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16、「友人」
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◇◇◇
バイオレットが暴漢に襲われたという話は、瞬く間に社交界に広がった。
噂には尾ひれがつき、バイオレットが弄んで捨てた男たちが復讐にやってきたのだとか、妻の浮気に気づいた夫の仕返しだとか、あわやというところで助けに入った男の自作自演だったのではないか、などとゴシップ紙は面白おかしく書き立てた。
バイオレットを名乗ることはもうないだろう。
唯一の救いはあの場で顔を見られていないことだった。
オーランドがすぐに上着を被せ、連れ出してくれたから――あの夜、無言のまま馬車を走らせ、オーランドは男爵家まで送ってくれた。騒ぎを聞いたエトランジェの支配人から事前に連絡が行っていたらしく、ロクサーヌは屋敷から飛び出して迎えてくれた。
オーランドは仮面をつけ、馬車の中から一礼しただけで去っていった。ロクサーヌもメイドも何も聞かず、リコリスはあたたかい湯に浸からせてもらい、翌朝にはいつも通り振るまった。
何食わぬ顔で伯爵家に行き、授業をして、お茶を頂いて帰る。
クビの通告を受けるかと覚悟していたが、オーランドは誰にも話さなかったらしい。
(それもそうよね。オーランド様にとっても、忘れたい出来事に決まっているもの)
数日間、オーランドは臥せっていると聞いた。風邪が悪化したらしい。無理をしてエトランジェに来てくれたせいだろう。
一週間がたち、十日経っても、リコリスは屋敷でオーランドと会うことはなかった。
◇
「なんだよ、元気そうじゃないか」
伯爵家の執事によって部屋に通されたグレッグは、友人をひと目見るなりそう言った。
机に座って書き物をしていたオーランドは立ち上がることなくグレッグを迎える。偉そうな態度はとても友人の訪問を歓迎してくれているようには見えなかった。
冷たい態度にやれやれと大げさに肩をすくめてみせる。
「寝込んでるって聞いて心配してみりゃ……。仮病かよ」
「体調が悪かったのは本当だ」
「ほーん? てっきりあれこれ詮索されないために、園遊会休んだのかと思ったぜ」
「詮索? なんの話だ」
「とぼけるなよ。レディ・バイオレットの話だ」
社交界では『例の話』で持ちきりだった。
噂の令嬢が襲われたらしいと聞けば、皆が「今日欠席しているような令嬢はいただろうか」と好奇心を抑えられない様子で。厳格な夫人などは「夜遊びなどしている令嬢など自業自得です」とここぞとばかりに貶める。
そして、エトランジェに出入りしていた人間なら、オーランドらしき人物がバイオレットに執心していたことももちろん知っているだろう。名前を出すものこそいないものの、欠席したオーランドとバイオレットのことを邪推している者も多くいた。
「園遊会の日はまだ本調子じゃなかっただけだ。……で、いったい何の用だ?」
素っ気ない態度は、暗にとっとと帰ってくれと言っているらしい。
茶の一つも出てこないが、グレッグは気にしなかった。園遊会の欠席云々の話をしにきたわけではない。
「なあ、お前だろ? 仮面が外れたバイオレットを連れ去った男って」
「…………」
「隠すなよ。見たんだろ、顔。誰だった? 教えろよ」
「……見てない」
端的な答えにグレッグは苦笑する。
「おいおい……、なんだよ、記憶から消したいくらいブスだったのか?」
「見てないと言っている」
「まさか知り合いだったとか? 昔の女か?」
「しつこい」
食い下がるグレッグにオーランドはにべもない。試しにバイオレットの条件に合致する令嬢――亜麻色の髪に菫色の瞳の女の名前を上げてみたものの、オーランドがかま掛けにひっかかることはなかった。
「……本当に見ていないのか?」
「ああ」
嘘だな。グレッグはそう思った。
オーランドには言いたくない理由がある。バイオレットの正体を知られたくないと思っているのだ。
頑なに素性を隠すと言うことは既に縁談を進めているからか――それならばグレッグの耳にも入ってくるはずだ――もしくは、言えないような身分の女。高貴な人間、あるいは落ちぶれた貴族の娘のどちらか。
一度だけ踊ったバイオレットの姿を思い出しながら、さて、どっちかな、とグレッグは考えを巡らせる。
「なぜ、そんなに気にするんだ」
オーランドは怪訝な顔をしていた。
グレッグがゴシップの範囲を越えて探りを入れてくることを不審に思ったらしい。
「そりゃ――気になるだろ。お前が夢中になる女だ。興味がある」
「ふん。どうだか」
「ホントだって。まあ、ほとぼりが冷めたら教えてくれよ」
これ以上しつこくしてもオーランドは口を割らないだろう。
お大事にな、と嘯き、グレッグは部屋を出る。
玄関ホールに向かうと、オーランドの二人の妹と――家庭教師だろうか。若いが野暮ったい身なりの娘が外から帰ってきたらしい。舞い込んだ風が娘の持っていた本から紙を攫う。ひらひらと飛んできた詩のメモ書きをグレッグが拾った。
「も……申し訳ありません!」
女は恐縮した態度で駆け寄ってくる。
「いいよ。気にしないで。チェルシー殿、ターニャ殿、ごきげんよう」
「「ごきげんよう、グレッグ様」」
異口同音に返事をした小さなレディがスカートをつまんでお辞儀をする。
「本当にすみません、ありがとうございました」
家庭教師も実に優雅な身のこなしで膝を折った。
(うーん。残念。顔は悪くないんだけどなー……)
服や髪型がパッとしないため、グレッグの食指にはひっかからない。けれど、声には聞き覚えのあるような気もする。
よくよく見れば、女は菫色の瞳に、亜麻色の髪――……
「ねえねえ、リコリス先生。それでね、チェルシーったらねえ」
「あっ、ターニャ! その話はリコリス先生には秘密って言ったでしょ!」
かしましく喋る妹たちと共にその女は屋敷に戻っていく。
後ろ姿を見届けたグレッグの唇は人知れず弧を描いていた。
(……そういうことか。誰も正体を知らない令嬢。もしかして、『令嬢』ですらなくて――)
バイオレットが暴漢に襲われたという話は、瞬く間に社交界に広がった。
噂には尾ひれがつき、バイオレットが弄んで捨てた男たちが復讐にやってきたのだとか、妻の浮気に気づいた夫の仕返しだとか、あわやというところで助けに入った男の自作自演だったのではないか、などとゴシップ紙は面白おかしく書き立てた。
バイオレットを名乗ることはもうないだろう。
唯一の救いはあの場で顔を見られていないことだった。
オーランドがすぐに上着を被せ、連れ出してくれたから――あの夜、無言のまま馬車を走らせ、オーランドは男爵家まで送ってくれた。騒ぎを聞いたエトランジェの支配人から事前に連絡が行っていたらしく、ロクサーヌは屋敷から飛び出して迎えてくれた。
オーランドは仮面をつけ、馬車の中から一礼しただけで去っていった。ロクサーヌもメイドも何も聞かず、リコリスはあたたかい湯に浸からせてもらい、翌朝にはいつも通り振るまった。
何食わぬ顔で伯爵家に行き、授業をして、お茶を頂いて帰る。
クビの通告を受けるかと覚悟していたが、オーランドは誰にも話さなかったらしい。
(それもそうよね。オーランド様にとっても、忘れたい出来事に決まっているもの)
数日間、オーランドは臥せっていると聞いた。風邪が悪化したらしい。無理をしてエトランジェに来てくれたせいだろう。
一週間がたち、十日経っても、リコリスは屋敷でオーランドと会うことはなかった。
◇
「なんだよ、元気そうじゃないか」
伯爵家の執事によって部屋に通されたグレッグは、友人をひと目見るなりそう言った。
机に座って書き物をしていたオーランドは立ち上がることなくグレッグを迎える。偉そうな態度はとても友人の訪問を歓迎してくれているようには見えなかった。
冷たい態度にやれやれと大げさに肩をすくめてみせる。
「寝込んでるって聞いて心配してみりゃ……。仮病かよ」
「体調が悪かったのは本当だ」
「ほーん? てっきりあれこれ詮索されないために、園遊会休んだのかと思ったぜ」
「詮索? なんの話だ」
「とぼけるなよ。レディ・バイオレットの話だ」
社交界では『例の話』で持ちきりだった。
噂の令嬢が襲われたらしいと聞けば、皆が「今日欠席しているような令嬢はいただろうか」と好奇心を抑えられない様子で。厳格な夫人などは「夜遊びなどしている令嬢など自業自得です」とここぞとばかりに貶める。
そして、エトランジェに出入りしていた人間なら、オーランドらしき人物がバイオレットに執心していたことももちろん知っているだろう。名前を出すものこそいないものの、欠席したオーランドとバイオレットのことを邪推している者も多くいた。
「園遊会の日はまだ本調子じゃなかっただけだ。……で、いったい何の用だ?」
素っ気ない態度は、暗にとっとと帰ってくれと言っているらしい。
茶の一つも出てこないが、グレッグは気にしなかった。園遊会の欠席云々の話をしにきたわけではない。
「なあ、お前だろ? 仮面が外れたバイオレットを連れ去った男って」
「…………」
「隠すなよ。見たんだろ、顔。誰だった? 教えろよ」
「……見てない」
端的な答えにグレッグは苦笑する。
「おいおい……、なんだよ、記憶から消したいくらいブスだったのか?」
「見てないと言っている」
「まさか知り合いだったとか? 昔の女か?」
「しつこい」
食い下がるグレッグにオーランドはにべもない。試しにバイオレットの条件に合致する令嬢――亜麻色の髪に菫色の瞳の女の名前を上げてみたものの、オーランドがかま掛けにひっかかることはなかった。
「……本当に見ていないのか?」
「ああ」
嘘だな。グレッグはそう思った。
オーランドには言いたくない理由がある。バイオレットの正体を知られたくないと思っているのだ。
頑なに素性を隠すと言うことは既に縁談を進めているからか――それならばグレッグの耳にも入ってくるはずだ――もしくは、言えないような身分の女。高貴な人間、あるいは落ちぶれた貴族の娘のどちらか。
一度だけ踊ったバイオレットの姿を思い出しながら、さて、どっちかな、とグレッグは考えを巡らせる。
「なぜ、そんなに気にするんだ」
オーランドは怪訝な顔をしていた。
グレッグがゴシップの範囲を越えて探りを入れてくることを不審に思ったらしい。
「そりゃ――気になるだろ。お前が夢中になる女だ。興味がある」
「ふん。どうだか」
「ホントだって。まあ、ほとぼりが冷めたら教えてくれよ」
これ以上しつこくしてもオーランドは口を割らないだろう。
お大事にな、と嘯き、グレッグは部屋を出る。
玄関ホールに向かうと、オーランドの二人の妹と――家庭教師だろうか。若いが野暮ったい身なりの娘が外から帰ってきたらしい。舞い込んだ風が娘の持っていた本から紙を攫う。ひらひらと飛んできた詩のメモ書きをグレッグが拾った。
「も……申し訳ありません!」
女は恐縮した態度で駆け寄ってくる。
「いいよ。気にしないで。チェルシー殿、ターニャ殿、ごきげんよう」
「「ごきげんよう、グレッグ様」」
異口同音に返事をした小さなレディがスカートをつまんでお辞儀をする。
「本当にすみません、ありがとうございました」
家庭教師も実に優雅な身のこなしで膝を折った。
(うーん。残念。顔は悪くないんだけどなー……)
服や髪型がパッとしないため、グレッグの食指にはひっかからない。けれど、声には聞き覚えのあるような気もする。
よくよく見れば、女は菫色の瞳に、亜麻色の髪――……
「ねえねえ、リコリス先生。それでね、チェルシーったらねえ」
「あっ、ターニャ! その話はリコリス先生には秘密って言ったでしょ!」
かしましく喋る妹たちと共にその女は屋敷に戻っていく。
後ろ姿を見届けたグレッグの唇は人知れず弧を描いていた。
(……そういうことか。誰も正体を知らない令嬢。もしかして、『令嬢』ですらなくて――)
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