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第1章 ディキャピテーション
1-7 ストーカー
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クアルトでのトレーニングを終えて、姉と少し雑談をしながら休み、そしてまた現実世界へと戻ってきた。
トイレの鏡の前だ。時計を確認したが、確かに時間は先ほどとほとんど変わらない。そう言えば、この腕時計はずっと前に姉からプレゼントとしてもらった物だ。随分長いこと使っているが、気に入っているし、頑丈で壊れることもないので使い続けている。
カフェの席に戻ると、一颯さんは先ほどと変わらずそこにいて、飲み干したアイスコーヒーのグラスに残った氷をストローで突いていた。こうして遠くから見ても他の人達とは違うオーラみたいなものがあるな。
「すみません、お待たせしました」
そう言って席に着いてからハッとする。あの部屋で過ごしてたから、つい時間が経過してる気でいたが、こっちではほとんど経っていないのだった。そんな僕の心配を気に留めることもなく、一颯さんは、いいえ全然と微笑んでくれた。
「これからどうします? そろそろ出た方がいいですよね?」
一颯さんは僕を心配してるような、少しだけ寂しいような表情をしながらこちらを窺った。
「せっかくですから、ちょっと街中ぶらぶらしますか?」
僕もちょっと名残惜しかったのかそんな言葉を口にする。
「ぜひぜひ!」
そう言いながら彼女は首を縦に2度振った。
お会計はもちろん僕が彼女のぶんも済ませた。それが男性の役割なのだから当然だ。いや、実の所、クアルトから出る時に姉から「絶対に奢ってやれよ絶対だからな」と釘を刺されたからだ。
もう9月の19時過ぎだというのに外はさほど暗くなく、まだ暑さも残っていた。僕らは人の流れに導かれるように、時には外れていくように、気になった道を進み、気になったお店を眺めていた。
彼女は時折、変わったお店を見ては口を開けて驚いていたり、アパレルショップを見ては目を輝かせていた。仕事終わりだというのに全く疲れている素振りは見せない。僕ももちろん疲れてはいない。
「こうして2人で歩くの、とても楽しいです! また来ましょうね!」
彼女はステップを踏むようにこちらを向いて微笑んだ。
「会社の人たちに見られるのは嫌なので、たまにでよければ」
僕の回答は自分でも素っ気ないなと思っていたが、彼女はそんなことは全く気にせず、溌剌と、はい! と返事をしてくれた。
そして、あぁ、僕は今の今まですっかり忘れていた。楽しい時間が続いていたせいなのか、自分が抱えていた問題を頭のどこかに置き忘れていた。
数週間くらい前からだろうか、誰かに尾けられていることが多々あった。初めは気のせいだと思っていたのだが、やはり頻度が多かったためそうではないと確信した。意を決して振り向いた時は誰もいなかったのだが、それでもその後も尾行されている感覚は消えなかった。
そして、今。今こうして一颯さんと2人並んで歩いている今も、誰かに尾けられている。間違いない。時間帯もあってか道を行き交う人々は多く、本来なら尾けられていることなんてわかるはずがないんだ。でも、今は僕の感覚が訴えかけてる。歩調を合わせてる人間の気配がする。そいつからの視線を感じてしまう。
一颯さんを巻き込むわけにはいかない。どうする? 今は奴を撒くしかない。
「一颯さん、ちょっと急ぎましょう」
やむを得ず、こうするしか手段はなかった。彼女は戸惑いながらも僕のペースに合わせてくれた。歩道の人口密度は高く、なかなか思うように進めないが、多少強引にでも行くしかない。この先には確かカラオケ店があったはず。そこまで逃げ込めば安心だろう。
「弖寅衣くん、何か用事でもあったのですか? ごめんなさい」
一颯さんは足速になりながらも、気を遣ったのかそう言ってくれた。
「いや、そうじゃないんです。とりあえずこの先のカラオケにでも……」
言いかけた途端、目の前のスクランブル交差点で信号が赤になったところだった。まずい、追いつかれるか。
「カ、カラオケですか!? 私、そういう所行ったことなくて、歌も自信がないのですが……でも、弖寅衣くんとなら行きます」
うん、そう言ってくれるのは嬉しいのだが、避難するために行くんだ。歌うことなどこれっぽっちも考えていなかった。頼む、信号よ早く青になってくれ。
「あ、いやちょっと休むためでもあるので、無理して歌うことはないですよ」
言い訳をしてみたが、なんだか下心があるような言い方になってしまった。最悪だ。変な印象を与えてぎくしゃくした空気になるなんて僕には耐えられない。
「おい」
背後から太い声がすると共に、僕の右肩をポンと叩かれた。びくっと身体が震える。追いつかれていた。そして、ついにストーカーは接触してきた。
背後を振り返ると、そこに大男がいた。身長は190cmを優に超えているが、前髪さんほど高くはない。
長い黒髪は少しウェーブがかって艶があり、肩の位置よりも少し下まで伸びている。浅黒い肌、顎に髭を生やし、そして吊りあがった三白眼でこちらを睨んでいる。
黒いTシャツの上からは胸筋が膨れ上がっており、太い腕が半袖から伸びている。下も黒いパンツを履いており全身黒だ。
間違いない。こいつが、日常に潜む世界を脅かす敵だ。
「お前、弖寅衣 想だな?」
男が僕の名前を口にした瞬間に信号は青になった。僕は一颯さんの手を強引に引っ張り、走った。奴のターゲットは僕だから一颯さんを置いていく選択肢もあったかもしれない。しかし、彼女を置き去りにしたら奴が彼女に何をするかわからない。
僕の名前を知っていた。フルネームで。トレーニングしてもあんな大男に敵うはずがない。無理だ。とても危険だ。何より、僕は怖いんだ。
思わず一颯さんを引っ張るような形で走ってしまったが、彼女は息を切らしながらも付いて来てくれている。スクランブル交差点も渡り切り、目的のカラオケ店は目の前だ。
だが、次の瞬間、ちょうどカラオケ店内から出てきた人影に僕はぶつかってしまった。反動と疲れでよろめいてしまう。
「ってぇなぁクソがぁ! あぁ? 弖寅衣じゃねぇか? それに一颯さんも? なんで2人で? まさかデートってわけじゃねぇだろなぁ?」
最悪の状況でさらに最悪の事態だ。たまたまぶつかった相手が、会社の先輩、横沢さんだった。横沢さんの背後には仲間と思しき男が4人ほどいてこちらを覗き込んでいる。一颯さんもこの状況には流石に混乱を隠せない。
「お、なんだこの女の子? めちゃくちゃ可愛いじゃん。連れてこうぜ」
背後にいた男のうちの1人が言う。どいつもガラが悪く、茶髪や金髪で、まるで不良じゃないか。
「そうだそりゃいい。一颯さん、こんなしょうもない男といるより俺たちといた方がぜってぇ楽しいって」
そう言いながら横沢さんは一颯さんの腕を掴んだ。
「横沢さん、やめてください! 離してください!」
一颯さんも嫌がり、抵抗の意思を示したのだが、横沢さんは全く気にも留めず、彼女を連れて行こうとしていた。
僕の存在はもうなかったことにしている。道を行き交う人々は我関せずといった感じで、こちらを見ないようにしているようだ。
どうしてこんなことになってしまった。後ろには大男が迫ってきていて、前にいる横沢さんたちが嫌がる一颯さんを連れ去ろうとしている。なんだこの挟み撃ちは。
でも、彼女を悲しませていいのか? なら、やるしかない。覚悟を決めろ。今自分がやるべき事をやるんだ。
「横沢さん、その手を離してください」
至って冷静にそう言って、僕は横沢さんの腕を掴んだ。そして一颯さんの腕から振りほどこうとする。
「はぁ? ボンクラのくせにしゃしゃり出てきてんじゃねぇよ!」
横沢さんの罵声が飛び、それと同時に彼の拳が飛んできた。殴られる。
いや、遅い。見える。前髪さんのパンチと比較したら、蚊が止まっているかのようなスピード。躱せる。そう思ったら、少し重心を半歩下げた程で難なく回避できた。
いける。そう思った瞬間、僕は一歩前に踏み出し、横沢さんの横顔に目がけて拳を打ち込んだ。
打ち込んだはずなのだが……それは、ペチンと弱い音を立てた程度だった。そんな。まずい。
「なに調子こいてんだてめぇ? ぶっ殺す!」
そう言って、横沢さんから第二の拳が放たれてきた。回避することは容易い。
が、それは回避するまでもなかった。何が起きたのかわからなかった。僕の目の前に大きな手が現れ、横沢さんの拳を受け止めていたのだ。
「てめぇら、こんなとこで何やってんだ」
低く、太い声が頭上から聞こえてきた。見上げるとあの大男がいた。横沢さんもあっけに取られていたが、
「なんだぁこのデカブツ? 部外者はすっこんでろよ」
と体勢を立て直し、大男に対し敵意を向ける。大男は鋭く睨み返している。
「部外者じゃねぇよ。俺ァ、こいつのダチだ」
と大男は隣で固まる僕を親指で指した。全く身に覚えがない。つい先ほど会ったばかりなのだが、今はこの大男に任せるしかない。
「ほざきやがって。こっちはこれでもボクシングやってんだ。割り込んできたこと後悔させてやらぁ!」
横沢さんはそう言うと大男に向かって勢いをつけて拳を放った。
そして、次の瞬間、また何が起きたのかわからなかった。いや、しっかり視界は大男に釘付けだったのだが、全く動きが見えなかった。気付いた時には横沢さんの身体は地面から2mほど宙に浮いていた。そして背中から思い切り地面に叩きつけられた。
「なんだ今のストレートは? 話にならねぇ。ちょっとボクシング齧った程度でいきがんな。お前らもやるか? かかってこいよ。全員まとめて相手してやる」
そう言われて、横沢さんとそのツレ計5人が殴りかかってきた。
大男は一番近くにいた男の拳を片手で掴むと、その腕をもう片方の腕で掴み背負い投げした。
続けて同時に突撃してきた2人に対して、左の方の男に回し蹴りを横顔にあて、すぐさま右の男の腹に正拳を当てて蹲らせる。
次の男はカラオケ店の前にあった看板で大男を横から攻撃しかけてきた。しかし、大男はそれを片腕で受止め、足を踏み出すと同時に肘打ちを相手の顔面に食らわした。
最後に残った横沢さんはまだ懲りてないのか、また同じような右ストレートを放ってきた。僕でもわかるが、さっきよりスピードが落ちてる。
しかし大男はそこで避けず、横沢さんのパンチは顔面を捉えた。思わず横沢さんもへへっと笑ったが、大男はあえてその拳を顔面で受け止めたように見えた。
「いいか、仕掛けてきたのはそっちだ。これは正当防衛だ」
大男はそう言うと、横沢さんのみぞおちに正拳突きをし、そして顔面に左フック、最後に右ストレートを顔面に当て、計3発の連撃を放った。
強い。1分も経ってないだろうか、物の見事に5人の男達が路上に蹲っている。
そして、大男は険しい顔をしながらこちらを振り向く。僕と一颯さんはただ呆然と突っ立っていた。次は僕の番なのだろうか。思わず固唾を飲んだ。
「いやぁー、わりぃわりぃ! さっきは驚かせちまったな! すまん! 怪我はないか?」
さっきまであんなに怖い顔をしていた大男は、照れ臭そうに顔面の筋肉をフルに使って照れ笑いをし、頭を下げた。僕らは2人ともさらに呆気に取られていた。
「弖寅衣 煉美さんの弟、想だよな? 自己紹介が遅れたが、俺ァ、堂島 百々丸! 煉美さんに昔世話になったモンだ」
恐ろしく声がでかい。え? まさか姉さんの知り合い?
そして僕は、彼を自分が倒すべき敵だと勘違いしてたことを申し訳なく思う。ストーカーはまさかの味方だったのか?
トイレの鏡の前だ。時計を確認したが、確かに時間は先ほどとほとんど変わらない。そう言えば、この腕時計はずっと前に姉からプレゼントとしてもらった物だ。随分長いこと使っているが、気に入っているし、頑丈で壊れることもないので使い続けている。
カフェの席に戻ると、一颯さんは先ほどと変わらずそこにいて、飲み干したアイスコーヒーのグラスに残った氷をストローで突いていた。こうして遠くから見ても他の人達とは違うオーラみたいなものがあるな。
「すみません、お待たせしました」
そう言って席に着いてからハッとする。あの部屋で過ごしてたから、つい時間が経過してる気でいたが、こっちではほとんど経っていないのだった。そんな僕の心配を気に留めることもなく、一颯さんは、いいえ全然と微笑んでくれた。
「これからどうします? そろそろ出た方がいいですよね?」
一颯さんは僕を心配してるような、少しだけ寂しいような表情をしながらこちらを窺った。
「せっかくですから、ちょっと街中ぶらぶらしますか?」
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もう9月の19時過ぎだというのに外はさほど暗くなく、まだ暑さも残っていた。僕らは人の流れに導かれるように、時には外れていくように、気になった道を進み、気になったお店を眺めていた。
彼女は時折、変わったお店を見ては口を開けて驚いていたり、アパレルショップを見ては目を輝かせていた。仕事終わりだというのに全く疲れている素振りは見せない。僕ももちろん疲れてはいない。
「こうして2人で歩くの、とても楽しいです! また来ましょうね!」
彼女はステップを踏むようにこちらを向いて微笑んだ。
「会社の人たちに見られるのは嫌なので、たまにでよければ」
僕の回答は自分でも素っ気ないなと思っていたが、彼女はそんなことは全く気にせず、溌剌と、はい! と返事をしてくれた。
そして、あぁ、僕は今の今まですっかり忘れていた。楽しい時間が続いていたせいなのか、自分が抱えていた問題を頭のどこかに置き忘れていた。
数週間くらい前からだろうか、誰かに尾けられていることが多々あった。初めは気のせいだと思っていたのだが、やはり頻度が多かったためそうではないと確信した。意を決して振り向いた時は誰もいなかったのだが、それでもその後も尾行されている感覚は消えなかった。
そして、今。今こうして一颯さんと2人並んで歩いている今も、誰かに尾けられている。間違いない。時間帯もあってか道を行き交う人々は多く、本来なら尾けられていることなんてわかるはずがないんだ。でも、今は僕の感覚が訴えかけてる。歩調を合わせてる人間の気配がする。そいつからの視線を感じてしまう。
一颯さんを巻き込むわけにはいかない。どうする? 今は奴を撒くしかない。
「一颯さん、ちょっと急ぎましょう」
やむを得ず、こうするしか手段はなかった。彼女は戸惑いながらも僕のペースに合わせてくれた。歩道の人口密度は高く、なかなか思うように進めないが、多少強引にでも行くしかない。この先には確かカラオケ店があったはず。そこまで逃げ込めば安心だろう。
「弖寅衣くん、何か用事でもあったのですか? ごめんなさい」
一颯さんは足速になりながらも、気を遣ったのかそう言ってくれた。
「いや、そうじゃないんです。とりあえずこの先のカラオケにでも……」
言いかけた途端、目の前のスクランブル交差点で信号が赤になったところだった。まずい、追いつかれるか。
「カ、カラオケですか!? 私、そういう所行ったことなくて、歌も自信がないのですが……でも、弖寅衣くんとなら行きます」
うん、そう言ってくれるのは嬉しいのだが、避難するために行くんだ。歌うことなどこれっぽっちも考えていなかった。頼む、信号よ早く青になってくれ。
「あ、いやちょっと休むためでもあるので、無理して歌うことはないですよ」
言い訳をしてみたが、なんだか下心があるような言い方になってしまった。最悪だ。変な印象を与えてぎくしゃくした空気になるなんて僕には耐えられない。
「おい」
背後から太い声がすると共に、僕の右肩をポンと叩かれた。びくっと身体が震える。追いつかれていた。そして、ついにストーカーは接触してきた。
背後を振り返ると、そこに大男がいた。身長は190cmを優に超えているが、前髪さんほど高くはない。
長い黒髪は少しウェーブがかって艶があり、肩の位置よりも少し下まで伸びている。浅黒い肌、顎に髭を生やし、そして吊りあがった三白眼でこちらを睨んでいる。
黒いTシャツの上からは胸筋が膨れ上がっており、太い腕が半袖から伸びている。下も黒いパンツを履いており全身黒だ。
間違いない。こいつが、日常に潜む世界を脅かす敵だ。
「お前、弖寅衣 想だな?」
男が僕の名前を口にした瞬間に信号は青になった。僕は一颯さんの手を強引に引っ張り、走った。奴のターゲットは僕だから一颯さんを置いていく選択肢もあったかもしれない。しかし、彼女を置き去りにしたら奴が彼女に何をするかわからない。
僕の名前を知っていた。フルネームで。トレーニングしてもあんな大男に敵うはずがない。無理だ。とても危険だ。何より、僕は怖いんだ。
思わず一颯さんを引っ張るような形で走ってしまったが、彼女は息を切らしながらも付いて来てくれている。スクランブル交差点も渡り切り、目的のカラオケ店は目の前だ。
だが、次の瞬間、ちょうどカラオケ店内から出てきた人影に僕はぶつかってしまった。反動と疲れでよろめいてしまう。
「ってぇなぁクソがぁ! あぁ? 弖寅衣じゃねぇか? それに一颯さんも? なんで2人で? まさかデートってわけじゃねぇだろなぁ?」
最悪の状況でさらに最悪の事態だ。たまたまぶつかった相手が、会社の先輩、横沢さんだった。横沢さんの背後には仲間と思しき男が4人ほどいてこちらを覗き込んでいる。一颯さんもこの状況には流石に混乱を隠せない。
「お、なんだこの女の子? めちゃくちゃ可愛いじゃん。連れてこうぜ」
背後にいた男のうちの1人が言う。どいつもガラが悪く、茶髪や金髪で、まるで不良じゃないか。
「そうだそりゃいい。一颯さん、こんなしょうもない男といるより俺たちといた方がぜってぇ楽しいって」
そう言いながら横沢さんは一颯さんの腕を掴んだ。
「横沢さん、やめてください! 離してください!」
一颯さんも嫌がり、抵抗の意思を示したのだが、横沢さんは全く気にも留めず、彼女を連れて行こうとしていた。
僕の存在はもうなかったことにしている。道を行き交う人々は我関せずといった感じで、こちらを見ないようにしているようだ。
どうしてこんなことになってしまった。後ろには大男が迫ってきていて、前にいる横沢さんたちが嫌がる一颯さんを連れ去ろうとしている。なんだこの挟み撃ちは。
でも、彼女を悲しませていいのか? なら、やるしかない。覚悟を決めろ。今自分がやるべき事をやるんだ。
「横沢さん、その手を離してください」
至って冷静にそう言って、僕は横沢さんの腕を掴んだ。そして一颯さんの腕から振りほどこうとする。
「はぁ? ボンクラのくせにしゃしゃり出てきてんじゃねぇよ!」
横沢さんの罵声が飛び、それと同時に彼の拳が飛んできた。殴られる。
いや、遅い。見える。前髪さんのパンチと比較したら、蚊が止まっているかのようなスピード。躱せる。そう思ったら、少し重心を半歩下げた程で難なく回避できた。
いける。そう思った瞬間、僕は一歩前に踏み出し、横沢さんの横顔に目がけて拳を打ち込んだ。
打ち込んだはずなのだが……それは、ペチンと弱い音を立てた程度だった。そんな。まずい。
「なに調子こいてんだてめぇ? ぶっ殺す!」
そう言って、横沢さんから第二の拳が放たれてきた。回避することは容易い。
が、それは回避するまでもなかった。何が起きたのかわからなかった。僕の目の前に大きな手が現れ、横沢さんの拳を受け止めていたのだ。
「てめぇら、こんなとこで何やってんだ」
低く、太い声が頭上から聞こえてきた。見上げるとあの大男がいた。横沢さんもあっけに取られていたが、
「なんだぁこのデカブツ? 部外者はすっこんでろよ」
と体勢を立て直し、大男に対し敵意を向ける。大男は鋭く睨み返している。
「部外者じゃねぇよ。俺ァ、こいつのダチだ」
と大男は隣で固まる僕を親指で指した。全く身に覚えがない。つい先ほど会ったばかりなのだが、今はこの大男に任せるしかない。
「ほざきやがって。こっちはこれでもボクシングやってんだ。割り込んできたこと後悔させてやらぁ!」
横沢さんはそう言うと大男に向かって勢いをつけて拳を放った。
そして、次の瞬間、また何が起きたのかわからなかった。いや、しっかり視界は大男に釘付けだったのだが、全く動きが見えなかった。気付いた時には横沢さんの身体は地面から2mほど宙に浮いていた。そして背中から思い切り地面に叩きつけられた。
「なんだ今のストレートは? 話にならねぇ。ちょっとボクシング齧った程度でいきがんな。お前らもやるか? かかってこいよ。全員まとめて相手してやる」
そう言われて、横沢さんとそのツレ計5人が殴りかかってきた。
大男は一番近くにいた男の拳を片手で掴むと、その腕をもう片方の腕で掴み背負い投げした。
続けて同時に突撃してきた2人に対して、左の方の男に回し蹴りを横顔にあて、すぐさま右の男の腹に正拳を当てて蹲らせる。
次の男はカラオケ店の前にあった看板で大男を横から攻撃しかけてきた。しかし、大男はそれを片腕で受止め、足を踏み出すと同時に肘打ちを相手の顔面に食らわした。
最後に残った横沢さんはまだ懲りてないのか、また同じような右ストレートを放ってきた。僕でもわかるが、さっきよりスピードが落ちてる。
しかし大男はそこで避けず、横沢さんのパンチは顔面を捉えた。思わず横沢さんもへへっと笑ったが、大男はあえてその拳を顔面で受け止めたように見えた。
「いいか、仕掛けてきたのはそっちだ。これは正当防衛だ」
大男はそう言うと、横沢さんのみぞおちに正拳突きをし、そして顔面に左フック、最後に右ストレートを顔面に当て、計3発の連撃を放った。
強い。1分も経ってないだろうか、物の見事に5人の男達が路上に蹲っている。
そして、大男は険しい顔をしながらこちらを振り向く。僕と一颯さんはただ呆然と突っ立っていた。次は僕の番なのだろうか。思わず固唾を飲んだ。
「いやぁー、わりぃわりぃ! さっきは驚かせちまったな! すまん! 怪我はないか?」
さっきまであんなに怖い顔をしていた大男は、照れ臭そうに顔面の筋肉をフルに使って照れ笑いをし、頭を下げた。僕らは2人ともさらに呆気に取られていた。
「弖寅衣 煉美さんの弟、想だよな? 自己紹介が遅れたが、俺ァ、堂島 百々丸! 煉美さんに昔世話になったモンだ」
恐ろしく声がでかい。え? まさか姉さんの知り合い?
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