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2、【始まり】
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会社に着くと、部長はすでに仕事に励んでいた。先ほどまで一緒に居たのが夢ではないかと思えてくる。あまり視線を送るのはやめておこう。変な噂が立ったらお互いに困る。
いつもと同じように社員たちに挨拶をしていると、「木浪」と部長に呼ばれた。返事をし、すぐに席を立ち、部長の席へと向かう。椅子に腰かけた彼はどこか落ち着かない様子で自身の唇を触っていた。
「何でしょうか?」
「……じまり」
「え?」
「だから、戸締りはちゃんとしたのかと聞いている」
「はい。三回チェックしましたから、安心してください」
「そうか。……この資料をまとめ直してほしい。早急に頼む。午後から急な商談が入ってな」
「分かりました。お預かりします」
「完了したら、俺のパソコン宛てにファイルを送ってくれ」
「はい」
鬼頭部長は気難しいと言われているが、心配症なだけなのかもしれない。戸締りしたのか気になってソワソワしていた姿を思い出し、なんだか可愛く思えて頬が緩んでしまった。
「木浪……。お前、今変なことを思わなかったか?」
「お、思ってないですよ!」
「その慌てぶり……」
右の口角を上げ、下から見上げる形で部長は私に粘着質な視線を向けてきた。嫌な予感しかしない。部長は立ち上がると、近くにあったファイルの山を私が手にしている書類の上に躊躇なく、重ねた。
「他の者に頼もうと思っていたが、このファイル整理もお前に頼むことにしよう」
「ちょ!?」
「なんだ、この程度も自分で持てないのか? だらしない」
「う……前が見えない」
「ん? いつまでここにいるつもりだ? もう席に戻っていいぞ」
「し、失礼します」
重いわけではなく、高さがあって全然前が見えない。すれ違う社員が私に気を使い、避けてくれる。
「木浪さん」
「ごめんなさい。ファイルの山で前が見えなくて」
「うん。だから──」
「あ……」ファイルが半分減り、声を掛けてくれた人物の姿が現れた。
「木浪さんの席まで運べばいい?」
「は、はい! ありがとうございます。えっと……」
確か、彼は──
「藤川。社員が多いから名前覚えるの大変でしょ」
「はい……。手伝ってくださり、ありがとうございます。藤川さん」
「いいよ。このくらい当然だし。また困ったときは遠慮せず言いなよ? 鬼頭さん、無茶ぶりするのが趣味みたいなところあるから」
「趣味……」
「冗談だって! 木浪さんが本気にするとは思わなかったな。ま、鬼畜に変りはないけどね」
「じゃ」藤川さんは爽やかな笑みを残し、自身のデスクへと戻って行った。その背中に「ありがとうございます」と声を飛ばし、私も席に着いた。
切れ長の目が特徴的でクールな印象を受けた藤川さんだが、話しやすい人だった。やさしい彼は女子社員からも人気がありそうだ。
身長も高く、175cm以上はあるのではないだろうか。細身で黒髪が似合っている。
「木浪さん、藤川くんと楽しそうに話してませんでしたー?」
隣のデスクの山根さんが椅子ごと近づいてきた。私の肩に彼女の肩がぶつかっている。山根さんは距離感がおかしい。話す相手にくっついて話す癖がある。同性でも異性でも。本人は気にする素振りもなく、これが彼女にとっての普通のようだ。
入社四年目の上司である山根さんは小柄で着せ替え人形のような見た目をした可愛らしい女性だ。私よりも二歳年下。
隣にいたのなら一部始終を見ていたような気もするが、なぜ彼女は尋ねてきたのだろう。
「女子社員とにこやかに話す藤川くん、初めて見ましたよ」
「え?」
「藤川くん、滅多に自分から女子社員に声かけないのに……」
「私が藤川さんの進行方向を塞いじゃったから」
「いいえ。藤川くん、わざと自分から木浪さんに向かっていったんです」
「そうだったんですか? なんでですかね?」
「私も分からないから、木浪さんに聞いたんじゃないですかぁ! 藤川くんといつから仲良しなんですか?」
「仲良しも何も……さっき初めて話しました」
「……うそ」
「本当です。藤川さんの名前もまだ覚えてなくて……」
私の顔をじっと見つめ、山根さんは「こういう女性がタイプなの?」と首をひねりながら、自分のデスクへとキャスター付きの椅子で素早く戻って行った。
……山根さんは不思議な人物だ。さて、目の前の山積みになっているファイルをどんどん片していかなければ。午後に会議があると部長は言っていた。時計に目をやると、十時半を回っている。急がなければ。
いつもと同じように社員たちに挨拶をしていると、「木浪」と部長に呼ばれた。返事をし、すぐに席を立ち、部長の席へと向かう。椅子に腰かけた彼はどこか落ち着かない様子で自身の唇を触っていた。
「何でしょうか?」
「……じまり」
「え?」
「だから、戸締りはちゃんとしたのかと聞いている」
「はい。三回チェックしましたから、安心してください」
「そうか。……この資料をまとめ直してほしい。早急に頼む。午後から急な商談が入ってな」
「分かりました。お預かりします」
「完了したら、俺のパソコン宛てにファイルを送ってくれ」
「はい」
鬼頭部長は気難しいと言われているが、心配症なだけなのかもしれない。戸締りしたのか気になってソワソワしていた姿を思い出し、なんだか可愛く思えて頬が緩んでしまった。
「木浪……。お前、今変なことを思わなかったか?」
「お、思ってないですよ!」
「その慌てぶり……」
右の口角を上げ、下から見上げる形で部長は私に粘着質な視線を向けてきた。嫌な予感しかしない。部長は立ち上がると、近くにあったファイルの山を私が手にしている書類の上に躊躇なく、重ねた。
「他の者に頼もうと思っていたが、このファイル整理もお前に頼むことにしよう」
「ちょ!?」
「なんだ、この程度も自分で持てないのか? だらしない」
「う……前が見えない」
「ん? いつまでここにいるつもりだ? もう席に戻っていいぞ」
「し、失礼します」
重いわけではなく、高さがあって全然前が見えない。すれ違う社員が私に気を使い、避けてくれる。
「木浪さん」
「ごめんなさい。ファイルの山で前が見えなくて」
「うん。だから──」
「あ……」ファイルが半分減り、声を掛けてくれた人物の姿が現れた。
「木浪さんの席まで運べばいい?」
「は、はい! ありがとうございます。えっと……」
確か、彼は──
「藤川。社員が多いから名前覚えるの大変でしょ」
「はい……。手伝ってくださり、ありがとうございます。藤川さん」
「いいよ。このくらい当然だし。また困ったときは遠慮せず言いなよ? 鬼頭さん、無茶ぶりするのが趣味みたいなところあるから」
「趣味……」
「冗談だって! 木浪さんが本気にするとは思わなかったな。ま、鬼畜に変りはないけどね」
「じゃ」藤川さんは爽やかな笑みを残し、自身のデスクへと戻って行った。その背中に「ありがとうございます」と声を飛ばし、私も席に着いた。
切れ長の目が特徴的でクールな印象を受けた藤川さんだが、話しやすい人だった。やさしい彼は女子社員からも人気がありそうだ。
身長も高く、175cm以上はあるのではないだろうか。細身で黒髪が似合っている。
「木浪さん、藤川くんと楽しそうに話してませんでしたー?」
隣のデスクの山根さんが椅子ごと近づいてきた。私の肩に彼女の肩がぶつかっている。山根さんは距離感がおかしい。話す相手にくっついて話す癖がある。同性でも異性でも。本人は気にする素振りもなく、これが彼女にとっての普通のようだ。
入社四年目の上司である山根さんは小柄で着せ替え人形のような見た目をした可愛らしい女性だ。私よりも二歳年下。
隣にいたのなら一部始終を見ていたような気もするが、なぜ彼女は尋ねてきたのだろう。
「女子社員とにこやかに話す藤川くん、初めて見ましたよ」
「え?」
「藤川くん、滅多に自分から女子社員に声かけないのに……」
「私が藤川さんの進行方向を塞いじゃったから」
「いいえ。藤川くん、わざと自分から木浪さんに向かっていったんです」
「そうだったんですか? なんでですかね?」
「私も分からないから、木浪さんに聞いたんじゃないですかぁ! 藤川くんといつから仲良しなんですか?」
「仲良しも何も……さっき初めて話しました」
「……うそ」
「本当です。藤川さんの名前もまだ覚えてなくて……」
私の顔をじっと見つめ、山根さんは「こういう女性がタイプなの?」と首をひねりながら、自分のデスクへとキャスター付きの椅子で素早く戻って行った。
……山根さんは不思議な人物だ。さて、目の前の山積みになっているファイルをどんどん片していかなければ。午後に会議があると部長は言っていた。時計に目をやると、十時半を回っている。急がなければ。
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