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1章 弓島の民
青鷺の羽根
しおりを挟むセトは族長宅を辞すると、そのままアダンの姿を求め桟橋の方へ足を向けた。
口は悪いが、負った役目に対して真摯なアダンは、そろそろ訓練の準備を始めているだろうと踏んだのだ。
朝らしく忙しない喧騒が満ちる広場を抜け、桟橋へやってくると、案の定アダンはそこにいた。すっかり愛馬の支度を整え、子供達に使わせる予備の弓矢を黙々と積み込んでいる。
「おはようアダン、早いな」
背中に呼びかけると、アダンは飛び上がりそうなほど驚き振り返った。
「お、おう。何だセトか、おどかすなよ」
「別に驚かすつもりはなかったんだが。少し話をしたい、いいか?」
アダンはセトが手ぶらなのを認め、桟橋の突端へと促した。
アダンが桟橋の先から足を放り出すようにして座ると、セトもそれに倣い隣へ腰掛ける。
並んで足を揺らせると、ふたりは少年の頃によくこうしていたことを思い出した。無言で交した視線の内で、今は遠い日々を束の間懐かしむ。ゆらり揺らせた四つの爪先の下で、あの頃と変わらぬ黄土色の泥濘が濡れた腹を横たえていた。
「で、何だよ話って」
「しばらく、隊のことをお前に任せたいんだ」
「は? 何だ急に、オメェはどうすんだ?」
声を大きくするアダンに対し、セトは声を潜めて告げる。
「夕べ、ビルマの寝所に賊が入ったそうだ」
「賊……?」
アダンは息を詰め、セトの顔を注視した。セトは急ぎ言葉を継ぐ。
「大丈夫だ、怪我はないし……その、なんだ、未遂というか……とにかく無事だ。何せビルマだからな、自分で短剣でもって撃退したらしい。それにすぐカルムが気付いて駆けつけてくれたそうだ」
「賊は?」
問われ、セトは首を横に振った。
「捕まっていない。ビルマも、暗くて顔は見えなかったと」
突然の報せに驚いてか、アダンは片手で口許を覆ったまま黙り込んでしまった。無理もない、幼馴染が賊に襲われたと聞かされたのだから。
それにこんな小さな島だ、他所の人間の犯行でない限り、賊は顔見知りということになる。セトは宥めるようにその肩に手をかけ、族長から夜警を命ぜられたことも伝えた。
聞き終えてもなお、アダンはしばらく険しい顔をして口を噤んでいたが、やがて顔を上げセトを見た。
「そうか……族長様が、お前に。ビルマも承知してるんだな?」
「その場にいたからな。アダンにも皆にも迷惑をかけることになってすまない。……族長様は少しビルマに甘いんだ、短剣を使った護身術じゃ俺だって敵わないビルマなのに」
他では決して漏らさぬ不満を垂れたセトに、アダンは口の端で苦笑する。
「オメェはビルマを過信しすぎなんだよ、っつか女扱いしてやらなさすぎ。ビルマはな、女だぞ」
「それな、さっき本人にも言われた」
「何言わせてんだよ、相変わらずオメェは朴念仁だな」
喉の奥で低く笑うと、アダンは首をひとつ振り、だしぬけに立ち上がった。
「そうだ、オメェにいいモンやるよ。ちょっと待ってろ」
「いい物?」
「まぁ待ってろ、すぐ戻る」
言い置くと、アダンは島へと駆け出した。見るからに頑強な足が踏み込むごとに、桟橋全体がぐらぐら揺れる。揺れの余韻が収まった頃、再び派手に桟橋を揺らし戻ってきた。
「おう、これやる」
息を弾ませながらアダンが差し出したのは、二つ折りの上等な白い紙。開くと、中には青鷺の羽根が挟まれていた。それは大きく、縁にほんのりと青を乗せた見事な一枚だった。セトは羽根とアダンとを交互に見やる。
「何だこれ、どうして俺にこんな物を?」
「お前にだからやるんだよ」
「だから何で、」
察しが悪ぃなとアダンは舌打ちした。
「ばっかオメェ、まったくなってねぇなぁ。だからオメェは未だに独り身なんだ」
「アダンだって独り身だろう」
「オレのこたぁいいんだよ!」
アダンはセトの背に突き落とさんばかりの張り手を見舞い、隣へどかりと座り直した。そしてセトの肩へ腕を回し、ずいっと鼻先を寄せる。
「いいか? 寝所の警護だぞ? 族長様のひとり娘の。オメェこの意味分かってっか? 信用ならねぇヤツにこんな大役任せっかよ」
「単にビルマの幼馴染だからだろ」
「ンなこと言ったらオレだってヤーンだって幼馴染だろがっ。夜の! 寝所の! 警護! しかもひとりで! これはどういうことだと思う?」
「……鼻息荒い、苦しい」
呻いたセトの脳天に、今度は容赦ない拳骨が振り下ろされた。ようやく開放されたセトは頭を擦りつつ肩を落とす。
「ったた……何だってんだ、何で殴られたんだ俺は?」
「オメェは本当にどこまで朴念仁なんだ? その疎さ、いっそ病気かと思うくれぇだ。もういっぺん言うけどな、ビルマは女だぞ」
「知ってる」
「知ってるが、分かっちゃいねぇのよ」
アダンはフンと鼻を鳴らして、島の内部に視線を放った。ここからでは見えはしないが、その先には族長の家がある。
「ビルマも二四、女ならもう子のひとりふたりいてもいい歳だ。族長様が胸を患われてもう二年、きっとそう長かぁない。その前にビルマに立派な婿とって、族長の役目を引き継いで、って思ってらっしゃるんだろうぜ」
「……だからって、何でこれを俺に。大体これどうしたんだ、贈るあてがあったから用意したんじゃないのか?」
その言葉に、アダンはほんの一瞬息を詰めたが、何事もなかったようにセトの脇腹を肘で突く。
「ばっかオメェ、オレらくれぇの歳になりゃあな、いつ何時好機が来てもいいよう用意しとくモンだ。男の嗜みってヤツよ」
「お前から嗜みって言葉を聞くとは思わなかった」
「オメェそろそろ本気で突き落とすぞ」
犬歯を剥き出し威嚇したあと、アダンは盛大に息を吐き、ごろりと仰向けに倒れこんだ。頭上に広がる空は相も変わらず曇り空だが、今日は少しばかり雲が薄い。限りなく白に近い雲の海を、美しい雪白鳥の番いが連れ立って渡っていく。
「……族長様が愛娘の寝所の警護をオメェに託したんだ。そりゃつまり、オメェにならビルマの将来を託せるって、そういうこったろうがよ。待ってんだよ、セト。オメェがビルマに求婚すんのを」
「…………」
セトは手の中の羽根に視線を落とした。
いくら察しの悪いセトでも、何とはなしに気付いてはいた。先程族長が見せた父親としての顔。交代要員も用意せず、自分ひとりにだけ頼んだ意図に。けれど、あえてそれから目を背けようとしていた。向き合うことを無意識に、あるいは意識的に拒んでいたのだ。
何故こんな自分に、と彼は思う。
所詮自分はビルマの身の安全よりも、狩りに出て島民の――否、そんな大それた大義ではない。ただ家族が飢えぬよう――胃を満たすことを優先的に考えてしまうような男だ。それは勿論ビルマの度胸と腕とを信頼しているからこそなのだが、大事な娘の夫としてはいささか不誠実だろうに。
何より、族長の一人娘であるビルマを妻にするということは、即ちこの島の未来をも請け負うことでもある。
親友に託された羽根は、彼の掌に重く吸いついた。
セトの沈黙を尊重するようにしばらく黙っていたアダンだったが、やがて飽きたように身を起こすとそのまま立ち上がった。
「ま、そんなわけだからよ。モタついてねぇでとっととビルマと結ばれろ。婿に入れ。族長を継げ。でもって次代の族長候補を作れ。オメェだってビルマのこと憎からず思ってんだろ?」
「……よく分からない」
それが率直なセトの本心だった。
島云々のことを抜きにして、己が胸の内からビルマ個人に対する感情だけを選り分けてみても、確かな親しみはあるものの愛しさとはまた違う気がする。
はっきりしないセトの態度に、アダンは苛々と髪を掻きあげる。
「分からねぇことあるか、下半身に訊け下半身に」
「お前はそんなだから嫁の来手がないんだ」
「お生憎様、オレはそこそこモテてるもんで」
「…………」
「ンだよその目は」
舌打ちひとつ、アダンは踵を返し愛馬の許へ戻っていく。そこでもう一度振り返り、犬歯を覗かせ不敵に笑った。
「いいか、さっさと族長様安心させてやれ。軍団長は族長と違って世襲制じゃねぇんだ、オメェっていう有力候補がいなくなりゃオレにその座が回ってくるかもしれねぇしな。ああ、勿論オメェが次期族長として指名してくれてもいいんだぜ?」
「それが狙いか」
セトは苦笑して再度アダンの背を見送った。
「婿を選ぶのは族長様じゃなく、ビルマ本人だろうに」
そう呟きながら。
泥の匂いを含んだ風が彼の髪を乱し、広場の活気を耳に届ける。
セトはしばし胸に凝った鉛の塊と向き合っていたが、やめた。まだやるべきことが残っている。受け持っていた年少組の指導役を、誰かに引き継がなければならない。それも早急に。
「誰が適任か……」
隊員達の顔を思い浮かべつつ、セトは足早に広場へ取って返した。
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