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序章 色付きの赤子

蒼穹神の乙女

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 翌朝は未明から雨が降っていた。
 糸のように細い雫が、葦の島へ優しく降り注ぐ。その密やかな水音でセトは目を覚ました。
 普段は雨が嫌いな彼も、今日ばかりはありがたく思いながら寝床深くに潜り込む。夕べは仲間達と賑やかに過ごし、少々はしゃぎ疲れていたのだ。
 一方、原野の女達は雨の朝が好きだった。
 普段は早朝から狩りに出る夫や息子のため、まだ薄暗い内から朝餉を拵え送り出さなければいけないが、雨の日は違う。
 水気を含み緩んだ泥は、時に原を往くことに特化した馬達でさえも呑みこんでしまうため、原に出ることができないのだ。誰も彼も狩り好きな男達は不満気な顔をするが、雨の原野に赴くことは自殺行為に等しい。それ故雨の日は朝寝坊も天下御免。たっぷりと二度寝を愉しむことができる。
 セトは隣の寝床から聞こえる母の寝息を聞きながら、夢の続きを見ようと瞼を閉じた。
 ところが、子供ながらも狩人として鍛えてきた鋭敏な聴覚が、表を行くかすかな足音を捉えた。家の方へ小走りに近付いてくる。

(誰だろう、こんな雨の朝早くに珍しい……)

 そう思っていると、控えめに戸が叩かれた。
 いち早く反応したのは父アトだった。今の今まで大いびきで寝ていたとは思えぬほど素早く身を起こし、対応に出る。セトはなんとなく寝たフリでその背を見送った。母は気付かず眠り続けている。

「……何だと?」

 横たわったまま耳をそばだてていると、緊迫した父の声が聞こえてきた。セトはぎくりと身を強張らせる。こんな時間から雨降りなのだから、狩りの中止の相談でもないだろう。

(また戦が始まるのかな)

 彼は固く目を瞑った。
 この平原を彷徨する島はここだけではない。大小七つの島があり、どこも彼らと同じ暗紅色の髪に灰色の目の『原野の民』が住んでいるが、島同士が接近すると狩場を巡り衝突することがままあった。人種は同じでも、互いの島の利害を賭け戦となるのだ。
 原野の民が主神と仰ぐ父なる蒼穹神カーヴィルは、戦の神である。そのため原野の男達は総じて血の気が多い。戦の勝敗は神の采配、より神に愛された島の民が、よりよく生きることを許されるのだ。
 その教義の許で生きるセトも、いずれは戦場に立つことになる。そのことに恐れはないし憂いもないが、島一番の剛の者、男衆を束ねる軍団長の父ですら、次の戦から無事戻る保証はないのだ。
 ただ無事を祈り待つのは辛い。早く一人前の男になり共に戦場へ出ることを、セトは心から切望していた。男の身であればこそそれが叶うのだから。
 じっと息を潜めていると、やがて話を終え父が戻ってきた。身支度を済ませ、雨除けの外套マントを手に外へ出て行こうとする。

「父さん」

 セトは堪らず寝床を飛び出した。見上げるような体躯に立派な口髭を生やしたアトは、目を丸くして振り返る。

「何だお前、起きてたのか」
「戦?」

 神妙な顔で尋ねたセトの肩を、アトは力強く叩いた。

「案ずるな、そうじゃない。これから急ぎ三島長で話し合いを持つことになってな。神殿へ行ってくるから、母さんが起きたらそう伝えてくれ」
「神殿? 族長様の家じゃなく?」

 セトの指摘に、アトの頬が引きつる。

「お、おぉそうだ、族長殿のところだ、言い間違えたわ。それじゃあ行ってくる」

(嘘だな)

 セトはきな臭さを感じ眉を寄せる。実直さは父の美徳だが、その分実に嘘が下手だ。残念ながら彼もその癖を忠実に受け継いでいるのだが、あんまりな父の嘘に閉口した。

「あぁ、それから」

 戸口に立ったアトが振り返る。

「今日は家から出るんじゃないぞ。族長殿からのお達しだ」
「どうして?」
「どうしてもだ。うちだけじゃない、島全体にそうお達しを出されるそうだ」
「何で、」
「何ででもだ。いいな」

 そう言い切るとアトは外套のフードを被り、雨の中に出ていった。
 取り残されたセトは寝床に戻る気にならず、柄杓でかめの水を掬い口に含んだ。水分を得て回り始めた頭を捻る。
 島の代表である三人の長達の話し合いは、通常族長宅で行われる。神殿で行うのは時季の祭祀の打ち合わせくらいだ。
 やはり開戦が近いのだろうか。否、それならば各家で待機させるのではなく避難所に皆を集めるはずで、どこかの島から宣戦布告を受けたという話も聞いていない。

(なら一体何が――)

 そこまで考えると、セトは保存食の入った籠を漁り、大き目の干し肉の欠片を口に押し込んだ。それから母を揺り起こし、嘯く。

「母さん、母さん。まだ眠ってていいよ。だけど父さんと俺は少し出かけてくるから」

 母は開ききらぬ目を瞬きあくびを漏らした。

「こんなに早くから……? ふたりでどこへ?」
「えっと、そう、族長様に呼ばれたんだ。族長様が父さんに、『たまにはゆっくり話でもしないか』ってさ、俺も一緒に。朝飯は要らない、ゆっくりしてて」

 セトとビルマが同い歳の幼馴染であるように、父同士もまた同歳の親友同士。雨の休日、たまには子供らを交えて語らいたくなったとしても何ら不思議はない。
 なので、母は息子のたどたどしい嘘に不審がる様子もなく、寝床の中から手を振った。
 セトも外套を羽織り外へ飛び出す。
 向かう先は当然、父が向かっただろう神殿だ。


 濡れて柔らかな葦の上を駆け、まだ寝静まっている通りを抜けると、島の中心部にやってきた。そこにはこの島にただ二つきりの、煉瓦作りの建物がある。
 なにぶん足元が葦のため、そう重量のある建物は作れない。並び建つこの二棟は、戦の際に避難所となるため、あえて煉瓦を用いてあった。
 煉瓦そのままの、素朴な赤褐色の建物は族長家族の住居。煉瓦の壁を漆喰で塗りこめた白亜の建物は、蒼穹神カーヴィルとその妻・大地神カーヴィラの二柱を祀る神殿だ。
 セトは気配を殺しそうっと神殿の裏に回りこむと、先客を見つけぎくりと足を止めた。すっぽりとフードを被ったその人物は、振り向くや小さな悲鳴をあげる。

「ひっ! ……何だ、セトか」
「っ……! 何だ、ビルマか」

 互いに言い合い胸を撫で下ろすと、

「何でここにいる?」

異口同音に疑問を投げ合う。先に答えたのはビルマだった。

「目が覚めたら父様の姿がなくってさ。『神殿へ行くから留守を頼む』と走り書きが残されていたんだけど、こんな早朝に妙だと思ってね」
「俺の方は、父さんがこんな時間から『三島長で話し合いをするから神殿に行く』って言うからさ。おかしいだろ? それに族長様が皆に外出禁止のお達しを出したそうじゃないか」
「外出禁止? 何で……というかお前、そうと知りながら家を抜け出してきたのか。悪い奴だ」

 猫の仔のような目を細め、からかうように笑うビルマは、小悪魔めいてなかなかに魅力的だ。けれどセトは顔を背け、

「ビルマこそ、留守を預かったんじゃなかったのか」

素気なく返すと、壁を四角くくり貫いた窓に手をかけた。しかし頭より高い位置にあり、爪先立ちになっても中を覗くことはできない。セトでさえそうなのだからビルマは尚更だ。

「何か見えるか?」
「いや、何も」
「聞こえるか?」
「いや、」

 言いかけて、セトは漏れ聞こえるかすかな声に気付く。

「……赤ん坊の泣く声がする」
「泣き声? 赤子の? ここは神殿だぞ」

 ビルマは精一杯背伸びして窓に顔を寄せるも、雨音に阻まれ聞き取れないようだった。すると彼女は焦れったそうにセトの肩を掴んだ。

「セト、肩車しろ。ちょっと覗いてみる」
「嫌だ」
「後で交代するから」
「できるわけないだろ、お前が俺を肩車なんて」

 言い合っている内に、潜めていた声が段々大きくなっていく。
 すると窓にかけられた簾が上がり、強面の髭面がぬっと突き出された。思わず絶叫する子供達。見下ろしていたのはアトだった。

「セト! この悪餓鬼め、つけてきたのかっ。それにビルマちゃんまで」
「あ……」

 ふたりは気まずさに顔を見合わせる。

「家にいるよう言っておいたろう。風邪をひくぞ、ふたりとも早く家に戻るんだ」
「ごめんなさい」

 素直にこうべを垂れたセトの横で、ビルマは上目遣いにアトを見上げる。

「ごめんなさい、軍団長様。でも起きたら父様が……父がいなくて驚いてしまって。外出禁止令も出されたと言うし、何かあったのかと怖くなって、つい……」

 息子の幼馴染、それも美少女であるビルマにしおらしく見つめられ、さしものアトもたじたじになる。
 それを横目で見、

(女って怖いな)

セトは密かに竦みあがった。
 アトは思案気に口髭をさする。

「なぁに、そう怖がることはない。今すぐお父上を帰宅させるわけにはいかんが……」
「一体何があったのです、何故神殿でお話し合いを? 戦が始まるのですか? であれば少し変じゃありませんか、家に篭らせるよりもこちらへ避難させた方が安全ですのに」
「いや、」
「戦でなければ何ですか? 理由が分からないままでは、島の皆も不安になりましょう」
「いや、その……ふむ」

 言葉少なな息子と違い次々と疑問をぶつけてくるビルマに、男達を束ねる軍団長もお手上げといった風だ。
 そこへ中から声がかかる。

「アト、そこにいるのはビルマとセトかい?」

 声の主はビルマの父である族長だった。
 島民達の前では互いに慇懃に接するが、親しい者しかいないためか、その口調はくだけていた。

「あぁ。お前さん自慢のご息女、到底俺ではあしらいきれん」
「だろうね。近頃はわたしでも言い負かされる。口下手なアトが敵う相手じゃあない」
「ぬ」
「ちょうど今、セラフナと子らを呼ぼうかと言い合っていたところさ。二人なら丁度良いだろう。通しておくれ」
「ぬ」

 強面に拗ねた表情を浮かべたまま、アトは神殿の表を目で示す。

「だそうだ」

 ふたりは再び顔を見合わせると、促された通りに正面に回り、きちんと入り口から中へ入った。
 祭壇の間の前室に入ると、香炉からくゆる芳しい煙が身体を包む。ふたりにとっては嗅ぎ慣れた、神聖な場を象徴する香り。香を焚き染め身を清めてから、迎えに来たアトと共に祭壇の間に進んだ。
 間の中央に敷かれた絨毯の上では、族長と神官長が静かに座していた。
 けれどふたりの目を引いたのは長達ではなく、祭壇前に置かれた一艘の小舟だった。

「……葦の小舟?」
「誰か亡くなったのですか?」

 葦の小舟は原野の民の棺だ。
 原野の教義では、死者の魂は蒼穹神のおわす天へ昇り、身体は大地神の懐に還るものとされている。そのため、死者の身体を重石を括った葦の小舟に横たえ、泥の原に流すのだ。舟は半日ほどかけてゆっくりと泥に沈み込む。そうすることで、家族を、友を、島の仲間を、大地神の御許へ送り出すのだ。
 つまり目の前の小舟には、誰かの亡骸が納まっている。
 セトはビルマの指先が震えていることに気付き、そっとその背に手を添えた。そんなふたりを柔和な笑みで見守っていた族長は、一呼吸置いてから手招く。

「こちらへおいで。わたしのそばに」

 言われるまま、族長の横にビルマ、セト、そして最後にアトが並んで座ると、四人と神官長が間をあけて向き合う形になった。
 改めて見れば、三人の長の中で一番若い神官長は、ゆったりした袂にくるむようにして何かを抱えている。随分静かだが、おそらく先程泣いていた赤子だろうとセトは思った。

「さて、困ったことになった」

 口火を切ったのは族長だ。長めの前髪を指で払い、そう困ってもいなさそうな顔で腕を組む。ビルマはちらりと小舟を振り返った。

「あの小舟は誰のためのものですか?」
「『蒼穹神カーヴィルの乙女』ルッカだよ。まずは祈っておやり、彼女の魂が迷わず天へ昇れるように」

 族長が促すと、神官長が胸の前で蒼穹神の印をきる。ふたりは告げられた名に息を飲みながらも、彼に倣い熱心に祈った。
 神官長のもと蒼穹神に仕える巫女、それが『蒼穹神の乙女』だ。
 父なる蒼穹神と言うくらいだから、無論男神である。そのため巫女になることができるのは汚れを知らぬ乙女のみで、在任中も操を守り続けることが定められている。
 棺の中のルッカも、まだ二十に満たぬうら若き少女だった。彼女が一四で神殿に上がるまでは、ふたりもよく遊んでもらったものだ。ふたりにとって彼女は近所の優しいお姉さんだった。
 祈り終えると、子供達はゆっくりと目を開ける。

「一体何故ルッカが……病ですか? それとも事故……」

 そこまで言うとビルマはハッとなり青ざめた。

「まさか……そこにいる赤子の母親は、ルッカなのですか?」

 察しのいい娘に、族長は小さく頷く。それを見たセトも息を詰めた。
 前述の通り、『蒼穹神の乙女』には身も心も清らであることが義務付けられているため、彼女達は神殿に併設された宿舎で寝食を共にしており、男がつけ入る隙などないに等しい。
 そうでなくとも、彼女達が仕える蒼穹神は非常に嫉妬深い神だとされていて、信仰心厚いこの島の男であえてその不興を買おうという者はいない。故にこの掟は島の有史以来一度も破られたことがなかった。
 ビルマは耳まで赤く染め、父である族長を厳しく睨みつける。

「まさか、掟を破ったルッカを刑に処したと言うのですか? 前例のないこととは言えあんまりです! あのルッカが自ら掟を破るなんてありえません、きっと何か間違いが……!」
「落ち着くんだビルマ。確かに赤子の母はルッカだが、我々が彼女を手にかけたわけではないよ」
「では何故です! 何故ルッカは……!」

 込み上げる涙で声を詰まらせた娘を、族長は優しく抱き寄せた。
 沈黙が落ちると、それまで黙っていたセトが口を開く。

「俺もルッカが自分から決まりを破るなんて思えません。父親は一体誰なんですか」

 亡きルッカの名誉のため、彼女に無体な真似をしたであろう輩への怒りを滾らせるセトに、

「気持ちはよく分かりますよセト。けれど今は冷静に。赤子が起きてしまいます」

穏やかな声で応じたのは神官長だった。まだ三十手前で三島長としては歳若だが、博識で物腰柔らか、血気盛んな原野の男には珍しい気質の人物である。
 優秀な狩人である父や族長に対するものと形は違えど、敬慕する彼に諭され、セトは肩の力を緩めた。彼の口ぶりから、長達が本当にルッカを処罰したわけでも、彼女の罪を詮議していたわけでもないのだと窺えホッと息をつく。

「ならどうしてルッカは亡くなったんです、それほど難産だったんですか?」

 いくらか平静を取り戻したセトの疑問に、今度は三島長の顔が強張る。けれど族長はすぐそれを解き、

「順を追って説明した方がいいだろうね。セラフナ」

神官長を促した。名で呼ばれた神官長は、腕の中の赤子を揺らしながら、どこか遠い目をして語り始めた。

「……春の終わりのことでした。
『蒼穹神の乙女』達の中でもとても熱心に仕えていたルッカは、ある日の終わり、真っ青な顔でわたくしを呼び止めました。声は震え、瞳にはいっぱいの涙を溜め、酷く思いつめた様子でありました――」


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