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1章 弓島の民

族長の頼み

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 それから七日経った日の早朝、セトは族長に呼び出された。
 族長は月に一度ほど、自らの体調のいい日を選び、こうして彼を招く。シャルカの話を聞くためだ。よくアトからも聞いてはいるのだが、兄の立場からの話も聞きたいというのが族長の意向であった。

『手元に置きよく監視して、良からぬ動向を見せたらその時は――』

 一二年前、族長が発したこの言葉は今も生きている。シャルカは依然監視状態にあった。
 この報告に上がる時、セトは少なからず緊張を覚える。何せ己の言に可愛い弟の命運がかかっているのだ。あの時と同じように。
 尊敬する族長を性別のこと以外で欺く気はないし、ありのまま話したところでシャルカに良からぬ点などないが、それでも言葉選びには気を遣う。小難しいことが苦手なセトにはやや憂鬱な時間だった。
 けれども今朝は足取りが軽い。セトにとって、そして恐らく族長にとっても嬉しい報告を携えているからだ。
 柄にもなく鼻歌なんぞを口ずさみつつ族長宅を訪うと、出迎えに出たのはカルムだった。

「おはようございます、セト隊長」

 その声はどこか抑揚を欠いている。

「おはよう、どうしたカルム?」

 それに、いつもならビルマが出迎えてくれるはずだった。宅内はやけに静かだ。カルムは軽く頭を振り、大きく戸を開けセトを招き入れる。

「いえ、伯父が待ってます。どうぞ」

 どうも妙だと気にかかったものの、時刻は早朝、まだ寝起きで元気がないのかもしれない。そう思い、セトはカルムに連れられ族長の寝所へ向かった。



「早くから呼びつけて悪いね、セト」

 カルムに礼を言ってからひとり入室すると、族長は床から身を起こし待っていた。

「お加減はよろしいんですか?」

 セトが慌てて背を支えようとすると、「大丈夫だよ」と軽く手を振る。ビルマと似て整っていた顔はすっかりやつれ、背中も随分小さくなってしまった。居たたまれない思いで見つめるセトに、族長は悪戯っぽく笑って戸棚を指差す。

「そこに水煙管が入っている、取ってくれるかい?」
「煙はお身体に障ります」
「そう言ってビルマに仕舞われてしまったのさ。そんなことは承知の上だと言うのにね」

 子供のように拗ねて見せる族長に、思わず苦笑する。

「族長様のことが心配なんですよ」
「病は気からと言うじゃないか。好きなものを取り上げられては気力も湧かない。お前なら分かってくれるだろう、セト?」

 そう言って茶目っ気たっぷりに片目を瞑られては、断るものも断れない。セトは渋々戸棚から水煙管を取り出し、支度を整えると、族長の傍らに置いた。それと同時に、

「ビルマには内緒で」

異口同音に発してしまい、顔を見合わせ小声で笑いあった。

「吸うかい?」
「いえ、俺は」
「そうか」

 紫煙を胸いっぱいに吸い込むと、族長は病み衰えた顔に満足げな笑みを浮かべる。
 セトにとって、族長と言えば常にこの煙を纏っている人だった。紫煙にぼやけた彼の輪郭は幾分大きく見え、達者であった頃を思わせて胸が詰まった。

「ところで、何かいいことでもあったのかい? 今朝は機嫌が良いようじゃないか」

 浮かれ気分は潜めていたつもりなのに、彼はお見通しらしい。セトは感傷を振り払うと、気恥ずかしさを感じつつ背筋を正した。

「実は、シャルカに友人ができたんです」
「ほう?」

 族長は目を丸くしながらも頬を綻ばせる。

「この一週間、午後は狩りに出るため子供達の訓練ができずにいたんですが……その間、毎日ヨキ達に誘われて、一緒に弓の練習をしていたと言うんです」
「ヨキ?」

 衰えてもなお聡明な輝きを失わぬ瞳が、宙へ向け眇められる。

「ヨキ……確かナジャの孫だったね。そのヨキがシャルカの友人に?」
「はい。それも向こうから誘ってくれたらしいんです。共に弓の腕を磨いて、カルムを負か……あ、いえ、カルムは弓も剣も勉学も秀でているので、何かひとつくらい勝ちたいと」

 カルムは族長から見て甥にあたる。「負かしたい」では拙かろうと取り繕うのに気を取られ、セトは気付くことができなかった。彼が自身と歳の近いヨキの父母の名ではなく、祖母の名を挙げたことに。
 族長は乾いた唇から細く長く煙を吹くと、小さく首を傾げた。

「少し意外だね。アトから聞いていた話だと、よくシャルカにちょっかいを出していた子だと思ったが」
「俺も意外でした。シャルカも最初は警戒していたようですが……ここ二、三日なんて、夕方父と俺が帰ると嬉しそうに話してくれるんです。今日はヨキ達とどこそこへ行った、肩に余分な力が入ってると教えてくれた、その効果的なほぐし方を教わったとか、それはもう嬉しそうに」

 そこまで話すと、セトは族長が今にも笑い出しそうな顔で自分を眺めているのに気付く。

「……俺、何かおかしなことでも?」

 尋ねると彼はますます愉快そうに口角を上げ、

「いや、そう言うお前こそ随分嬉しそうだと思ってね。セトに憧れる子供達が、今の兄馬鹿面見たら腰抜かすだろうな」
「なっ」

 セトは思わず顔を伏せ、手の甲で力一杯頬を擦った。兄馬鹿でいるのは家の中だけにしようと決めていたのに、気恥ずかしいやら口惜しいやら。
 真面目な表情を取り繕い改めて顔を上げると、トウマは煙管の吸い口を唇に当てたまま動かず、何かを思案しているようだった。
 その内容は尋ねるまでもなく知れた。おそらく、ヨキ達が何か良からぬことを企んでいるのではと怪しんでいるのだ。セト自身がそうだったように。
 けれど彼はセトの視線に気付くと、何でもないと言う代わりに浅く紫煙を吸い、

「初めて友人ができてシャルカもさぞ喜んでいるだろうね。ただ、原は危険な場所だ。はしゃぎすぎて気を緩めぬよう気をつけてあげておくれ」

老婆心ながらといった態で告げる。喜んでいるところへ無粋な水は差すまいという、彼の気遣いだろう。

「はい、本人にもよく言って聞かせます」

 それに応え深々頭を下げると、会話が途切れ静寂が下りてくる。
 そこでセトは再び違和感に見舞われた。
 相変わらず屋敷内は静かなままだ。そろそろ朝餉の支度をしたり、カルムが出かける準備を始めても良さそうな頃合なのに。ビルマはどうしているのだろう。
 尋ねてみようと思った矢先、族長の方が口を開いた。

「なぁセト。シャルカはいい子だね」

 突然の言葉に面食らったが、それでも弟のことを褒められるのは嬉しい。

「はい。少し怖がりなところもありますが、心根の優しい子です」

 間髪入れずきっぱり断言したセトに、族長は半ば呆れ顔で肩を竦めた。

「兄馬鹿だな本当に、そこまでいくと感心するね。実の兄弟でもなかなかこうはいくまいよ」
「すみません」
「いや、褒めているつもりなんだがね?」

 赤らめた頬を隠すため再度頭を下げるセトを、族長の灰色の瞳がじっと見下ろす。
 その視線はセトが顔を上げても変わらず据えられたままで、彼の姿にシャルカを重ね見ているようだった。
 族長は立てた片膝に頬杖をつき、しみじみと言葉を紡ぐ。

「病を得てからあの子に直接会ったのは数えるほどだが、歳のわりに礼儀正しく、いつもこちらを気遣ってくれる。その外見と生まれのせいで決して生きやすいとは言えぬだろうに、卑屈さはなく、真っ直ぐに人の目を見て話す気持ちのいい子だ」

 はいと頷きそうになるのを、セトはぐっと堪える。これ以上兄馬鹿と揶揄されては堪らない。

「お前達家族が惜しみない愛情を注いできた証だろうね。良く育ててくれたものだ、アトとヴィセには本当に感謝しているよ。勿論お前にもね」
「いえ、本人の生来の気質によるものでしょう」

 言ってしまってからハッとなるももう遅い。族長が満面に浮べたしてやったりの表情。己の馬鹿さ加減にげんなりし、セトは思わず額に手を当てた。それを見た族長は声を上げて笑う。

「お前は本当にアトそっくりだねぇ、構い甲斐があって実にいい!」
「……そうですか」

 そのまま頭を抱えたい気分だったが、こうして朗らかに笑う彼は久しぶりに見た気がする。長らく変わり映えしない床にある彼の気が晴れるならいいかと、セトは精々口惜しがって見せた。
 一頻り笑ってしまうと、族長はひとつ煙を吹かしてから、熱を帯びた口ぶりで言う。

「いや、けれどわたしもそう思うよ。セト、お前の見極めは正しかった、あの子はいい子だ。化け物の子などではあるまいよ。アトにセラフナ、ヴィセ、そしてセト。わたしが心から信頼する者達の多くは、口を揃えてそう言ってくれる。
 だからわたしは胸を張って言えるのさ。一二年前の決断は間違っていなかったと」

 細い身体に気を漲らせ、力強く言い切られた言葉は、セトを透かしてここに居ぬ誰かに向けた宣言のように感じられた。その言で、彼もまた一二年間闘っていたのだと知る。
 セトは老人達が直訴した件は知らないが、それでもシャルカを取り囲む棘のある空気を思えば、彼が何と闘っていたのか想像に難くない。矢面に立ち、こちらに気取られぬようシャルカを、一家を庇い闘ってくれていたのだ。それを思うと胸が熱くなり、今日一番深く、深く、頭を垂れる。

「止しておくれ、わたしはあの子を守りきれなんだ。ルッカへの仕打ちの罪滅ぼしに、せめてあの子に普通の日々をと思っていたんだけどね。不甲斐ないばかりさ」
「いえ」

 頭を下げ続けるセトに、族長は軽く手を打った。

「ではこの話はお終いにしよう。喜ばしい話の後で何だが、悪い知らせと頼み事がある。聞いてくれるかい?」

 セトは顔を強張らせ、ようやくおもてを上げ居住まいを正した。

「何でしょう? 俺にできることなら、」

 なんなりと。請け負うセトの言葉に被せるように、族長は煙を吹かしながらさらりと告げる。

「夕べ、ビルマの寝所に賊が入った」
「……は?」

 あまりに緊張感に欠けた物言いに、一瞬彼が何を言ったか分からなかった。が、時間をかけて徐々にその意味が脳に染みてくると、セトは思わず身を乗り出す。

「賊、って……ビルマは、ビルマは無事なんですか? というか、何故そんな大事な話を後にしたんですか!」
「いや何、大事無かったからね。それにお前がそんなに嬉しそうにここへやって来るのは珍しいから、是非先に話を聞いてしまいたかったのさ」

 暢気な彼の言葉が終わるのを待たず、セトはその場を飛び出した。



 ビルマは自室の寝台で、ひとり膝を抱えていた。夕べ一睡もできなかった彼女の身体は酷い倦怠感に苛まれ、指一本動かすのも億劫に感じるほどだった。
 夕べの出来事が一晩中頭の中を巡り続け、こうしている今も記憶が鮮明な映像となって視界に重なり、彼女の心をこそぎ続ける。

「……いつまでもウジウジと、わたしらしくもない。黙ってじっとしているから思い出すんだ、早く昨日の仕事を片付けてしまわなければ」

 呟き自分を煽ってみるも、感傷に沈んだ心が奮い立つことはなく、そんな己に苛立ち唇を噛んだ。
 ところが、突然廊下の向こうから慌しい足音が聞こえてきたかと思うと、ノックもなしに部屋の戸が勢い良く開かれた。

「ビルマっ!」

 弾かれたように顔を上げたビルマは、現れた相手を見て息を飲む。今一番会いたくて、それでいて最も会いたくなかった相手だった。
 室内に飛び込んできたセトはビルマの両肩を掴んだかと思うと、忙しなく彼女の身体を見回す。まだ身支度しておらず、薄い寝間着一枚羽織ったきりなのにもかかわらずだ。ビルマは寝間着の胸許を掻き合わせ抗議する。

「セト! お前どうして、」
「大丈夫だったか、怪我はないか?」
「え?」

 ビルマに目立った外傷がないのを確認すると、強張っていたセトの形相が少しだけ緩んだ。

「良かった、なさそうだな。流石のお前でも恐かったろう。何か盗られた物はないか?」
「セト」
「何、心配するな。俺とアダンで必ず取り返して……」
「セト。セト! お前は一体何を言っている?」
「は?」

 きょとんとするセトに、ビルマは下ろしたままの長い髪を呆れ顔でかき上げる。

「父様から話を聞いていないのか? それにお前、どうも忘れているようだが、わたしは女だぞ。女の寝所に断りもなく這入りこむなど……これじゃあ誰が賊か分かったものじゃない」

 非難交じりの声音に、セトはようやくこの状況に気付いたようだ。賊の目的が金目の物ではなくビルマ自身だったことにも。
 青ざめるが早いか、彼は入り口まで駆け戻り大急ぎで戸を閉める。

「すまない! 悪気はなかった、本当だ!」
「悪気がないで済むかっ。その前に、ちゃんと父様の話を聞いてから来い!」

 女としての自尊心を少なからず傷つけられたビルマは、脱いだ寝間着を戸に投げつけ、小声で吐き捨てる。

「赤くなるどころか青ざめるとは何て奴。相変わらず朴念仁だなっ」

 怒りに転換しなければ、場違いに落ち込んでしまいそうな自分を鼓舞するために。
 そうとは知らぬセトの声が、扉越しに響いてくる。

「本当にすまない。賊に押し入られたと聞いて、心配で……つい我を忘れてしまったんだ。族長様の話も最後まで聞かず飛び出してきてしまって……悪かった。族長様にもとんだ無礼を……」

 平謝りする朴念仁は、その言葉が彼女の頬を紅潮させたこともまた知らない。
 ビルマは大急ぎで着替えると、髪を結うのは後回しに、そうっと戸を開けた。
 朴念仁は気付かず、まだつむじを見せ腰を折り続けている。ビルマの腹をくすぐるように揺れるこわい赤髪。彼女は戯れにその一筋を指で摘むと、ツンと引っ張った。

「そんなに心配したのか、わたしを」
「した」
「へぇ、そんなに」
「当たり前だろう」

 間を開けず答え、セトは決まりが悪そうに上目遣いで彼女を窺う。
 セトがビルマを下から見上げるなど何年ぶりだろう。その眺めはビルマの心を甘くくすぐった。胸の前で腕を組み、わざと驕傲な口調で言い放つ。

「なら、その気持ちに免じて許してやろう。が、次やったら賊として討ち取ってやるから覚悟しろ」
「あぁ、肝に銘じる」

 ホッと息をつき顔を上げたセトは、まるで何事もなかったかのように正面からビルマを見据えた。
 あんな姿を見たあとなんだ、もう少し照れがあってもいいんじゃないのかとビルマはやや不満だったが、傍らから響いたわざとらしい咳払いによって掻き消された。
 振り向けば、カルムに付き添われ、父である族長が立っていた。

「……だから言ったろう、無事だと。怪我するような大事なら、流石のわたしでも真っ先に言うさ」

 苦笑いを浮かべてはいるが、セトに向けられる目は「父親の前で娘の寝所に入るとはいい度胸だ」と雄弁に物語っている。再び青ざめるセト。すかさずフォローするように、傍らのカルムが顔を輝かす。

「ビルマ姉さん凄かったんですよ! 僕が物音に気付いて駆けつけた時には、枕元に忍ばせていた短剣で、もう賊を追っ払ってしまっていたんですから! ねぇ、姉さん」
「……あぁ」

 けれどビルマは歯切れ悪く答え視線を落とした。居心地の悪さを覚え、自らの肩を抱き身を縮めると、力なく戸にもたれる。
 族長ははしゃぐ甥っ子を窘めるようその肩に手を置き、改めてセトに向き直った。

「で、頼み事と言うのはね。これからしばらく、夜間の警護を頼みたいのさ」
「俺がですか?」

 セトの声が揺れた。
 夜の間中警護に就くとなれば、必然日中に身体を休めなければならなくなる。少年達の指導は他の者に任せるにしても、獲れ高が足りない際、セトが狩りに出られなくなるのはうまくない。セトの隊があげる収穫の内、三割強が彼の手によるものなのだ。彼を欠くことで生ずる損失は決して軽いものではない。セト自身もそれを重々承知しているが故に、快諾することができないのだ。
 それは自惚れではなく力ある者がすべき自負。この逼迫した状況下では、過度な謙遜は見通しを誤らせる素だ。

(こんな時でも『隊長』なんだな、お前は)

 ビルマがぼんやりとそんなことを思っていると、族長はセトの胸中を見透かしたように言う。

「そう案ずることはないさ、隊はアダンに任せればいい。幸い、ここ数日の各隊からの報告に寄れば、少しずつだが獲物の姿は増えてきているという。セラフナの見立てでは、しばらくは天候にも恵まれるようだしね」
「しかし……」

 難色を示すセトに、族長は父親の顔を覗かせた。

「頼まれておくれ、セト。何せ大事な一人娘の寝所の警護だ、生半なまなかな者には任せられない。お前を見込んで頼んでいるんだよ」

 セトの目が控えめにビルマに向けられる。気遣わしげな視線から逃れるように、ビルマは顔を伏せ、肩を抱く腕に力を込めた。
 その様子を気落ちしているものととってか、セトはややあって頷いた。

「……分かりました。俺でよければ」

 すると真っ先にカルムが歓声をあげる。

「でしたら、僕も及ばずながらお手伝いします!」
「いや、気持ちは嬉しいが、夜はきちんと休んで訓練に備えるべきだ」
「なら一刻だけでも一緒に見回らせてください! 少しでも姉さんとセト隊長のお役に立ちたいんです!」

 仔犬のような無邪気さでセトに纏わりつくカルムと、困り顔でそれをいなすセト。さながら兄弟といった風情のふたりを、族長は頬に安堵を滲ませ眺める。
 けれどビルマは一見微笑ましく映るその光景に背を向けると、苦く長い息を吐いた。



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