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第4章 安藤妙子に天敵現る!?

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 翌日の昼休み―
 妙子は、授業中にはけっして見せないニコニコ顔で机に向かっていた。パカッとお弁当の箱の蓋を開ける。脂がのった焼き鮭はピカピカと輝き、厚焼きの卵焼きはふっくらし、見るからに食欲をそそる。そして日本人の主食ゴハンさまが、目にしみるように白く艶だって待ち構えていた。
 妙子の机にいつものように百合子と朱美がやって来た。三人でとりとめのない話をしながら、ランチを食べ終えると、妙子が喜色満面の顔で、
 「おいしかった。満足、満足」
 紙パックの牛乳をストローで飲みはじめと、。待ちかまえていたように、朱美がニヤニヤと笑いだした。
 「朱美、なによ、その顔は?」
 「タエ、あんたも水臭いわ。そうならそうと言ってくれればいいのに」
 「はて、なんのこと?」
 妙子がいぶかしげに眉根を寄せると、朱美の目が三日月のようになる。それはさも楽しげな表情だ。
 「とぼけないで。もちろん、このことの決まっているじゃない」
 朱美が四指を折りたたみ、親指だけをのばした手を差しだす。
 「親指?……ははん、私と指相撲がしたいわけね。いいわ、相手になってあげる」
 「違うわよッ。小指が女なら、親指は男って意味でしょうが」
 「あ、あああ、ダメです、朱美さん。そんな破廉恥なことをしては」
 朱美の説明を耳にするなり、顔を真っ赤にさせた百合子が、朱美の親指を両手で覆った。なにをどう勘違いしたかは不明だが、ものすごく卑猥なことだと思いこんでいるらしい。
 そんな百合子に指をにぎらせたまま、朱美は妙子を見据えた。
 「タエ、私とユリに報告することがあるでしょう」
 「報告すること?……なにか、あったかなあ」
 妙子は小首をかしげて、また牛乳をチュウチュウとストローで吸いあげていくと、朱美がとんでもないことを口にした。
 「とぼけてもダメよ。タエ、あなた、オカルトマニアのアイツと付き合っているんでしょうが」
 ぶわッ。
 妙子の口から、牛乳が噴きだした。
 「タエ、なにしてるの、汚いわねえ」
 「ゴ、ゴメン。でも、朱美が変なことを言うから」
 妙子がゴホゴホと咳きこむなか、百合子が机の上の牛乳をティッシュで拭きとる。万事に気がきく百合子だが、好奇心に満ちた目を妙子に向け、まわりをはばかるように小声で言った。
 「知りませんでしたわ。妙子ちゃんが橘さんとお付き合いしだしてなんて」
 我が事のように顔を赤らめてみせる。
 「やめてよ、ユリまでそんなこと言いだすのは。私はまだ独り身よ」
 口のまわりの牛乳をハンカチで拭きとりながら、妙子は間髪なく言った。
 だが、朱美は自信満々の顔で、
 「ウソをおっしゃい。裏は取れているのよ、裏は」
 刑事のような口ぶりで言う。妙子はちょっと焦ってきた。
 「裏って、なに?」
 「フフフ……」不敵に笑う朱美。「聞いているのよ。タエがアイツと手をつないで、街中を仲良く走っていたって」
 「そ、それは……」
 妙子は言葉に詰まった。
 先日、カラオケボックスを出たあと、橘と一緒に不良少年たちから逃げだした時のことだろう。時刻はまだ夕方だったし、学校近くの繁華街であることを思えば、この学校の生徒の目撃者がいてもおかしくはない。 
 「タエ、彼氏ができたと認めなさい。そうすれば、こっちだって情状酌量の用意はある」
 朱美が身を乗りだし、芝居がかってくると妙子はうつむいた。
 「刑事さん……その前に、カツ丼をくだせえ」
 「あら、妙子ちゃん、まだお腹がすいているのですか?」
 「………」
 「………」
 天然の百合子はひとまず置いておき、朱美が上半身を起こして椅子の背もたれにのけぞるように座った。
 「で、実際のところどうなのよ。アイツと付き合っていないの?」
 「ないわよ。確かに前よりは話すことは多くなったけど、彼氏なわけないじゃない」
 「でも、手をつないで街中を走っていたんでしょうが」
 「それは、あの時、ガラの悪い連中にアイツが絡まれていたから……ううん、私が絡まれていたのを助けてもらって、一緒にすたこらさっさと逃げた……それだけ」
 「へえー、そうだったの」
 朱美がまた身を乗りだしてきた。
 「それで、胸がキュンと来て付き合いだしたってわけね」
 「だから、違うってば」
 妙子はそこではたと言葉を切った。ここで否定すればするほど、そうやってムキになるところが逆に怪しいと言われそうな気がする。ここは適当に話を合わせておいた方が得策だ、きっと。
 そう得心した妙子は、不敵な笑みを浮かべて、朱美を見据えた。
 「そうよ、私、アイツと付き合おうと思っているの。だって、アイツがどうしても私と付き合いたいってしつこいから。ま、仕方がないって感じね」
 高飛車な物言いですらすらと言い、最後は口の片側に立てた片手をそえて、どこぞの貴婦人よろしく、オホホと笑いをもらすが、すぐに親友二人の異常な振る舞いに気付いた。
 百合子が、あッ、あッ、あッと口をパクパクさせ、朱美は口の両端を吊りあげ、ニヤつきまくる。そんな二人の視線は自分の背後へと投げられていた。
 「タエ、後ろにお客さんが来てるわよ」
 朱美が笑いをこらえるのに必死な声で言った。
 「そ、そうなの……だ、誰かな?……」
 妙子は確信があった。まったく人生はわからない。どうして、このタイミングでアイツが来てしまうのだ。
 油の切れた人形のように顔だけ振り向かせると、黒ぶちメガネをかけた朴訥した同級生がそこに立っていた。表情はちょっとさびしけだ。
 「な、なにか、用かな、橘」
 「あ、ああ……その、たいしたことじゃないからまたにするよ」
 橘は一歩後ずさった。そして胸がドキドキすることを言ってくる。
 「安藤さん、誰かと付き合うんだ。うまくいくといいね。でも自分の気持ちも大切にしたほうがいいよ」
 「………」
 妙子がなにか言いかえそうと口をパクパクさせていると、橘は少し微笑んで教室から出ていった。
 数秒間、妙子は口を開けたままポカーンとしていたが、朱美がぷわっと噴きだした。
 「悪かったわ、タエ。アイツと付き合っているなんて言って。どう考えてもそういうレベルじゃないわ。だって、タエが他の誰かと付き合うこと祝福していたし……って、私たちを騙したわね」
 「ゴメン……ちょっといたずら心が出ちゃって……テヘヘ」
 顔で笑ってみせるが、妙子の心はチクチクと痛んだ。橘ときたら、私が誰かと付きあうと思いこんでしまったようだ。
 「どうするの。ああいった手前、彼氏をつくらなくちゃまずくない。なんなら私が一肌脱ぐわよ。この前の顔だけ野郎じゃなくて、まっとうな男の子を紹介するけど」
 「そ、そうね、考えておく」
 妙子が曖昧に答えると、百合子が口を挟んできた。
 「いいのですか、妙子ちゃん。橘さんの誤解を解かないで」
 「別に、いいって。アイツのこと好きなわけじゃないんだから」
 「そうですか……でも素敵でしたね、橘さん。自分の気持ちを大切にしたほうがいいなんて言われて……最近の若者も捨てたものではありませんわ」
 うん、同感。アイツはいいことを言った―妙子は口こそださないがそう思った。そして、アイツのいいところを見抜いた百合子にちょっと意地悪したくなる。
 「最近の若者って、ユリって年寄りくさいこと言うわね。ほんとにおない年?」
 「ひどい、妙子ちゃんたら。私だって恋を夢見る年頃ですよ」
 「あらら。だったら私と同じで素敵な彼氏を見つけないと。うん、ならば、ほれ今日こそ白状せい、好きな男子の名前を言うのじゃ」
 「そうじゃそうじゃ、私とタエに包み隠さずに話すがよい」
 さっそく調子を合わせてくる朱美に、慌てふためく百合子。それを見て、ニンマリと微笑む朱美と妙子の二人―。午後の授業開始までもう少し。バカげているかもしれないが、青葉の頃のかけがえのないひと時だ。

         
 春の暖かな陽気とともに、平穏無事に三日間が過ぎた。ゆいいつの気がかりは、あの昼休みの件以降、アイツと一言も話していないことだ。
 もちろん、アイツとは、橘徹のことだ。
 もっとも橘とは教室で和気あいあいと話し合ったことなど、一度もない。放課後に図書館に行った時は別だが、ふと教室や廊下で顔を見合わせた時も、二言、三言言葉を交わすぐらいのもの。
 だが、それもこの三日間はない。ふと橘と顔を見合わせると、妙子はよそよそしい態度で視線をはずしてしまう。
 自意識過剰……。
 その言葉が、今の自分にはぴったりだと思う。誤解を解きたいと思う反面、どうして私がこんなに気を揉まないといけないの、とも思う。
 壊れた天秤のように揺れ動く心模様……結局、三日目の放課後、妙子は図書館の扉の前に立っていた。
 まずは、深く深呼吸。
 そして気持ちの整理。
 私は別に、私が誰かと付き合うって勘違いしている橘の誤解を解くためにここに来たわけじゃない。ただこの前なにか話があって、私のところにきた橘にそのことを訊くために来たの……うん、そうよ。平常心、平常心でことに望めば万事上手くいくわ……そう自分に言いきかせ、扉を横にすべらせた。が、見渡せど、図書館の中はものけの空、橘はおろか誰もいない。
 なによ、せっかく覚悟を決めて来てやったのに、いないなんて……橘のバカあ。
 がっくり肩を落とした妙子は、今日はもう家に帰ることにした。仏頂面で駅まで歩いて行くと、心臓が跳ねあがるほどにビックリした。
 遠目だが、駅舎の前にアイツがいた。
 小走りで駆け出しそうになるが、やめておく。
 平常心、平常心……まるで念仏のように心の中で唱え、一歩一歩と近づく。
 橘は学生服のままだ。きっと放課後すぐに学校を飛びだし、ここで私を待っていたに違いない。なによ、用事があるなら、学校で話せばいいのに、もう照れ屋さんなんだから……妙子はまわりもはばからずにニタニタと笑いだした。
 橘まで、あと十メートル。
 でも、まだ、こちらの存在に気付いていない。だって橘ったら、駅舎の中に視線をめぐらせているから。
 ううん? ちょっと待って。どうして、そっちに気が向いているわけ。私を待っているなら駅舎の外、学校のある方向を向いているべきじゃない……妙子の足が止まった。
 はて、どういうことなの?-と小首を傾げると、すぐに答えがでた。
 駅構内に電車が入ってきた。何人か降りてくる。橘が軽く手をあげた。そして橘のもとに小走りで駆け寄ってくる人影がひとつ……。
 うげーッ
 女と待ち合わせかよ、アイツめッ。
 激しい動揺に、喉はカラカラになった。
 ショートカットの女……もとい女の子だ。自分より年下に見える。チラッとしかうかがえなかったが、なかなかはくいお顔をしていた気がする。
 ウキーッ。なによ、私が誰かと付き合うなんて言ったもんだから、自分も彼女をつくたってわけ。ええ、いいわよ、好きにすれば。私だって絶対に素敵な彼氏をつくってあげるわよッ。
 罵詈雑言を胸の内でついた妙子は、仲良く肩並べて去っていく二人から顔をそむけ駅舎に向かいかけたが、くるりと方向転換。
 べ、別に、あなたたちの後をつける気なんてないわよ。ただ、そっちに用事があるのから、私もそっちに行くだけ……妙子は自分にそう言いきかせた。だが、それは完璧に、尾行にほかならぬ行動だった。

        
 尾行ってのは、なかなか大変な作業である。
 付かず離れず後を追いかけ、相手が不審な動きを見せれば、物陰にパッと隠れなければならない。
 妙子は、見事それをやってのけていた。もっとも二人はおしゃべりに夢中で、背後を振り向いてこないのだが、妙子を増長させた。
 もしかして、私って探偵の才能があるじゃない、ふふふ……一人ほくそ笑むが、周囲の風景に見覚えがあり、ハッとした。この道って、橘の家に行く道じゃなかったけ……さてはあの男、さっそく女を家に連れこむ気か。全身の血が沸々と煮えたつ。
 以前家に誘われたことが、ぜんぜん特別なことではなかったことを思い知らされ、無性に腹が立ってくる。
 と、女の子の方が橘の二の腕辺りを引っぱり、何事か耳元で囁き、そして二人して振りかえってきた。
 わわわッ……妙子は慌てて自働販売機の影に飛びこんだ。―バ、バレちゃった?
 しばし、その場にたたずんで、ドキドキしながら顔をのぞかせる。二人は何事もなかったように背中を向け、曲がり角を折れていった。
 まずい、見失っちゃう。
 妙子は小走りに駆けた。二人が曲がった角に入っていくと、
 「ひええーッ」
 思わず叫んで跳びさがった。
 橘と、その彼女が待ち伏せていたのだ。
 立ち尽くす妙子に、最初に口火を切ってきたのは、どっかの制服を着た女の子だ。
 「いったいどういうつもり。さっきからコソコソと後をつけてきて。なにか用?」
 俊敏そうな細身の身体に、腕を組んで仁王立ち。くりくりした眼を三角にし、妙子を睨んでくる。
 「……あ、い、う、え……おお……」
 口がうまくまわらない。腋の下に嫌な汗がどっと流れた。
 「次は、カ行でも言うつもり」
 女の子がジリっと一歩踏みだした。妙子は一歩後退する。
 年下のくせに生意気な子……妙子は、内心毒づくが口には出せない。橘の、年下の彼女の勢いにすっかりのまれていた。
 「用事がないなら、ここで回り右して帰って」
 まったく喧嘩越しの口調だ。
 わああ……おっかないよう、この娘。 
 妙子がまた一歩後ずさると、橘がやっと口を開いた。
 「やめないか。安藤さんに失礼だぞ」
 「なに、この女のこと知っているの?」
 「だから、そういう口の利き方をするなって」
 橘がほとほと困った顔をすると、
 「わかった。で、この女、いえ、こちらの方は誰?」
 女の子の視線が、妙子からはずれて橘に移った。
 「こちらは安藤妙子さん。学校のクラスメイトだよ」
 「ふーん」
 女の子は鼻でうなずいて、また妙子を見てきた。
 「それでそのクラスメイトが、どうして私たちの後をつけてくるわけ?」
 「そうだね。安藤さん、どうして?」
 橘が小首をかしげた。
 「そ、それは……」
 妙子は頭をフル回転させる。だが、でてきた言い訳はなさけない。
 「あたし、橘の家に行こうと思っていたところなの。ほら、この前の子猫ちゃんがなんだか私のことを呼んでいる気がして」
 「ミラクルのこと?」
 「そうそう、ミラクルちゃんのこと。名付け親としての第六感ってやつね。ははは……」
 「なるほど。そういうことか」
 橘は得心がいった顔をしたが、女の子の方は疑義の目を向ける。
 「だったら、なんでコソコソと後をつけてきたの」
 「バ、バカ言わないでよ。コソコソなんてしてないわ。ただ、声をかけていいものかどうか分からなかったから……」
 「どうしてだい?」
 橘が言った。
 「どうしてって、他人の空似ってやつがあるでしょ。それに……」
 「それに?」
 橘にまっすぐに見据えられ、妙子は顔をそっぽに向けた。
 「ヤボじゃない。若いお二人さんが仲良く肩並べて歩いているところに声をかけるのは……」
 「そうかな?」
 「そうよ」
 妙子はガバッと顔をあげた。
 「だって、こちらのお嬢さん、橘の彼女でしょ。私だって、そのくらいの気は利かせられるわ」
 「え?」
 橘は少し素っ頓狂な声をあげた。そして、クスクスと笑いだす。
 「な、なにが可笑しいの」
 「いや、安藤さん、それはものすごい勘違いってものだよ。前に話しただろう、妹が一人いるって。その妹が今日顔を見せに来たんだ」
 「あッ……そういうことだったの」
 「そういうことだよ。ほら香里、安藤さんに挨拶して」
 橘に促されて、妹の香里は両腕を胸の前で組んだまま、軽く頭をさげた。
 「よろしく。安藤さん」
 「ええ、よろしく、香里ちゃん」
 妙子が一応はにこりと笑うが、香里の方は眉一本も動かさない。
 「香里でいい。ちゃん付けで呼ばれると、背筋がゾゾッとするから」
 「わ、わかった。そうする」
 ほんとにあなたたち血のつながった兄と妹なの?―とは訊かないが、柔と剛、はっきりと性格が違うところがなかなかおもしろい。
 「それじゃ行こうか、安藤さん」
 「行くってどこに?」
 「いやだな。僕の家に来るつもりだったんだろう」
 「あーそうだった。さあ行きましょう。どんどん行きましょう」
 先頭に立って歩きだした妙子は自分でも気付かないうちに、ニコニコと笑っていた。

 橘の家に着いた。
 だが橘は、近くのコンビニにお菓子とジュースを買いに出かけた。
 橘の部屋で、妹の香里と二人きりになった妙子はベッドの端に腰かけ、膝の上にのってきたミラクルの背中を撫でていた。
 香里は勉強机のイスに座り、さっきから携帯電話をいじっている。液晶画面を見つめたまま、話しかけてきた。
 「安藤さんて猫好きのようね」
 「うん、私、猫は大好きよ」
 「だったら兄貴と気が合うじゃない」
 「ええッ」
 思わぬことを言われて、妙子の心臓はビクンと打った。
 香里は携帯電話を閉じて、妙子を見据えた。ニヤリと口端が吊りあがる。
 「子猫に会いに来たなんてただの口実で、兄貴に会いに来たのはバレバレよ」
 「いやーその通りなの、橘に会いたくて会いたくて仕方がなかったの……なんてわけないでしょ。ほんとにミラクルちゃんに会いたかったの、私は」
 妙子はそう言って、顔をミラクルの背中に向けた。顔が熱くなっているのが自覚できる。恐ろしいほどにこっちの心を読んでくる香里に、ゾッとさえした。自分がハブなら、彼女はマングース。まさに天敵現るって、感じでならない。
 「ふーん」
 香里は、例の鼻でうなずくような言い方をすると、
 「ねえ安藤さん、顔をあげて」
 「ど、どうしてよ」
 妙子が顔を少しだけあげると、香里はそんな妙子を上から下まで見渡す。まるで値踏みしているかのようだ。
 「そうね。結構可愛い顔しているし、スタイルもまあまあか……いいじゃない、兄貴と付き合っても」
 「な、なによ、その言い方は。あたしは別に橘のことなんて、これぽっちも異性として意識してないわ」
 「ふーん、そうなの。私は兄貴のことを大好きだけど」
 「うええッ」
 妙子は立ちあがっていた。膝上のミラクルがおどろいて飛びのける。しかし今はそんなことを気にしていられない。
 「ダ、ダメよ。あなたたち血のつながった兄と妹でしょ。そんなエッチなマンガのようなことをしちゃあいけないわ」
 「………」
 香里はぽかんと口を開けて、妙子を数秒見つめると、腹を抱えて笑いだした。
 「なに勘違いしているの、安藤さん。ダ、ダメ、ヤバすぎるぐらいにおもしろい」
 「……ずいぶんと飛躍しすぎちゃったみたいね、私」
 真っ赤な顔をした妙子は、しずしずとベッドに腰をおろした。
 「あたりまえよ。兄貴と私が付き合うなんて絶対にないわ……クハハハ」
 「笑いすぎだって、香里」
 妙子は、だんだん、この女の子が好きになりだしていた。
 それは向こうも同じようで、笑いすぎて瞳に浮かんだ涙を男の子のように手の甲で拭うと言った。
 「安藤さんて最高。来年、もし兄貴と同じ高校に通うことになったら、よろしく」
 「おお、待ってるぞ。後輩」
 妙子は大仰にうなずいてみせた。そして香里と顔を見合わせ、破顔し、黄色い声で笑いあった。

 橘がコンビニから帰ってくると、香里はジュースとお菓子を一袋持って、今日はもう帰ると言いだした。
 橘はとめたが、また今度と言って、さっさと帰っていく。
 うわわ、余計な気を回さないでいいのに……明らかに気をまわされたと感じる妙子は、面映くなる思いだ。
 二人だけになった部屋の中、橘が勉強机の椅子に座ると、その膝の上にミラクルちゃんがのった。妙子は子猫ちゃんを取られて少しさびしかったが、何食わぬ顔で、
 「この前より大きくなったわね、ミラクルちゃん」
 「そうだね。子猫は成長が速いから」
 「うん。ちゃんと餌をもらっているようで安心したわ」
 「やだな、安藤さん。拾ったからには最後まで面倒はみるよ」
 「そりゃそうよね。うん、いい心がけよ」
 「ありがとう」
 橘がニコリと笑った。
 妙子も誘われるように微笑むが、心臓がドキドキしてきた。
 こうして橘と二人だけになったからには話しておかないといけないことがある。私が誰かと付き合うなんて、バカげた誤解を解かなければ―
 さて、どうやって切りだそう……わざわざ弁解するのも、私が橘に気があるって思われるかもしれないし、でも勘違いされたままじゃもっといやだし……。
 妙子は悩んだ。妙案がなかなか出てこない。すると橘が声をかけてきた。
 「どうしたの、安藤さん。うつむいたままで……もしかして、トイレ? それなら前にも言ったように階段をおりて―」
 「違うわよッ」
 妙子は顔をあげた。声が思わず甲高くなっていた。
 「ち、違うって?」
 驚いて目をぱちくりさせる橘。
 「ほら、この前昼休みに私のところに来たじゃない。そこで私が言ったことで、橘がなんか勘違いしているみたいだから……べ、別に、あらたまって蒸しかえす話じゃないけど、ただ変な誤解をされたままだと私も寝つきが悪いところがあるし、その……」
 しどろもどろとなっていく自分に恥ずかしくなり、妙子はまたうむついた。そこにカラリとした声で、橘が言った。
 「安藤さんが誰かと付き合うって話のことだね。それはもういいんだ」
 「もういいって、どういうことよッ」
 妙子はまた顔をぐわっとあげた。あまりの勢いで首の筋が痛くなったが、心臓もキリキリと痛くなる。微笑んでいる橘に無性に腹が立つ。思わず喧嘩越しの口調で、
 「そうよね、私が誰と付き合おうと橘には関係ないもんね。いいわ、もう好きにするから。バイバイ」
 ベッドの端から立ちあがり、一目散に扉に向かった。
 「待ってよ、安藤さん」
 橘が情けない声で呼びとめてくる。
 「な、なによ。私はもう帰るんだから」
 妙子は扉の前で振り向かずに言った。とても振り向けない。自分でも怒っているのか泣きだしそうなのか、よくわからない表情をしている気がする。
 「そのことは、島津百合子さんが懇切丁寧に話してくれたよ。安藤さんが誰かと付き合うって話は、冗談だって」
 「へッ?」
 妙子は後ろ向きの姿のまま後退し、ベッドの近くで半回転。橘と顔を見合わせた。
 「あら、ユリが言ってくれたんだ」
 「ああ。島津さんがあの日の午後、そう教えてくれたんだ」
 「あの日の午後にねえ……」妙子は呟くように言って、すぐに、ギロリと橘を見下ろした。
 「だったら、なんで今日までよそよそしい態度でいたのよ」
 「ぼ、僕はしてないよ。安藤さんの方が僕を避けていたじゃないか」
 橘の声が張った。
 妙子は、ひるんで一歩後退。
 ヤバイ、その通りだ。
 「ウフフフ……」
 「笑って誤魔化さないでくれよ」
 橘はそう言って、ため息を吐いた。顔は怒っていない。妙子は安心した。
 「いやーゴメンゴメン。そんなつもりまったくなかったけど、あらら、橘にはそう見えてしまったんだねえー」
 頬を指でポリポリとかきながら、ベッドの端に座りなおした。
 「ともかく誤解が解けたようで、私たちの関係も元通り。うんうん、よかった」
 「そうだね」
 橘は賛同したが、次にギョッとすることを言った。
 「でも島津さんはいい人だ。友達想いだし、言葉遣いは丁寧だし、所作もおしとやかで、もう絶滅したと思っていた大和撫子みたいな女性だ」
 「た、橘」
 妙子はまたベッドから立ちあがった。忙しくてめまいがしそうだが、
 「も、もしかして……男の子から見たら、お嫁さんにしたいナンバーワンみたいな、ユリが好きになっちゃたわけ」
 そう息せき切って言った。
 唖然と妙子を見あげる橘は、ため息をひとつ。
 「どうして、安藤さんはそう話が飛躍するのかなあ。そういうつもりで言ったわけではないんだけど」
 「あはは……わかっているって。冗談、冗談よ」
 橘の指摘に穴があったら、いや、自分で穴を掘ってでも入りたいほどに、こっぱずかしい気持ちになり、すぐさま話題を変えた。
 「ところでなにか話があったのよね、あの時、私に」
 「ああ、あったよ」
 橘が居住いをただした。
 「安藤さんに身体を鍛えたらどうかって言おうとしたんだ」
 「身体を鍛える?……どうして」
 胡乱げな顔をする妙子に、橘はつづけた。
 「どうしてって、人類の代表として怪物かなにかと闘うんだから、今のうちに強くなっておいたほうがいいと思って」
 「ノー・プロブレムよ。私にはすごい力があるんだから、どんな化け物でも、それでホホイのホーイだって」
 余裕しゃくしゃくの妙子に対し、橘は気難しげな表情で、
 「そうかもしれないけど、力を使う本人が平時から強かったら、もっと優位に闘えると思うんだけど」
 「えらく心配性ね、橘って」
 「だって相手は容赦してくれないだろうから、ヘタをしたら、安藤さんだって……」
 あまりに深刻な話しぶりで、思わず妙子も焦ってくる。
 「だ、大丈夫だって……でも、まあ一応は考えておくわ、妙子パワーアップ計画を」
 「そうしてよ、安藤さん」
 橘の顔がホッとほころぶのを見て、妙子は歯を見せて笑んだが、心は憂鬱の底に沈んでいく。そうだったわ。私って、そんな重大な役割を背負っていたんだ……ううう、気が重い。うえーん、普通の女の子に戻りたいよう。
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