2 / 6
2
しおりを挟む凪は人間界の学校に勤めているらしい。高校で保健医をしているのだと彼は言った。
琴莉は凪が用意してくれた高校の制服を着て、彼と一緒に学校へ行く。
凪は勤務時間の殆どを保健室で過ごす。最初は琴莉も彼から離れずずっと保健室にいたが、校内を自由に見て回っていいと言われて、たまに外へ出ることが増えた。
人間に、琴莉の姿はきちんと見えている。でも、琴莉の存在を気に留めることはない。校内にいる間は、凪が魔力でそういう風にしてくれているのだ。
だから授業中、制服姿でうろつく琴莉を教師が見つけても、それを咎められることはない。
存在しているが、存在していないような、不思議な感覚だった。
本当は凪の仕事を手伝いたいが、ドジで不器用な琴莉が手伝えば仕事を増やす結果になるのは目に見えている。本当にちょっとした手伝いだけさせてもらい、あとは自由に過ごしていた。
そして仕事を終えた凪と一緒に帰る。まっすぐ帰る日もあれば、買い物をして帰る日もある。
人間界に来てはじめて入ったスーパーは、見たことがない物で溢れていて、いつも琴莉の目を楽しませてくれる。何度来ても新鮮で飽きない。
目をキラキラと輝かせながら商品を見る琴梨に、凪は丁寧にわかりやすく商品について説明してくれた。
それを聞くのが好きだった。
凪の声は優しくて穏やかで、聞いているだけで胸が温かくなる。耳に心地よく、ずっと聞いていたい気持ちになった。
だから、彼に名前を呼ばれるととても嬉しい。
名前を呼ばれるだけで自然と笑顔になる。
そして琴莉が笑うと、凪も嬉しそうに微笑むのだ。
彼の笑顔に琴莉の心は更に歓喜し、痛いくらいに心臓が高鳴った。
こんなことははじめてで、琴莉は困惑した。
自分の感情がよくわからない。
家に帰れば、凪が夕食を作ってくれる。手伝いたいけれど、やはり琴莉に手伝えることは少ない。サラダに使う野菜を洗ったり、簡単なことだけ手伝わせてもらい、その後凪が料理している間、琴莉は洗濯物を畳む。タオルやシーツを畳むくらいは琴莉にもできた。
ここには、失敗してもそれを咎める者はいない。失敗するたびに溜め息をつかれることもない。
呆れられることを恐れることも、早く終わらせなければと焦る必要もない。
落ち着いて時間をかけて行えば、失敗することは少なかった。
自分のペースでいいのだとわかってから、少しずつだが琴莉にできることは増えていった。
ほんの僅かでも、凪の役に立てることは嬉しかった。
もっと彼の役に立ちたい。
恩を返したいというのもあるが、純粋に彼の為に尽くしたいと琴莉は思った。
焦らず、徐々に自分にできることを増やしていった。
仕事が休みのときは、凪は琴莉を遊びに連れて行ってくれた。
はじめて訪れた水族館に、琴莉は感動しっぱなしだった。
巨大な水槽の中を泳ぐ魚の迫力と美しさに目が離せなくなる。
頬を紅潮させて水槽を見上げる琴莉を見て、凪も嬉しそうに微笑む。
「すごいね。楽しい、琴莉?」
「はいっ。魚が泳ぐ姿がこんなに綺麗だったなんて、知りませんでした。それに、種類の多さにもびっくりしました」
幻想的で、なんだか夢の中の世界にいるような感覚だった。
心がふわふわして、気持ちが浮き立つ。
傍らに顔を向ければ、優しくこちらを見下ろす凪と目が合う。
そのたびに胸がドキドキして、頭がくらくらして、本当に自分は夢を見ているのではないかと思うくらい楽しくて、楽しいという気持ちで心が満たされていた。
時間になると、凪に連れられ屋外に出た。そこはイルカのショーが行われる場所だった。
凪と並んで席に座り、迫力のあるショーを観覧した。水飛沫を上げながらジャンプし、巨大なプールの中を悠々と泳ぎ回るイルカ達の姿に琴莉は目を奪われた。
「すごいです! あんなに大きな体で、あんなに高くジャンプできるなんて……っ」
興奮で口数の多くなった琴莉を凪は微笑ましそうに見つめ、一つ一つに相槌を打つ。
やがてショーが終わっても、なかなか感動が冷めず、琴莉はすぐにその場から動けなかった。
ステージを見つづける琴莉を凪は急かすこともなく、穏やかな顔で見守っていた。
一通り館内を回り、凪が最後に立ち寄ったのはお土産屋だった。
ぬいぐるみやキーホルダー、お菓子など様々な物が棚に並べられている。
「琴莉、どれが欲しい?」
「っえ……?」
「琴莉の欲しいもの、教えて」
凪の言葉に、琴莉は緩く首を横に振る。
「欲しいものは、ありません」
「遠慮してる?」
凪の言葉に、彼が琴莉にお土産を買ってくれようとしているのだと気づいた。けれど、本当に欲しいと思うものはなかった。
ここに、凪と来られたことが嬉しい。連れてきてもらえただけで、ここで得られた思い出だけで充分で、他に欲しいものはない。
「本当に、欲しいものはないんです」
そもそも琴莉は物欲がなかった。なにかを欲しいと思うことは殆どない。
ぬいぐるみやキーホルダーを、可愛いとは思う。でも、欲しいとは思わない。
「そっか……」
凪は微苦笑を浮かべ、琴莉の頭を撫でた。
その顔がなんとなく残念そうに見えて、琴莉は自分は失敗したのだと気づく。どれか一つを選んで、「これが欲しい」と言えばよかった。
しかし今更「やっぱり欲しいです」、なんて言うわけにもいかず、謝るべきなのか、なにを言えばいいのかわからない。
おろおろする琴莉の肩を凪が優しく押して、その場から移動する。
「お腹空いたね。そろそろご飯にしよう」
そう言って、水族館の中にあるレストランへ琴莉を促した。
食事中の凪の態度はいつもと変わらず優しく、先程のやり取りを気にしていないようだった。
琴莉は胸を撫で下ろし、安心して食事をすることができた。
どの魚が綺麗だったか、あの魚は面白かった、そんな他愛ない会話をしながら食事を済ませ、琴莉はお手洗いに行った。
手を洗いながら、ぼうっと鏡に映る自分を見つめる。
自分が今、ここにこうしていることが不思議だった。
両親に捨てられて、行く宛もなくて、途方に暮れていた。どうすればいいのか、どうしたいのかもわからなくて、なにもできずにいた。
でも、今、琴莉は水族館に来ていて。しかもめいいっぱい楽しんで。綺麗な服を着て。美味しいご飯を食べて。
琴莉はなにもしていないのに。
たくさんのものを与えられている。
どうしてなのだろう。
自分の現状が不思議でならない。
どうして親に捨てられた自分が、こんなに恵まれた日々を過ごせているのだろう。
凪はどうして、琴莉を拾ってくれたのだろう。
役に立たないのに、どうして捨てないのだろう。
どうして優しくしてくれるのだろう。
ただただ不思議だった。
凪に出会っていなければ、とっくにどこかで野垂れ死んでいたかもしれない。
だから、琴莉がこうして生きているのは凪のお陰だ。
彼の役に立ちたい。
彼の為に尽くしたい。
彼の望むことをなんでもしたい。
彼が許してくれるのなら、この先も彼の傍にいたい。
芽生えた願望は、どんどん膨らみ、大きくなる。
使い魔になれば、これからも彼と一緒にいられるだろうか。
彼はまだ、琴莉を使い魔にしたいと思ってくれているだろうか。
『琴莉が自分から望んで僕の使い魔になりたいって思ったら、そのときに契約しよう』
凪はそう言ってくれた。
だったら、琴莉が使い魔にしてほしいと伝えれば、それは叶うのだろうか。
でもやはり、躊躇してしまう。
彼の役に立ちたい気持ちはある。しかし気持ちがあるだけではどうにもならないほど琴莉はドジで不器用で、役に立てることなど殆どないのが現実で。そんな自分が使い魔になどさせてもらっていいのかと考えてしまう。
役に立たなくてもいいのだと凪は言ってくれたけれど、琴莉はどうしても気にしてしまう。
だってそのせいで両親にも捨てられたのだ。
琴莉はどうするればいいのかわからない。
けれど、このままズルズルと凪の優しさに甘えるわけにもいかない。
どうするべきか、決断しなければいけない。
うじうじ悩む自分を疎ましく思いながら、琴莉はトイレを出た。
急いで凪のもとへ戻る。
笑顔で迎えてくれた凪は、琴莉に袋を差し出した。
戸惑い、琴莉は袋と凪を交互に見つめる。
「えっと……」
「琴莉に僕からのプレゼント。僕が琴莉にあげたいものを選んで買ったんだよ。受け取ってくれる?」
「プレ、ゼント……私に……」
琴莉は呆然と差し出された袋を見据え、彼の言葉を頭の中で反芻する。
凪がわざわざ、選んで買ってくれた。琴莉にプレゼントする為に。
凪に視線を向ければ、優しくこちらを見下ろす眼差しと目が合った。
自分なんかが受け取ってしまっていいのか。お返しもできないのに。
でも、折角彼がプレゼントしてくれたのに、受け取らないなんてそれこそ失礼だ。
逡巡しながらも、震える手でそれを受け取る。
「開けてみて」
「は、は、はい……っ」
ぷるぷるする指で、慎重に袋を開けて中身を取り出す。
出てきたのは、イルカの飾りの付いた可愛らしいネックレスだった。
「可愛い……」
ぽつりと声が零れた。
「気に入ってもらえた?」
凪の声に、顔を上げた。
優しく微笑む彼が、目の前にいる。
先ほど凪に尋ねられたときは欲しいと思う物などなかったのに、手の中にあるネックレスは、琴莉にとってなにものにも代えられない大切なものになっていた。
嬉しくて堪らないのに、胸が締め付けられて、泣きそうな気持ちになる。
涙をこらえて、琴莉は精一杯の笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます、凪様。とっても、嬉しいです」
「よかった」
嬉しそうに顔を綻ばせ、凪はネックレスを手に取り、琴莉の首に飾ってくれた。
胸元で輝く小さなイルカを、琴莉はそっと撫でた。
────────────
読んでくださってありがとうございます。
20
お気に入りに追加
136
あなたにおすすめの小説
ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません
柊木 ひなき
恋愛
旧題:ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~
【初の書籍化です! 番外編以外はレンタルに移行しました。詳しくは近況ボードにて】
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。
その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!
この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!?
※シリアス展開もわりとあります。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
【完結】後悔するのはあなたの方です。紛い物と言われた獣人クォーターは番の本音を受け入れられない
堀 和三盆
恋愛
「ああ、ラジョーネ! 僕はなんて幸せなのだろう! 愛する恋人の君が運命の番と判明したときの喜びと言ったらもう……!!」
「うふふ。私も幸せよ、アンスタン。そして私も貴方と同じ気持ちだわ。恋人の貴方が私の運命の番で本当に良かった」
私、ラジョーネ・ジュジュマンは狼獣人のクォーター。恋人で犬獣人のアンスタンとはつい先日、お互いが運命の番だと判明したばかり。恋人がたまたま番だったという奇跡に私は幸せの絶頂にいた。
『いつかアンスタンの番が現れて愛する彼を奪われてしまうかもしれない』……と、ずっと心配をしていたからだ。
その日もいつものように番で恋人のアンスタンと愛を語らっていたのだけれど。
「……実はね、本当は私ずっと心配だったの。だからアンスタンが番で安心したわ」
「僕もだよ、ラジョーネ。もし君が番じゃなかったら、愛する君を冷たく突き放して捨てなきゃいけないと思うと辛くて辛くて」
「え?」
「ん?」
彼の口から出てきた言葉に、私はふとした引っ掛かりを覚えてしまった。アンスタンは番が現れたら私を捨てるつもりだった? 私の方は番云々にかかわらず彼と結婚したいと思っていたのだけれど……。
何を間違った?【完結済】
maruko
恋愛
私は長年の婚約者に婚約破棄を言い渡す。
彼女とは1年前から連絡が途絶えてしまっていた。
今真実を聞いて⋯⋯。
愚かな私の後悔の話
※作者の妄想の産物です
他サイトでも投稿しております
夫の裏切りの果てに
鍋
恋愛
セイディは、ルーベス王国の第1王女として生まれ、政略結婚で隣国エレット王国に嫁いで来た。
夫となった王太子レオポルドは背が高く涼やかな碧眼をもつ美丈夫。文武両道で人当たりの良い性格から、彼は国民にとても人気が高かった。
王宮の奥で大切に育てられ男性に免疫の無かったセイディは、レオポルドに一目惚れ。二人は仲睦まじい夫婦となった。
結婚してすぐにセイディは女の子を授かり、今は二人目を妊娠中。
お腹の中の赤ちゃんと会えるのを楽しみに待つ日々。
美しい夫は、惜しみない甘い言葉で毎日愛情を伝えてくれる。臣下や国民からも慕われるレオポルドは理想的な夫。
けれど、レオポルドには秘密の愛妾がいるらしくて……?
※ハッピーエンドではありません。どちらかというとバッドエンド??
※浮気男にざまぁ!ってタイプのお話ではありません。
【完結】婚約者に忘れられていた私
稲垣桜
恋愛
「やっぱり帰ってきてた」
「そのようだね。あれが問題の彼女?アシュリーの方が綺麗なのにな」
私は夜会の会場で、間違うことなく自身の婚約者が、栗毛の令嬢を愛しそうな瞳で見つめながら腰を抱き寄せて、それはそれは親しそうに見つめ合ってダンスをする姿を視線の先にとらえていた。
エスコートを申し出てくれた令息は私の横に立って、そんな冗談を口にしながら二人に視線を向けていた。
ここはベイモント侯爵家の夜会の会場。
私はとある方から国境の騎士団に所属している婚約者が『もう二か月前に帰ってきてる』という話を聞いて、ちょっとは驚いたけど「やっぱりか」と思った。
あれだけ出し続けた手紙の返事がないんだもん。そう思っても仕方ないよでしょ?
まあ、帰ってきているのはいいけど、女も一緒?
誰?
あれ?
せめて婚約者の私に『もうすぐ戻れる』とか、『もう帰ってきた』の一言ぐらいあってもいいんじゃない?
もうあなたなんてポイよポイッ。
※ゆる~い設定です。
※ご都合主義です。そんなものかと思ってください。
※視点が一話一話変わる場面もあります。
【本編完結】番って便利な言葉ね
朝山みどり
恋愛
番だと言われて異世界に召喚されたわたしは、番との永遠の愛に胸躍らせたが、番は迎えに来なかった。
召喚者が持つ能力もなく。番の家も冷たかった。
しかし、能力があることが分かり、わたしは一人で生きて行こうと思った・・・・
本編完結しましたが、ときおり番外編をあげます。
ぜひ読んで下さい。
「第17回恋愛小説大賞」 で奨励賞をいただきました。 ありがとうございます
短編から長編へ変更しました。
62話で完結しました。
君に愛は囁けない
しーしび
恋愛
姉が亡くなり、かつて姉の婚約者だったジルベールと婚約したセシル。
彼は社交界で引く手数多の美しい青年で、令嬢たちはこぞって彼に夢中。
愛らしいと噂の公爵令嬢だって彼への好意を隠そうとはしない。
けれど、彼はセシルに愛を囁く事はない。
セシルも彼に愛を囁けない。
だから、セシルは決めた。
*****
※ゆるゆる設定
※誤字脱字を何故か見つけられない病なので、ご容赦ください。努力はします。
※日本語の勘違いもよくあります。方言もよく分かっていない田舎っぺです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる