モノクロカメレオン

望月おと

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2、【恩人】

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 悲しみに濡れた遼の体は、洗濯機ですすぎ終えた脱水前のびしょ濡れの衣服を身に纏っているかのように重く、やっとのことでベッドに腰を下ろすことができた。自分の体ではあるが、気力のない今は他の人の体に自身の魂だけ入れられた感覚だ。扱いにくい。

 遼はゆっくりと足元から視線を上げた。自室の窓を叩く雨粒、その先に映る灰色の街並み。光を失った瞳で見つめる様は、まるで魂の抜けた人形のようだ。

 昨日の放課後、響子に変わった様子は見られず、いつも通り教師の職を全うしていた。だからこそ、今日もまた学校に行けば、彼女に会えると当然のように遼は思っていた。きっと彼だけでなく、他の生徒たちも同様に思っていたことだろう。

 世の中には【当然】な事などなく、【突然】も存在している。その突然によって、これまでの当然は意図も簡単に全て狂わされてしまう。だが、【突然】には必ず原因が付き物ものだ。響子の突然の死にも、必ず原因があるはず。何が引き金となり、事件は起きたのか……。

 遼の中で悲しみよりも、なぜ響子は事件に巻き込まれてしまったのか、その疑問が膨らみ、彼女の死の真相を知りたい気持ちがどんどん大きくなっていく。誰が──なぜ彼女を殺めなければならなかったのか……。

 遼は決意した。亡き彼女に自分が出来る最大限の恩返しをしようと。それは、自身の手で犯人を見つけ出すこと。

 決意を持って踏み出したのはいいが、一歩目で遼は躓いた。平凡な高校生が捜査のノウハウなど知る由もない。何を最初にすればいいのか……。ドラマで観る警察官たちは現場検証から始まり、身元を割り出し、交遊関係を調べていく。だが、これら全ては警察官だからこそ出来ることであり、一高校生の力では何も出来ない。

 自身の無力さに嫌気が差す。かと言って、犯人探しを諦める気にも遼はなれなかった。彼にとって響子は恩人であり、彼女との出会いは特別なものだったからだ。恐らく彼女と出会っていなければ、遼は教師になる夢をあのまま捨てていただろう。

 高校二年の春。響子が遼のクラスを受け持つことになった。彼女は、まず生徒たちに進路希望の紙を渡した。朝風高校は私立校の中でも進学校で、九割の生徒は大学や短期大学、専門学校に進学している。そのため、響子は「早めに自分の進路を固め、それに向けた準備を始めよう」と生徒たちに伝えた。

 進路希望の紙を見つめ、「はぁ……」と遼は怠さを口から吐き出した。彼にとって、受験は苦い思い出しかない。

 本来なら遼は県立高校に通う予定だったが、張り出された合格者の中に彼の受験番号は無く、滑り止めで受けた ここ(朝風高校)に入学したのだった。これを機に遼に期待を掛けていた父の態度が一変した。

「お前には無理だ。高校受験で躓いているようじゃ、私と同じ教師にはなれない」

 遼に対する父からの風当たりは日に日に強くなり、見兼ねた母が父に離婚届けを突き付け、両親は遼が高校に上がると同時に離婚した。

 幼い頃から教師である父の背中に憧れ、父に追いつこうと夢に向かって走り続けてきた少年に父が放った言葉は彼の心を貫通し、夢もろとも粉々に砕いてしまった。

 夢を捨てた遼はすさみ、家族にさえ心を許さず、拒むようになっていった。
 
 後日、回収した進路希望の紙を元に響子は教室で個人面談を行った。

「ねぇ、これどういう意味?」

 遼の用紙を彼が座っている机に置き、響子は彼を睨んだ。

「第一希望、特に無し。第二希望、特に無し。第三希望、特に無し。就職、しない。一体、君は何になりたいの? いつまでも大人に守られる子供じゃいられないよ。それは分かるよね? ……塩ノ谷くん、君の考えを聞かせてくれる?」

 真っ直ぐな響子の目と物言いに遼は驚きを隠せなかった。ある人物に、あまりにも似ていたからだ。それでなくても、響子のような教師は珍しい。

 近年、教師よりも生徒や保護者たちの方が立場が上になっており、彼らの顔色をうかがいながら、指導にあたる教師も少なくない。だが、子供と大人の狭間にいる彼ら高校生たちは周りを常によく見ている。大人が気にする以上に気を使っているのだ。そのため、彼らには下手な芝居は通用しない。

「先生。クビになったら、どうしようとか思わないんですか?」
「え?」

 突然の遼からの質問に呆気に取られる響子だったが、すぐに大笑いを始めた。

「君、面白いね! あ、ごめんなさい。クビなんて気にしたことないからなぁ……。私の将来より、私が心配なのは君たちの将来だから。この先に待つ社会は学校とは全く違う世界で、例えば校内で成績がトップだとしても、社会でも同じように評価されるとは限らない。逆に成績があまり良くなくても、社会では高評価される場合もある」
「……なんだかよく分からない世界ですね」
「そう。だからこそ、早い段階で自分の進む道を確立することが大切だと思うんだ。向き不向きはあるけど、本人のやる気次第な部分もあるし。線引きをしなければ、何にだってなれるよ。私は、そのお手伝いがしたい」

 顔色を窺うでもなく、教師である前に人対人として話す響子に遼は心を打たれた。【何にだってなれる】、この言葉が遼の全身を駆け巡っていく。じんわりと固く閉ざしていた気持ちが解け始め、ぽつらぽつら遼は自身について話し出した。

「俺、県立のあずま高校を受験したんです」
「進学校で偏差値高いって、有名なところだね。でも、どうしてそこにしたの? 塩ノ谷くんなら、確実に受かる県立たくさんあったでしょ? 先生に止められなかった?」
「……父も教師をしていて、東高校の卒業生なんです。父に憧れて、同じ高校に入りたいと思って……。中学の担任は、父の高校時代の後輩でした」

 響子は大きなため息を吐き、「なるほどね……」と呟いた。

「それまで教師を目指してました。……でも、落ちた日に父に言われたんです。『お前に教師は無理だ』って。母は、『受験が全てじゃない。先の未来は分からない』と父と対立し、二人は離婚しました」

 当時を思い出したのか、遼は視線を下に落とし、「俺は夢を捨てたんです。母と妹は応援してくれていますが、これ以上 二人に迷惑をかけたくないんです」と続けた。

 黙って話を聞いていた響子だったが、「半分本音で、半分嘘ついたでしょ?」と遼に投げ掛けた。

「そもそも何で先生になろうと思ったの? お父さんが先生だから? もし、そうなら私もやめた方がいいと思う。……でも、そうじゃないよね。お母さんや妹さんは応援してくれてるんだから。……本当のことを話してくれる?」

 「この人は、あの人と一緒だ……」と、遼は確信した。しっかりと生徒と向き合い、外にある情報から内側を探り出す。その手法までも似ている。

「……先生みたいなタイプは苦手です。必死で隠しても、すぐに見つかる。……小学生の時、ある先生に出会いました。それまでは父のようになろうと、必死で……。テストでも常に満点が取れるように勉強して、学級委員長にもなりたくないけど立候補したり。そんな俺にその先生は、『お前は、お前らしく生きなさい。憧れや目標を持つことはいけないことじゃない。でも、その人と同じになる必要はない』と言ってくれました。……誰にも本音はバレていないと思っていたのに、その先生には言わずとも伝わっていて、こんな先生に俺もなりたいって思ったんです。……本当は、東高も受けたくなかった」

 響子は進路希望の紙に目を落とし、「もったいないなぁ」と心底残念がった。

「塩ノ谷くん。あなたは教師に向いてるよ。100%天職と言ってもいい」
「え!? 何を根拠に……」
「去年、クラス委員長を一期勤め、残り二期は副委員長を勤めてる」
「はい、そうですけど……」
「で、今期も副委員長に【投票】で選ばれてる」
「……それが?」
「本当はダメなんだけど、今回だけね。君の未来がかかってるから」

 響子は人差し指を口にあてて「シー」のポーズをとると、椅子から立ち上がり、クラス委員決めの時に使用した投票用紙を自身のバッグから取り出した。

「ここには、【リアルな声】が書かれてる」

 適当に一枚取り、遼は読んでみた。投票者の名前は書いていないため、誰が書いたかは分からない。

【副委員長:塩ノ谷遼。理由:去年の文化祭で自分の仕事をやりながら、全部のグループのサポートに回っていて、サポート役はこの人しかいない!】

 更に紙に手を伸ばし、それを開いた。

【副委員長:塩ノ谷遼。理由:視野が広く、物事を冷静に判断できるから。まるで、第二の担任みたい】

 開票の時は名前しか読み上げられない。誰がどんな理由を添えたかは担任のみが知っている。

「この結果を知っていたからこそ、あなたがどんな進路を考えているのか興味があった。ところが……見てみてビックリ」
「……俺……」

 遼は言葉を詰まらせた。これまで塞き止めてきた夢に対する気持ちが次から次へと溢れて止まらない。次を発したくても、涙が邪魔をする。今、口を開いても、泣き声しか出ないだろう。遼の隣へ響子は移動し、そっと遼の肩に手を置くと、やさしく声を掛けた。

「なれるかどうかはやってみなきゃ分からない。可能性は誰もが秘めてる」

 この日を境に、遼の新たなる挑戦が始まった。投げやりに過ごしてきた自分とも決別し、母や妹に対する反抗的な態度も改めた。けれども、素直に「今までごめん」とは言えず、「……俺、教師になるよ」とぶっきらぼうに遼は母と妹に告げた。

 今の遼があるのは、響子との出会いがあったからに他ならない。そんな恩人を誰が……。グッと遼は右手の拳に力を込めた。震える手の中で爪の痕が深く深く刻まれていく。
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