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しおりを挟む不安を残したまま二日が過ぎた。
その日、カティは自分の部屋で離婚届を発見した。
震える手でそれを掴む。
どうしてこんなものが自分の部屋にあるのかとカティは愕然とした。
まさか、自分で用意するはずがない。
だってカティは大好きだったトビアスと結婚できて喜んだはずだ。間違いなく幸せだったはずだ。
それなのに、その幸せを自分から手離すはずがない。
ならば、これはトビアスが用意したものなのではないか。
そう考えて、血の気が引いていった。へなへなとその場にへたり込む。
もしかしたら、署名しておくようにと言われ渡されたのではないか。
カティが階段から落ちたのは、そのショックでふらついて足を滑らせたのではないか。
記憶を失くしてしまったせいでうやむやになってしまったが、トビアスはカティと離婚したかったのではないか。
色んな想像が頭を駆け巡る。
それならば、彼がカティを抱かなかったことも納得できる。別れる予定の妻を抱きたいなんて思えないだろう。
大切にされていると感じたのもカティの勘違いだったのかもしれない。彼は優しいから、記憶を失くして困惑するカティを冷たく突き放すことができなかったのかもしれない。離婚するはずだったなんて打ち明けられなかったのではないか。
もしそうなら、カティはトビアスの望むようにしたい。自分の不注意で階段から落ちたのだ。記憶を失くしたせいでいつまでも彼を縛り付けておくことはできない。
トビアスがカティを愛していないのであれば。
カティと夫婦を続けても彼は幸せになれない。
だからカティはトビアスに尋ねた。
「トビアス様、私と離婚したいですか?」
カティのストレートな言葉にトビアスは目を剥いた。
「そんなわけないだろう!」
声を大にしてきっぱりと否定される。
カティは本心を探るようにトビアスの瞳を見つめた。
「正直におっしゃって下さって構いません。私はトビアス様の意思を尊重したいのです。貴方が望むのなら、私はそれに従います」
「離婚なんて望んでいないよ。本当だ、信じてくれ。俺は君を愛してる。君と離れたくなんてないんだ」
トビアスは切実な様子でそう訴えてくる。
彼の言葉が嘘だとは思えなかった。
しかし愛していると言ってはくれるけれど、いつまで経っても彼はカティを抱いてはくれなかった。
もう一度自分から誘うことはできない。はしたないと思われてしまうだろうし、また拒まれたらと考えると怖かった。
だからカティはただひたすらにそのときを待ったけれど、やはり彼から手を伸ばしてくることもなかった。
きっと、カティに魅力を感じないのだろう。
結局、結婚してもカティは彼に女として見てもらえなかったのだ。
カティに対するトビアスの愛は家族に対するものと同じなのだろう。子供の頃から変わらず、彼にとってカティは妹のような存在のままだったのだ。
あの離婚届は、カティが用意したものなのだろう。
結婚したけれど、トビアスとは本当の意味で夫婦にはなれない。きっとそれに気づいて、自分は離婚しようと決意したのだ。
それならば、カティのとるべき行動は一つだ。
離婚届に署名し、それを残してカティは家を出た。
実家には帰れない。実家は近すぎて、いつトビアスと遭遇してしまうかわからない。できれば当分は顔を合わせたくない。トビアスもカティと町中で偶然鉢合わせてしまったら気まずいだろう。
行く宛などないけれど、とりあえずこの町を出ようとカティは足を進めた。
「あら、カティさん?」
歩いていると、名前を呼ばれた。顔を向ければ、見知らぬ年老いた紳士と淑女がカティを見て微笑んでいた。
「偶然ね。カティさん、この町の出身だったのね。私達、親戚がここで暮らしていて、遊びに来ていたところなのよ」
「えっ、あの……」
親しげに声をかけられてカティは戸惑う。彼らに全く見覚えがなかった。つまり、記憶のない五年間の間に知り合ったのだろう。
「心配していたけれど、元気そうでよかったわ。でも、もしなにかあればまたいつでも家に来てくれて構わないからね」
これから用事があるらしく、二人とは早々に別れた。
彼らの背中を、カティは呆然と見送った。
二人とはどこで知り合い、どんな関係だったのだろうか。少なくともこの町ではない。自分は一体なんのためにこの町を離れたのだろう。
ぐるぐると湧き上がる疑問に目眩を感じ、カティは近くの街路樹に手をついた。
あの淑女の言っていた言葉の意味はなんなのだろう。心配していたとはどういうことなのか。なにかあればまたいつでも家に来てくれて構わない、なんて。
カティは彼らのお世話になっていたことがあるのだろうか。どうして。トビアスと結婚しているのに。結婚する前に一人でこの町を出て、そしてあの二人の家に厄介にでもなっていたというのだろうか。
頭に痛みが走り、それは徐々に強くなっていく。
カティが忘れてしまった五年間に、一体なにがあったというのだ。
ズキンズキンと強い痛みに頭を押さえる。
痛みに耐え、カティは考えることをやめなかった。そうすれば、思い出せるような気がした。
ひとまずベンチへ移動しようと足を動かしたとき、離れた場所にトビアスの姿が見えた。
彼は肩で息をしながらキョロキョロと周りに顔を向けている。そして、カティと目が合った。
こちらに駆け寄ってくるトビアスの姿を見て、カティは思わず逃げ出した。考えるのをやめれば頭痛は引いた。
今は彼と会いたくない。まだ落ち着いて話ができる状態ではない。
無我夢中で人気のない路地裏へと駆け込む。少しでも彼から離れたくて、とにかく遠くへ行こうとひたすら走った。
きちんと前を見ていなかったカティは、柄の悪い男にぶつかってしまう。
「いってぇなぁ! なにしやがる!」
「ひっ、す、すみません……!」
怒声を浴びせられ、カティは恐怖に身を縮めた。
二人組の男が、カティに詰め寄ってくる。
「すみませんで済むわけねーだろ!」
「こっち来いよ!」
「きゃあ……っ」
強く腕を掴まれ、か細い悲鳴を上げる。
「やめろ、カティから手を放せ!」
足が竦んで逃げることもできないカティのもとに、トビアスが現れた。男の手を無理やり引き剥がし、トビアスはカティを背中に庇う。
「トビアス様……!?」
「逃げろ、カティ……!」
二人の男は怒りに顔を歪める。
「なんだてめぇ、邪魔するんじゃねーよ!」
「引っ込んでろよ、クソが!」
ガツッと激しい音を立て、一人の男がトビアスを殴り付けた。その衝撃にトビアスは地面に倒れる。
「トビアス様!!」
「っ……早く逃げろ!」
トビアスはカティを逃がすため、立ち上がり時間を稼ごうとする。
カティは震える足を動かし走り出す。
「誰か……! 誰か助けて下さい!! お願いします、誰か助けて……!!」
カティは必死に叫び、人通りの多い道へ飛び出した。声を聞きつけ駆け付けた衛兵と共にトビアスのもとへ戻れば、彼は地面に倒れ伏し気を失っていた。
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