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第1章 ディキャピテーション
1-6 再会
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時を忘れて一颯さんと対話していたらもう既に19時を過ぎていた。僕はトイレに行こうと思い、彼女に告げてから席を立った。
カフェという空間から隔離されたこのトイレはとても静まり返っていて、一人になることでより頭を冷静にすることができた。
用を足して手を洗い、鏡を見る。誰かとこんなに話をするのも本当に数年ぶりだな。
楽しかった……のか? 僕は、楽しいと感じているのか。女性と、ああやって2人きりで話をするなんてまるでデートのようだけど、色恋沙汰にはとんと無縁だし、今でも興味はない。彼女とはいいお友達として、そしていい同僚として、これからも仲良くしていけたらいいな。
その時、異変が起きた。時が止まったと感じた。カフェから聞こえていたBGMが途切れ、トイレに流れる水の音も止まり、そして僕の体も動かない。その刹那、体に衝撃が走る。
――――これは、あの時のっ?
そう思った直後にはもうあの部屋にいた。そう、クアルトと呼ばれたあの部屋だ。
そして、背後から突然の奇襲。首を締め付けられる。
「おいおいおーい、なんだよあの娘はー!? いい娘じゃないか!」
はぁ。姉さんだった。まだ首を締め付けている。解くどころか、脚をからめ、ますますきつく固めてくる。
「ちょっ、く、苦しい……」
僕の首を締め付ける姉さんの腕を、遠慮なくバシバシ叩く。やっと解放されたと思ったら、体を半回転させられ姉と対面する。そして頬を両方の平手で押さえつけられ、グリグリとさせられ、
「お姉ちゃんに内緒で美女とデートしてるからなぁ? ちょっとくらい、いじめてもいいよねぇー?」
滅茶苦茶悪い顔をしている。少し頭に来たので僕も負けじと姉の頬を抓り引っ張る。
「その様子だとまた僕のことを監視してたんだね? プライベートの侵害だ」
「弟大好きでたまらない姉が弟を監視して何が悪い? いいだろう、次会う時は法廷な!」
幽霊の分際で何を言ってるんだ。どうやって裁判起こす気なんだよ。しばらく姉と睨み合っていると、
「煉美、いつまでみっともないことをしているんだ?」
前髪さんが仲裁に入って、姉を殴った。これじゃあ初めてここに来た時と立場が逆だな。あの時は、前髪さんと僕が対峙してた所に姉さんが仲裁に入ったからな。
前髪さんに殴られた姉は、ぶひっと豚のような声を洩らすと、前髪さんを睨みかけたが、すぐに冷静になり、
「もうっ、そーくんといちゃいちゃしてただけじゃん」
不機嫌と言うよりちょっと不貞腐れていて、でも少し反省しているのか、語尾のトーンは下がっていた。
そして、三人掛けのソファにぽすんと座った。やはりあそこは姉の特等席なのだろう。脚をソファの上に上げ、膝を抱えるようにしていた。
「まさか、こんなにまたすぐに会えるなんて思ってなかったよ。ちょっとびっくりしたけど」
そう言いながら僕は前回と同じ、姉の特等席の左隣のソファに腰を据える。このソファが僕の指定席になるのかな。
「あたしだって、そーくんとお茶したいんだもーん」
いじけるような、甘えるような顔をしている。子供じゃないか。それにさっきお茶したばかりだし。
「私は止めたんですけどね。2人を邪魔しちゃいけないと。コーヒー飲んだばかりですが、紅茶、飲みますか?」
と、前髪さんはあらかじめ用意していたのか、紅茶を持ってきてくれた。
「ありがとうございます! 前髪さんの紅茶また飲みたかったんだ。いただきます」
あの味が忘れなくて、ずっと香りが口の中に残っていて、つい言葉が弾んでしまった。やはり美味しい。現実世界には存在しない味だ。喜んでる僕を見て姉も安心したのか、笑顔になり紅茶を飲む。
「あの後、想くんが帰った後大変だったんですよ? そこの床をごろごろしたりしてて」
と、前髪さんは姉さんを見やった。
「あんたはまた余計なことをペラペラと……」
前髪さんを睨んでいる。寂しかったのか。姉は高校生時代、「鬼女」とか呼ばれていたそうだが、その反面寂しがる所もたまにあるからな。無論、僕以外の人には見せないのだろうが、前髪さんには見せているのか。よっぽど親しいな。
「わかったよ。いつでも姉さんとお茶するから。また呼んでよ」
そう言うと姉の表情はパァッと明るくなった。わかりやすい人だ。
「そーくんは昔と変わらず優しいなー。落ち着く」
そう言ってソファに乗せてた脚を下ろした。そう言えば前髪さんは革靴を履いているのに対し、姉は裸足だな。なんとも奇妙な空間。
「一颯さん、相当苦労した方なんですね。私も2人の話を聞いてしまっていたのですが、あの方の信念には強いものを感じました」
前髪さんの言葉に僕は同調する。自分の希望のために恐れずに前に向かっていける信念。さらにそれを笑顔で語ることができる。とても強い女性だと僕も感じた。
「そうそう、世の中には性格の悪い女性ってごろごろいるんだ。特にそーくんみたいな大人しくて真面目な男をターゲットにする。でも、ミモザちゃん、あの娘は本当にいい娘だね。うん、安心してそーくんを任せられる。絶対そーくんに気があるし、恋人になればどう? いいお嫁さんになるよ?」
姉は、本気とも冗談ともつかないような口振りでそんな事を言う。自分だって結婚はおろか恋愛すらしなかったのに、何を言っているのか。
そしてどうやら一颯さんのことを甚く気に入ってるようだ。姉が他人をここまで評価するのはとても珍しい。
「悪いけど、僕にその気はないよ。恋愛そのものに興味がない」
そう言うと姉は少しきょとんとしていたが、やがて肩を竦め、誰に似たんだかと少し嬉しそうに呟いた。
「でも、お姉ちゃんはあの娘なら全然大歓迎だからね。その気になったらいつでも行けばいいし、応援する」
「あぁ、わかったよ。ありがとう姉さん」
姉はふふーんと嬉しそうに体をゆらゆら揺らしていた。そして脚もぷらぷら揺らしている。
いや、おかしいぞ。普通ソファに座っている状態では低すぎて脚を揺らすことはできない。姉のように筋肉があればできるのだが、しかし、この場合は違っていた。姉は宙に浮いていた。
「ん? あぁ、つい浮いちゃってたね。この部屋ではこんな事もできるんだ。なんせ夢の中みたいなもんだからねー」
姉は驚いてる僕の視線に気づき説明して、くるりと宙返りしたが、現実世界では到底まかり通らない理屈だ。それでも、そうかここでは何でもありなのかと、この状況を納得してしまう。
ふと、目の前のテーブルの上に置かれているティーカップのソーサーに目がいく。もしかしたらこれを浮かせる事もできるのか? そう思い、一心に見つめ「浮け」と念じる。
――――浮いた……
「おぉー、すごいすごい! 浮いてるよ?」
姉さんはいつの間にかソファに座っており、身を乗り出すようにして目を丸くしている。
もっと不安定に浮くと思ったが、思い通りに動かせてしまった。割ってしまったらいけないのでそっとテーブルの上に戻す。いや、そもそもこの部屋の物は壊れないのであった。それでも万が一ということもあるし、可愛いソーサーなので乱暴には扱いたくなかった。
「本当にこの部屋では思い通りにできちゃうんだね。不思議だ」
実感はあまりないが、目の前で起きた事を事実として受け止め、僕はそう呟いた。
「ここはそーくんの頭の中みたいなもんだから。なんでもできちゃうのさ。あ、お姉ちゃんの下着見ようとしちゃダメだぞ?」
と姉は目を細めながらニヤニヤしていたが、そんなもの見たくないに決まってるだろ。
「ノーパンなんだけどね」
おぉい! と僕は思わずソファから落ちそうになったが、僕だけじゃなく前髪さんもお茶を吹いていた。そして慌ててテーブルを拭いている。
「やだ、ジョーダンジョーダン。もう二人ともウブなんだからなー」
この姉は……昔よりタチ悪くなってるぞ格段に。勘弁してくれよ本当に。話を変えるためにも、僕は咳払いをし、先ほどから気になっていたことを口にする。
「ところで、現実世界で僕はトイレの鏡の前に立ってたはずだ。前回は気を失っている間にこっちに来てたみたいだけど、今はどうなってるの?」
ずっとニヤニヤしてた姉は少し真面目な表情になる。
「あぁ、それね。説明してなかったね。この部屋と現実世界では、時間経過速度が違うんだ。こっちでの1秒は現実世界では0.01秒。つまり、1分は0.6秒。1時間は36秒だ。だからゆっくりしていっていいよ。現実世界の人がそーくんを見たらちょっとぼーっとしてる変な人にしか見えないから」
いや、変な人だと思われたくないから、1時間以上もこの部屋にいるわけにはいかないな。そうか、時間の流れが違うのか。それは便利だ。
「ちなみに、そーくんがあっちにいる時はこの部屋も現実世界と同じ時間速度に自動的になるからね。リアルタイムで監視してるよー」
「監視」という響きは怖いが、そこはもうあまり気にしないようにしよう。トイレの時、入浴時も監視されるんだろうが、もう気にしないようにしよう。うん。
「そうだ、せっかく来たんだしまたトレーニングしてきなよー」
と、姉は右隣のソファに座る前髪さんを親指で指し示した。そうだな、また稽古つけてもらおうかな。
「うん、前髪さんまたよろしくお願いします」
前髪さんは喜んでと言いながら立ち上がった。とても喜んでいるようには見えないが、僕も立ち上がり、空きスペースに出て構える。
出だしは先ほどと変わらず空回りばかりだったが、少しずつ慣れてきたのか、はたまた偶然なのか、前髪さんの拳と蹴りを少しずつ躱せるようになった。
しかし、相変わらずリーチの差が大きすぎるため、何度か攻撃を食らってしまうし、僕の拳は届かない。
2発。2発だけ辛うじて前髪さんの腹に入れることができたが、前髪さんはびくともせず、そのあとカウンターを食らって投げられてしまった。
痛みがないことが何よりの救いであり、そのおかげでどんなに吹っ飛ばされてもめげずに立ち向かうことができた。
途方もない特訓だと思っていたのだが、少しずつ、本当に微々たるものなのかもしれないが、何かを掴めたような気がする。
このまま何日か、何週間か、何ヶ月か続ければ、もしかしたら本当に姉のようになれるのではないか。それは流石に淡い期待であるのかもしれない。
でも、今の僕はなんだかそういった期待や希望を抱いてもいいんじゃないかと、自分で自分を許してしまう。気持ちが浮ついているのかもしれない。それが果たして、いい事なのか、悪い事なのかはわからない。
カフェという空間から隔離されたこのトイレはとても静まり返っていて、一人になることでより頭を冷静にすることができた。
用を足して手を洗い、鏡を見る。誰かとこんなに話をするのも本当に数年ぶりだな。
楽しかった……のか? 僕は、楽しいと感じているのか。女性と、ああやって2人きりで話をするなんてまるでデートのようだけど、色恋沙汰にはとんと無縁だし、今でも興味はない。彼女とはいいお友達として、そしていい同僚として、これからも仲良くしていけたらいいな。
その時、異変が起きた。時が止まったと感じた。カフェから聞こえていたBGMが途切れ、トイレに流れる水の音も止まり、そして僕の体も動かない。その刹那、体に衝撃が走る。
――――これは、あの時のっ?
そう思った直後にはもうあの部屋にいた。そう、クアルトと呼ばれたあの部屋だ。
そして、背後から突然の奇襲。首を締め付けられる。
「おいおいおーい、なんだよあの娘はー!? いい娘じゃないか!」
はぁ。姉さんだった。まだ首を締め付けている。解くどころか、脚をからめ、ますますきつく固めてくる。
「ちょっ、く、苦しい……」
僕の首を締め付ける姉さんの腕を、遠慮なくバシバシ叩く。やっと解放されたと思ったら、体を半回転させられ姉と対面する。そして頬を両方の平手で押さえつけられ、グリグリとさせられ、
「お姉ちゃんに内緒で美女とデートしてるからなぁ? ちょっとくらい、いじめてもいいよねぇー?」
滅茶苦茶悪い顔をしている。少し頭に来たので僕も負けじと姉の頬を抓り引っ張る。
「その様子だとまた僕のことを監視してたんだね? プライベートの侵害だ」
「弟大好きでたまらない姉が弟を監視して何が悪い? いいだろう、次会う時は法廷な!」
幽霊の分際で何を言ってるんだ。どうやって裁判起こす気なんだよ。しばらく姉と睨み合っていると、
「煉美、いつまでみっともないことをしているんだ?」
前髪さんが仲裁に入って、姉を殴った。これじゃあ初めてここに来た時と立場が逆だな。あの時は、前髪さんと僕が対峙してた所に姉さんが仲裁に入ったからな。
前髪さんに殴られた姉は、ぶひっと豚のような声を洩らすと、前髪さんを睨みかけたが、すぐに冷静になり、
「もうっ、そーくんといちゃいちゃしてただけじゃん」
不機嫌と言うよりちょっと不貞腐れていて、でも少し反省しているのか、語尾のトーンは下がっていた。
そして、三人掛けのソファにぽすんと座った。やはりあそこは姉の特等席なのだろう。脚をソファの上に上げ、膝を抱えるようにしていた。
「まさか、こんなにまたすぐに会えるなんて思ってなかったよ。ちょっとびっくりしたけど」
そう言いながら僕は前回と同じ、姉の特等席の左隣のソファに腰を据える。このソファが僕の指定席になるのかな。
「あたしだって、そーくんとお茶したいんだもーん」
いじけるような、甘えるような顔をしている。子供じゃないか。それにさっきお茶したばかりだし。
「私は止めたんですけどね。2人を邪魔しちゃいけないと。コーヒー飲んだばかりですが、紅茶、飲みますか?」
と、前髪さんはあらかじめ用意していたのか、紅茶を持ってきてくれた。
「ありがとうございます! 前髪さんの紅茶また飲みたかったんだ。いただきます」
あの味が忘れなくて、ずっと香りが口の中に残っていて、つい言葉が弾んでしまった。やはり美味しい。現実世界には存在しない味だ。喜んでる僕を見て姉も安心したのか、笑顔になり紅茶を飲む。
「あの後、想くんが帰った後大変だったんですよ? そこの床をごろごろしたりしてて」
と、前髪さんは姉さんを見やった。
「あんたはまた余計なことをペラペラと……」
前髪さんを睨んでいる。寂しかったのか。姉は高校生時代、「鬼女」とか呼ばれていたそうだが、その反面寂しがる所もたまにあるからな。無論、僕以外の人には見せないのだろうが、前髪さんには見せているのか。よっぽど親しいな。
「わかったよ。いつでも姉さんとお茶するから。また呼んでよ」
そう言うと姉の表情はパァッと明るくなった。わかりやすい人だ。
「そーくんは昔と変わらず優しいなー。落ち着く」
そう言ってソファに乗せてた脚を下ろした。そう言えば前髪さんは革靴を履いているのに対し、姉は裸足だな。なんとも奇妙な空間。
「一颯さん、相当苦労した方なんですね。私も2人の話を聞いてしまっていたのですが、あの方の信念には強いものを感じました」
前髪さんの言葉に僕は同調する。自分の希望のために恐れずに前に向かっていける信念。さらにそれを笑顔で語ることができる。とても強い女性だと僕も感じた。
「そうそう、世の中には性格の悪い女性ってごろごろいるんだ。特にそーくんみたいな大人しくて真面目な男をターゲットにする。でも、ミモザちゃん、あの娘は本当にいい娘だね。うん、安心してそーくんを任せられる。絶対そーくんに気があるし、恋人になればどう? いいお嫁さんになるよ?」
姉は、本気とも冗談ともつかないような口振りでそんな事を言う。自分だって結婚はおろか恋愛すらしなかったのに、何を言っているのか。
そしてどうやら一颯さんのことを甚く気に入ってるようだ。姉が他人をここまで評価するのはとても珍しい。
「悪いけど、僕にその気はないよ。恋愛そのものに興味がない」
そう言うと姉は少しきょとんとしていたが、やがて肩を竦め、誰に似たんだかと少し嬉しそうに呟いた。
「でも、お姉ちゃんはあの娘なら全然大歓迎だからね。その気になったらいつでも行けばいいし、応援する」
「あぁ、わかったよ。ありがとう姉さん」
姉はふふーんと嬉しそうに体をゆらゆら揺らしていた。そして脚もぷらぷら揺らしている。
いや、おかしいぞ。普通ソファに座っている状態では低すぎて脚を揺らすことはできない。姉のように筋肉があればできるのだが、しかし、この場合は違っていた。姉は宙に浮いていた。
「ん? あぁ、つい浮いちゃってたね。この部屋ではこんな事もできるんだ。なんせ夢の中みたいなもんだからねー」
姉は驚いてる僕の視線に気づき説明して、くるりと宙返りしたが、現実世界では到底まかり通らない理屈だ。それでも、そうかここでは何でもありなのかと、この状況を納得してしまう。
ふと、目の前のテーブルの上に置かれているティーカップのソーサーに目がいく。もしかしたらこれを浮かせる事もできるのか? そう思い、一心に見つめ「浮け」と念じる。
――――浮いた……
「おぉー、すごいすごい! 浮いてるよ?」
姉さんはいつの間にかソファに座っており、身を乗り出すようにして目を丸くしている。
もっと不安定に浮くと思ったが、思い通りに動かせてしまった。割ってしまったらいけないのでそっとテーブルの上に戻す。いや、そもそもこの部屋の物は壊れないのであった。それでも万が一ということもあるし、可愛いソーサーなので乱暴には扱いたくなかった。
「本当にこの部屋では思い通りにできちゃうんだね。不思議だ」
実感はあまりないが、目の前で起きた事を事実として受け止め、僕はそう呟いた。
「ここはそーくんの頭の中みたいなもんだから。なんでもできちゃうのさ。あ、お姉ちゃんの下着見ようとしちゃダメだぞ?」
と姉は目を細めながらニヤニヤしていたが、そんなもの見たくないに決まってるだろ。
「ノーパンなんだけどね」
おぉい! と僕は思わずソファから落ちそうになったが、僕だけじゃなく前髪さんもお茶を吹いていた。そして慌ててテーブルを拭いている。
「やだ、ジョーダンジョーダン。もう二人ともウブなんだからなー」
この姉は……昔よりタチ悪くなってるぞ格段に。勘弁してくれよ本当に。話を変えるためにも、僕は咳払いをし、先ほどから気になっていたことを口にする。
「ところで、現実世界で僕はトイレの鏡の前に立ってたはずだ。前回は気を失っている間にこっちに来てたみたいだけど、今はどうなってるの?」
ずっとニヤニヤしてた姉は少し真面目な表情になる。
「あぁ、それね。説明してなかったね。この部屋と現実世界では、時間経過速度が違うんだ。こっちでの1秒は現実世界では0.01秒。つまり、1分は0.6秒。1時間は36秒だ。だからゆっくりしていっていいよ。現実世界の人がそーくんを見たらちょっとぼーっとしてる変な人にしか見えないから」
いや、変な人だと思われたくないから、1時間以上もこの部屋にいるわけにはいかないな。そうか、時間の流れが違うのか。それは便利だ。
「ちなみに、そーくんがあっちにいる時はこの部屋も現実世界と同じ時間速度に自動的になるからね。リアルタイムで監視してるよー」
「監視」という響きは怖いが、そこはもうあまり気にしないようにしよう。トイレの時、入浴時も監視されるんだろうが、もう気にしないようにしよう。うん。
「そうだ、せっかく来たんだしまたトレーニングしてきなよー」
と、姉は右隣のソファに座る前髪さんを親指で指し示した。そうだな、また稽古つけてもらおうかな。
「うん、前髪さんまたよろしくお願いします」
前髪さんは喜んでと言いながら立ち上がった。とても喜んでいるようには見えないが、僕も立ち上がり、空きスペースに出て構える。
出だしは先ほどと変わらず空回りばかりだったが、少しずつ慣れてきたのか、はたまた偶然なのか、前髪さんの拳と蹴りを少しずつ躱せるようになった。
しかし、相変わらずリーチの差が大きすぎるため、何度か攻撃を食らってしまうし、僕の拳は届かない。
2発。2発だけ辛うじて前髪さんの腹に入れることができたが、前髪さんはびくともせず、そのあとカウンターを食らって投げられてしまった。
痛みがないことが何よりの救いであり、そのおかげでどんなに吹っ飛ばされてもめげずに立ち向かうことができた。
途方もない特訓だと思っていたのだが、少しずつ、本当に微々たるものなのかもしれないが、何かを掴めたような気がする。
このまま何日か、何週間か、何ヶ月か続ければ、もしかしたら本当に姉のようになれるのではないか。それは流石に淡い期待であるのかもしれない。
でも、今の僕はなんだかそういった期待や希望を抱いてもいいんじゃないかと、自分で自分を許してしまう。気持ちが浮ついているのかもしれない。それが果たして、いい事なのか、悪い事なのかはわからない。
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