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1章 弓島の民

紅の差された唇で

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 セトは族長宅へ着くなり、面会を求めるまでもなく、カルムの母によって族長の寝所へ通された。
 今朝は心安く潜った戸を、今度は身も気も引き締め通り抜ける。寝台のそばで神妙な面持ちで膝を折った彼に、族長は軽く咳をしつつ首を捻った。

「どうしたんだい、そんなに畏まって。らしくないじゃないか」

 そう言ってまた咳き込む。朝は自力で身を起こしていたが、今は柔らかな背当てに身体を埋め、やっとのことで姿勢を保っている。顔色も悪い。
 こんな容態の彼に話すのは気が引けたが、それでも言わねばなるまい。セトがそう意を決するより早く、族長が先に口火を切った。

「セト、」

 例の戸棚を目で示す。見れば、今朝出したはずの水煙管がない。

「ビルマに見つかって片付けられてしまったよ」

 セトは苦笑すると、今度は黙って水煙管の支度を整えた。
 水入りの器から伸びる管を唇に当て、最初の紫煙をゆっくり肺に流し込むと、族長はセトに視線を戻す。

「夕方、水源の民と一悶着あったそうだね」

 この族長トウマという男、日がな一日床にあれど、島中の出来事を漏れなく把握している。頬を引きつらせるセトへ「お見通しだよ」と微笑みかけた。

「珍しいじゃないか。水源の民に絡んだ者がいるというから、大方アダンあたりだろうと思ったが。お前だと聞き驚いたよ」

 セトは恐れ入って頭を下げ、

「すみません。シャルカが先に絡まれていたんです。色のことを言われていたので、ついカッとなってしまって……」

謝罪すると、族長は苦々しく眉間に皺を刻む。

「まったく目障りな連中だよ。水の支配をいいことに方々で好き勝手だ……連中の投石器やなどという武器がなければ、すぐにでも攻め入り水源を解放しようものを」
「弩、ですか。いくら優れた武器を有していたとしても、あの肥えて愚鈍な白豚共に俺達が劣るとは思えませんが」

 弩も投石器も見たことがないセトは強気で反論する。
 ふたりが好戦的な性格というわけではなく、島の行く末を見据えての発言だった。
 水を支配を許す限り、永劫連中に頭を押さえられ続けることになる。この泥の原野に水源はなく、降雨に頼るにも限界があった。
 雨知らずの日々が続けば狩りができ飢えずに済むが、当然水は不足し、足許を見た連中に収獲の上前撥ねられる。こんなことの繰り返しでは、いつまでたっても島の復興は進まない。
 けれど族長はゆるりと首を振った。

「わたしの祖父の代にね、連中のあまりの横暴さに堪えかねた原野の七島が決起し、連合組んで水源の郷に攻め入ったことがあるのさ」

 結果は聞くまでもなく現状が物語っている。驚きを隠せないセトに族長は続ける。

「弩という武器の厄介なところは、威力もさることながら、ろくに訓練をしていない者でもそれなりに扱えることだという。水源の民は昔から人口が多いからね。例え今再び七……いや、今となっては六か……六島が手を組んだとて、互いに潰しあい戦士を減らした我々では敵うまいよ」
「…………」

 族長は眉間の皺を解き、慰めるようにセトの肩に手を置いた。

「だからね。気持ちは汲むが、わたしはこう言わなければならない。『水源の民と揉め事を起こすな』と」
「……はい。申し訳ありませんでした」

 セトは不服の意を拭いきれぬまま頭を下げたが、族長は、否トウマは気付かぬふりをした。紫煙を細く吐き出し、打ち解けた声で尋ねる。

「で、どうしたんだい? セトもわたしに話があったようだが」

 セトは背筋を伸ばし居住まいを正す。

「実は、」

 喋りだすや否や、背後の戸が叩かれた。族長の応えを待たず戸が開け放たれ、ビルマが顔を覗かせる。ビルマは部屋に漂う紫煙を見るやまなじりをつり上げた。

「父様! あれほど喫煙はお控えくださいと言ったじゃありませんか! セト、やはりお前だったか、父様に煙管を与えたのは!」

 憤るビルマはずかずかと部屋に入り込むと、父の手から水煙管を引ったくる。

「これこれビルマ、不躾じゃないか。まだ話は終わっていない」
「部屋から煙が漏れていましたので。それに、自制できない父様に言われたくありません」

 これだよと言いたげに肩を竦めるトウマに、セトは再びの苦笑で応じた。

「笑うんじゃないセト、お前もだ! 煙は父様の病に障るとあれほど教えておいたろう!」

 矛先を向けられ、セトは広い肩をなるたけ縮めてやり過ごす。と、そこで改めてビルマを見、彼女の場違いな格好に気付いた。
 夕餉を終えればあとは就寝するばかりだというのに、長い髪を凛々しく結い上げ、革の手袋と脛当てを履いている。まるでこれから遠乗りでもしようかという風だ。

「何だビルマ、その格好」

 ビルマは腰に手を当て胸を逸らす。

「見て分かるだろう? たまには息抜きに、夜の原に出てみようかと思ってね。付き合えよ」

 夜警の目的はビルマの護衛であるから、行くと言うなら従わざるを得ないが、セトはまだ何も話せていない。

「いや、それは構わないが……」

 話が終わるまで待ってくれないか。頼みかけたセトに気付かず、ビルマは父を振り返った。

「父様もいつまでセトをひとり占めするおつもりです? セトはわたしの護衛でしょうに」

 トウマは軽口を叩く娘の唇に目を留める。そこには、父親である彼の知らぬ色、真新しい紅が差されていた。トウマは悟ったように眦を下げ、少しばかりの寂しさを滲ませ頷くと、

「分かった分かった、悪かったよ。セト、付き合ってやってくれるかい? ここのところわたしの仕事をほとんど押し付けてしまっていたから、鬱憤も溜まっているだろう」
「それは勿論……ですが、」
「よろしい、なら早速行っておいで。くれぐれも気をつけるんだよ」

 そう言いつけられてはセトも頷くより他なかった。明日の朝、退出の挨拶をする際に話をしようと思い直して。
 出て行こうとするビルマの背にへトウマが「なぁ」と呼びかけた。そしてその手の中の水煙管を物言いたげに見つめる。

「父様、いい加減に……」
「蒼穹神に祈りたくてね」
「何をです?」
「愛娘の満願成就を」

 するとビルマは顔を真っ赤にして取って返し、父の手へ乱暴に煙管を押しつけた。セトはふたりが何を言っているか分からず、ただただ立ち尽くすばかりだ。
 そんなセトの腕を掴むと、ビルマは大股にずかずかと部屋を後にした。

 一転して静まり返った部屋の中、トウマは簾を上げた窓の外を眺めていたが、ややあって再び水煙管を咥えた。
 それがまた咳を呼ぶことは承知していたが、考え事や決断をする時、また神に祈る時、彼は常に煙を口にしてきた。
 己の死期が迫っているのは分かっている。けれどそれを一日二日遠ざけるため、今更習慣を変えようなどとは思わない。
 紫煙にけぶる夜空を見つめ、咳混じりにひとりごつ。

「分かってはいるんだがね。あの子の面倒を見てもらっているんだ、お前にこれ以上の責任を負わすのは酷というものだろう。けれどわたしも、長である前にひとりの父親さ。愛娘の幸せをつい願ってしまうのだよ」

 呟き終えた途端激しく咽せ、口許を覆った手のひらに吐き出した鮮血が滲んだ。それを握りしめ、小さく息をつく。

「……やれやれ、どうあれビルマの花嫁姿を見ることは叶わなそうだ。まぁ、これもあの日の咎であろうよ」

 それでも構わず、血糊で粘つく喉へ煙を流し込むと、彼は星の許へ届くよう細く長く紫煙を吹いた。



 ビルマに引き摺られ少し廊下を進んだところで、セトは腕を掴む手を解かせた。

「待て待て、護衛より先に行く奴があるか。万一先の角に賊が潜んでいたらどうする」

 諌めて前へ進み出たセトに、

「それもそうだ。ちゃんと守ってもらわないとな」

ビルマは手を差し伸べる。セトは怪訝な顔でその手を見下ろした。

「何だ?」
「何だとは何だ。わたしを守ってくれるんだろう? ならきちんと付き添ってもらわないとな」

 強気な笑みを閃かすビルマは、昔と変わらず、否それにも増して魅力的だ。大人の女性としての美しさと品を備え、高圧的な口調さえ好ましく感じさせるほどに。
 けれどだからこそ、セトは易々とその手をとるわけにはいかなかった。

「馬鹿な、片手が塞がった状態で守れるか」

 すげなく断り、さっさと歩き出すと、ビルマは吐息を零した。

「……だから嫌いなんだ、お前」
「何か言ったか?」
「別に」

 言い捨ててもう一度大きく息をついた時、ビルマはセトの左手の変化に気付いた。

「セト、わたしがやったバングルはどうした? 失くしたのか?」
「あ、いや……その、すまない」

 セトは何とも形容しがたい顔で、軽くなった手首を擦る。

「忘れてきたのか?」
「いや、本当にすまない……引き換えたんだ」

 たちまちビルマの瞳が見開かれる。一日中執務室に篭っていた彼女は父と違い、セトが商人と揉めたことすら知らずにいたのだ。驚きの中にわずかに覗いた悲しみの彩を見てとって、彼は今になって初めてバングルのことを悔いた。
 あのバングルには『共に島を守っていって欲しい』という願い以前に、親友であるふたりを思うビルマの心が込められていたのだ。島への失望と綯い交ぜにし、容易く手放してしまった己の短慮に歯噛みする。とはいえ、あの時他にどうすれば良かったのか、セトには考えつかなかったが。

「引き換えた? 何と?」
「水二樽」

 セトの愚直な返答にビルマは激昂した。

「水二樽? たったの? お前とうとう勘定もできなくなったのか! あれは……あの琥珀だけにしたって、水二樽なんかと引き換えていい物じゃないぞ!」
「本当にすまない! 折角お前が拵えてくれたのに……気が済むまで殴ってく、」

 その言葉を最後まで言わせず、ビルマの爪先が華麗にセトの鳩尾を抉る。あとはもう振り向きもせず、足音高く去っていく彼女を、セトはよろめきながら追いかけた。



 夜更けの原を、星明りをのみ頼りに進む。
 漆黒の夜空に春の星座が煌き、神話の世界を象っていた。地平線を這うように連なる星々は、蒼穹神に討伐されし大百足。北西の星雲は大地神の首飾り。
 それらが見下ろす中全速で牝牛を走らせるビルマを、一歩遅れる形で追うセト。そんなセトを彼女は髪を乱して振り返る。

「どうした、本気を出せ!」
「これが全力だ」

 実際、セトの愛馬は余力を残していた。こんな時まで追い抜いてしまうほどセトも馬鹿ではない。が、ビルマは更に愛騎に鞭打ち、

「ふざけるな、そんなもので一隊が率いれるものか! 遠慮は無用、お前これ以上わたしを怒らせたいか!」

燃えるような目で睨みつける。
 どうやら子供の頃によくしたように、本気の勝負を望んでいるらしい。ならば手抜きはますます怒りを買うだけだ。
 セトは踵で愛馬に指示を出す。漆黒の駿馬は低い嘶きで応え、四つのヒレで力強く泥を掻きだした。
 あっという間にビルマを追い越すと、葦茂る原に辿り着く。そこで止め、セトはビルマの到着を待った。
 ようやく追いついてきたビルマは、弾む息を整えつつセトの許へ牝牛を寄せると、上気した頬で笑う。

「やはり敵わないな」

 屈託のない笑顔に、セトはまだ少年だった時分を思い出した。
 ここ二年、族長の名代を務めるようになってからというもの、ビルマは難しい顔で自宅に篭っていることが多かった。本当はセトと同じで、こうやって自由に原を駆け巡ることを好んでいたのに。ずっと窮屈な思いをしていたのだと改めて気付く。

「早く駆けたいのなら、馬を使えばいいだろう」

 いつもより柔らかな口調で言うと、

「そう言うなよ、わたしはこの仔が気に入っているのさ。父牛に似て優しい仔だ」

ビルマも打ち解けた声で応じ、前のめりになって仔牛の顎を撫でてやる。一二年前に乗っていた牡牛の仔だった。

「セトの馬ももういい歳だろう、引退させてのんびり過ごさせてやったらどうだ?」
「早いもんだな」
「そうさ。いつまでも子供じゃいられない。この仔達も、わたし達も」

 ビルマが心なしか強張った顔で呟いた途端、不意に仔牛が大きく首を揺すった。撫でられ気持ちが良かったのだろう。けれどその頭に体重を預けていたビルマは上体を崩してしまった。

「危ない!」

 背中から落ちればたちまち泥に呑まれてしまう。セトは咄嗟に身を乗り出し、倒れこむビルマを受け止めた。

「大丈夫か、ビルマ」

 馬に引き上げ顔を覗き込むと、彼の鼻先をかすかな酒気が掠めた。

「お前、酔ってるのか?」

 ビルマはバツが悪そうに、視線を避けるようセトの胸に顔を埋める。

「煩い」
「原に酒気帯びて出る奴があるか。道理でおかしいと思った、お前が簡単に落馬しそうになるなんて」
「…………」

 ビルマは黙ってセトの服を握りしめた。
 我に返ったセトは、横乗りになったビルマをすっぽりと抱きかかえる形になってしまっていることに気付き、慌てて腕を解こうとした。けれどビルマが離れる気配はない。その指先が小刻みに震えているのを見、さしもの彼女も怖かったのかもしれないと、落ち着くまでそのままでいることにした。
 顎をくすぐる長い髪を見下ろしながら、こんなに小さかったかな、と思う。それなりに鍛錬しているため華奢とはいかないが、肩も腕もすらりと細く、押し当てられた胸は柔らかい。

『ビルマはな、女だぞ』

 ごく当たり前のことを言っただけのアダンの台詞が、セトの中でようやく実感を伴ってくる。
 となると、やはりこのままの体勢でいるのはまずいんじゃないか、いやでも怯えているようだし、しがみつかれてもいるしと朴念仁なりに焦り始めたその時、

「シャルカだな」

 ビルマが呟いた。
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