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しおりを挟む シディは自分としては最速で《荒布》の下へ到達した。四つ足で走ればもっと速かったかもしれないが、今のところは両の足だけで走った。
《荒布》の口は下部でしっかり閉ざされている。それをシディはそっと自分の《魔力の腕》でこじあけた。ほんのわずかに。
「うっ……」
とたん、あのひどい悪臭がきつくなる。真っ黒な靄とともに顔面に吹き付けてくるそれは、生臭く、何かがどろどろに混ざり合って黴たような、大量の臓物の腐臭に似たものを漂わせていた。
が、戸惑っている暇などない。
そのままめりめりと《荒布》の口を広げると、シディはその中に飛びこんだ。
そこからはいきなり《闇》の領域が始まっていた。
「くうっ」
これまでとは比べものにならないほどの腐臭で鼻が利かなくなりそうだ。眼球にまで攻撃的な刺激を感じ、目を開いていることすらひと苦労だ。
と、急にがくんと足もとの感覚が失われた。
「うわっ……!」
シディは慌てた。しかしいくら待っても、予期したような体が地面に激突する様子はない。
なんとか目をこじ開けて見まわすと、周囲はすっかり《闇》の世界だった。
どちらが上でどちらが下なのかもわからない。闇はただすべてが真っ黒というわけでもないようだった。次第に目が慣れてくると、それが微妙な明暗をともなっているのに気づく。それらがぐにゃぐにゃと混ざり合い、まるで生き物のように渦を巻きながら流動的に蠢いている。
平衡感覚が完全に奪われた状態になって、シディはまためまいと吐き気に襲われた。
(どこですか、インテス様……!)
四肢をめちゃくちゃに振り回して周囲をかき回し、無我夢中で進もうとする。だが、まるで粘土の中に嵌まったようでうまくいかない。はたしてちゃんと前に進んでいるのかどうかすら怪しかった。
それでも必死に耳を立て、鼻の感覚に意識を集中させる。ひどい悪臭のためにすっかりばかになりかけている鼻だが、だからといって使わないわけにはいかなかった。
「インテス様、インテス様、インテスさまあああっ……!」
絶叫は虚しく真っ黒な粘土の高いなにかに吞み込まれていくようだ。変に音が吸収されてしまうのか、どうかするときぃんと耳が痛くなる。
これで耳まで使いものにならなくなったらお手上げだ。どうしてもじわじわと焦りが体を浸していってしまう。
だが頭の中心には、依然としてあのあたたかな明かりが灯っていた。それが少しでも弱くなると移動をやめ、方向を確認する。そして灯りの存在を強く感じられる方へ向かって、またもがくのを繰り返す。
いったいどれほどの時間が経っただろうか。
もうそのころには、シディの全身はぐったりと疲れ果て、腕を動かすのもままならなくなりかけていた。それでもなんとか腕を動かし続ける。念じるのはただただ、あの人の名前だけだ。
と、急に呼吸がひどく苦しくなりはじめた。
「うう……」
もともと決して楽ではなかったし、悪臭のためにできるだけ息をすまいともしていたのだが。それがここへ来て、急にひどく苦しくなってきたのだ。水中にいるときほどの苦しさではなかったものが、粘度のある水の中へ放り込まれたような感覚に変化している。
「う……ぐううっ」
まずい。このままでは窒息してしまう。
だが、進まないわけにはいかない。ここでやめてしまうわけにはいかないのだ。絶対に。
しかしシディの望みも虚しく、視界はどんどん狭まっていく。意識が遠のいているのを感じて、シディは狼狽した。
「いん……てす、さま……っ」
──ああ。
死ぬのか。
こんなところで、なんにもできずに──
絶望が忍び寄り、はるか遠くに感じていたほのかな灯りを闇で塗りつぶそうとしている。
これが《闇》。
これが、絶望。
《在る》もののすべてを否定し、すべてを《無い》ものへと誘うものか──
落ちていく。
沈んでいく……
これで、最後。
(インテス様……)
目を閉じた、そのときだった。
ぐぅん、と胸元から凄まじい光が放出された。強くて温かな光だった。
それがふんわりとシディの身体全体をつつんだかと思うと、薄物のローブをまとったようにぴたりと身体にまきついた。と同時に呼吸が急に楽になる。
(えっ……?)
シディは恐るおそるその力の源をさぐった。
それはまぎれもなく、シディが首から掛けていたあの首飾りから放たれている光だった。
《荒布》の口は下部でしっかり閉ざされている。それをシディはそっと自分の《魔力の腕》でこじあけた。ほんのわずかに。
「うっ……」
とたん、あのひどい悪臭がきつくなる。真っ黒な靄とともに顔面に吹き付けてくるそれは、生臭く、何かがどろどろに混ざり合って黴たような、大量の臓物の腐臭に似たものを漂わせていた。
が、戸惑っている暇などない。
そのままめりめりと《荒布》の口を広げると、シディはその中に飛びこんだ。
そこからはいきなり《闇》の領域が始まっていた。
「くうっ」
これまでとは比べものにならないほどの腐臭で鼻が利かなくなりそうだ。眼球にまで攻撃的な刺激を感じ、目を開いていることすらひと苦労だ。
と、急にがくんと足もとの感覚が失われた。
「うわっ……!」
シディは慌てた。しかしいくら待っても、予期したような体が地面に激突する様子はない。
なんとか目をこじ開けて見まわすと、周囲はすっかり《闇》の世界だった。
どちらが上でどちらが下なのかもわからない。闇はただすべてが真っ黒というわけでもないようだった。次第に目が慣れてくると、それが微妙な明暗をともなっているのに気づく。それらがぐにゃぐにゃと混ざり合い、まるで生き物のように渦を巻きながら流動的に蠢いている。
平衡感覚が完全に奪われた状態になって、シディはまためまいと吐き気に襲われた。
(どこですか、インテス様……!)
四肢をめちゃくちゃに振り回して周囲をかき回し、無我夢中で進もうとする。だが、まるで粘土の中に嵌まったようでうまくいかない。はたしてちゃんと前に進んでいるのかどうかすら怪しかった。
それでも必死に耳を立て、鼻の感覚に意識を集中させる。ひどい悪臭のためにすっかりばかになりかけている鼻だが、だからといって使わないわけにはいかなかった。
「インテス様、インテス様、インテスさまあああっ……!」
絶叫は虚しく真っ黒な粘土の高いなにかに吞み込まれていくようだ。変に音が吸収されてしまうのか、どうかするときぃんと耳が痛くなる。
これで耳まで使いものにならなくなったらお手上げだ。どうしてもじわじわと焦りが体を浸していってしまう。
だが頭の中心には、依然としてあのあたたかな明かりが灯っていた。それが少しでも弱くなると移動をやめ、方向を確認する。そして灯りの存在を強く感じられる方へ向かって、またもがくのを繰り返す。
いったいどれほどの時間が経っただろうか。
もうそのころには、シディの全身はぐったりと疲れ果て、腕を動かすのもままならなくなりかけていた。それでもなんとか腕を動かし続ける。念じるのはただただ、あの人の名前だけだ。
と、急に呼吸がひどく苦しくなりはじめた。
「うう……」
もともと決して楽ではなかったし、悪臭のためにできるだけ息をすまいともしていたのだが。それがここへ来て、急にひどく苦しくなってきたのだ。水中にいるときほどの苦しさではなかったものが、粘度のある水の中へ放り込まれたような感覚に変化している。
「う……ぐううっ」
まずい。このままでは窒息してしまう。
だが、進まないわけにはいかない。ここでやめてしまうわけにはいかないのだ。絶対に。
しかしシディの望みも虚しく、視界はどんどん狭まっていく。意識が遠のいているのを感じて、シディは狼狽した。
「いん……てす、さま……っ」
──ああ。
死ぬのか。
こんなところで、なんにもできずに──
絶望が忍び寄り、はるか遠くに感じていたほのかな灯りを闇で塗りつぶそうとしている。
これが《闇》。
これが、絶望。
《在る》もののすべてを否定し、すべてを《無い》ものへと誘うものか──
落ちていく。
沈んでいく……
これで、最後。
(インテス様……)
目を閉じた、そのときだった。
ぐぅん、と胸元から凄まじい光が放出された。強くて温かな光だった。
それがふんわりとシディの身体全体をつつんだかと思うと、薄物のローブをまとったようにぴたりと身体にまきついた。と同時に呼吸が急に楽になる。
(えっ……?)
シディは恐るおそるその力の源をさぐった。
それはまぎれもなく、シディが首から掛けていたあの首飾りから放たれている光だった。
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