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 カティは、平穏な日々を過ごしていた。
 トビアスと別れ、半月以上が過ぎていた。もうとっくに惚れ薬の効果は切れている。気持ちを切り替えて、彼は彼できっと楽しく過ごしていることだろう。
 トビアスと離れて過ごすうちに、いつかカティの傷も癒え、新しく恋をすることができるだろうか。いつかまた誰かに恋をして、今度こそはその人に愛されたい。
 今はまだカティの心はトビアスでいっぱいで、そんな日が訪れるなんて想像もできないけれど。
 買い物を終え、老夫婦の待つ家への帰り道。

「カティ……!」

 名前を呼ばれて振り返れば、トビアスがそこにいた。髪も服も乱れ、顔もやつれているように見える。
 カティはこの街で生活するようになってから実家に手紙を送っていた。自分の身勝手でトビアスと離婚したこと、実家には戻らずここで生活をはじめるということを書いて。カティの居場所は手紙に書いてあったので、トビアスはカティの両親に教えてもらったのだろう。
 唐突な再会に驚きはしたものの、カティは笑顔を浮かべた。

「トビアス様、どうかなさいました? わざわざこんなところまでいらっしゃるなんて」

 もしかして、離婚届に不備があったのだろうか。それとも大事な忘れ物でもあったのか。
 首を傾げるカティの前で、トビアスは膝をつく。

「トビアス様!? どうしました? 具合が悪いのですか?」
「カティ……! 頼む、戻ってきてくれ! 俺を捨てないでくれ……!」

 トビアスはカティの脚に縋りつく。
 カティは予想外のことに唖然とする。
 とりあえず彼を落ち着けようと、宥めるように肩を撫でた。

「落ち着いて下さい、トビアス様。どうなさったんです?」
「俺はカティと別れたくない……! 君を愛しているんだ! 別れるなんて嫌だ!」
「……ええ?」

 カティは戸惑った。
 どういうことだろう。惚れ薬の効果はもう切れている。それなのに、トビアスがこんなことを言うなんて。どうしてしまったのだろう。
 惚れ薬の効果があらわれていたときの感情が刷り込まれてしまったのかもしれない。彼はカティを愛していると錯覚しているのではないか。
 きっとそれでこんなことになってしまったのだろう。
 カティは身を屈め、トビアスと視線を合わせた。

「しっかりして下さい、トビアス様。その気持ちは貴方の勘違いです。貴方は私を愛してなんていませんよ」

 カティの言葉に、トビアスは傷ついたように顔を歪めた。

「どうしてそんなことを言うんだ……? いや、すまない……今までの俺の愚かな行いが原因だね……。信じてもらえなくても仕方のないことを俺はしてきたんだ……」

 でも、とトビアスはカティの手を強く握る。

「この気持ちは本物だ。俺はやっと気づいたんだ。カティが俺にとって誰よりも大切な存在だと」
「トビアス様……」
「カティを愛してる。本当なんだ、信じてほしい」

 トビアスは切実に訴えてくる。
 演技には見えない。そもそも演技をする理由はないだろう。ならばやはり、惚れ薬のせいで彼の気持ちがおかしくなってしまったのだ。

「わかりました、トビアス様」
「カティ……!」
「娼館に通って下さい」
「カティ……?」
「そうすれば、すぐに私のことなど忘れられますよ」

 娼館の魅力的な女性と触れ合えば、トビアスのカティへの気持ちは冷めていくだろう。今は惚れ薬の名残で盛り上がっているだけで、沢山の素敵な女性を相手にすればカティへの愛など錯覚だと気づくはずだ。
 微笑むカティとは反対に、トビアスの表情は更に暗く曇っていく。

「そんなこと言わないでくれ、カティ……。俺は君にしか触れたくない……」

 深い悲しみに暮れるトビアスの様子に、カティは困ってしまう。カティは別に彼を傷つけたいわけではない。普通に、幸せに暮らしてほしいと思っている。
 自分が飲ませた惚れ薬が原因なら、放っておくこともできない。

「ところでトビアス様、私達、離婚はしていないのですか?」
「…………ああ」
「離婚届は……」
「…………破いて捨てた」

 ばつが悪そうに視線を逸らすトビアスに、カティは小さく溜め息を零した。それならば、もう一度離婚届を用意しなくてはならない。その為にも戻る必要があるようだ。
 カティはひとまずトビアスを先に帰らせた。彼はカティと一緒でなければ嫌だと散々駄々をこねたが、必ず戻るからと約束してどうにかこうにか説得し、なんとか彼を見送ることができた。
 後ろ髪を引かれつつ帰っていくトビアスの姿が見えなくなり、カティはお世話になっている老夫婦の屋敷へ戻った。雇い主である二人に事情を説明し、辞めさせてほしいと伝え謝罪すれば彼らは急な話にも関わらず怒ることもなく受け入れてくれた。いつでも戻ってきてくれてもいいとさえ言ってくれた。
 心優しい二人に深く感謝し、カティはトビアスの待つ街へと戻った。
 まっすぐに彼の家へは向かわず、カティは魔女の店を探した。どうしてももう一度店に行きたいというカティの願いが通じ、無事に見つけることができた。
 薄暗い店の中へ足を踏み入れれば、前回訪れたときと変わらず店主である妖艶な美女が迎えてくれた。

「おや、また来たのかい?」

 店主はカティを見て目を眇める。店を訪れる客が少なく、カティは前回訪れてから二ヶ月も経っていないので覚えていたようだ。
 勧められるままに椅子に座り、出されたお茶を飲みながらカティは事情を話した。
 聞き終えた店主は言った。

「薬の効果は間違いなく切れてるよ。旦那がアンタを愛していると言うなら、その気持ちは本物だ」
「で、でも、惚れ薬を飲ませる前は、私のことなんて妹のようにしか思っていなくて……」
「妹のようだと思い込んでいただけだったんじゃないかい。その気持ちこそが旦那に刷り込まれていて、アンタを女として見れずにいた。惚れ薬を飲んだことで、漸くアンタが女だって気づいたのさ」

 店主の言葉に、カティはどう反応すればいいのかわからない。

「素直に喜べばいい。アンタだってずっと、旦那に愛されたいと望んでたんだろう?」
「それは……そうですけど……。でも、人の気持ちは変わることもあります。今は愛していたとしても、すぐに飽きて、また別の女性へ目を向けるかもしれません……」
「まあ、それは否定しないよ」

 トビアスはカティよりももっと大人っぽく洗練された女性がタイプなのだ。彼が関係を持っていた女性は全員そういうタイプだった。きっとその内目移りする。カティよりも魅力的な女性など沢山いるのだ。カティでは満足できなくて、いずれ気持ちは離れていくだろう。

「……彼の私への気持ちをなくしてしまう薬はありませんか? 私を愛しているという感情を消す薬」
「あるけど、お勧めはしないよ。薬を使ってコロコロと心を強制的に変化させたら、心が壊れてしまう可能性がある。一度や二度ならいいけれど、一年も経たずに短い期間で三度も四度も変えるのは危険だ。旦那を廃人にしたいって言うなら止めないけどね」
「……そうですか」

 さすがにそんなリスクは犯せない。彼の人生を台無しにすることは望んでいない。
 結局、カティはなにも買わずに店を出た。そのまま役所へ行って、新しく離婚届をもらった。
 トビアスは確かにカティを愛してくれているのかもしれない。けれど、きっとすぐに冷めてしまうだろう。
 カティはそう信じて疑わない。
 自分が彼に愛されるわけがない。
 愛している人に愛されたいと望んでいたはずなのに、カティはすっかり自信をなくしていた。
 トビアスの屋敷へ入れば、執事が出迎えてくれた。

「よく戻ってきて下さいました! お待ちしておりました、奥様!」
「ごめんなさい、急に出ていってしまって……。貴方にも迷惑をかけてしまったわよね」
「いいえ、私はいいのです。それよりも旦那様が……」
「トビアス様が……?」
「奥様が屋敷を出られてから、すっかり落ち込んでしまい……食欲もなくなり、仕事も全く手につかない状態になってしまわれて……」
「そうだったの……」

 確かに再会したトビアスはやつれていた。いつもきっちり身なりを整えていたのに髪も服も乱れて、あんなトビアスははじめて見た。
 カティに別れを切り出されたのがショックで憔悴し、そして別れたくないとカティを捜し迎えに来た。
 カティは確かに今もトビアスを愛している。だから彼の行動は喜ぶべきもののはずなのに。どうせすぐに飽きられると思い込んでしまっているカティは喜べない。
 トビアスはカティが帰ってきたことに涙を浮かべて喜んだ。
 歓喜に満ちた笑顔でカティを抱き締めるトビアスを見て、鞄の中に離婚届を潜ませていることを思うと罪悪感にチクリと胸が痛んだ。





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