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第8話 愛情

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 「愛せませんか?」
   畑中ふみ子は、その一言に驚いた。
引きこもりの娘の泉の事で、心身共に疲れきっていた。


  母親としても人間としても。

  泉の姉のアキは、大学も就職も結婚も孫まで産まれ順風満帆だ。


  同じ親から産まれた妹の泉は、25歳で引きこもりのうつ病を患っている。育て方を間違えたのか、本人の意思なのか、未来すら見えない毎日だ。


   当事者の泉は、食事と通院の日にしか自分の部屋から出てこない。姉のアキの話題を出せばヒステリーを起こす。


  1度は、あまりの暴言に夫の達彦のいない日中に叩いてしまった。泉は黙り込み涙を子供のようにポロポロ流して部屋へ行ったまま、その日は出てこなかった。


   にっちもさっちもいかなくなり、泉の通院しているハヤセエイトクリニックに来て、担当医から言われた一言がそれだった。


   「お嬢さんを、愛せませんか?」
  静かで、担当医のノートパソコンのテーブルと観葉植物しかない診察室。

  「それは、どういう事ですか?」
  ふみ子は、自分の声がわずかに震え、静かな部屋に震えながら反響しているのが分かる。


  ハヤセエイトクリニックの担当医のは、心療内科にしては図星をついてくる。



   「ご長女のアキさんには、お義母様は何の不満も持っていらっしゃらないような感じますが、泉さんには悩んでいらっしゃる。それは何故でしょうかね?」     
    60代くらいの男性の担当医のハヤセがゆっくり微笑みながら言うので、ふみ子の頭は混乱し、真っ白になった。



  「そ、それは、泉は25歳で仕事もていないし、結婚もしていないし、恋人だって当たり前ですがいないし、アキを話題をするとヒステリーを・・・」
    最初はうわずった声で、後半はしりきれとんぼのように声が小さくなった。


  「私は、泉さんの現在の立場を聞いているのではなく、お母様がアキさんと同じように泉さんを愛せないのは、何故でしょうか?とお聞きしています」 
     担当医が、少し困惑したように微笑んだ。


   「分かりません・・・」
   思わず出たふみ子の言葉に、担当医がパソコンに打ち込むタイピングの音だけが響く。

       自分の発言に、ふみ子は違和感を抱いていた。なぜなら、今の返答は嘘だからだ。


   シワの増えた両手をきつく握りしめ、ふみ子は下を向いた。


   違う。本当は、世間体を気にして、私は焦っているのだ。泉のお友達や同世代は、ほとんどが就職しているか、結婚している。


   夫の達彦の親戚から電話で、泉が何をしているのかと聞かれれば、見栄をはり、バイトをしていると言ってしまう。


   どこかで自分の娘が世間に対して恥ずかしいのだ。


   母親として、私はなんて事を思っているのだろうか。


  「今の時代、我々の世代と違いは、お嬢さん達の世帯は、選択肢も多く、生きずらさを感じてい世代です。努力しても報われない時代に生きている娘さん達は、お母様をどう見ていらっしゃるんでしょうね?」
    質問でもなく、詰問でもない担当医の言葉は、まるで独り言のようだ。


   「なぜ、泉さんだけを愛せないのか、今度までに考えてきて下さい」
     パソコンで次の予約をいれると、退室をうながされた。


   ふみ子は、お会計をすませ、初夏の風が生暖かく吹き付ける外へ出る。

 
  受付のパートの人に「お大事に」と言われたが、うなずくのが精一杯だった。


   「愛せませんか?」
  泉の担当医の言葉は、ふみ子の頭から冷や水をかぶせたように焦り、苛立つふみ子の芯から冷やしていく。


   私は、条件や立場で娘達を愛している。エゴでしかない。


   私はいつから、娘達の世間体からのラベルで娘達を見るようになったのだろうか。


   産まれた時は、健康に産まれてくれただけで感謝をしていたと言うのに。


   私の娘達への愛情は、いつの間にか自分の世間体からの目に怯えている心へとすりかわっている。


   ふみ子は、愕然としたまま一歩歩きだした。


   
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