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3章 太古の森で
砂原の傭兵隊長
しおりを挟む一方、ローは素早い身ごなしで長柄の懐に飛び込んだ。柔軟な身体から繰り出す剣筋は変化に富み、捉えどころがない。長さの異なる双剣を巧みに繰り槍の男を圧倒する。否、圧倒しているように見えた。
実際、手数の多いローに対し、槍の男はじりじりと後退するばかりだ。
しかし男に攻撃を仕掛ける気配はなく、ローの斬撃を紙一重で避けながら、横目で隣の戦いを眺めている。
「ふざけンな、オマエの相手はおれだぞ!」
激昂したローは、飛び上がりざまその顎を斬り上げようとした。
が、
「だってさぁ、」
男は退屈そうに嘆息すると、宙に浮き無防備となった腹へ長靴の踵をめり込ませた。
「がっ……!」
堪らず吹っ飛び、家屋の壁へ強か背を打ちつけたローを、墨色の瞳が冷ややかに見下ろす。
「お前さぁ、殺る気ないでしょ? 当たってもこっちの動きを封じるような攻撃ばっかでさ、ちっとも急所を狙ってこない。分かンだよね、そういうの。結局は自分トコの教義破ンのがおっかねぇんでしょ?」
「…………!」
「だからこそ原野の男と殺り合ってみたかったのになァ……って、アレ? 何だよあいつ、押されてンな」
その呟きに、ローも男の視線を追った。
見れば、最初こそ勝手が分からずやり込められていたセトだったが、今では大剣の長さを活かし、間合いを取りながら戦斧の男を追い込んでいる。
胸甲ごと裂かれた胸を赤く染めた男は、獣じみた唸りをあげて反撃に出る。しかし焦りのために大振りになった攻撃は、ことごとく跳ね除けられてしまうのだった。
「ありゃりゃ、ちょっとマズいかな。手伝ってやるとするかね」
「待てよ!」
引き止めようとしたローの耳朶を、投擲用のナイフが掠めた。
「なっ、」
飛び来た方を見やれば、シャルカを捕らえている長髪の男が、ナイフ片手に艶然と微笑む。
「邪魔しちゃいけないよ、元より君はお呼びじゃないんだ。僕達の目的はあくまで原野の彼の方だからね。次は当てるよ」
心胆寒からしめる宣言に、ローは奥歯を噛みしめた。
受け流されるのを嫌ったセトが、柄めがけ渾身の一刀を振り下ろすと、男はたたらを踏んでよろめいた。機を逃さず、利き腕を断たんと刃を翻す。
その刹那、セトの後ろ首の毛がぞわり逆立ち、新たな殺気を察知した。
目だけを動かし背後を見れば、すぐそばに槍の先端が迫っている。鋭利な穂先が一直線に突き出された。けれど今更動きは止められない。そのまま戦斧を握る腕を斬り落としたセトだったが、最早槍をかわすことは不可能だった。
(――クソッ!)
せめて急所を外そうと、無理矢理上体を捻った時だ。
セトのすぐそばで、有明月を思わす幅広の湾刀が閃いた。激しい金属音をあげ、槍の柄が両断される。
「ちょ、嘘だろ!?」
驚いたのはセトよりも槍の男の方だった。
何が起きたのか分からず、セトは改めて振り返る。
いつの間に寄ってきていたのだろう。セトと槍の男との間に、漆黒の外套の男が佇んでいた。
歳は三十半ば頃か。目尻には厳しさがそのまま刻まれたような皺が走っている。頭には黒い更紗布が巻かれ、その隙間から輝石を連ねた装飾が下がっていた。ゆるく波打ち肩にかかる髪もまた黒く、湾刀を握る手は褐色。
「砂原の民か……」
どこか安堵したようなローの呟きが、セトの耳に届いた。
砂原の男は長髪の男を鋭く睨むと、
「貴様ら一体何をしている。子供を放せ!」
腹に響くような低い声で一喝した。長髪の男は小さく舌打ちしシャルカの手を解く。
「あに様っ!」
シャルカは転がるようにセトへ駆け寄ると、力いっぱい抱きついた。
「ごめんなさいあに様っ、ぼくが気を抜いて帽子を忘れたりしたから!」
「怪我はないか? ……なら良かった。お前のせいじゃない、単に喧嘩吹っかける口実にされただけだ。動けそうなら俺よりもローに手を貸してやれ」
シャルカはしっかり頷くと、いまだ震える足を叱咤し、ローを起こしに向かう。
その気丈な様子に、砂原の男は口髭の下で唇を綻ばせた。それからセトに向き直る。黒曜石に似た彼の瞳は、足許でのたうち回る男など一顧だにしない。
「部下がすまないことをした。私はこの傭兵隊を任されている者だ。この道中のみの一時的な立場ではあるが、部下の狼藉は私の管理不行き届き、私に償えることがあるならなんなりと言って欲しい」
セトは軽く剣を振って血糊を払い、彼の目を見返した。両眼の下に呪いめいた図案の刺青が施されており、彼の炯眼を際立たせている。
「見ての通り、俺はこの郷の人間じゃない。騒ぎを詫びる相手は俺じゃないはずだ。俺個人としてはあなたに命を救われたんだ、償ってもらう道理がない」
逆立った気を鎮めきれず、年上の彼に対しても不遜な口ぶりで応じたセトだったが、それでもいつも通り「あんた」とは呼ばなかった。
呼べなかったのだ。救われた恩もあるが、何より彼が纏わす風格、一介の傭兵とは思えぬ威厳に満ちた立ち姿に、すっかり打たれてしまっていた。
彼は気を害した風もなく、ローを抱き起こすシャルカへ視線を移し、
「あの子はお前さんの弟なのか、」
「あぁ」
「色のことを差し引いても、あまり似ていないな」
「義兄弟だ。けれどあいつが生まれた日から同じ家で育った。血を分けた兄弟も同然だ」
「そうか」
親しみの篭った笑みで頷いた。
初対面の彼に何故易く答えてしまうのかセト自身分からなかったが、その渋みのある低い声音を聞いていると、荒ぶっていた心がすっと凪いでいく。
そればかりか、セトもまた彼に言いようのない親しみが感じられてならなかった。その原因を己の内に探していると、ようやく思い当たる。
アトだ。
顔は似つかぬものの、彼が纏う空気は父・アトのそれとよく似ていた。
砂原の男はそこでようやく隻腕となった男を見下ろす。
「鉄の胸甲を斬ったか、いい腕だ」
「鉄の柄を叩き斬ったあなたほどじゃない」
セトの言葉に、彼は悪戯っぽく口の端を持ち上げる。そうして見せると、まるで青年のようにも見えるから不思議だ。
「いつかまた出会うことがあれば、その時は私も是非手合わせ願いたいものだ」
「俺は御免だ、敵う気がしない」
「謙虚だな」
「本音さ、」
すると相変わらず開け放たれていた戸口から、よく肥えた水源の民の老人が現れた。すでに憤慨していた様子の老人は、場の惨状にますます頬を紅潮させる。
「何だこれは! おい貴様、腕はどこへやった! それではこの先よう働けまい。ついて来るのは勝手だが、帰路の分の報酬は出さんぞ!」
どうやらこの老人が彼らの雇い主であるらしい。老人の登場に、彼は億劫そうに息を吐く。
「お出ましか……私は砂原の民、アル・ハディード。名を聞いても良いか」
アル・ハディード。その名を唇の内で復唱してから、
「セトだ」
短く答えたセトに目で頷き、アル・ハディードは踵を返した。軽く握った己の拳に唇を押し当て、その手を空へ差し向ける。
「『星海の六娘』の導きあらば、また会うこともあるだろう。息災でなセト。弟御を大事にな」
「…………」
そうして彼は、見送りに出ててきた郷母の許へ音もなく寄った。そして金のことばかりを喚き散らす雇い主に代わり、深々と頭を下げたのだった。
しばしその背を目で追っていたセトだったが、そうしていると視界の中を老人が濁声撒き散らしながらうろつくので、やめた。
「水源の白豚め、どこで出くわしても不快な奴らだ」
血の混じる唾を吐き捨てて、セトもローの許へ向かった。
「大丈夫か、ロー」
シャルカに付き添われ、壁に背を預け座り込んでいたローは、セトを仰ぎ苦笑する。
「情けねぇや、てんで歯が立たねぇでやんの」
「相手は戦いを生業とする傭兵だぞ、それに体格が違いすぎる。よくあれに向かっていったな」
「体格、か」
呟いて立ち上がると、ローはまじまじとセトを眺めた。
そう言うセト自身は、彼らに勝るとも劣らない体格を有している。殴られた頬の他は目立った外傷もなく、痛みを引き摺っている風もない。
「流石だな」
己の有様とはまるで違う原野の男に、ローは薄く笑って目を伏せた。
「……ジュンケツシュが揃い踏みすると壮観だな。おれなんか、その迫力だけで眩暈がしちまわぁ」
その独り言を聞きとがめ、シャルカは小首を傾げる。
「ジュンケツシュ?」
「何だって?」
独白を聞き逃していたセトもまた、シャルカの復唱に首を捻る。
ローはわずかに鳶色の目を見開いたかと思うと、すぐにそれを打ち消し、セトの肩へ腕を投げかけた。
「おれそんなこと言ったっけ? 良いからセト、肩貸せよ。あのヤロー、思いっきり鳩尾キメてくれやがって」
「言いましたよ、何のことなんですか?」
シャルカに食い下がられたローは、いつものニヤリ顔でセトを見上げる。
「あぁ、違ぇ違ぇ。『純潔クンは血の気が多くておっかねぇ』っつったんだよ」
「『純潔クン』?」
きょとんとするシャルカの前で、ローは赤く腫れ始めているセトの頬をつついた。
「おう。だってそうだろ? 原野の男は婚前に遊ぶこともしねぇんだよな? だったら未婚のセトは即ち童貞ってことだろが」
三人を取り巻く空気が音を立てて凍りついた。
目も口もぽっかり開けたまま彫像のように立ち尽くす弟の横で、セトはぴきりと額に青筋立てフンと鼻を鳴らした。
「蒼穹神の教えを遵守する者ならば当然のことだ」
ローはうんうん頷き、指先をぐりぐりとめり込ます。
「そうとも、立派な童貞クンだよ? そんじょそこらのモテない童貞クンとは一線を画す、そりゃもう称えるべき童貞クンだよ?」
「…………」
「な、二四歳童貞クン」
「………………よし、殴る!!」
拳を振り上げたセトからするり逃げ出し、ローは腹を押さえつつ通りを駆け回る。手心加える気配は一切なく、全力で後を追うセト。
「ンだよ、ホントのこと言っただけだろが!」
「喧しい、そこに直れ!」
「おれぁ怪我人だぞ、優しくしやがれっ」
「宜しい、そこに直れ! 優しくその頬砕いてやろう」
「『腰砕いてやろう』? ヤダーやっぱそのケがあるんじゃないっすかセトさんよーぅ! でもダメだ、おれには可愛い妻と子が、」
「絶ッ対ェ殴る!!」
シャルカがようやく我に返った時には、全てが片付いていた。
喚き散らす兄達の声は通りの彼方へ遠ざかり、屈強な傭兵達も水源の老人も、残らず姿を消していた。
「……まぁ、そうなりますよね」
ぽそり呟いたそれが一体何を指すのかは、シャルカのみぞ知るところだったが。
通りの隅にできた血だまりを見つけ、シャルカは恐る恐る寄ってみた。兄によって斬り落とされた腕は回収されていったらしく、今はその赤い水面だけがここで戦いがあったことを印していた。
徐々に凝固しつつあるそれを覗き込む。赤黒い面にあっては、シャルカの肌も赤褐色に映し出された。
「この郷にはどんな事情があるんだろう。ローさんがあんなに強張った顔をするなんて、」
それとも、荒野の傭兵に驚いたのかな。
問いかけるシャルカに、答える者はない。
「ジュンケツシュ、」
呟き、先程見た光景を目蓋の裏に浮かべた。
暗い赤髪、灰色の瞳、褐色の肌をした原野の兄。
鉛色の髪、墨色の瞳、褐色の肌の荒野の傭兵達。
漆黒の髪、黒耀の瞳、そしてやはり褐色の肌をした砂原の傭兵隊長。
皆古森や機織の民と比ぶべくもないほどの長身、無駄のない筋肉に包まれた体躯を持ち、それぞれ武に長けていた。そればかりか、彫りの深い顔立ちまでも共通していたように思う。
「ご先祖様が同じなのかな。ジュンケツ……純血? 一体何の……」
三者が得物を手に居並ぶ様を思い出すだけで、威圧感にぞくりとする。
物思いに沈んだシャルカを、戸口に現れたアインが手招く。シャルカは小さく首を振り、彼女の許へ駆け出した。
家の中からは、先程までの争いが嘘のように、甘ったるい蜂蜜麵麭の香りが漂っていた。
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