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2、【始まり】
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「帰宅した」
「おかえりなさい! お味噌汁温め直しますね」
玄関で靴を脱いでいる部長の背中を見るなり、私は急いでキッチンへ向かった。鍋に火をかけ、リビングに戻ると小さな白い箱を手にした部長が立っていた。
「改めて、おかえりなさい」
照れているのか、そっぽを向きながら小声で「ただいま」と部長は言った。不思議な感じだ。付き合っていない男女が一つ屋根の下で暮らし、互いの帰りをこうして待っている。「ただいま」「おかえり」という何でもない挨拶も、この状況だと特別な挨拶のように思えてくる。
「……イチゴだ」
「……この小さな箱の中にですか? イチゴが入っているようには見えないですけど……」
「ケーキだ。箱の側面にケーキ屋のロゴが描かれているだろう?」
「……ん!? これって、駅前にあるお店のケーキじゃないですか!?」
「あ、あぁ。それがどうかしたか?」
「このケーキ屋さん、引っ越してきてから、ずっと気になってたんです! でも、ケーキを買うお金が──あ、いえ! い、今のは忘れてください! 部長、ありがとうございます! 冷蔵庫に入れておきますね。食後のデザートにしましょう! あ、お味噌汁温まったようなので、食卓に並べますね! 着替えてから、ご飯にしますか?」
「あぁ」
「分かりました!」
「……まったく、一人でよく喋る奴だな。……今度、あの店に連れてってやるか」
夕飯の準備も整い、スーツから部屋着に着替えた部長も席に着いたので両手を合わせ、「いただきます」と挨拶をしてから食事は始まった。これも二人で決めたルールの一つ。【きちんと挨拶をする】に含まれている。
「お口に合いましたか? 味が薄かったら言ってくださいね? まだ部長の好みがよく分かってなくて……」
「味噌汁はちょうどいいが、煮物はもう少し味が濃いほうが好みだ。魚の焼き加減も申し分ない。特に、このきんぴらが美味いな」
「そんなにがっついて食べなくても……。でも、よかった。お口に合わなかったらって心配だったから」
「木浪は、料理の腕は確かだからな。俺の好みは気にしなくていい。こうして温かい料理を口にできるだけでも有難いんだ。木浪が食べたいものを作ってくれて構わない」
「あ、ありがとうございます……」部長は本当に飴と鞭の使い方が上手い。素直に褒めるから、すごく嬉しい。
「なんだ、ニヤニヤして……」
「ぶ、部長……?」
長方形のリビングテーブルに身を乗り出し、私の顔に部長の右手が触れた。ゴツゴツと骨ばった男性らしい指が唇の左端を軽く摘まんで離れた。
「悪い。ご飯粒がついてて気になった」
ドラマのように取ったご飯粒を自身の口へ運ぶことはせず、部長は静かに席を立つと、指についたご飯粒をティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。急に接近するから、驚いた。おまけにドラマのような展開を思い描いてしまって、気恥ずかしい……。
「……お手数おかけしました」
「木浪」
「なんですか?」
「ここはオフィスじゃない。もう少し、気を緩めたらどうだ? 家に帰ってきてまで会社のような言動をしていては疲れないか?」
「でも……」
「気にするな。ここには、俺とお前しかいない。会社に行ったら、お互い仕事を全うすればいい。……悪かったな。気を使わせてしまって」
「あの……こんなことを聞いたら、すごく失礼なのは分かっているんですが、お聞きしてもいいですか?」
「なんだ?」
「部長……なんで、そんなにやさしいんですか? 何か裏があるんじゃ──」
「なんでそうなるんだ。大体、お前はさっきの電話にしろ、人を疑いすぎだ」
久々に会った高校時代の友人にも以前同じことを言われた。「私のこと信用できない?」彼女とは、それっきり。元カレに騙されてから、どこかで人を疑うようになってしまった。信じて裏切られるのも傷つくのも、もうたくさん。いい人や、やさしい人と出会う度、この質問をしてしまう。何か裏があるんじゃないかと不安になってしまって……。
人に借金を擦り付けて姿を消した元カレも今思えば最低な奴だったが、未だにどこかで根はやさしい人だと信じたい自分もいる。私に見せたやさしさも演技だったのかもしれないが、それでも心は満たされた。
人の心がスケルトンだったらいいのに……。本音が見えないから不安になる。言葉のキャッチボールを交わせば交わすほど、相手の本音が隠されていくような気がしてしまう。
「……すまない。木浪にも事情があるのに。だが一緒に住む以上、これだけは分かっていてほしい。俺は思ったことは口に出す。お前も分かっていると思うが、人から【鬼畜】や【血が通っていない冷徹人間】と揶揄されるくらいにな。俺は人を裏切ったり、嘘をついて相手を陥れようとする奴は誰であろうと受け付けない。だからこそ、自分も常に【正直】でありたいと考えている。もちろん、お前に対してもだ」
「部長……」
「できれば、お前も俺に対して【正直】でいてほしい。……ま、お前は誰がどう見ても【正直者】だがな」
「……私のこと、馬鹿にしました?」
「いいや、褒めたつもりだ。その真っ直ぐさを俺は買ったんだ。あの日の面接でも」
鬼頭部長と初めて会った日。あの時は室内に流れる重い空気に早く帰りたい一心だった。だが、鬼頭部長のおかげで私は入社することができた。
「そういえば、まだちゃんと言ってませんでしたね」
「何をだ?」
「上層部の方々に私の面倒を見ると直談判したと噂で聞きました。……鬼頭部長。私の採用に一肌脱いで下さり、ありがとうございました!」
「……何かと思えば、そんなことか。お前みたいに扱いやすい部下が欲しかっただけだ」
「ひどい言い方」
「だが、実際重宝している。仕事が早く、みんなもお前には一目置いてるんだ」
「そうなんですか!? 知らなかった……って、言い包めようとしないでくださいよ!」
「さて、夕飯も食べ終わったことだ。食後のデザートに移ろう。お前は座ってろ。ケーキは、俺が取って来る」
部長なだけあって、はぐらかすのが上手い。会社でもそうだが、取引先でも今のように上手く相手をあしらっているのだろう。
部長がケーキを取りに行っている間、私はマグカップにコーヒーを淹れた。
「おかえりなさい! お味噌汁温め直しますね」
玄関で靴を脱いでいる部長の背中を見るなり、私は急いでキッチンへ向かった。鍋に火をかけ、リビングに戻ると小さな白い箱を手にした部長が立っていた。
「改めて、おかえりなさい」
照れているのか、そっぽを向きながら小声で「ただいま」と部長は言った。不思議な感じだ。付き合っていない男女が一つ屋根の下で暮らし、互いの帰りをこうして待っている。「ただいま」「おかえり」という何でもない挨拶も、この状況だと特別な挨拶のように思えてくる。
「……イチゴだ」
「……この小さな箱の中にですか? イチゴが入っているようには見えないですけど……」
「ケーキだ。箱の側面にケーキ屋のロゴが描かれているだろう?」
「……ん!? これって、駅前にあるお店のケーキじゃないですか!?」
「あ、あぁ。それがどうかしたか?」
「このケーキ屋さん、引っ越してきてから、ずっと気になってたんです! でも、ケーキを買うお金が──あ、いえ! い、今のは忘れてください! 部長、ありがとうございます! 冷蔵庫に入れておきますね。食後のデザートにしましょう! あ、お味噌汁温まったようなので、食卓に並べますね! 着替えてから、ご飯にしますか?」
「あぁ」
「分かりました!」
「……まったく、一人でよく喋る奴だな。……今度、あの店に連れてってやるか」
夕飯の準備も整い、スーツから部屋着に着替えた部長も席に着いたので両手を合わせ、「いただきます」と挨拶をしてから食事は始まった。これも二人で決めたルールの一つ。【きちんと挨拶をする】に含まれている。
「お口に合いましたか? 味が薄かったら言ってくださいね? まだ部長の好みがよく分かってなくて……」
「味噌汁はちょうどいいが、煮物はもう少し味が濃いほうが好みだ。魚の焼き加減も申し分ない。特に、このきんぴらが美味いな」
「そんなにがっついて食べなくても……。でも、よかった。お口に合わなかったらって心配だったから」
「木浪は、料理の腕は確かだからな。俺の好みは気にしなくていい。こうして温かい料理を口にできるだけでも有難いんだ。木浪が食べたいものを作ってくれて構わない」
「あ、ありがとうございます……」部長は本当に飴と鞭の使い方が上手い。素直に褒めるから、すごく嬉しい。
「なんだ、ニヤニヤして……」
「ぶ、部長……?」
長方形のリビングテーブルに身を乗り出し、私の顔に部長の右手が触れた。ゴツゴツと骨ばった男性らしい指が唇の左端を軽く摘まんで離れた。
「悪い。ご飯粒がついてて気になった」
ドラマのように取ったご飯粒を自身の口へ運ぶことはせず、部長は静かに席を立つと、指についたご飯粒をティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。急に接近するから、驚いた。おまけにドラマのような展開を思い描いてしまって、気恥ずかしい……。
「……お手数おかけしました」
「木浪」
「なんですか?」
「ここはオフィスじゃない。もう少し、気を緩めたらどうだ? 家に帰ってきてまで会社のような言動をしていては疲れないか?」
「でも……」
「気にするな。ここには、俺とお前しかいない。会社に行ったら、お互い仕事を全うすればいい。……悪かったな。気を使わせてしまって」
「あの……こんなことを聞いたら、すごく失礼なのは分かっているんですが、お聞きしてもいいですか?」
「なんだ?」
「部長……なんで、そんなにやさしいんですか? 何か裏があるんじゃ──」
「なんでそうなるんだ。大体、お前はさっきの電話にしろ、人を疑いすぎだ」
久々に会った高校時代の友人にも以前同じことを言われた。「私のこと信用できない?」彼女とは、それっきり。元カレに騙されてから、どこかで人を疑うようになってしまった。信じて裏切られるのも傷つくのも、もうたくさん。いい人や、やさしい人と出会う度、この質問をしてしまう。何か裏があるんじゃないかと不安になってしまって……。
人に借金を擦り付けて姿を消した元カレも今思えば最低な奴だったが、未だにどこかで根はやさしい人だと信じたい自分もいる。私に見せたやさしさも演技だったのかもしれないが、それでも心は満たされた。
人の心がスケルトンだったらいいのに……。本音が見えないから不安になる。言葉のキャッチボールを交わせば交わすほど、相手の本音が隠されていくような気がしてしまう。
「……すまない。木浪にも事情があるのに。だが一緒に住む以上、これだけは分かっていてほしい。俺は思ったことは口に出す。お前も分かっていると思うが、人から【鬼畜】や【血が通っていない冷徹人間】と揶揄されるくらいにな。俺は人を裏切ったり、嘘をついて相手を陥れようとする奴は誰であろうと受け付けない。だからこそ、自分も常に【正直】でありたいと考えている。もちろん、お前に対してもだ」
「部長……」
「できれば、お前も俺に対して【正直】でいてほしい。……ま、お前は誰がどう見ても【正直者】だがな」
「……私のこと、馬鹿にしました?」
「いいや、褒めたつもりだ。その真っ直ぐさを俺は買ったんだ。あの日の面接でも」
鬼頭部長と初めて会った日。あの時は室内に流れる重い空気に早く帰りたい一心だった。だが、鬼頭部長のおかげで私は入社することができた。
「そういえば、まだちゃんと言ってませんでしたね」
「何をだ?」
「上層部の方々に私の面倒を見ると直談判したと噂で聞きました。……鬼頭部長。私の採用に一肌脱いで下さり、ありがとうございました!」
「……何かと思えば、そんなことか。お前みたいに扱いやすい部下が欲しかっただけだ」
「ひどい言い方」
「だが、実際重宝している。仕事が早く、みんなもお前には一目置いてるんだ」
「そうなんですか!? 知らなかった……って、言い包めようとしないでくださいよ!」
「さて、夕飯も食べ終わったことだ。食後のデザートに移ろう。お前は座ってろ。ケーキは、俺が取って来る」
部長なだけあって、はぐらかすのが上手い。会社でもそうだが、取引先でも今のように上手く相手をあしらっているのだろう。
部長がケーキを取りに行っている間、私はマグカップにコーヒーを淹れた。
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