失敗したのだと気づく。どれか一つを選んで、「これが欲しい」と言えばよかった。
 しかし今更「やっぱり欲しいです」、なんて言うわけにもいかず、謝るべきなのか、なにを言えばいいのかわからない。
 おろおろする琴莉の肩を凪が優しく押して、その場から移動する。

「お腹空いたね。そろそろご飯にしよう」

 そう言って、水族館の中にあるレストランへ琴莉を促した。
 食事中の凪の態度はいつもと変わらず優しく、先程のやり取りを気にしていないようだった。
 琴莉は胸を撫で下ろし、安心して食事をすることができた。
 どの魚が綺麗だったか、あの魚は面白かった、そんな他愛ない会話をしながら食事を済ませ、琴莉はお手洗いに行った。
 手を洗いながら、ぼうっと鏡に映る自分を見つめる。
 自分が今、ここにこうしていることが不思議だった。
 両親に捨てられて、行く宛もなくて、途方に暮れていた。どうすればいいのか、どうしたいのかもわからなくて、なにもできずにいた。
 でも、今、琴莉は水族館に来ていて。しかもめいいっぱい楽しんで。綺麗な服を着て。美味しいご飯を食べて。
 琴莉はなにもしていないのに。
 たくさんのものを与えられている。
 どうしてなのだろう。
 自分の現状が不思議でならない。
 どうして親に捨てられた自分が、こんなに恵まれた日々を過ごせているのだろう。
 凪はどうして、琴莉を拾ってくれたのだろう。
 役に立たないのに、どうして捨てないのだろう。
 どうして優しくしてくれるのだろう。
 ただただ不思議だった。
 凪に出会っていなければ、とっくにどこかで野垂れ死んでいたかもしれない。
 だから、琴莉がこうして生きているのは凪のお陰だ。
 彼の役に立ちたい。
 彼の為に尽くしたい。
 彼の望むことをなんでもしたい。
 彼が許してくれるのなら、この先も彼の傍にいたい。
 芽生えた願望は、どんどん膨らみ、大きくなる。
 使い魔になれば、これからも彼と一緒にいられるだろうか。
 彼はまだ、琴莉を使い魔にしたいと思ってくれているだろうか。

『琴莉が自分から望んで僕の使い魔になりたいって思ったら、そのときに契約しよう』

 凪はそう言ってくれた。
 だったら、琴莉が使い魔にしてほしいと伝えれば、それは叶うのだろうか。
 でもやはり、躊躇してしまう。
 彼の役に立ちたい気持ちはある。しかし気持ちがあるだけではどうにもならないほど琴莉はドジで不器用で、役に立てることなど殆どないのが現実で。そんな自分が使い魔になどさせてもらっていいのかと考えてしまう。
 役に立たなくてもいいのだと凪は言ってくれたけれど、琴莉はどうしても気にしてしまう。
 だってそのせいで両親にも捨てられたのだ。
 琴莉はどうするればいいのかわからない。
 けれど、このままズルズルと凪の優しさに甘えるわけにもいかない。
 どうするべきか、決断しなければいけない。
 うじうじ悩む自分を疎ましく思いながら、琴莉はトイレを出た。
 急いで凪のもとへ戻る。
 笑顔で迎えてくれた凪は、琴莉に袋を差し出した。
 戸惑い、琴莉は袋と凪を交互に見つめる。

「えっと……」
「琴莉に僕からのプレゼント。僕が琴莉にあげたいものを選んで買ったんだよ。受け取ってくれる?」
「プレ、ゼント……私に……」

 琴莉は呆然と差し出された袋を見据え、彼の言葉を頭の中で反芻する。
 凪がわざわざ、選んで買ってくれた。琴莉にプレゼントする為に。
 凪に視線を向ければ、優しくこちらを見下ろす眼差しと目が合った。
 自分なんかが受け取ってしまっていいのか。お返しもできないのに。
 でも、折角彼がプレゼントしてくれたのに、受け取らないなんてそれこそ失礼だ。
 逡巡しながらも、震える手でそれを受け取る。

「開けてみて」
「は、は、はい……っ」

 ぷるぷるする指で、慎重に袋を開けて中身を取り出す。
 出てきたのは、イルカの飾りの付いた可愛らしいネックレスだった。

「可愛い……」

 ぽつりと声が零れた。

「気に入ってもらえた?」

 凪の声に、顔を上げた。
 優しく微笑む彼が、目の前にいる。
 先ほど凪に尋ねられたときは欲しいと思う物などなかったのに、手の中にあるネックレスは、琴莉にとってなにものにも代えられない大切なものになっていた。
 嬉しくて堪らないのに、胸が締め付けられて、泣きそうな気持ちになる。
 涙をこらえて、琴莉は精一杯の笑顔を浮かべる。

「ありがとうございます、凪様。とっても、嬉しいです」
「よかった」

 嬉しそうに顔を綻ばせ、凪はネックレスを手に取り、琴莉の首に飾ってくれた。
 胸元で輝く小さなイルカを、琴莉はそっと撫でた。




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 読んでくださってありがとうございます。



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