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ひなの場合
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しおりを挟む翌日の休み時間。
ひなは大量のファイルを抱え、廊下を歩いていた。資料室まで運んでほしいと、教師に頼まれたのだ。日直なので、仕方ない。
廊下を歩くひなの頭には、リボンが結ばれていた。
司郎に恋をしてしまった。こうなった以上、いつ発情して兎耳が生えてしまうかわからない。人前で兎耳を晒してしまわないために、リボンをきつく巻いてきた。
今日も、司郎に弁当を作ってきてしまった。けれど、渡していいものか悩んでいた。
恋人でもないのに毎日弁当を作ってくるなんて、ウザいと思われるのではないか。頼まれたわけでもない。理由もない。
でもひなは、理由なんてなくても毎日彼に弁当を作りたいと思っている。彼に食べてほしい。せめて昼休みの間だけでも、彼の近くにいたい。
恋人にはなれない。友人にもなれない。そこまでは望まないから、僅かな時間だけでも、傍にいることを許してほしい。
そんなことを考えながら歩いていたひなは、なにもないところですっ転んだ。抱えていたファイルが吹っ飛ぶ。吹っ飛んだファイルが、前を歩いていた男子生徒にぶつかった。
「いってぇ!!」
男子生徒が叫ぶ。
ひなはすぐに起き上がり、謝った。
「すすすすみません!!」
振り返った男子生徒の顔を見て、ひなは硬直した。
先日、廊下でぶつかったひなに絡んできたガラの悪い生徒だった。
あとから聞いたのだか、田山というこの生徒は司郎とは別の意味で色々と悪い噂が多いらしい。小者のくせに態度がでかく、強い人物からはうまく逃げ回り、自分より弱そうな人物には容赦なく暴力を振るう。そんな生徒のようだ。
どうして、よりによってまたこの男に……ひなは自分の運の悪さを嘆いた。
そして更に運の悪いことに、田山はひなの顔を覚えていた。
「またてめぇかよ、このブス!!」
「ひっ……」
胸倉を掴まれ、ひなは今度こそ殴られるのだろうと覚悟した。
田山が腕を振り上げる。その肘が、後ろから来た生徒にぶつかった。
「てめぇ、邪魔なんだよ!!」
田山は怒声を上げながら振り返る。そこに立っていたのが司郎だと気づき、固まった。
司郎は無言で田山を睨み付ける。相手を射殺すような鋭い眼光だ。
ひなの胸倉を掴んでいた手が放される。
明らかに怯えながらも、それを必死に隠し、なにやら捨て台詞を喚きながら田山は去っていった。
ひなは呆然とその背中を見送った。
数日前と似たような展開だ。けれど確実に違うのは、前回は偶然だったが、今回は司郎がひなを助けてくれたのだ。
「大丈夫だったか?」
優しく尋ねながら、司郎は床に落ちたファイルを拾う。
慌ててひなもファイルを拾い集めた。
「大丈夫です! 葛城さんのおかげで助かりました、ありがとうございます!!」
全てを拾い終え、立ち上がったひなは改めて司郎に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました!」
「気をつけろよ」
声をかけてもらえるだけで嬉しくて、胸が高鳴る。赤くなる顔を隠すように、ひなは俯いた。
「これ、どこまで運ぶんだ? 手伝ってやる」
「そそそんな、いいです、大丈夫です!!」
首を振って強く拒否すると、司郎の顔が曇った。
「……そうだよな」
ひなにファイルを渡し、司郎は離れていった。
彼の背中を見つめながら、先日言われた言葉を思い出す。
『……俺と一緒にいたら、お前も変な目で見られると思うぞ』
彼はそう言っていた。
ひなの態度に、司郎は誤解したのかもしれない。周りの目を気にして、司郎と一緒にいるところを人に見られたくないから拒否したのだと。
ひなはそんなこと思ってはいない。誰に見られても、なにを言われても平気だ。
誤解を解きたくても、司郎の姿はもう見えない。
こんなことなら、断らずに甘えればよかった。
赤くなった顔を見られたくなくて。自分の気持ちがバレてしまいそうで怖くて、反射的に断ってしまった。
少しでも彼の傍にいたいと願いながら、ひなは自分でそれを拒んでいる。
やるせない思いを抱えながら、資料室に向かって歩き出した。
昼休みになり、ひなは弁当を持って司郎のいる教室に向かった。
「葛城さん、お弁当作ってきたので、もしよかったら食べてください」
「は? また作ってきたのか?」
差し出された弁当を、司郎は不思議そうに見た。
呆れているだろうか。毎日毎日勝手に作ってきて、ウザいと思われたかもしれない。今まではお詫びという理由があったが、今日はそれもない。
「す、すみません……迷惑ですよね……」
「ばか。んなこと言ってねぇだろ」
そう言って、司郎は手を差し出す。
ひなはおずおずと弁当を手渡した。
「おまえのほうこそ、面倒じゃないのか。俺の分まで作るの」
「そんなことありません!! 全然、面倒なんかじゃないです!!」
できることなら毎日作りたい。そんなこと、言えないけれど。
「……勝手なことして、すみません」
ひなは項垂れる。
司郎は優しいから、迷惑だと思っても断らないのかもしれない。
本当は、鬱陶しく思っているのではないか。親しくもないのに、手作り弁当を押し付けられて。
逆の立場だったらどう思うだろう。自分が、友人でも恋人でもない相手に手作り弁当を渡されたら……。想像すると、少し怖かった。一度きりならまだしも、何回もつづけられたら恐怖を感じるかもしれない。
そう考えて、ひなは反省した。弁当は重すぎる。せめてお菓子とかにすればよかった。後悔するが、今更どうしようもない。
「謝ることじゃねぇだろ」
口調はそっけないが優しい声音に、ひなは顔を上げる。
「でも……」
「俺はおまえの作った弁当好きだし、嬉しいよ」
さらりと言われた言葉に、心臓が跳ねる。
嘘でも、嬉しかった。
「えへへ……よかったです」
喜びのままに相好を崩す。
だらしなく口許を緩めるひなを、司郎がじっと見つめる。
「おまえ、俺のことが怖くねぇの?」
「怖くなんかないです!」
即答するものの、素直な気持ちを伝えるべく言い直す。
「いえ、最初は怖かったです。葛城さん、目つき悪いですし、よくない噂もたくさん聞いていたので……。でも、今は怖くないです。本当ですよ」
「なんで今は怖くないんだ?」
「怖がる理由がないからです。目つきはもう慣れましたし、噂は信じてませんから」
「じゃあ、俺が噂通りの人間だったらどうする?」
「そんなはずありません!」
きっぱりと否定する。
ひなを見る司郎の顔は無感情だった。
「俺のこと知らないのに、なんでそんなこと言えるんだ」
「っ……」
確かにその通りだ。ひなが知っている司郎は、彼のほんの一部でしかない。知らないことのほうが多いのだ。
それなのに、彼のことを知ったような気になっていた。ひなの勝手な言い分は、司郎を不快にさせただろう。
泣くつもりなどなかったのに、涙が零れてしまった。慌てて目尻を拭う。
司郎は自分の発言を後悔したように顔を歪めた。
「悪い……」
「私こそ、すみません……。でも、私は噂は信じないです。噂じゃなくて、私の目の前にいる葛城さん自身を信じたいです」
正直な自分の気持ちを伝える。
司郎は、優しく微笑んだ。
「ありがとな」
ひなも精一杯の笑顔を浮かべる。
やはり、弁当を作るのはもうやめよう。彼に近づくのももうやめにしよう。
こんなときでさえ、浅ましく反応する体。
はしたなく発情する自分を、知られたくない。
でも、これ以上傍にいたら、きっと隠しきれない。
司郎に軽蔑されるのは嫌だ。嫌われるくらいなら、離れたほうがいい。
彼と一緒に過ごす昼休みも、これで最後だ。
ひなはそう心に決めた。
翌日の昼休み、ひなは教室で昼食を摂っていた。
友人と他愛ない会話をしながら、気づくと教室にいない司郎のことを考えてしまう。
彼は今頃、いつもの場所で一人で過ごしているのだろうか。
ひなのことを待っていてくれたり……なんてことはないだろう。そんな間柄ではない。ひなが一方的に押しかけていただけなのだから。
もしかしたら彼は、ひなの名前すら覚えていないかもしれない。一度も呼ばれたことがないのだ。その可能性はある。彼にとってひなは、その程度の存在なのだ。
考えると悲しくなってくる。
自分で決めたことなのに、司郎に会えないのが寂しい。もう話すこともないのかと思うと、胸が苦しい。
いつもより味気なく感じる弁当を食べながら、ひなの頭の中は司郎のことでいっぱいだった。
それから数日、ひなは司郎と言葉を交わすことはなかった。同じクラスではあるが、目を合わせることもない。ひなは極力、彼を見ないようにしていた。目が合っただけで発情してしまう恐れがあるから。
そしてもちろん、司郎からひなに接触してくることもない。
あっさりと、以前の関係に戻った。全く関わり合うことのないクラスメイトに。
ひなと司郎の関係など、その程度のものだったのだ。
それを実感する日々だった。
その日の四時間目はグラウンドで体育の授業だった。授業が終わり、使った用具を片付ける。最後に片付けを終えたひなは、用具室のドアを閉めた。
すると突然、強い力で手首を掴まれた。
驚いて顔を上げると、田山が嫌な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
恐怖で喉が締まり、悲鳴は上がらなかった。
田山が乱暴に腕を引く。
「こっちに来いよ」
グラウンドにはまだ数名の生徒が校舎に向かって歩いているのが見えた。背中を向けているのでひなの状況には気づいていないが、大声で助けを求めれば気づいてくれるだろう。
けれど、無関係の人間を巻き込みたくはない。ここで助けを求め、逆上した田山がもし暴れだしたら……その可能性は捨てきれず、ならばおとなしくついていったほうがいい。
恐らく彼は、ひなを殴り損ねたことが気に食わないのだろう。それならばもう、潔く殴られてしまえばいい。怖いけれど、逃げる勇気もない。それに、手首を掴む力は強くて振りほどくことはできない。
ひなは引き摺られるように、校舎裏まで連れてこられた。
足を止め、田山が振り返る。手首を離されたが、やはり怖くて逃げ出すことはできなかった。
ひなはビクビクしながら田山の出方を窺った。
「お前、あのカツラギシロウとかいうヤツと随分仲がいいみたいだな」
「へ……? いえ、そんなことは……」
とても仲がいいとは言えない。ひなが一方的に彼のもとに通い、勝手に作った弁当を押し付けていただけだ。
けれど田山は、ひなと司郎の仲のよさをを信じて疑わないようだ。
「しらばっくれんなよ。仲良く弁当食ってただろ」
「え、えっと、仲良さげに見えましたか……?」
「なに喜んでんだ」
「というか、どうしてそれを知ってるんですか!?」
「お前の後をつけてたんだよ」
「私の後を……?」
「てめぇを殴ってやらなきゃ気が済まなかったからな」
そこまでして殴りたかったのか。まさかそんなに根に持たれているとは思わなかった。
田山は悪辣に唇を歪める。
「そのお陰でいいことを知れたぜ。お前みたいなちんちくりんが、あのカツラギの弱点だったとはな」
「な、そ、ちちち違います!! あれは私が強引に葛城さんの隣でお弁当を食べていただけで、別に私は」
バチン。
頬に当たった衝撃に、言葉を遮られた。
「うるせーな」
田山が煩わしげに吐き捨てる。
頬に痛みを感じて漸く、叩かれたのだと気づいた。
手加減はされていた。拳で殴られたわけではない。掌で叩かれただけだ。
だからといって、痛みがないわけではない。頬はじんじんと熱を持っている。
暴力に慣れていないひなは、恐怖に竦み上がった。
声も出せず、ただ体を震わせる。
「声がでけーんだよ。少しおとなしくしてろ」
苛ついた声に、怯えきったひなの瞳に涙が滲む。
きっと彼は、なんの躊躇いもなくひなを殴るのだろう。
怖い。
逃げ出したいけれど、足が竦んで動けない。
そのとき、こちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。
「なにしてんだっ」
聞こえてきた声に振り返ると、現れたのは司郎だった。急いで来たのか、息が乱れている。
「げっ」
田山は青ざめ、後退る。
「葛城さん……」
ひなは呆けたように、近づいてくる彼を見上げた。
ひなの顔を見て、司郎は顔を顰める。
「お前、殴られたのか?」
「あ……」
思わず頬を手で押さえた。
司郎が立ち竦む田山を睨み付ける。
その視線に怯んだ田山が逃げ出そうとするが、司郎の行動の方が早かった。田山の胸倉を掴み、彼の顔を殴り付けた。止める間もなかった。
田山の体が吹っ飛ぶ。
尻餅をつく田山に、司郎は怒りを滲ませた声で言った。
「二度とこいつに近づくな」
「あ……あ……」
「聞こえなかったのか?」
「ひぃッ……」
司郎が凄むと、田山は足を縺れさせながら逃げていった。やがてその姿が見えなくなり、ひなは司郎に声をかけた。
「あ、あの……ありがとうございます」
「大丈夫……じゃ、ねぇよな。間に合わなくて、悪かった」
微かに赤くなったひなの頬を見て、司郎は顔を歪める。
ひなは大きくかぶりを振った。司郎が来てくれなければ、きっともっと酷いことになっていたのだ。
「とんでもないです! 葛城さんのお陰で、この程度で済みました、本当にありがとうございます。でも、どうしてここに……?」
「俺がいつも昼飯食ってる教室から、お前とあの男が一緒にいるのが見えた」
それで、ここまで走って助けに来てくれたのか。こんなことをされると、彼に大切にされていると勘違いしてしまいそうだ。
「お前になにかあったらって……すげー怖くて、焦った」
不意に伸ばされた司郎の腕が、ひなの体を包み込む。
「っ……」
強く抱き締められ、一気に体温が上がる。
心臓の音が激しく鳴り響く。押し付けられた司郎の胸から聞こえる心音も、同じくらいドキドキしていた。
「かつ、らぎ、さん……」
興奮に息が上がる。
彼の体温が、匂いが伝わってくる。耳を掠める彼の吐息に、ゾクリと肌が粟立った。全身が燃えるように熱い。お腹の奥が疼く。ともすれば甘い声を漏らしてしまいそうだ。
このままではまずい。完全に発情してしまう。
「は、ははは離してください……っ」
焦ったひなは、突き飛ばすように強く司郎の体を押した。もちろんひなの力で突き飛ばされはしなかったが、司郎の体は離れた。
ショックを受けた顔で、司郎はひなを見下ろす。
「あ……」
「やっぱりお前も、俺が怖いか?」
「ち、違います、怖くなんて……っ」
首を振って否定する。けれどおもむろに差し伸べられた司郎の手に、大袈裟にびくついてしまった。
しまった、と思うがもう遅い。
司郎の顔が苦しそうに歪む。
傷つけてしまった。
でも、今ならまだ間に合う。
今すぐ否定すれば、誤解は解ける。
違うと言えばいい。
司郎が怖いわけじゃない。ひなの体質が問題なのだ。
口を開くが、声にならなかった。
司郎が好きで、発情してしまいそうだなんて言えなかった。
恥ずかしくて。軽蔑されてしまうことが怖くて。
ひながなにも言えないでいると、司郎は「悪かったな」と呟いて背を向けた。そのまま去っていってしまう。
「あ、あ……」
違うのに。否定したいのに、できなかった。
追いかけることもできず、ひなはその場に立ち尽くした。
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