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少年は恋をして幸せを手に入れる 2
しおりを挟む翌朝。伊織はいつも通り学校へ向かう。けれど本当は、一人で通学路を歩くのが怖かった。母親には言えないし、仕事で疲れている母に学校の送り迎えなど頼めない。友達とは家が離れているので、行きも帰りもいつも別々なのだ。
びくびくしながら歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、壮真がこちらに近づいてくる。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おう」
「昨日は、本当にありがとう」
「それはもういいっつっただろ」
何度も言いすぎて、壮真は呆れている。
彼はポケットから取り出したものを、伊織に渡す。
「これ……」
「防犯ブザーだ。いいか、昨日みたいなことが起きたら、この紐を引け。怖くて体が動かなくなるかもしれねーけど、それでも気合いで引け。そうすれば、必ず助けてもらえる」
「…………」
「これからは、ずっと持ち歩けよ。必ずだ。わかったな?」
伊織はそれを受け取り、ぎゅっと握った。
泣きそうなくらい嬉しかった。嬉しいのに、胸が締め付けられるような感じがした。
「ありがとう、お兄ちゃん」
満面の笑顔を向ければ、優しく頭を撫でられた。
このときから、その防犯ブザーは伊織のお守りになった。肌身離さず持ち歩き、決して手離さなかった。このお陰で安心して外を出歩くことができた。
登下校はもちろん、家の中でも常にポケットに入れていた。
母の恋人と二人きりになっても、このお守りを持っていれば恐怖は薄らいだ。
とりあえず平和な日々がつづいていたが、いつからか母と男の喧嘩が増えていった。最初は口喧嘩のような言い合いだったが、徐々にエスカレートして怒鳴り合いに発展していった。
顔を合わせれば、喧嘩がはじまる。その間、伊織は口を閉ざし部屋の隅でじっとしていた。
男はあまり家に来なくなった。伊織は内心ほっとしていた。母には申し訳ないが、このまま二人が別れてくれれば、また壮真と一緒にご飯を食べられる。そんな風に思っていた。
そんなある日。学校から帰ってくると、男が部屋の中にいた。アルコールの匂いが充満していて、伊織は顔を顰める。
テーブルや床に酒の缶や瓶が転がっていた。
男はかなり酔っている状態で、虚ろな目で伊織を見る。男の濁った目に見つめられ、恐怖した伊織はポケットの上から防犯ブザーを強く握った。
「おっせーんだよ、お前。漸く帰ってきたのかよー」
「ご、ごめんなさい……。あの、お水、飲みますか……」
「そんなんいいから、こっちこい」
伊織は鞄を下ろし、だらしなく床に寝そべる男に恐る恐る近づく。
「なにビビってんだよ」
「ごめ、なさ……あっ」
ぐいっと腕を引かれ、バランスを崩した伊織は床に倒れる。
男がこんな風に伊織に絡んでくることは今までなかった。いつもとは違う男の様子に、伊織はひどく怯える。
殴られるかもしれないという恐怖に体が竦んだ。
動けない伊織の上に、男が覆い被さってくる。
酒気を帯びた男の息が顔にかかり、ぞわっと寒気が走った。
「ひ、ぃ、やっ……」
か細い悲鳴が口から漏れる。
青ざめ、がちがちと歯を鳴らして震える伊織を見て、男は下卑た笑みを浮かべた。
「ははっ、お前の怯えまくった顔、すげー興奮すんな」
血走ったギラギラとした目が伊織を見下ろしている。
自分がとても危険な状況に置かれているのだと、伊織は気づいた。
今すぐこの男から逃げなければならない。そうしなければ、きっととんでもないことになる。
自分の力では逃げられない。助けを求めなければならない。
伊織はポケットから防犯ブザーを取り出した。けれど手が震え、うまく掴めない。
もたもたしている間に、男に気づかれた。
「んだよ、それ」
あっさりと取り上げられる。
「おいおい、なんだよ、俺相手にこんなもん使う気かー? 俺達、仲良しだろー? これはな、見ず知らずの他人に使うもんなんだよ」
投げ捨てられ、防犯ブザーが部屋の隅に転がっていく。
それを目で追い、伊織は絶望した。
心の支えであるお守りが奪われ、全身が恐怖に支配されていく。
「俺達はー、これからもっと仲良くなるんだ。なあ、一緒に楽しもうなー」
男の手が伊織の体をまさぐる。男の汗ばんだ手が素肌を這い回り、恐怖と嫌悪感に襲われた。頭がぐらぐらして、吐き気が込み上げる。
「ぃや、や……っ」
大声を上げなくてはならないのに、弱々しい囁きのような声しか上げられない。
そのとき、がちゃりと玄関のドアが開いた。
男の動きが止まる。
「ただいま」
聞こえてきたのは母の声だ。今日は早く帰れると、朝に言っていたのを思い出す。
床の軋む音が近づく。
狭い部屋に数歩足を踏み入れれば、母からこちらの状況がしっかりと見えたはずだ。
母が息を呑むのがわかった。
「っ……あん、あんた、なにしてんの……!?」
動揺と怒りに震える母親の声。
男の舌打ち。
母が男に罵声を浴びせる。こちらに近づき、伊織から男を引き離す。
「っるせーな」
吐き捨てるように言い、男は落ちていた空き瓶を拾った。それで、なんの躊躇いもなく、物を殴るように母の頭を殴った。
母親は呻き声を上げて倒れた。男は母に馬乗りになり、更に殴りつづける。
伊織は悲鳴を上げることもできない。
母を助けなければ。
震える体をどうにか動かし、部屋の隅へと這って移動する。
投げ捨てられた防犯ブザーへと手を伸ばした。
「なにしてんのー、伊織ちゃーん」
背後から聞こえた声に、ビクッと心臓が跳ねた。
恐怖を押し殺し、震える手でブザーを掴む。
早く。早く。
焦って取り落としそうになりながら、それでもどうにか紐を引っ張った。
けたたましく鳴り響くブザー音。
「余計なことすんなっつーの」
苛立たしげに舌打ちし、男は伊織の腕を掴んだ。ぎり、と男の指が食い込むほど強く掴まれ、痛みにブザーを落としてしまう。
「ったく、うるせーなー」
男はしゃがみ、ブザーを狙って持っていた空き瓶を振り上げる。空き瓶は滴るほどに血が付着していた。
このままでは防犯ブザーが壊されてしまう。壮真にもらった、大切なお守りを。
「だめっ……」
伊織は咄嗟に鳴りつづけるブザーの上に覆い被さった。
「なにしてんだよー、お前も殴られたいのかー?」
恐怖に涙が零れる。それでも伊織は体を丸め、そこから動かなかった。
男の足が伊織を小突く。たったそれだけのことで一気に恐怖が膨らみ、震えが治まらない。
「はあー、まじめんどくせーなー、手間かけさせんなよ……っ」
男が空き瓶を大きく振り上げるのがわかった。
ぎゅっと目を瞑る。
ドカッと鈍い音が背後で聞こえた。つづく呻き声、そしてドサッと倒れるような音。
うつ伏せで体を丸めたまま、伊織はそちらに顔を向けた。そこには床に倒れる男の姿があった。
そして男の傍らに立つ、壮真の姿も。
「おに……ちゃ……」
「遅くなって悪かったな。もう大丈夫だから、ちょっと待ってろ」
壮真の言葉に、強張っていた全身からどっと力が抜け落ちた。そのまま伊織の意識は薄れていった。
再び意識を取り戻した伊織を待ち受けていたのは、母親の死だった。母はあの男に殴り殺されていた。男は捕まり、裁かれることになった。
そのあとのことは、ショックが大きすぎてあまりよく覚えていない。
葬儀などの手配は、なにもできない伊織に代わり壮真が全て行ってくれた。伊織自身は殆どなにもすることなく、全ての問題は滞りなく解決していた。
その後伊織は壮真と共に遠くへ引っ越し、転校した。身寄りのない伊織を、壮真が引き取ることになった。血縁者でもない壮真が伊織の保護者となるのは簡単なことではなかったはずだ。しかしそのときの伊織は壮真の苦労も知らず、ただ彼の優しさに甘え、言われるままに彼との生活をはじめた。
広いマンションの一室で、伊織は壮真と二人きりで暮らすことになった。その頃から、伊織は壮真を「お兄ちゃん」ではなく「壮真さん」と呼ぶようになった。
家事は伊織の仕事だ。壮真は気にしなくてもいいと言ったのだが、伊織が頼んでそうさせてもらった。生活費も稼げない子供だから、せめてできることはしたかった。それに家事は慣れているので苦にはならない。
あの事件の日から、伊織は一人で眠ることができなくなってしまった。あの日のことを夢に見て、恐怖で目が覚めてしまうのだ。
そんな伊織を、壮真は抱き締めて一緒に眠ってくれた。彼の温もりを感じると安心して、伊織はぐっすり眠ることができた。
申し訳ないと思う気持ちはあった。彼に多大なる迷惑をかけている自覚はあった。
しかし壮真は嫌な顔もせず、伊織の傍にいてくれた。殊更に甘やかされるわけではないけれど、常に伊織を優しく見守ってくれた。
壮真と生活するようになり、彼の両親にも会う機会があった。
父親は厳しそうな人だった。厳めしい雰囲気に伊織は萎縮し、挨拶するだけで精一杯だった。
逆に母親はおっとりとして穏やかな人だった。伊織を気遣い、優しい言葉をかけてくれた。
母親は一人で伊織の暮らすマンションへ様子を見に来ることもあった。そのときは必ずお土産を持ってきてくれた。
壮真がいないとき、母親は伊織に彼の話を聞かせてくれる。
伊織は母親に礼を言われた。
伊織と出会ってから、壮真は随分丸くなったのだと言う。
あの頃の壮真はかなり荒れていて、しょっちゅう暴力沙汰を起こしていたらしい。そのため実家を追い出され、あのアパートに一人で暮らすことになった。部屋には一人で暮らしていたが、常に壮真を監視する人間が付けられていたそうだ。
壮真の父は大企業のトップなのだと、そのときになって伊織はそのことを知った。壮真は本来なら伊織が一生関わることのない、上流階級の人間なのだと。
壮真が今、真面目に大学に通っているのは伊織のお陰だと母親は言った。
丸くなったと言われても、伊織にはいまいちピンとこなかった。出会ったときから壮真は伊織に優しかった。一緒にご飯を食べてくれたし、伊織の話を聞いてくれた。伊織にとっては、はじめて会ったときから壮真は優しくて信頼できる大人だった。
壮真と二人きりの生活は、とても穏やかで居心地がよかった。母のことを思い出すと辛くて泣いてしまうけれど、そんなときは壮真が傍にいてくれた。だから伊織は塞ぎ込まずにいられた。
壮真の存在に、伊織は支えられていた。
時は流れ、伊織は中学に入学した。もちろん手続きは壮真が全て行った。
伊織は中学生になり、そして壮真は大学を卒業した。卒業後、どんなことをしているのか詳しいことはわからないが、壮真は父の仕事を手伝っていると言っていた。忙しいようで帰りが遅いこともあるが、それでも彼は毎日必ず帰ってきて、伊織の作ったご飯を食べてくれた。
中学生になって暫くして、伊織は精通を迎える。しかし、どうすればいいのかわからなかった。母親には教わっていなかったし、友人とも性に関する話をしない。伊織が頼れるのは壮真だけだ。
熱を帯びたぺニスをもて余す伊織に、壮真は茶化すこともなく、真摯にどうすればいいのかを教えてくれた。
口頭で説明されてもうまくできない伊織のぺニスを壮真の大きな掌に包まれ、優しく扱かれた。
小学生のとき、知らない男に体をまさぐられたときは嫌悪感と恐怖しか感じなかった。母の恋人に襲われそうになったときもそうだ。
でも、壮真に触られると堪らなく気持ちよくて、嬉しくて、もっと触ってほしいと思ってしまう。
壮真に与えられる快感を覚えた体は、自慰では満足できなくなってしまった。
たまに体が火照って自分でぺニスに触れるけれど、なかなか射精に至れず、もどかしさに苦しめられた。
耐えきれずに壮真にねだれば、彼は伊織の望むままに触れてその手で慰めてくれた。
でも、それだけだ。伊織を射精させ、それで終わりだ。
当然だろう。彼は伊織の恋人ではないのだから。
射精を促すだけの行為が、酷く切なかった。
もっと触れてほしい。抱き締めてほしい。キスをしてほしい。
そんな願望が伊織の中に生まれた。そして自分の気持ちを自覚する。
伊織は壮真が好きだ。彼の恋人になりたい。特別になりたい。彼にとっての唯一になりたい。
でも、そんなことは口にできなかった。
好きだと言っても壮真を困らせるだけだろう。気まずくなるのは嫌だった。そうなれば、壮真が家に寄り付かなくなってしまうかもしれない。下手をすれば、別々に暮らすことになってしまうかもしれない。
だから伊織は自分の気持ちを押し殺す。
仕事から帰ってきた壮真から、たまに甘い香水の匂いを感じることがある。恐らく女性のもので、香りが移るほど傍にいたのかと思うと悲しくて泣きそうになった。
けれど伊織は一切なにも言わなかった。言えなかった。壮真が誰となにをしようと伊織に口を挟む権利などない。余計なことを言って、煩わしいと思われたくない。
辛くても悲しくてもそれら全てに目を瞑り、溢れそうになる気持ちに蓋をした。
そんな風に日々を過ごしていたときだった。
伊織の隠し撮り写真が学校の机の中に入れられるようになった。封筒に収められたその写真は、男の体液と思われるもので汚れていた。
その頃には伊織も、自分が同性に狙われやすい容姿をしているのだとなんとなく自覚していた。
気持ち悪かったが、気にしないことにした。ただの悪戯だ。その内おさまるだろうと考えた。
けれど、数週間過ぎても写真は毎日机に入っていた。そして上靴と体操服が盗まれた。恐らく同一犯だ。
ストーカーのようなものなのだろう。伊織は毎日車で送迎されているので、住所は特定されていないようだ。隠し撮り写真は全て学校で撮られたものだったから、家までは知られていないはずだ。
貰っているお小遣いで上靴と体操服を買い直した。しかし、何度も盗まれては困る。仕方なく上靴は毎日持ち帰り、体操服や私物は鍵つきのロッカーにしまうようにした。
壮真には迷惑をかけたくない。相談すれば必ずなにかしらの対処を行ってくれるだろう。けれど伊織は壮真になにも言わなかった。気づかれないよう、写真も全て学校で処分した。
写真の枚数はどんどん増えていく。徐々にストーカー行為がエスカレートしていく予感に伊織は怯えた。
けれど壮真は頼れない。頼りたくない。これ以上彼に余計な面倒をかけたくない。
伊織は自分でストーカーを捕まえようと決心した。
夕食時、伊織は壮真に言った。
「明日から、文化祭の準備がはじまるんだ。だから、帰りが少し遅くなるかも」
「おー、そんな時期か。じゃあ帰るときに連絡入れろ。それから迎えを寄越すから」
「うん」
部活動をしていない伊織の迎えは、いつも決まった時間に来てもらっている。学校から少し離れた場所に、壮真の付き人のような人が車で迎えに来てくれるのだ。時間があれば、壮真も車に乗っていることがある。
文化祭の準備がはじまるのは本当だ。けれど伊織には他に目的があった。
翌日の放課後から、予定通り文化祭の準備がはじまった。
キリのいいところまで進め、あまり遅くならないうちに解散となる。クラスメイト達がめいめいに帰っていくのを横目に見ながら、伊織は一人、玄関とは別方向へ向かう。
どの学年のどのクラスも文化祭の準備で騒がしい。廊下にも大勢の生徒がいる。
伊織はわざと人目につくように廊下を進んだ。そして人気のない場所へと向かった。
辿り着いたのは、喧騒も届かない学校の端にある空き教室だ。
伊織はその教室の中に入った。
ストーカーが見ていたら、伊織が一人きりになったのを見計らい、姿を現すかもしれない。
普段伊織は休み時間も殆ど教室から出ることがない。常に周りに人目があり、だからストーカーは接触してこないのだろうと考えた。
だからこうして一人きりになれば、伊織の前に姿を現すのではないか。毎日写真を机に入れるのは、自分の存在を伊織に知ってほしいからだろう。
伊織は一人になることで、ストーカーを誘き寄せようとしていた。
だがしかし、一時間待っても誰も現れなかった。
あまり遅くなると心配されるだろう。その日は諦め、伊織は壮真に連絡を入れた。
翌日もまた、文化祭の準備を終えたあと伊織は同じ行動をとった。その日もなにも起きなかった。
そしてその翌日も、何事もなく終わった。
四日目。空き教室に入ってそろそろ一時間が経とうとしたときだ。
教室のドアが開いた。そこには見覚えのない男子生徒が立っていた。
彼は後ろ手にドアを閉め、急いた様子で伊織に近づいてくる。
「伊織、伊織、毎日、俺のこと待っててくれたんだよね」
ストーカーは明らかに興奮していた。こちらは名前も知らないのに、彼は馴れ馴れしく伊織の名前を呼ぶ。
「ごめんね、伊織が待っててくれてたのに、俺、恥ずかしくてなかなか勇気が出なくて。でも嬉しいよ、こうして伊織が俺に会いたがってくれて。俺の気持ち伝わったんだね。ほんとはずっとずっと声かけたかったんだ。一目見たときから、伊織のことが好きで好きで好きで好きで好きで堪らなくて、毎日伊織のこと考えてた。嬉しいよ、伊織も俺のこと好きになってくれて」
狂気的な雰囲気に飲まれそうになる。
ストーカー行為をやめてくれと普通に説得しても無駄だろう。
伊織は気持ちを落ち着けるために深く息を吐いた。
「僕の机の中に、写真を入れた?」
確認すると、彼は嬉しそうに何度も頷いた。
「うん、うん、そう、俺だよ、俺が入れたんだ。こんなに伊織のことが好きだよって伝えたくて。いっぱいいっぱい、」
「学年と、クラスと名前、教えてくれる?」
話を遮り、伊織は尋ねた。彼は嬉々としてそれに答えた。
伊織に自分のことを知ってもらい舞い上がったのか、彼は抱きついてきた。
嫌悪感に突き飛ばしそうになるのをこらえる。ポケットの中に入っている、防犯ブザーを握った。これは今でも伊織の大切なお守りだ。
「はあっ、伊織、伊織」
「僕の上靴と体操服、盗んだよね?」
「うん、そうだよ。写真だけじゃ物足りなくて、伊織の匂いのついたものが欲しかったんだ。でももう必要ないね。伊織が手に入ったんだから。これからは、こうして毎日伊織に触れるんだ、ああ、嬉しいな。嬉しいよ、伊織っ」
我慢できなくなったかのように、ストーカーは伊織を床に押し倒した。さわさわと、制服の上から体をまさぐられる。
伊織よりもストーカーの方が体格が大きい。力も強い。怖くないわけではなかった。でも、小学生のとき見知らぬ中年や母の恋人に襲われたときの方がずっと怖かった。
強くお守りを握り締める。
深呼吸を繰り返し、心を落ち着けた。そして、ストーカーの股間に思い切り膝を振り上げる。
「んぎゃあぁ!?」
悲鳴を上げ、ストーカーは悶絶する。その隙に伊織は素早く離れ、ドアの前に立つ。
「い、伊織……?」
股間を押さえ床に蹲るストーカーに向かって、伊織はスマホを掲げた。
「今の会話、録音したから。あなたの名前も声も全部入ってる」
「伊織……?」
「これを公表されたくなかったら、二度と僕に近づかないで。関わらないで。写真も全部処分して」
「伊織、どうしたの、どうしてそんなこと言うの? 俺達は愛し合っているのに」
会話にならない。かといって、伊織は引き下がるわけにはいかない。
「言うこときいて。そしたら、僕もなにもしない。録音したデータも消すから」
「悪いが、なにもしないってわけにはいかねーな」
背にしたドアの向こうから聞こえた声に、伊織は息を呑む。
ガラリと開くドア。見なくても、そこに立っているのが誰かわかった。頭が真っ白になる。伊織は顔を向けられなかった。
壮真は伊織の横を通り過ぎ、すたすたとストーカーに近づく。
壮真につづいて、もう一人教室に入ってくる。スーツ姿のその男性は、壮真の付き人で護衛で部下だ。
いきなり現れた男に、ストーカーは喚いた。
「な、なんだお前!? 俺と伊織の二人きりの時間を邪魔するなっ」
「うるせーよ」
壮真は躊躇いなくストーカーの顔面を蹴り上げた。
呻き声を上げ、床に倒れるストーカーを一瞥する。
「勝手に人のもんに触ってんじゃねーよ」
吐き捨て、壮真の背後に控えていた人物に命令する。
「こいつの部屋を調べろ。伊織に関するものは全部回収しとけ。こいつの処分はあとで考える」
「畏まりました」
「帰るぞ、伊織」
「っ…………はい」
伊織は壮真に連れられ、学校を出た。近くに停めてあった車に乗り込み、壮真の運転で家へと帰る。
その間、二人は無言だった。色々と話さなくてはならないことはあるが、車の中では落ち着いて話せない。壮真もそう思ったのだろう。家に着くまでなにも話さなかった。
部屋に入り、並んでソファに座る。腰を落ち着けたところで、壮真が口を開いた。
「口出しして悪かったな。お前は自分一人で解決したかったんだろ」
「……隠してて、ごめんなさい」
彼は黙っていたことを責めているわけではなかったが、伊織は謝らずにはいられなかった。結局、彼に迷惑をかけてしまったのだ。
「俺には頼りたくなかったか?」
「迷惑、かけたくなくて……」
「お前のことで、迷惑だなんて思うわけねーだろ」
くしゃりと頭を撫でられる。
伊織を見つめる双眸はひどく優しい。
そんな風に言われるたびに、彼を好きだという気持ちが大きくなる。好きだと言いたくなる。触れたくて堪らなくなる。一人占めしたくなる。自分だけのものにしたくなる。自分だけを見てほしくなる。
叶うわけもない願望が溢れて、止まらなくなる。
どれだけ渇望しても手が届かなくて、いつか、きっと弾けてしまう。
それならば、もういっそ。
溢れて弾けて取り返しがつかなくなる前に。
突き放された方がいい。
歪んだ伊織の顔を、壮真が覗き込む。
「なに泣きそうになってんだ?」
「壮真さんのこと、好きだから……」
壮真の目を見て伝えれば、彼は僅かに目を瞠った。
「俺が好きで、なんで泣くんだよ」
「だって、だって、好きなだけじゃだめなんだ。わがまま言っちゃいけないのに、壮真さんにも僕のこと好きになってほしいって思っちゃうんだ。僕だけ見て、僕にだけ優しくして、僕にだけ触ってほしい。これからもずっと傍にいたい。そんなのだめなのに、壮真さんのことどんどん好きになって、そんなわがままでいっぱいになって、もう好きになりたくないのに、壮真さんが優しくするから、僕……っ」
一度口をついて出れば、溢れて止まらなくなる。
同時に涙も溢れて止まらなかった。ひくひくと、喉を震わせて泣きじゃくる。
「なに言ってんだ」
壮真の声に、びくりと肩が竦む。
もう彼の顔は見られなかったが、きっとうんざりしているのだろう。
「っ……ごめんなさい」
面倒臭いやつだと思われたはずだ。伊織は捨てられるだろう。
それでいい。その方がいい。傍にいる方が、きっと辛いから。
「あのなあ、伊織」
壮真の大きな手が、伊織の涙を優しく拭う。
「俺はとっくに、お前に惚れてんだよ」
「え……?」
伊織は壮真を見上げた。
ぱちりと目が合う。
壮真は慈しむように柔らかく細めた瞳で伊織を見ていた。
「じゃなきゃ今、こうして一緒にいるかよ。なんで俺がお前を引き取ったと思ってんだ」
「それは……同情、とか……」
「あほか。俺は同情でここまでするほどお優しい人間じゃねーよ」
壮真は苦笑を浮かべる。
伊織は信じられない気持ちで彼を見つめた。
「俺にはお前だけだ。他の女も男も興味ねーよ。お前が嫌だっつってももう離してやる気はねーんだよ。だから安心してわがまま言え。あんなもん、わがままにもならねーけどな」
壮真は笑う。
彼の笑顔に突き動かされるように、伊織は考える前に口を開いていた。
「じゃあ、じゃあ、僕を抱いて」
「まだだめだ」
即答された。
あっさりと断られ、伊織は膨れる。わがままを言っていいと言ったのに。
「わがまま言えとは言ったが、聞いてやるとは言ってねーだろ」
「僕が、男だから、ダメなの……?」
「そうじゃねーよ。さすがに小さすぎんだろ。もうちっとでかくなるまで我慢しろ」
「大きくなったら、してくれる?」
「ああ」
壮真はしっかりと頷き、そして優しく抱き締めてくれた。
はじめて壮真に抱かれたのは、伊織が十六になったときだ。伊織が自分からねだったのだ。
壮真は焦る必要はないと言った。でも、伊織が我慢できなかったのだ。
体の繋がりだけが全てじゃないのはわかっている。不安があったわけではない。ただ純粋に、彼に抱かれたかった。
彼の体温を感じて、繋がりたかった。
抱いてほしいとねだる伊織を、壮真は受け入れてくれた。抱き締めて、キスをして、とろとろに蕩けるほどに優しく甘やかされ、ただただ幸福に包まれながら体を重ねた。
あれから、一年。
何度も彼に抱かれた。何度抱かれても嬉しくて、幸せで、心も体も酷く満たされた気持ちになる。
「考え事か、伊織? 余裕だな」
「あんっ」
ニヤリと笑った壮真に下から突き上げられ、伊織の意識は引き戻される。
車の中、目の前には大好きな壮真がいる。
出会ったときは、まさか彼とこんな関係になるだなんて考えもしなかった。当たり前だ。伊織は小学生だったのだから。
こんなに長く、一緒にいられるなんて思ってもみなかった。
伊織はなんだかとても嬉しくなって、微笑んだ。
「お兄ちゃんと出会ったときのこと、ちょっと、思い出してた」
壮真ははっ……と息を漏らすように笑い、目を細めた。
「懐かしいな、その呼び方」
「一緒にご飯食べてくれて、嬉しかった。怖くて堪らなかったとき助けてくれた優しいお兄ちゃんが、大好きだったよ。あの頃とは意味が変わったけど、今はもっともっと好き」
まっすぐに気持ちを伝えれば、壮真は更に柔らかく目を細めた。気持ちに応えるように、伊織の額に口づける。
あとから知ったことだが、伊織の制服には盗聴機が埋め込まれていた。車で移動中、伊織とストーカーの会話を聞いて、急いで学校に来たのだそうだ。
そして高校生になった今も、伊織の制服には盗聴機が埋め込まれている。なので会話は全て壮真に筒抜けなのだ。
もちろん防犯のためでもあるが、これは壮真の伊織に対する執着の証でもある。
そしてその彼の執着が、伊織は嬉しかった。
壮真からすれば伊織はずっと年下で、なにもできない子供だ。だから伊織がどれだけ彼を好きでも、彼が伊織を好きになってくれることなんてないと思っていた。
こんな風に、キスをして抱いてくれることなどあり得ないのだと思っていた。
でも、壮真は伊織を好きだと言ってくれた。
何度もキスをして、抱いてくれた。そうしたいと、彼が望んでくれる。
手に入らないと思っていたのに、壮真はいとも簡単に、伊織のほしいものを差し出してくれるのだ。
彼と共に過ごす時間がなによりも幸せで、なにものにも代え難い大切なものだった。
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