君へのプレゼント

長谷川 ゆう

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転居

君へのプレゼント

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「あれ?」
 朝の慣れない3日目の転居した市のゴミだしを終えて、まだ3月とはいえ寒いせいか庭にある一本の椿の木の下の枯れ葉を拾って、捨てようとして椿の下に、何かあることに気がついた。


 45歳にして20年連れ添った夫が失業し、離婚。

主婦だった明美は少しの慰謝料と祖父母の築35年の相続されていた家へ転居した。
幸いなのか、不幸なのか子供はいなかった。

後ろに住む祖父母と仲の良かった80代の老夫婦は、明美が戻ってきても嬉しそうに受け入れてくれたが、左隣の人は明美と同じか50代の静かな細身の男だった。

平日にも関わらず挨拶に行ったら引き戸の玄関を半分だけあけて、「どうも」と一言言われて閉められた。

離婚直後と転居で疲れていた事もあり、近所付き合いはしない事に決めていた。

恐る恐る椿の木の下を見た。
「えっ?何、これ」

椿の下にあったのは、30年前に祖父が通り魔に殺された日の、日に焼けた新聞とその上には祖父が大切にしていたが殺される前日に失くなった文庫本が置いてあった。
 
  一瞬、手に取るのを躊躇ったが一気に引き寄せ ると文庫本に挟まれた栞が出ていた。そのページを開くと明美は、絶句した。

もともと本にペンを入れる事を嫌っていた祖父の本の一部の一文にくっきり赤いマーカー線が引かれていた。

それも、「ごめんなさい」という文章だけだ。どんなにページをめくってもだ。

明美はまだ寒い3月にも関わらず、枯れ葉を拾う事も忘れ新聞と文庫本だけを持ち立ち上がった。

後ろに住む田中さんご夫婦と左隣に住む男の家と明美の家は庭でL字で、腰までしかない申し訳ない程度の境界があるだけだ。

そのL字の角に椿の木はある。
どちらの家が明美の家の庭の椿の木の下に腕だけ伸ばして置くことは可能だ。

どちらの家も早朝のせいか静まりかえっている。明美は怖くなって祖父母の家へかけこんだ。

駅前にある交番に夕食の食材を買った帰りに寄った。
  「30年前の事件ねぇ。分からないなあ」
 気の良さそうな60代くらいの男性の刑事さん    が困った顔をした後、家の庭は公道にも面しているため引っ越してから、いたずらじゃないかなと言いつつ、調書は作ってくれた。


「え?お祖父さんの本が?」
夜に離婚した元夫から電話があったのは夜8時くらいだった。

離婚したとはいえ、失業し買った家のローンがまだ残って借金になる、明美には負担をかけるからとの離婚だった。

聡は時々、連絡をくれた。
「その家、かなり古いんだろ?治安とか大丈夫     なの?」

「まあ、後ろ田中さんは祖父母からの知り合いで息子さんは自立されて家族がいるみたいだし、隣の無職みたいな男くらいかなあ?」

「俺もだけど、無職は、はは。でも新しい仕事が見つかりそうなんだよ」

「そうなんだ!良かった。」

「離婚されたのに喜ぶなんて、相変わらずお人好しだなあ。明日も仕事探しあるから、また」

聡と電話して落ち着いたのか、もう一度、茶の間のテーブルに置いた、その文庫本をめくった。

「ごめんなさい」の赤いカラーペンの色は当たり前だが消えてはくれなかった。

次の日は、椿の木の下に少し田中さん夫婦よりの庭の上に同じように新聞の上にまた祖父の文庫本があった。

二冊目だ。恐る恐る文庫本を取るも明美は怖くなり、とりあえず昨日の一冊目の文庫本の上に置いた。


確か祖父が殺される前に、10冊の文庫本が失くなったと本好きの祖父は怒っていた。まだ15歳の反抗期だった明美は、本くらいまた買えばいいじゃないと言うと祖父は悲しそうに言った。

「全部、明美が産まれた年から買った、明美の産まれた日に出版された本なんだよ。だから大切なんだ」

今でも初孫だった事を忘れ大切に思ってくれていた祖父の悲しそうな顔が忘れられない。
確か、あのあと祖父は何かを呟いていたような。
  
「大輔か・・・痛っ」
一人分の朝食を作ってレタスを切りながら考えていたら思い切り指を包丁で切ってしまった。

慌ててマキロンとバンドエイドを取りに茶の間に行った。

大輔。

確か祖父の後を追うように亡くなった祖母が亡くなる前に病院でうわ言のように呟いていた。
「大輔は許さない」と。

確か、田中さんの家の息子さんの名前が大輔だった。文庫本と穏和な祖母が許さないと言う程の田中さんの息子とあの「ごめんなさい」は何か関係があるのだろうか?
茶の間のテーブルの上の文庫本を明美は不安な気持ちで見た。

朝食をとり、郵便局と夕食の買い出しに行こうと玄関を出た時だ。かん高い頭の悪そうな女の声が飛んできたのは。

「うっそ!この家狙ってたのに~!おばさんにとられた!何とか言ってよ!だいすけ!」

ご近所トラブルはうんざりだと無視をしようとした時、耳に入ってきた「だいすけ」と言う言葉に思わず振り返ってしまった。

左隣に住む男の玄関と祖父母の玄関は庭から続く境に両隣だ。
やたら話す女は20代後半か、やたらケバく香水の香りをまきちらしながら、こちらを睨んでいる。

今は中古物件を狙う人が多いと聡から聞いてはいたが、この女には祖父母の家は渡したくない。

その女は珍しくコートを着て普段どおり暗い顔をした左隣の男にがっちり腕を絡ませていた。仕事をしていないわりには、女はいるのかとおばさんは心の中で毒ずいた。

少し頭を下げて明美はさっさと歩き出すと、何とあの男に止められた。
あの男としか明美が分からないのは、なぜか表札にガムテープがびっちり貼られて名字すら分からないからだ。


「あの、佐藤だいすけです」
ほとんど聞き取れない声だった、
「もう、こんなおばちゃんいいから、買い物行こうよ~だいすけが買ってくれるっていったじゃん、このカバンもこの家も!」

最後の、この女の「この家も!」にカチンと来て明美は歩き出した。背中越しに、さとうだいすけの蚊の鳴くような声が追ってきたが、女のかん高い声にかき消された。

    郵便局の用事と夕食の買い出しを終わらせ、昨日と今日は文庫本の事でかたずけられなかった椿の枯れ葉をまとめていたら、急に田中さんの家の2階の窓が開いた。

「明美ちゃん」
「ひっ」
思わず大輔と言う名前を思い出してから、尻餅をついてしまった。

     田中さんの奥さんの松さんだった。


「あら、驚かせちゃったみたいねえ。ごめんなさいね。偉いわね、末一さんも勝さんも喜んでるわよ。素敵なお孫さんを持って!」

    末一(まついち)は、殺された祖父で勝(かつ)は祖母の名前だ。かなり長い間、仲が良く祖父が殺された時は、かなり落ち込み、話しかけてかた松さん、旦那さんの茂さんは、長い間塞ぎこんでいた。

    
私の結婚が決まった時には喜んでくれて、離婚しても何も言わない夫婦だ。

「あの、息子さんの大輔さんはお元気ですか?」
    頭を少しのけ反らせながら、大声で聞くと隣であった女とは違う憎しみが松さんの目を通りすぎたので、明美は一瞬ひるんだ。

その目が元に戻ったかと思うと、枯れ枝のように痩せてしまった手をヒラヒラさせながら、カラカラと松さんは笑った。

「元気も何も孫の受験のための塾代が高いだのうるさくって仕方ないわよ!明美ちゃんも体に気をつけてね!」
そう言うと松さんは窓を閉めてしまった。

何だかもやもやしたまま、家に入り自分にも子供がいたらそんな歳かと寂しくなった。

夜8時の聡からの電話は、毎日になった。
「えっ?またあったの?お祖父さんの本が」
さすがに聡ですら気味悪がりだした。
祖父が殺された事は結婚前に聡には伝えた。

明美を想って仕事の合間に祖父の通り魔事件について一年も調べてくれた。


     結局、近所の誰もいない公園で昼間、何者かにより刺された末、失血死で死んだ事までしか警察と同じく犯人に行き当たる事はなく、明美以上に悔しがってくれた。

「本にはまた何か書いてあったの?ペンで」
「それが、怖くて開いてない」
少しの間があり、何かあれば明美の家は知っているから行くから安心して、と聡から言われてやっと二冊目の文庫本を茶の間のテーブルからとった。

「あっ」
出版日が明美の一歳の誕生日だった。最初の文庫本も出版日を見ると明美の産まれた日だった。

また栞が挟まれていた。スマホをスピーカーにしてページをめくり明美は動けなくなった。
「どうした?」
スピーカーから聡の心配そうな声が聞こえたので、やっと声がだせた。

「また同じ赤いカラーペンで、文字に線が引いてある」

「なんて?」
「大輔が悪かったけれど、それは本当じゃない」
「何だ、それ。大輔って確か、田中さん所の息子の名前だよな?46歳で俺と同学年の」


その後は、明美はただ聡に、頷くのが精一杯だった。

   とても、左隣にもだいすけが居るなんて心配を求職中の聡にかけたくなかった。

     次の日から庭を見るのが怖くなった。
次の日は祖父母の遺品整理に没頭した。家を出なくて良いし、何より体を動かせば考えなくてすむ。

祖父母の遺品は数少なく、3時間程で終わってしまった。一つ気になったのは、祖母の勝が残した一冊の日記だった。

明美の祖母はもともと日記を書く人ではなかった。社交的で本好きの祖父とは違いいつも出歩いてはいろんなボランティアに参加する人だった。

普通の大学ノートに、亡くなる直前に書かれたものなのか5ページしか書かれていない日記だった。

  1日、1ページで5日分だ。祖母らしい凛とした文字で懐かしくなった。1日久しぶりに家で時間を潰そうと思い、読む事にした。

8月◯日、晴れ。
やはり、夫は大輔に殺された。
警察に行っても時効だし、おばちゃんがボケたと思い、病院の看護師も戯言としか聞き流す。今さら子供達にも明美にも、大輔の事は話せない。
あんな事があったら尚更だ。
悔しい。何で当日、夫と出掛けなかったのか悔やまれる。

8月◯日、曇り。
大輔が、お見舞いに来た。
外ずらだけは相変わらず良く、看護師にも好意的でお見舞い良かったわねなんて言われる。
まだあの2人だけは来ない。
来て欲しくない。
あの2人がきたら、私は夫と同じく殺される。

8月◯日、曇り。
今日は明美が来た。
大輔と鉢合わせしなくて本当に良かった。
あの2人とも。明美の旦那さんの聡さんは本当に優しくて地味だか真面目な男性で良かった。

8月◯日、雨。
あの2人がついに来た。
怖くてナースコールを押す手を若い女に止められた。ずっと、夫、末一の事は黙っていろと耳元であの2人が言う。
怖くて心拍数が上がったのか、看護師が直接来た。そそくさと帰って行った。

8月◯日、晴れ。
せめて、いつか明美にだけは真実を残そうと書きだした日記だったが、意識が混濁してきた。明美、あなた、何も出来なくてごめんね。
せめて、この日記が明美の元に届きますように。
    そして、明美が私達が暮らした家に近ずく事なく聡さんと末永く幸せに暮らせますように。大輔とあの2人と若い女には出会いませんように。

30年前の日記にも関わらず、明美は思わず日記を手から滑りおとしてしまった。

    大輔は、田中夫婦の息子か左隣の男、さとうだいすけだろう。その2人しか明美には思い付かなかった。

    祖母が書いたあの2人と若い女が交遊関係の広い祖母だけに、想像がつかなかった。

  そして、明美は祖母が最後まで痴呆ではなかった事も知っている。

   祖父が大輔に殺された。その口止めすら2人と若い女にされていた。

   その事実に怖くなり明美は、日記を元の場所に戻しふらふらと、自動的に自分の為の夕食作りの為に台所に立った。

   夜8時に聡から電話が来たのがせめてもの救いだった。
 
「日記?あの、勝さんが?」
聡が珍しく素っ頓狂な声を出した。明美から聞かされていた祖母の勝の話はどれも外交的て家で何かをする人ではない。

    明美の祖母は夫の末一が殺された時ですら、弱った気持ちを鼓舞して犯人を倒れる日まで、毎日探し回っていたくらいだ。

「で、日記には何て?」
聞きずらそうに聡が言ったが、明美は自分で伝える自信がなかった。聡がただ読んでくれれば良いよと言ったので、明美は祖母の日記を一文字一句間違えずに読んだ。

「大輔に殺されたって・・・勝さんが怯える2人と若い女も誰だろう・・・」
さすがの聡も明美の祖母の勝の交遊関係が広い事を知っていて困惑した。

    明美は茶の間のテーブルに置いたままの2冊の文庫本の上に、そっと祖母の日記を重ねて置いた。

    不安なら、少しその家にいようか?と申し出てくれたが求職中で明らかに毎日忙しそうな聡の申し出を明美は断った。

   次の日、ゴミ出しのために玄関をでると左隣の佐藤だいすけが、自分の家の玄関前に立って、こちらを見ていた。
「ひっ」
思わず出た声と同時に、生ゴミの袋を2つ落としてしまった。 


   慌てて落とした事に驚いたようにして明美は生ゴミの袋を屈んで拾った。
背中に冷たい汗がつたっていった。

「昨日は、失礼しました。あの、女性がいろいろと」
     ボソボソした小さな声だか謝罪の気持ちが入った声に明美は男の顔を見た。

相変わらず細く覇気もなく弱々しく立っている。
 
「いえ、あの方から見ればおばさんですから、気にしないで下さい」
     
     明美は早くゴミ出しでも家でも良いから、この場所を逃げ出したかった。

「あとこれ、今、ゴミの中から落ちましたよ。では」
      
      受け取った2冊の文庫本に明美は手が震えた。明らかに生ゴミの袋から、明美の物ではない文庫本だ。それはまぎれもない、祖父の文庫本だった。

気がつくとさとうだいすけは、家に入ってしまっていた。明美は怖くなり、慌ててゴミを出して家に入った。動悸が鳴り止まない。

   明美の震える手の中にあるのは、紛れもない祖父が殺される前に消えた文庫本だ。二冊の文庫本には、二冊とも栞が挟まれていた。

    大輔とは左隣の佐藤だいすけの事だろうか。明美は混乱した。祖父母とあまり近所付き合いをしていない家だと明美は祖父母から聞かされていた。

    でも祖父が殺されたのは30年前だ。もし左隣のさとうだいすけが犯人だったら、明美と同年代だったら15かそこらの年齢だ。

   聡から電話が来るのは夜8時だ。明美は腹をくくって茶の間に行って、その2冊の文庫本を開く事にした。

   一冊目の文庫本の栞のページを開くと、またあの赤いカラーペンで文字に線が引かれていた。
  
「浮気をしたから」
      その一言だった。明美の祖父母がとても不倫をする人物だとは思えない。80代でも田中さん夫婦も円満に見える。
やはりこのカラーペンは祖父が書いたのではなく、他人だ。

   明美は2冊目の文庫本の栞のページを開いた。
「全部、若かったから」
セリフの一部に赤いカラーペンが引かれていた。

    最初の2冊と祖母の勝の日記を合わせれば、祖父を殺したのは大輔という人物で、2人の人間と若い女が何か関係していたが、この2つの文章を合わせたら、不倫と女というチグハグな展開になる。

   明美は、だんだん自分の置かれた状態が怖くなってきた。友人もいるがみんな結婚し子供もいて忙しい。頼れるのは20年連れ添った聡だけだった。

   夜8時に聡から電話があった時、隣人から文庫本を手渡された事を伝えた。

     聡は、心配だからと新しい会社の面接には明美の家から行くと言って着替えを詰めて明美の転居した祖父母の家に来てくれた。

     「お邪魔します」
照れくさそうに聡は、夜10時過ぎに明美の家についた。
    
   茶の間のテーブルの上にある文庫本4冊と明美の祖母の勝の日記を聡は、難しそうな顔をして読んだ。

  「何だか、物騒な内容だな、全部。話は文庫本のジャンルはどれもバラバラだけど、明美のお祖父さんの事だな」
    

      祖父母や大輔と言う事で頭がいっぱいになっていた明美だが、本のジャンルまでバラバラな事には気がつかなかった。

      昔からこの人は見る視点がいつも鋭いのだ。あまり表情を出さない明美の少しの違いの表情すら読み取る事が出来たのが聡だった。


    「この調子だと、明日も庭には文庫本があるかもな。面接に行く前に俺が見てくるよ」

さすがに突然、聡が庭に出るのも妙だからと明美は自分も行くと言った。
 
    その日はいつも通り明美は茶の間で、聡は祖父が使っていた部屋で眠った。

     次の日から結婚していた時のように、明美の作る朝食を聡と食べた。お弁当も渡すとなんだか悪いよと言いながら聡は明美のお弁当を鞄に入れてくれた。

    二人で庭に出ると、椿の木の下にはまた祖父の文庫本が2冊置いてあった。

    突然、田中さんの家の2階の窓が開いた。
「あれっ、明美ちゃんじゃないか」  
松さんの旦那さんだったが、明美の横にいる聡を見るとあからさまに嫌な顔をしたが、一瞬でその表情を笑顔に変えた。

    この夫婦は何でこんなに明美にいろんな顔を見せるのか。

   「いやあ、お久しぶりです!離婚していろいろご心配かけましたが、明美のお祖父様の家の修理を明美から頼まれまして、数日間お邪魔させて頂きます」
    怯んでいる明美の横で、営業をしていた聡はあっさりホラを吹き上手く切り抜けてくれた。


     気がつけば、背中に回した右腕の聡の手にはいつの間にか2冊の文庫本まであった。

「そうでしたかあ、いやあ、聡さんがまた明美さんとよりを戻さないかなあ、なんてうち家内と話してたんですよ!古い家の修繕は気をつけて!」
  そう言うと、松さんの旦那さんはあっさり窓を閉めた。

    明美は無言で聡と家に入った。聡は手にした2冊の文庫本を手にしたまま呟いた。


「あからさまに、敵視されたな俺」
     首をひねって、明美は文庫本は自分が帰るまで見ないようにと聡から言われた。

「ウッそ!あのおばさん男いたのお?」
       聡を送り出そうと二人で玄関から出ると、またバッタリさとうだいすけとその女の出かける場面に遭遇した。

    「失礼だろ」
佐藤だいすけは、一言女に言うと、明美に軽く頭を下げた。

    「私の元旦那です。ちょっと職場が近くなったもので馴れるまで数日間、この家から出勤しますので宜しくお願いします」

     明美は、ある程度の口実を作ってこの場は、やり過ごしたかった。

    明美に一歩遅れて聡は軽く頭を下げた。
「ふーん!」女はつまらなそうに、さとうだいすけの腕をグイグイ引っ張りながら行ってしまった。
     
      「女の子は今どきの子だね。あの男は隣人の?」聡はそれだけ言うとたいして女の言葉を気にもせずに面接に向かった。
    
    明美は聡が帰るまで文庫本は気になったが、いつも通り家事をして聡と二人分の夕食を作るために買い出しに出た。

    八百屋でばったり田中さんの奥さんの松さんと会い思わず明美は笑顔がひきつったが、話し始めたのは松さんの方だった。

   「あら、明美ちゃん。朝はうちの旦那が何だか失礼な事を言ったみたいでごめんなさいね。うちの人と違って聡さん、本当に良い人なのに、あの人ったら恥ずかしい!」
     
   松さんは、一瞬「うちの人と違って」の言葉の時にまたあの憎しみが混ざったような目をした。

      明美は松さんとは、そのあとは当たり障りのない話をして別れた。

 
     家に帰ると聡が先に帰っていた。面接が上手くいきそうだと久しぶりに明るく笑っていた。
  

      明美が作った聡の好きな酢豚と野菜スープの夕食を食べ終わると、聡が朝拾った文庫本の2冊の文庫本の栞のページを開いてくれた。

     恐る恐る明美も本を覗きこんだ。同じ赤いカラーペンで線を引かれていた文字は、「かくまう」だった。

   2冊も聡がページを開くと線が引かれいた「子供を叩くなんて」だった。

  六冊目にもかかわらず、話がますます明美の祖父の通り魔殺害から離れていく。

   なぜなら、明美も明美の親も祖父母に叩かれた事も、かくまわれるような危ない人生を送った事もなかった。

   「何かの、ただのイタズラかな・・・」明美も毎日の不可解な30年前に殺された祖父の文庫本の毎朝の贈り物に疲れてきていた。

    
   誰かがこの家に戻ってきた明美を見て面白がっているのかもしれない。

    聡はずっと黙っていた。 
「言うか迷ってたんだけど、少し待っていて」そう言って聡は寝泊まりしている祖父の部屋に消えてしまった。

     数分すると聡の手にはずいぶん古い男の子が着るような3枚のTシャツが握られていた。

    「昨日、眠るために部屋を少しかたずけたら、押し入れからこの子供用の服が出てきたんだ。この家、男の子なんて、いないよな?」
    
    明美の昔の服でもなければ、この家には男の子なんていなかった。

     困惑している聡の持つ3枚のTシャツをじっと見ていた明美は思わず息を飲んだ。いくら古く黒ずんでいるとはいえ、それは明らかだった。

    聡が持っていた3枚のTシャツの襟首に、それは紛れもなくついていた。

   「聡、それ、古いけど血のあとじゃないかな... 」

   明美は唖然とした。
祖父母が孫の自分も知らないような事を隠している事は確実だった。

殺されたのは、明美の祖父だ。
なのに、何で祖父の部屋に血のついた子供服があるんだ。

   明美は、まるで祖父が殺害されたのは、通り魔ではなく、何かいきさつがあってならないような気がしてきた。

    「お祖父さんの事もこの服の事も全部分かるまでこの家にいるから、泣くな」

    聡に言われるまで、明美が自分がポロポロ涙を流している事にすら気がつかなかった。

 
     次の朝、まるでゴミを捨てるかのように、投げやりに明美の祖父の文庫本の十冊のうちの最後の四冊が椿の木の下にバラバラに放り投げられていた。
  
最後の4冊の赤いカラーペンで線が引かれた文字は一気に見た。

「暴力」
「再婚だった」
「あの男のせいで」
「殺したのは僕だ」

仕事が決まった元夫と明美は何度も読み返したが、明美の祖父が殺害された事と検討がつかなかった。

  元夫婦で途方にくれていたら、チャイムが鳴った。転居してから家に来たのは引っ越し業者だけだった明美は、自分の家のチャイムだと気がつくのに、数秒かかった。


玄関を開けると、そこには松さんと左隣のさとうだいすけさんが並んで立っていた。

 「明美ちゃん、椿の花言葉を知っている?控えめな素晴らしさなの」

突然の事で明美も後からきた聡も面食らった。

明美は聡の同席のうえ、松さんとさとうだいすけを茶の間に通した。

数分間、沈黙が続くと突然佐藤だいすけが口を開いた。

「明美さんの祖父を殺したのは、僕なんです」
一瞬、明美はさっきの文庫本の文をなぞった言葉に耳を疑った。

「え?何で?何が?」

動揺する明美を無視してさとうだいすけが続けた。

「お祖父さんの文庫本を盗んだのも僕です」


「30年前に10歳だった僕が末一じいちゃんを公園で、カッターナイフで刺して、倒れた末一じいちゃんを置いていったのも僕です」

明美の知らない人間が明美の祖父を親しげに呼ぶのに混乱した。


「うちには大輔なんて子供は本当はいないの。息子すら、子供すら、私達夫婦にはいないの。いるとしたら夫の子供の、今、私の隣にいる、佐藤大輔だけなの。本当に、嘘ばかりで、明美ちゃんごめんなさい」

松さんが、突然おでこをを畳に擦り付けて土下座して泣いた。

「大切な事なのでちゃんと話してくれませんか?」聡が話を促した。

    事の真相は、30年前に起こった。
松さんは、初婚。旦那の田中は再婚で連れ子の10才の大輔がいた。田中の元妻である女性は旧姓の佐藤に戻った。

   離婚の理由は、田中による酷い暴力と女ぐせの悪さだった。松さんは何も知らず結婚。

  結婚当時から、松さんと大輔に対する殴る蹴るの暴力は始まった。大輔を松さんは庇ったが、毎日の暴力は酷くなるだけだった。

   時々、田中の元妻の佐藤が金の無心にくる事もあり、松さんも大輔も体力的にも精神的にも限界を越えていた。

大輔の実母は10代で、金の無心は十万、二十万は当たり前だった。

     そんな時、松さんの前の家に引っ越して来たのが末一と勝だった。

      松さんの悲鳴のような声と田中の怒鳴り声は最初はテレビか何かと思ったらしい明美の祖父母だったが、毎日聞こえる悲鳴を心配して、祖母の勝が松さんに話しかけた。

    松さんは、せきをきったように勝と末一に全てを話したらしい。

    すでに70代になり子供も自立して、孫もよく預かるから、大輔君だけでも少し預かろうと末一と勝は、大輔を時々、預かる事になった。

   しかし、それが災いした。
      その事に気がついた田中は、末一と勝に懐く大輔がますます気に食わなくなり、暴力が酷くなったという。

     末一さんも、勝さんも、子供に暴力なんて酷い、警察にかけあうとまで言った勝と末一を、
松さんは田中の暴力の報復の恐怖から止めた。

      そんな事が半年繰り返された。大輔は、暴力をふるわれては庭の壁を渡って末一と勝の家に転がり込んだ。

     ある日、大輔は末一の部屋で、綺麗な新品の本を見つけた。


    聞けば、末一じいちゃんが可愛がっている孫の、明美さんが産まれた出版日から誕生日の本を集めていると、末一じいちゃんは嬉しそうに末一は話したと言う。

   大輔は毎日辛いのに、こんな幸せな子供がいると思って悔しくなって、本を全部、自宅に持って帰った

「お祖父さんの部屋にあるあのTシャツは、君のもの?」聡が聞くと大輔はこくんとうなずいた。

     明美の祖父が殺されたのは、その次の日だった。やはり本は謝って返そうと大輔は本を持って、末一を昼間の公園に呼び出したという。
 
     大輔はひたすら無言の末一に謝った。
       そしたら、末一が突然、泣き出した。大輔はてっきり盗んだ事を怒っていて、大切にしていた明美さんの本が盗まれた悲しさで泣いていたと思った。

     泣きながら末一は大輔に昼間の公園で言ったと言う。

     「子供に、たった10才の子供にこんな事をさせる気持ちにさせるなんて、酷い親だ」


    その後、不幸は起こった。

     こんな辛い事は終わりにしよう。大輔、家に来なさい。子供にこんな事をさせるのは親なんかじゃない。

     10才の子には酷な話を承知で末一は話したのだろう。

    話は分かる歳だ。でも、大輔はまだ子供だった。どんなに殴られようが田中は大輔の父親だった。

    「父さんの事を悪く言うなあああ!」

      半狂乱になった大輔は、普段から父親の暴力から身を守るために無意識にいつも持っていたカッターナイフを末一の腹に突き刺した。

    気がついた時には、末一は倒れていて子供の大輔は恐くなって、文庫本を抱えたまま逃げた。

     帰って来た大輔の血のついた服に気がついたのは松の旦那の田中だったと言う。松はたまたま不在だった。父親の田中は大輔に全てを聞くと、田中は家を飛び出して行ったという。


     

     末一の遺体が昼間の公園で見つかったのは、すぐその後だった。

    その後、勝は松や大輔に末一の事を何か知らないか?と散々聞いてきたと言う。

   

   勝が体調を崩し入院が決まった日だった。勝が庭の椿を最後に見ていたら、松の旦那が出てきたと言う。

     「勝さん、息子が世話になったな、早いけどお見舞いだよ」   
    田中は末一の血のついた文庫本を一冊、椿の木の下に投げ捨てた。大輔は逃げる時、一冊落としたのを田中が見つけ証拠隠滅のため持ちかえっていた。

    

  その時、明美の祖母は夫の末一がこの一家に殺された事を暗に知った。

    気丈な勝だったが、その場で倒れて入院しそのまま亡くなった。

     日記に書いてあった大輔は、明美の目の前にいる大輔、二人とは田中夫婦、若い女は田中の新しい不倫相手。末一を殺害した後も松の女ぐせの悪さはなおらなかった。

    そして、暴力を振るわれようが大輔、佐藤大輔は勝が亡くなるまで、実の父親をかばい続けた。

     しかし、松は大輔の成人後、血の繋がりもない大輔を夫から引き離したくて田中の元妻に頭を下げて、大輔だけ母親の旧姓の佐藤に戻した。

   長年、父親の暴力を受け続け末一を刺した過去から大輔はまともに社会にも出られず、松が買い取った中古の明美の左隣の家に住み続ける事になった。

      明美は呆然と松と佐藤大輔を見ていた。

「椿の木は、末一さんが凄く大切にしていた木なの。勝さんにとって唯一の支えだった」松が震える涙声で小さく呟いた。

     静まりかえった茶の間に聡の声が響いた。
「あの、田中さんは、旦那の」


松が真っ赤な目をして明美と聡を見て、全てから解放されたかのように笑った。

「家で、ぐっすり眠っているわ。一生目は覚まさないから安心して。私も大輔も、ここには戻らないから、明美ちゃん、私と大輔は、一生償う」


     明美と聡の耳に遠くからけたたましいパトカーのサイレンの音が聞こえた。

  

  「末一さんは、明美さんが成人するまで本を集めて、成人したら20冊プレゼントするんだと僕に話していました」大輔が震える声で呟いた。

   よく見ると明美の前に置かれた最後に庭にバラバラに放り投げられた末一の文庫本の中の一冊の背表紙には、血が黒ずんで茶色くなった点がいくつもあった。



     まるでそれは、枯れた椿の花びらが茶色く枯れて命を終えて散った後のように。

  椿の赤い花言葉には、もう1つ意味がある。
「謙虚な美徳」
                                                     〈終わり〉



                                          




  


          









     

     











     

      





  
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