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番外編

青果店

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「コウモリにでもなったような気分だよ。こんなに日差しをわずらわしく感じるとは……」

 ルーヴェンスが小さくぼやく。その横顔にはまだ少しの疲労が残っているが、顔色の方は、力尽きてソファにのびていたときよりもだいぶましになっている。フィクトは、自身を追い抜いていく師の背中を見て頬を緩めつつ、腕いっぱいの買い物袋を抱えなおした。

 このところのルーヴェンスは、作業に没頭するあまり、ほとんど家から出ていなかった。ときどき、フィクトが洗濯物を干しているかたわら、家の裏庭で休憩をとっていたくらいだろうか。そうしていたときの彼は、ほとんど死体――これでもじゅうぶん、表現に配慮している――のようなものだった。フィクトがあわてて呼吸を確認したことも、一度や二度ではない。
 とはいえ、今回こんなことになったのは、ルーヴェンスの衝動性のせいではなかった。役所都合で、来年度の研究費申請の締め切りが前倒しにされたため、計画的に準備を進めていたルーヴェンスも、徹夜で書類を間に合わせなければならなくなってしまったのだった。

 そうして今朝、壮絶な三日間を経て、ようやくフィーエル校に書類を提出し終えたルーヴェンスは、体力も気力も使い果たし、ソファですっかりダメになっていた――これも、かなり丁寧な表現だ――のだが、徹夜で作業をしていたためになかなか興奮が抜けきらない様子だった。そこで、見かねたフィクトが、気分転換を兼ねて、買い物に出ようと提案したのだった。
 原因に対する憤りはさておき、ひさびさに師に生気が戻ったのは喜ばしいことだ。師を見失わないようにと、フィクトは少し歩みを速める。

 師弟が訪れた樹の都アルベリア大市場の表通りには、入り口から、食品類、テイクアウト式の軽食、消耗品等の雑貨類と、何十もの店が軒を連ねていた。
 フィクトの聞いたところによると、すぐに消費しなければならないものを売る店ほど手前に並べられ、そうでない店は奥の方に配置される、ということらしい。幅広の通りの中央には、一定の間隔で花壇が並び、その周囲に、敷物を広げた装飾品売りやら手作りの工芸品売りやらが陣取っている。

 通りをまっすぐ辿ったそのままに視線を少し上げると、樹の都アルベリアの象徴である巨大樹がそびえている。この景色のためか、市場は他の都からの観光客にも人気があった。
 巨大樹や、建物本来の赤れんがの色だけでなく、店それぞれの華やかな装飾も、この市場独特の景色を生み出すのに一役買っている。特に、市場の手前――食料品を扱う店の彩りには、見る者を高揚させる不思議な力があるようにさえ思われた。
 そこに、温かい軽食の匂い……そう、特に、甘い匂いなんかが漂ってきたら、困ったものだ。甘い匂いに吸い寄せられ、ふらふらとどこかに行ってしまいそうになったルーヴェンスを、フィクトはあわてて捕まえた。市場が最も混み合うのは朝だが、昼前のこの時間にも、昼食を求めてやってきた買い物客が集まってくるものだから、同行者を見失ってしまうと、探すのが手間だ。

 フィクトは、帰りに甘いものを買う約束を取り付けて師をなだめると、市場の広い通りから、路地へと足を踏み入れた。そうして、入り組んだ裏道をしばらく行くと、ひっそりとたたずむ、通い慣れた青果店が見えてくる。
 大きく開いた入り口に、青果を扱う店であることがかろうじてわかるだけの素朴な看板。飾り気はないが、こぎれいな店構え。表においてある古びた丸いすには、くすんだ茶色の猫が一匹、身を丸めている。

「なぜ、わざわざこんなところまで? 表にも青果を扱う店はあるだろうに」

「この店のものがおいしいんです。店主がたいそう目利きなのでしょうね」

 フィクトはそう答えながら、こぢんまりとした店内に足を踏み入れた。
 こういった店では普通、スペースを余さないように台を配置するものだが、この店では、壁に沿って陳列台が並べられているだけで、あえて店内に広々とした空間を残してあった。品数、それぞれの品の量、ともにそう多くは見えない。
 品数を抑えているのは商品の質を一定に保つための戦略だったが、その他にも、どうしても床を広く取らなければならない理由が、この店にはあった。
 フィクトが店の奥に声をかけると、男の声で、〈はあい〉と間延びした返事があった。ほどなくして、店の表とバックヤードとを隔てる丈の短いカーテンの向こうから、樹の都アルベリア出身らしい、茶髪の店主が顔を出す。
 細く頼りない長身を車いすに預けた彼は、常連客であるフィクトの姿を捉えるなり、ぱっと表情を明るくした。不自由な脚の代わりに車輪を操る手つきは、すっかり慣れたものだ。

「いつもごひいきにしてくださって、ありがとうございます。今日は何をお探しで?」

 店主は、いつものように、人懐っこい笑顔でフィクトのほうにやってきた。フィクトよりもずいぶん年上だろうに、彼の微笑みは、不思議とどこか幼く見える。
 店主――オットー・ベルマンは、フィクトの知るかぎり、気が優しく、人当たりもいい人物だった。きっと誰にでも好かれるだろうし、もちろん、青果を見る目だって確かだ。そんな彼が、表通りに出ることなく、隠れ潜むようにこの店を経営しているところに、フィクトは好感を抱いていた。高い能力を持ちながら、出世に興味のない師の姿に重なるところがあるためだろうか。

「そうですね。果物がいくつかほしいのですが、おすすめはありますか」

「ふふ、いつもきいてくださいますね。あまり量はありませんが、氷の都グラシニアからのナシが届いていますよ。よくお買い上げいただくリンゴの方も、甘みが強くて小ぶりな氷の都グラシニア産、酸味が強くて大ぶりな風の都ヴァーニア産をご用意しております。普段はあまり取り扱っていないのですが、イチジクもちょうど入っておりますし……」

 そこまで言ったところで、オットーはようやく、フィクトに連れがいることに気づいたらしい。体を少し傾け、フィクトの背後――陳列台のかごに並んだ二種類のリンゴを眺めているルーヴェンスを見た彼の目が、信じられないと言いたげに見開かれる。

「……ルーヴェンス君? 君、ルーヴェンス君じゃないか?」

 名前を呼ばれたルーヴェンスが、弾かれたようにオットーの方に視線を向けた。オットーの姿を捉えた彼の顔が、みるみるうちに血の気を失っていく。フィクトが何かと問う間もなく、ルーヴェンスはフィクトの手首をひっつかみ、店を飛び出した。
 師弟の背を、オットーの叫びが追いかける。

「待って、ルーヴェンス君――」

 ガシャン! 何かが落下したような音に、ルーヴェンスが足を止めた。
 振り返って見れば、倒れた車いすと、道に放り出されたオットーの姿があった。店の表には車いすで出入りできるようしつらえられた傾斜路があるのだが、無理に段差から飛び出して転倒したらしい。
 オットーは、すりむいた頬を気にも留めず、ルーヴェンスに向かって呼びかける。

「ルーヴェンス君! 待って、話、話をさせて! ずっと君に会いたかった、謝りたかったんだ!」

 オットーの声色は、普段の穏やかなそれからは想像もできないほど悲痛なものだった。店から十数クード離れたあたりで、フィクトの手首を握ったまま立ちすくんでいたルーヴェンスが、ゆっくりと振り返る。

「帰ろう、フィグ君」

 そう言った彼の顔には、悲しみか、怒りか、あるいは恐れにもとれる、複雑な表情が浮かんでいた。その肩が震えているのは、息切れのためだけではないだろう。まっすぐにフィクトを見つめているのは、その背後にいる店主の彼を見たくないからだろうか。
 ひどく取り乱した様子の師を前に、ずいぶん迷った末、フィクトは問いかけた。

「お知り合いですか?」

「知らないよ」

 ルーヴェンスの返事は速かった。
 フィクトはかぶりを振り、自分の手首からルーヴェンスの手を解くと、オットーを助け起こしてやりに、店の前に戻った。ルーヴェンスはそんなフィクトをとがめはしなかったが、やがて、ふらりとその場からいなくなってしまった。



 青果店の前を離れたルーヴェンスは、ぼうっとした頭のまま、大通りを支える狭い路地を、あてもなくさまよっていた。久々に見た顔を思い出しては立ち止まりかけ、かぶりを振って、また早足で歩き出す。
 
 〈ずっと君に会いたかった、謝りたかったんだ!〉――ルーヴェンスの耳の奥で、先ほどの店主の言葉が反響する。心臓が早鐘を打っている。
 建物の影が作る薄暗がりに足を止めたルーヴェンスは、路地を形づくる家の外壁に背を預けて、長く息を吐いた。目を閉じれば、いくつもの記憶がまなうらを流れていく。それらはやがて、ルーヴェンスの生き方を決めたあの日――ルーヴェンスが、二度と他人に心を預けないと誓ったときの情景に収斂していく。

 ルーヴェンスが氷の都グラシニアの実家を離れ、恩人の紹介でフィーエル・アラロヴ大学校に入学したのは、彼が十四の頃のことだ。この時代にはすでに、現在と同じく、フィーエル校に籍を置けるのは十五歳からと決められていたが、当時すでに頭角を現しつつあったルーヴェンスは、特例として、一年早く入学することが許されたのだった。
 屹立する巨大樹と、その枝葉に身を埋めるフィーエル校の校舎を見たときのルーヴェンスの心は、希望に満ち満ちていた。学徒の聖地、樹の都アルベリア氷の都グラシニアでは得られなかった知識やチャンスが、この都にあるに違いない。当時のルーヴェンスは、まだ幼い心で、そう確信していた。
 人間関係についての期待もあった。とうに自分が他人とはどこか違うことを悟っていたルーヴェンスは、世界中の優秀な学生、学者が集まるこの場所でなら、自分と同じような――大衆とは異なるセンスを持つ者がいるかもしれないと考えた。
 実際、フィーエル校は悪くない場所だった。講義の難易度はルーヴェンスにとって物足りないものだったが、知識を共有し、高め合おうとする気風があった。ルーヴェンスは、物心ついて以来はじめて、自分が他人の中に馴染めていると感じた。

 そんな頃、あまり積極的な人付き合いを好まなかったルーヴェンスにも、はじめての友人らしい友人ができた。
 学生寮のルームメイトだった五つ違いの友は、ルーヴェンスとは正反対の〈非才〉だった。なんとかフィーエル校に入学はできたものの、日々の講義についていくのが精一杯で、課題の出た日には徹夜が当たり前の〈落ちこぼれ〉――名前を、オットー・ベルマンといった。

 ルーヴェンスははじめ、冷めた目でオットーを見ていた。けれども、同じ部屋で暮らすようになってから三ヶ月、ルーヴェンスはしだいに、彼の姿にいらだちを覚えるようになっていた。身の丈に合わないことに気づいているだろうに、無理をして、ときには体を壊しても、フィーエル校にしがみつく彼の姿が、あまりにみじめで、見苦しいものに思えたのだ。

 〈来るべき場所を間違えたんじゃないか。君には、ここにいられるだけの実力がない〉――ある夜、ルーヴェンスはとうとう、オットーにそんなことを言ってしまった。寝不足続きで体調を崩し、せきをしながらも課題に取り組んでいた彼は、困ったように微笑んでから、〈うん、そうかもしれない〉と答えた。だが、そんな彼が机の前を離れることはなかった。
 思えば、これが、ひとつの部屋に暮らす二人にとってはじめての、会話らしい会話だった。

 やるせなくなったルーヴェンスは、それからの数日、ルームメイトの彼の様子を観察した。当時のオットーは、要領が悪く、人付き合いも苦手で、いつも背中を丸め、ひとりで歩いていた。ときには、心ない言葉を投げつけられていることもあった。
 けれども彼は、黙々と講義に出席し、図書館で参考書を読みあさり、課題に没頭しているばかりで、誰に何を言われようと、言い返すこともなかった。彼のそんな態度に、ルーヴェンスのいらだちは募るばかりだった。

 二人の関係に変化が生じたのは、オットーが教科書の盗難にあったときだ。
 フィーエル校の学徒でありながら、程度の低い悪さをする者を許せなかったルーヴェンスは、オットーの教科書を奪い返し、持ち主のもとに返してやった。もちろん、それはオットーのためなどではなかった。
 だが、オットーの方は、そう思わなかったらしい。〈ありがとう〉と言って――はじめて、ルーヴェンスに向けて笑いかけたのだった。その笑顔を見たルーヴェンスは、オットーのことを誤解していた自分に気がついた。

 翌日から、二人は並んで歩くようになった。ルーヴェンスは、オットーを見下す者を口で追い返し、課題をていねいに教えてやり、なんでもないときにも、彼の隣をそっと埋めた。そんな日々が続くと、やがて、ルーヴェンスの目にも、オットーの本来の姿が見えてきた。
 オットーは、たしかに、ほとんどの点で他の学生より劣っていた。けれども、優しく穏やかで、想像力豊かで、どうでもいいようなことでよく笑った。背伸びした場所でくすんでしまっていた彼の生まれ持った輝きに、ルーヴェンスは、気づかないうちに惹かれていった。
 〈天才〉であるルーヴェンスと、〈非才〉と言うほかないオットー。そんな二人の組み合わせに周囲は首をひねったが、ルーヴェンスは、オットーの隣をとても居心地よく感じていた。
 しかし――。

「――師匠! こんな遠くにまで……」

 聞き慣れた声が、ルーヴェンスを現実へと引き戻す。はっとして見れば、周囲はひんやりとかげった路地、目の前には心配そうな弟子の顔があった。その腕には、買い物袋が抱えられている。
 ルーヴェンスは、視線を落とすついでに、首筋に手をやった。襟足のあたりが、じっとりと湿っている。

「フィグ君? ああ……。少し……昔のことを、思い出していた。いや、私の場合は、記憶がはっきりしすぎているから、〈思い出す〉というのとも少し異なるのかもしれない。当時に〈返っていた〉というのか……」

「それは、先ほどの彼に関して、ということでしょうか。ただの顔見知りではないようでしたが」

 察しのいいフィクトのことだ、〈ただの顔見知りではない〉という言葉以上のことに気がついているに違いない。ルーヴェンスは深く息を吐いてから、フィクトに問い返す。

「……彼から、どこまで聞いた?」

「いいえ、ほとんど何も。あなたと彼がフィーエル校の同期で、かつてのルームメイトであることくらいで」

「本当にそれだけかね?」

「あなたに憧れて、友人になりたいと思っていた、とも。正直、驚きました。あなたのことをあれほど好意的に語る人がいるなんて」

 遠慮のない物言いはさておき、フィクトの言葉の向こうには、かつての友の気配が、たしかにあった。けれども、その気配だけでは、今の彼がルーヴェンスにどんな感情を抱いているかはわからない。

「どうしますか。このまま帰ることもできますが。買い物は済みましたし」

 フィクトの気づかうような声色に、ルーヴェンスは少しの間、考えこんだ。
 ここで旧友に背を向けてしまえば、これから先、二度と関わることはないかもしれない。だが、そうだとしても、彼の存在がルーヴェンスの記憶から消えるわけではなかった。
 〈忘れる〉ことを知らないルーヴェンスにとって、苦い思い出というのは、抜けない棘のようなものだ。その痛みが消えるのは、唯一、思い出に伴う感情に慰めが与えられたときだけだと、ルーヴェンスは知っていた。
 
「店に戻ろう。彼と話がしたい」

 十八年間、絶えず痛み続けていた棘が、いっそう強く痛み出す。
 ルーヴェンスは、オットーの姿を思い浮かべた。思い出されるのは、彼の笑顔ばかりだ。当時、ルーヴェンスよりもずいぶん背が高かったはずの彼の顔がこんなにもあざやかに記憶に残っているのは、彼が視線の高さを合わせてくれていたからなのだと、今のルーヴェンスにはわかった。
 臆病で、もの静かで、気の優しかった旧友。そんな彼が最後にルーヴェンスの中に刻みつけたものは、ルーヴェンスの人生を変えてしまうほどの裏切りだった。



 店に戻ったルーヴェンスは、店のバックヤードにある、ちょっとした作業場に通された。同じく案内されたフィクトは、〈キッチンをお借りします〉と言って席を外した。普段からたびたびキッチンを借りているとのことだったが、それにしても、彼らしい自然な気づかいだ。
 部屋の中央には、正方形の天板を持つテーブルが据えられている。テーブルのそばに置かれるはずのいすは、壁際に三つ、並んで置かれていた。車いすのオットーには不要なためだろうか。ルーヴェンスは、いすを引いてくると、テーブルをはさんで、店主の向かいに腰かけた。
 ささやかな外光が、薄い生成りのカーテンを透かして染みこんでくる。二人を取り囲む白壁も、淡い光を受けて、温かな色に染まっていた。不思議と、二人の間に緊張はない。あるのは、ばらばらに過ごしてきた月日の分だけの沈黙だ。

「十八年ぶりか」

 静けさの中、ルーヴェンスは、ひとりごとのような調子で言った。オットーは、無言のままうなずく。彼の様子を見たルーヴェンスは、彼と行動を共にしはじめたころのことを思い返した。
 当時のオットーは、誰にでも余計な遠慮をして、〈聞かれたことに答える〉以外の対話のしかたを知らなかった。ルーヴェンス少年は、そんな彼の姿を見るたびにいら立ち、〈思ったことは口に出せ〉とくり返し言ったものだった。
 目の前のオットーは、顔色をうかがうようなまなざしでルーヴェンスを見つめている。ひとりでいたころの彼も、よくこんな目をしていた。ルーヴェンスは、失望に似た形容しがたいものを感じて、机に片ひじをついた。フィクトが見ていたら、人前で行儀が悪いと、いやな顔をしたかもしれないが。

「それで、その体は?」

「体? ああ……。首を怪我してしまって、腰から下はほとんどダメなんだ。今は出かけてるけど、いつもは妹が面倒をみてくれてる。かわいそうに、僕がこんなだから、妹はお嫁にも行けなくて」

 ルーヴェンスはなじるような調子で問いかけたが、オットーは、とくにひるんだ様子もなしに答える。誰もが彼にそんな態度を取るためか、オットーには、こういった圧力に鈍いところがあった。それは、今も変わっていないらしい。なぜだろうか、ルーヴェンスはいっそう不愉快になった。
 ルーヴェンスは、机にかくれた膝のあたりを、人差し指で小刻みにたたく。

「本当にごめん。あの後、ろくに話もできなくて……。ううん、僕は、話したいと思っていい立場でさえなかった。本当に、長い間……。ずっと、君に言いたいことが、言わなきゃいけないことがあったのに、全然言葉が出てこないんだ。何から話していいか……」

「私は、謝罪を聞きにきたわけじゃない。ただ、知りたいだけだ。なぜ、フィーエルを辞めた? 実力がないとわかっていながら、あんなに必死になってしがみついてきた場所を、どうして捨てた」

 ルーヴェンスの問いに、オットーの申し訳なさそうな笑みがこわばる。彼は、行き場のない両手を祈るように組み、黙りこんだ。
 ルーヴェンスは、オットーとともに過ごしていたかつてに戻ったような心持ちになった。大事な話をするとき、彼はいつもそうやって、じっくりと言葉を探したものだった。
 ルーヴェンス少年は、会話の途中でたびたび訪れるこの空白の時間が、嫌いではなかった。むしろ、心地よく感じていたほどだ。当時の目まぐるしい日々の中、唯一ルーヴェンス少年に息をつかせてくれたのが、彼の作る空白だったのかもしれない。

 ルーヴェンスとオットーの間にあるものは、時を経て大きく変わってしまった。それなのに、旧友の沈黙がルーヴェンスに与えるものは、あまり変わっていないようだ。ルーヴェンスは、不快感がないことをかえって苦々しく思いながらも、彼の言葉を待った。
 やがて、オットーが口を開く。
 
「辞めるしかなかった。気づいたら、そうすることしかできなくなっていた。君がいなくなって……なんて言ったらいいのか……そう、僕は、どうしようもないやつなんだ。きっと、君が思っていたよりも、よっぽど」

 オットーの返事は、ルーヴェンスが予想していた、どの返答とも違っていた。オットーは、自らの手元に視線を落とすと、また口を閉ざしてしまった。
 薄い仕切りを隔てて隣接するキッチンから、フィクトが作業する音が聞こえてくる。ルーヴェンスは、弟子の手元からやってきただろうはちみつの香りに浸りながら、二十年近く前――旧友と自身とを別ったできごとを思い浮かべた。

 オットーとの関係を築くまでのルーヴェンスは、学生たちの小さな社会において、誰にも干渉せず、また干渉されない、独自の地位を守っていた。存在自体が異質だったためか、自然と形成されていった学生社会から、不自然に取り残されていたのだ。人との関わりの経験が少なく、他者との円滑な交流のすべを学んでいなかったルーヴェンス少年にとって、これは幸運なことでもあった。
 しかし、底辺ながらも学生社会に属していたオットーとの関わりが、ルーヴェンスをそこに引き込んだ。
 まっさらなまま学生たちの社会の中に放り出されたルーヴェンスは、自身の良心に従って、臆病な友人をたびたびかばった。けれども、加減を知らないルーヴェンスのやり方は、伝統という後ろ盾を持つ一部の上級生たちの機嫌を損ねるようなものでもあった。そうしてルーヴェンスは孤立し、上級生との関係も損なっていった。
 そうして、あるとき――オットーがある上級生に難癖をつけられたとき、ルーヴェンスは、いつものように彼をかばった。
 相手は優秀で、周囲に強い影響力を持つ学生だったが、ルーヴェンスにとって、そんなことはどうでもよかった。少なくとも、当時のルーヴェンスには、口では負けない自負があった。この上級生に目をつけられた下級生が皆フィーエル校を去っていることも、そのときのルーヴェンスは知らなかった。
 
 その二日後の夜。とうとう、報いがあった。
 ごく平穏な、いつもと変わらない夜だった。ルーヴェンスが友人に勉強を教えていたとき、二人の居室に来客があった。
 オットーが席を立ち、相手を確かめようと扉を開けた直後――ゴン、と鈍い音がした。ルーヴェンスとルームメイトの居室を訪れたのは、件の上級生と、彼に連れられた二人の学生だったのだ。応対に出たオットーは、上級生のひとりに襟首をつかまれて、すすり泣いていた。彼の額、生えぎわのあたりには、血がにじんでいた。
 部屋に踏み入り、ルーヴェンスの姿を確かめたリーダーたる上級生は、オットーに向けて、こう言った。〈ここで起きたことを口外しないと誓うなら、お前は見逃してやってもいい〉。それを聞いたオットーは――深く、何度も何度も、うなずいたのだった。

 ルーヴェンスは、それからのことを、あまりよく覚えていなかった。一度覚えたことは忘れないルーヴェンスだが、意識がもうろうとしていたり、受け入れたくないと感じたときのことは、そもそも記憶としてたくわえられないためだ。
 かろうじて思い出せるのは、脱力した体を引きずって、明かりのない浴場で、ひとり冷水を浴びたことくらいのものだった。全身の傷に水がしみたときのみじめさは、はっきりと覚えている。痛かったかどうかは、思い出せない。その後の記憶もおぼろげだ。
 その後、学生社会の底辺から抜け出すのにも、ずいぶんと時間がかかった。ルーヴェンスは当時、まだ幼いながらも、自分にはどうにもならないところで、大きな力がはたらいているのを感じた。そのときの失望が、今でもルーヴェンスを僻地に留めているのだった。

 ルーヴェンスは、深く息を吸い、吐き出した。
 助けてもらえなかったことについて、今さらどうこう言うつもりはない。当時のことにあえて触れようとも思わない。ただ、オットーについて考えはじめると、いつも頭の中が混濁してしまう。彼に対して、いろいろな気持ちを持ちすぎているのかもしれない。
 記憶の中にあるオットーの控えめな笑い声や、熱心な横顔は、今でもルーヴェンスの心を安らかにさせる。反面、彼の存在そのものが、つらい記憶を想起させもする。考えれば考えるほど、自身が旧友に何をもとめているのか、ルーヴェンスにはわからなくなるのだった。
 ふと、オットーが組んでいた両手をほどき――しかし、またすぐに元の形に戻してしまった。固く握りしめていてもわかるほどに、彼の手は震えている。
 
「……本当は、辞めるつもりはなかったんだ。君に謝らなくちゃいけないとも思った。けど……君が寮を出て、何日も学校に来なかったとき、〈もう二度と来ないのか。そうだとしたら、きっと僕のせいだ〉と思った。君が学校に来ていないのを知るのが怖くて、学校に行けなくなった」

 彼の言うように、ルーヴェンスは事件の翌日に退寮の手続きを済ませ、その次の日にはすでに寮を出ていた。その二日を含む一週間ほど、ルーヴェンスは学校には行かなかったが、それは新居の準備のため、そして心を休めるための、ごく短い休みでしかなかった。
 けれども、ルーヴェンスが次にフィーエル校にやってきたとき、そこに旧友の姿はなかった。友ともう一度向き合うつもりでいたルーヴェンス少年は、友が自分のもとから逃げ出した事実に打ちのめされた。友との間に些細な入れ違いがあったことなど、知るよしもなかった。

「これじゃダメだと思って実家に戻ってみたら、もう動けなくなってしまって。そのまま辞めたんだ。最後の書類も、妹に持っていってもらった。自分ではもう、学校に行けなくなっていた。妹にも、亡くなった両親にも、たくさん迷惑をかけてしまった」

 そこまで言うと、オットーは、長く息を吐いた。少し呼吸が急いているのは、緊張のためだろうか。
 対するルーヴェンスも、予想もしなかったオットーの発言に、冷静さを失いかけていた。これ以上彼の言うことを聞くべきではないと、直感が訴えかけてくる。
 
「君がフィーエルを辞めていなかったことは、後になってから知ったんだ。ずいぶん経ってから……。僕はというと、フィーエルを辞めたら、急に考える時間ができてね。あれこれ考えているうちに、何もかもいやになった。僕だけが逃げてしまったことも、君に謝る勇気がないことも……。自分で、自分を許せなかった。どんなに君を傷つけただろうって――」

「違う」

 ルーヴェンスは、ほとんど意識しないうちに、オットーの言葉を遮っていた。
 自分の行動に驚いたルーヴェンスは、とまどいながらもオットーの様子をうかがった。そうして、傷ついたような彼の顔を見たとき、ようやく、心の中でふつふつと煮えたぎるものを自覚した。
 それは、怒りというより、一種の反発心――自分を守るための、ささやかな抵抗とも言うべき衝動だった。

「そんな言葉が聞きたかったんじゃない。痛い目を見たのは私だ。あのとき何もしなかった君は、傷を負わずに済んだのだと、薄情に笑っているべきなんだ。どこまで私を馬鹿にするつもりだ?」

 ルーヴェンスは言葉を切り、乾いた唇を舐める。だが、それだけでは、からからになった口内を潤すにも、冷静さを取り戻すにも、とても足りなかった。
 これ以上、胸の内をさらけ出すべきではない。ルーヴェンスはかぶりを振り、なんとか言葉を飲み込もうとした。けれども、ルーヴェンスの心は、激流のようにルーヴェンスの喉元にせり上がってくる。オットーと別れて以来、ひとりで抱え込んできた感情が、現在のオットーの姿に反応するように熱を持ち、ルーヴェンスの身の内を焼いていた。
 
「君は私を見捨てた。我が身かわいさにね。私はそれで悟ったんだ。他人なんて薄情なものだ、信頼するなど愚かなことなのだと。私はもう誰も信じない。近くには置かない。どうせ裏切られるのだから。それを教えてくれたのは君だ。心からありがとうと、そう言ってやりたかった! それが、私の十八年だった! だのに……」

 ――〈だのに〉、何だ?
 ルーヴェンスは我に返った。興奮しきっていた体が、やっと呼吸を思い出す。ルーヴェンスは乱れた息を整えながら、旧友を見つめた。
 今、目の前にいるオットーは、疲れたような、諦めたような面持ちをしている。ルーヴェンスがこれまで想像してきた〈自分と別れた後の彼〉は、こうではなかった。ルーヴェンスは彼に、難を逃れた人間らしい、幸福そうな顔――ふとしたときに、記憶の底からやってくる影におびえることのない者の顔を、期待していたのだ。

 これまでのルーヴェンスは、自らが抱えたやるせなさを、想像の中の旧友にぶつけることでしのいできた。ルーヴェンスにとってみれば、オットーの苦しみを認めることは、自身の怒りの矛先を見失うことでもあるのだ。
 ここで黙って席を立てば、明日からもこれまで通り、旧友を恨めしく思うことで、自分をなぐさめて生きていくことができる。それなのに、なぜだろうか。ルーヴェンスには、席を立つことも、浮かんできた言葉を投げ出すこともできなかった。自身の根幹たる部分をまるきり変えてしまうはずの言葉だと、わかっていながら。
 ルーヴェンスは、自分の心をなぞるように、ゆっくりと、慎重に言葉をつむぐ。
 
「……だのに、君はなんだ。なぜ君が傷ついている。なぜ君が謝る。私は、そんな……そんなものがほしいんじゃない。君のそんな姿など、見たくなかった」

 唇からこぼれたのは、怒りや憎しみではなく、せめて友には健やかにあってほしいという願いが打ち砕かれたやるせなさと、事実を知ることなく友を恨み続けてきたことへの罪悪感だった。ルーヴェンスは、自分が心から旧友を嫌ったことなどなかったことを、苦々しくも認めた。
 オットーのたれ目が、ほんの少し大きくなったあと、愛おしげに細められる。

「そうか」

 真意のわからない、短い返答だった。何か言い返されるのではないかと身構えていたルーヴェンスは、拍子抜けしてしまった。
 考えてみれば、昔からオットーはそうだった。ルーヴェンスが何を言っても、否定することなく、ただ受け止めるのだ。それでいて、ぞんざいに扱われていると感じさせないのだから不思議だった。

 かつてのオットーは、ルーヴェンス少年に促されれば、ぽつりぽつりと自分の話をしたものだった。けれども、今のルーヴェンスには、彼の心情を問うことが、とても難しく思えた。二人の間には、目に見えない薄膜が張っている。すれ違っていた月日のためか、それとも、ルーヴェンスが彼の現状を受け入れることを拒んでいるせいか、ルーヴェンス自身にはわからなかったが。
 相手の本心を推し量ろうと見つめるだけでは、この薄膜を破ることができない。ルーヴェンスは、もどかしさを感じながらも、テーブルに視線を落とした。

 そんなとき、店の表のほうから、澄んだ声が投げかけられた。

「ただいま……あれ、お兄ちゃん? いないの?」

「ああ、妹だ。カミラ、おかえり!」

 オットーは、申し訳なさそうにルーヴェンスに笑いかけてから、帰ってきた妹に聞こえるよう、声を張り上げた。すぐに、足音が二人のもとに近づいてくる。
 廊下から顔を出したのは、ひょろりと背の高い女性だった。歳はルーヴェンスと同じか、少し若いくらいだろうか。愛想よりも好奇心を感じさせるまなざしからか、女性らしいというよりは、男勝りではつらつとした人物に違いないとルーヴェンスは思った。背中でひとつに束ねた髪は、兄より明るい茶色をしている。

「カミラ。悪いけど、少し店をお願いしてもいいかい。ルーヴェンス君……ほら、いつも僕が話してる、古い友人の彼が来てくれているんだ。驚いたことに、フィクト君のお師匠だったらしい。こういうのを、縁というのかな」

「〈ルーヴェンス君〉って……。それじゃ、この人が?」

 オットーの妹――カミラは、ルーヴェンスという名前を耳にするなり、眉をひそめた。
 カミラは、まじまじとルーヴェンスを見つめる。その不躾なまなざしが、かえって、ルーヴェンスに親しみを抱かせた。ルーヴェンスが知る女性学者たち――男社会であるからには、数少ない――は、しばしば彼女のような目をするものだった。
 ルーヴェンスの〈観察〉を終えたカミラは、ためらいがちに、ルーヴェンスのそばに歩み寄ってくる。彼女はルーヴェンスをまっすぐに見つめて、きゅっと唇を引き結んだ。言わんとしていることを、なんとか飲み込もうとしているようだった。
 カミラはやがて、ルーヴェンスから視線を外した。そして、険しい顔をしたまま、ルーヴェンスに頭を下げる。

「妹のカミラです。あなたのことは、兄から聞いています。兄があなたにしたことについても。……私からも謝らせてください。本当に、ごめんなさい」

「君にはかかわりのない話だ。席を外してくれ」

 顔を上げたカミラは、ルーヴェンスの素っ気ない言葉にも、傷ついたような顔ひとつしていなかった。ルーヴェンスが最初に感じた通り、したたかな人物らしい。

「兄は臆病ですが、悪い人ではないんです。誰かを傷つけたくて傷つけるような人じゃありません。それだけは、わかってほしいんです」

「カミラ、やめてくれ」

 妹をとがめるオットーの声は、泣き出しそうににじんでいた。そんな彼の様子が、ルーヴェンスをさらに苦しめた。
 オットーを憎み、嫌うことが、今ではとても難しくなってしまった。とにかく今は、かき乱された気持ちを整理する時間が必要だ。そんな中でのカミラの言葉は、ルーヴェンスの困惑に追い打ちをかけるものだった。
 オットーが悪人ではないことなど、誰に言われなくとも、よくわかっている。彼が、望んでルーヴェンスを傷つけたのではないことも――。

「わかっているんだ、そんなことは! ただ、私は彼の臆病さが恨めしい。臆病な善人ほどたちが悪いものはないんだよ、君!」

 ルーヴェンスは、叩きつけるように言った。
 一瞬、キッチンからの音が途絶える。キッチンで作業をしているフィクトにも、ルーヴェンスの言葉は聞こえていたに違いない。ほどなくして作業音が戻ったことが、ルーヴェンスにとっては救いだった。
 対するカミラは、女性にしては薄い唇を噛みしめて、しばし黙りこむ。やがて、ためらいをかなぐり捨てたように、こう切り出した。
 
「……そんな言い方をなさるなら、私からも言わせてもらいます。たしかに、兄があなたにしたことは許されないことですし、それは部外者である私にもよくわかります。そのうえで、部外者として言います――兄がどれだけ苦しんできたかも知らないくせに、勝手なことを言わないでちょうだい!」

 カミラの鋭い言葉は、感情をあらわにしたというよりは、叱るような調子を帯びていた。彼女は感情を抑えた声で、早口に続ける。

「兄は、あなたにとても良くしてもらったと、いつも言っています。でも、兄のそばにいたあなたが、兄がやさしい分だけ臆病な人であることを知らなかったとは思えません。知っていて、良くしてくれたのでしょう? それなのに、兄の臆病さを責めるのですか。何より、あなたを直接苦しめたのは、兄ではありません。あなたが怒りを向けるべきなのは、兄よりも、あなたを害した者たちの方でしょう? それでもあなたが兄を憎むなら、私もあなたを憎みます。やさしい兄の代わりに」

 返す言葉もないルーヴェンスは、ぼう然としてカミラを見つめた。カミラは、胸中を吐き出したにもかかわらず、取り乱してはいなかった。ただ、彼女自身が口にした思いそのままのまなざしで、ルーヴェンスをにらみつけている。おどろくほど芯の強い女性だ。
 このやりとりをはたから見ていたオットーが、硬直状態に陥った二人の間に割って入る。

「違うよ、カミラ。ルーヴェンス君が僕をいちばんに憎むのは、当然のことなんだ。短い間だったけど、彼と一緒に過ごしたからわかる」

 オットーは、気が立った妹を諭すように、おだやかな声色で言った。彼は、二人のほうではなく、ぼんやりと宙に視線を投げかけたまま、淡々と続ける。

「ルーヴェンス君は、何に対しても諦めのいい人だった。冷ややかだったと言えば、そうかもしれない。ルーヴェンス君を傷つけた上級生だって、ルーヴェンス君自身にしてみれば、暴力の化身……人格を持たざるものでしかなかった。だから、ルーヴェンス君は、彼らを恐れはしても、憎むことはない。水の都オーナの嵐のような……ちょうど、そんなものだ」

 ここにいるというのに、三人称で自分のことが語られる奇妙さに、ルーヴェンスは背中のあたりがむず痒くなった。オットー独特の話法においては、とくにめずらしいことではないとわかっていても。
 それにしても、〈暴力の化身〉とは、よく言い表したものだ。オットーが言うように、自身に危害を加えた上級生たちに対し、ルーヴェンスが怒りを覚えたことはほとんどなかった。
 上級生たちが、ルーヴェンスにとっての〈人格を持たざる者〉だったとするなら、同じくあの場にいたオットーは、何者だったのだろうか。ルーヴェンスは、はっとしてオットーを見つめた。オットーの寂しげな横顔が、ルーヴェンスの視線を受け止める。

「でも、僕は違う。ルーヴェンス君にとっての僕は、〈助けてくれるはずの人〉だった。まだ幼いのに、すでに世の中の色々なことに諦めがついていたルーヴェンス君は、それでも僕への期待を諦めずにいてくれた。それなのに、僕は……ルーヴェンス君の気持ちに応えられなかった。怖くて、何もできなかった」

 ――あの時まで、僕たちはたしかに友だちだったのに。
 オットーの言葉は、ルーヴェンスの胸に、深々と突き刺さった。ルーヴェンスが心のどこかで感じていながら、認めたくないと思っていたこと――二人が友人であって、あの事件が二人を完全に切り分けてしまったという事実が、ルーヴェンスにはっきりと突きつけられる。記憶の中の旧友の姿のあざやかさに、とても認められずにいた事実が。

 淡い稲穂色の室内に、静けさがただよう。雪のように輝くほこりが、ちらちらとルーヴェンスの目前を流れていく。オットーの短い茶髪の上を、光がつたい落ちる。
 ここには、十八年の月日があった。旧友も、ルーヴェンスも、もはや当時の二人ではない。あのときのまま、置き去りにされていたルーヴェンスの心は――あるいは、旧友の心も――、過ぎた時をようやく追い越して、この場にたどり着いたのだった。
 ルーヴェンスは、自分が急に老いたような心持ちになった。旧友のほうを見れば、彼も、似たような思いを抱いていたようだ。二人は、力なく笑った。
 二人の様子を見ていたカミラが、ぽつぽつと話し出す。

「……私には、兄とルーヴェンスさんの間に何があったのかはわかりません。それでも私は、兄の苦しみを見てきました。〈弱い自分が苦しくてならない。申し訳が立たないから、死なせてくれ〉と泣く兄の背中を、何時間もさすったこともありました。あなたが兄を憎んでいた間、兄はずっと、自分を憎んでいたんです。体が不自由になったのだって――」

「カミラ」

 旧友が、カミラの言葉をさえぎった。
 カミラの切れ長の目は、うっすらと涙をたたえている。だが、雫をこぼすことはなかった。彼女は、一言〈ごめんなさい〉と言うと、早足で部屋を出て行ってしまった。
 〈体が不自由になったのだって〉――。カミラの言葉の真意を探ろうとしたルーヴェンスは、旧友を支える車いすを見やって、考えるのをやめた。真実を知ってしまえば、知らないうちになしていた、取り返しのつかない罪に気づかされることを予感したのだった。
 代わりに思うのは、旧友の妹、カミラのことだ。

「嫁に行けない、だって? とんでもないな。彼女のような女性は、家庭に縛りつけられる方がわずらわしいものだと思うがね」

「ごめん。普段は穏やかな子なんだけど、僕のこととなると、あんなふうに……。心配をかけすぎてしまったんだろうな。実を言うと、結婚だけじゃなく、進学だって僕のせいで諦めさせてしまったんだ。本当はフィーエルに行きたがっていたんだけど、うちは経済的に厳しくて」

 ルーヴェンスは、オットーの言葉に含みを感じて、目をすがめた。
 フィーエル校の奨学金は、入学試験で優秀な成績をおさめた者に贈られるという名目上、ある種の駆け引きの材料になることも少なくない。さらに、男子に比べると、奨学生に選ばれる女子はあまりに少ない――これは、フィーエル校に限ったことではないが。試験でいい結果が得られたとしても、よほど運が良くないかぎり、後ろ盾のない女子が奨学金を得ることは、ほとんど不可能と言っていい。

 オットーが必死で勉強していたのも、妹に負い目を感じていたからなのかもしれない。だとすれば、学校を辞めるという判断も、彼自身が強く望んだものではなかったはずだ。〈辞めるしかなかった〉――体を壊してまでフィーエル校にすがりつこうとした彼を、何かがそこまで追い詰めたのだ。
 あの上級生たちであったかもしれないし、あの事件そのものであったかもしれない。ルーヴェンスや妹の存在、あるいは彼自身の心であったかもしれない。ルーヴェンスには、彼を押しつぶしてしまったものが何であるのか、わからなかった。彼をとりまく様々なものが一緒くたになって、彼に重くのしかかったように思われた。
 オットーは、丸めていた背中を車いすの背に預け、天井をあおいだ。彼の目は天井に向けられているだけで、なにも映してはいないようだった。

「いつだって考えるよ。もし僕がいなかったら、それか、カミラの方が先に生まれていたら、もう少しは機会があったかもしれない。君のことだってそうだ。もし僕がいなければ……」

「無駄なことだ」

 ルーヴェンスは、とっさにそう言った。オットーの驚いたような顔が向けられると、もう一度、念を押すようにくり返す。

「そんなふうに考えるのは、無駄なことだ」

 心からの言葉だった。
 オットーが彼自身を否定することは、同時に、彼にかかわったすべての人々のあり方を否定することだ。ルーヴェンスもまた、彼とかかわらなければ、この場所には至らなかった。オットーは、一言、〈ごめん〉とつぶやいた。けれども、自身の言葉を撤回することもなかった。
 長い間、そうして考え続けてきたとすれば、今さら考え方を変えるのは難しい。それは、十八年前の一件以来、人を寄せ付けなくなったルーヴェンスについても言えることだ。当時の痛みは、それぞれの生き方に傷を残している。おそらくは、これからも消えることのない傷を。

 とうとう二人の間に一切の会話がなくなったとき、トレイを手にしたフィクトが部屋にやってきた。借り物のエプロンを腰に巻き、はちみつとシナモンの香りを身にまとっている。
 フィクトは、トレイからテーブルに皿やカップを移しつつ、オットーに声をかけた。

「どうぞ、リンゴのはちみつ煮です。オットーさん、今回も食材を少しお借りしましたが、よろしいでしょうか」

「律儀だなあ。よろしいもなにも、うちにある材料は自由に使ってくれてかまわないんだよ。食べるのは僕たちなのだし。ルーヴェンス君だって、うちのお客様なんだから」

「ありがとうございます。コーヒー、熱いので気をつけてくださいね。では、片付けをしてきますので、ごゆっくり」

 フィクトに礼を言うオットーを横目に、ルーヴェンスは小皿を引き寄せ、フォークを手に取った。
 薄くカットされ、はちみつを吸って色づいたリンゴに、添えられた生クリーム。リンゴとともにクリームをすくい上げて口に入れると、のどにしみるようなはちみつの甘みとシナモンの辛さ、それらを包み込むクリームの優しい甘みが広がる。ほだされそうだ――ルーヴェンスは思わず、舌の上に残った余韻をコーヒーで飲み下した。
 一方のオットーは、キッチンに戻っていったフィクトの背中を見送り、ほほえんだ。

「フィクト君、素敵な人だね。君の隣にいるのにふさわしい、賢くて、真面目で、優しくて……君のことを心から大切に思うだけじゃなく、いざというときには、ちゃんと君の力になってくれる人だ」

「いざというとき、か。そんなこと、わかるものか。悪人でこそないだろうが、それだけだ」

「そうかな」

 オットーは、あいまいな返事をしつつ、小皿に手をつけた。食べやすい大きさのリンゴを、フォークの先でさらに小さく切ってから、生クリームに浸して口に入れる。一口が小さいのは、昔から変わっていないようだ。

「あのね、ルーヴェンス君。また会えて、本当にうれしかった。だけど……君はもう、ここには来ないべきだ」

 唐突な言葉に、ルーヴェンスはフォークを握る手を止める。しばらくして、やっと絞り出した〈なぜ?〉の一言は、ひどくおぼつかなかった。オットーは、コーヒーに口をつけてから、ひとりごとのような調子で答える。

「どんなに苦しくて、忘れられないようなことでも、いつのまにか過去になっている。それって、変わることが、変わる前のことを〈変わる前のこと〉にさせるからだって、僕は思うんだ。僕はきっと、君を十八年前にとどめるくさびだ。僕のことなんか、忘れてしまった方がいい。これからのためにも」

 ルーヴェンスは、ぼう然とオットーを見つめた。昔からわかりにくい話し方をするオットーだったが、この話には、別の難解さが感じられる。
 偶然にも、二人はこうして再会した。すべてではないものの、互いの誤解を解くことができた。けれども、ルーヴェンスは、それだけではとても気が済まないと――この十八年のことを、もっと話さなければならないと思っていた。過去を清算するためではない。これから、また新たな関係を築けるのではないかと期待していたのだ。
 だが……。ルーヴェンスは、オットーの車いすを見やり、気がついた。オットーがルーヴェンスにとってそうであるように、ルーヴェンスもまた、オットーを過去に引き留める要因なのだ。
 ルーヴェンスは、カップに残っていたコーヒーを飲み干し、長く息を吐いた。

「言われなくとも、二度と来ない気でいたさ。ただね、君はもう忘れたかもしれないが、あいにく、私は何ひとつ忘れない体質なんだ。必要なことも、そうでないことも」

「……うん、そうだったね。ごめん」

 ルーヴェンスの虚勢に、オットーは、謝りつつも微笑んだ。いつかのルーヴェンスが心惹かれた、花が咲いたような笑みだった。ルーヴェンスは、空のカップの底に浮かんだ茶色の円を見ながら、漠然と、けれどたしかに、何かが終わった気配を感じた。



 フィクトを連れ立って店を出ようとしたルーヴェンスは、店先にカミラの姿を見つけ、足を止めた。カミラの方も――丸いすに腰掛け、猫の耳のあたりをかいてやっていた――ルーヴェンスに気がつき、立ち上がる。

「ルーヴェンスさん。あの……先ほどは、申し訳ありませんでした。取り乱してしまって」

「……いや」

 ルーヴェンスは、カミラから目をそらし、あいまいに答えた。
 カミラは、ルーヴェンスとオットーとのあいだに起きたことに関して、まったく無関係とはいえなかった。オットーはルーヴェンスのために深く傷つき、カミラもまた、そうして心を病んだ兄とともに生きてきたのだ。
 愛する兄の生き方を、直接的にではなくともねじ曲げてしまった男を前に、カミラは何を思うだろう。ルーヴェンスは、オットーの告白を思い出して、自分がカミラにかけるべき言葉をもたないことを思い知った。
 カミラは、黙り込んでしまったルーヴェンスを気遣うように、会話をつなぐ。

「あなたが悪くないことはわかっているんです。もちろん、兄もですが。冷たい言い方かもしれませんが、どうしようもなかったことだと思います。でも、そのことでこれ以上兄が苦しむのは嫌なんです。……あなたが苦しむのも」

 ルーヴェンスは、驚いてカミラを見つめた。ほとんど似たところのない兄妹だったが、彼女の困ったような微笑みは、兄のそれによく似て見える。

「兄があんなに楽しげにしているのは、久しぶりなんです。いつもはどこかうわの空なのに、今日はちゃんとここにいるみたいで。きっと、ルーヴェンスさんのおかげですね。兄は今でも、あなたのことが好きなんだと思います。兄があなたのことを話すときは、苦しそうだけど、幸せそうですし」

 これを聞いたルーヴェンスは、心の中でオットーをなじった。
 カミラは、本心からオットーのことを大切に思っている。オットーが後ろめたさに沈むほど、かえって彼女が傷つくことになるのだ。
 ルーヴェンスは、カミラの気持ちがわかるような気がした。自分が傷ついたのだから、傷つけたオットー自身にはせめて健やかであってほしいという思い――カミラもまた、自分のことを諦めざるを得なかった以上、オットーの幸福を祈らずにはいられないのだろう。オットーを愛し、彼に多くを望んでしまったという意味で、ルーヴェンスとカミラはよく似ていた。

「不愉快な思いをさせてしまったこと、謝ります。できることなら、またいつか、遊びにきてくれたら……」

 ルーヴェンスの表情が変わったためか、カミラの言葉が途切れる。自分は今どんな顔をしているのだろうと、ルーヴェンスは思った。
 ルーヴェンスは、カミラに背を向けた。買い物袋をいくつも抱えたフィクトが、数歩ぶん先の方で、ルーヴェンスを待っている。

「〈どうしようもない〉奴だが……。私の親友を、頼む」

 ルーヴェンスはそれだけ言うと、振り返ることなく、フィクトの方に歩き出した。カミラがどんな顔をしていたかは確かめない。それは鏡を見るのと同じだと、わかっていたのだった。
 ルーヴェンスの胸に十八年間刺さっていた棘は、今や、影もなかった。残った傷だけが、かすかに痛みを訴える。そこに棘が刺さっていたことを示すだけの痛み――記憶に刻まれたコーヒーの苦さ、蜂蜜とシナモンの匂い、稲穂色の光、その中にあったオットーの姿。

「本当に、どうしようもない奴だ」

「はい?」

 ルーヴェンスのぼやきに、フィクトが不思議そうな顔をする。ルーヴェンスは、そんな彼に笑いかけてやった。
 オットーの言葉を借りて言えば、ルーヴェンスは、フィクトに〈期待〉をしていた。
 もちろん、フィクトは悪人ではないが、それだけかもしれない。それこそ、オットーと同じように。本当のところは、〈いざというとき〉にならなければわからないが、少なくとも、そのときが来る前に遠ざけてしまおうとは思わなかった。
 彼となら、〈いざというとき〉を越えられるだろうか――ルーヴェンスは、淡い期待を胸に、弟子の隣に並んだ。
 


 澄んだ青空に、巨大樹の枝葉がそよぐ。心地のいい朝だ。出かける準備を整えたフィクトは、リビングの作業机にはりついているルーヴェンスのほうを見やった。
 この頃、ルーヴェンスが研究に費やす時間が、これまで以上に長くなったようだ。二週間ほど前――あの青果店での一件があって以来のことだろうか。言葉には出さなくとも、オットーとの対話に、思うところがあったに違いない。
 フィクトは師を心配しつつも、できるかぎりほうっておこうと考えていた。どちらにせよ、無理をしているのであれば、そう長くは続かないはずだ。
 フィクトは、集中している様子のルーヴェンスに、〈買い物に出ます〉と声をかける。手元に夢中になるあまり、聞こえていないかもしれない――そう思っていたフィクトだったが、対するルーヴェンスは、フィクトの言葉に反応して顔を上げた。

「待ちたまえ。例の青果店に行くのなら、持って行ってほしいものがある」

 ルーヴェンスはそう言うと、机の横に平積みにしてあった本の山から、一番上にあった本を拾い上げてフィクトに手渡す。

「この家に越してくるとき、手違いで寮から持ってきてしまったものだ。本来の持ち主に返してやりたい」

 本を受け取ったフィクトは、その外装をながめた。物語本のようだ。学生時代から持っていたにしては、ずいぶん状態がいい。
 フィクトが知るかぎり、ルーヴェンスが物語本を読んでいたことはない。この本にも手をつけていたかどうかはわからないが、大切に扱っていたのはたしかなようだ。

「会いに行かなくていいんですか」

「ああ。もう、彼に会う必要はない」

 ルーヴェンスの返事は、素っ気なかった。
 オットーと再会したあの日、店を出たときのルーヴェンスは、疲れたような、それでいてすがすがしい顔をしていた。ルーヴェンスとあの店主との間には、フィクトには想像もできない事情があるのだろう。
 調理をしていたフィクトは、師と店主の会話を、ほとんど聞いていなかった。だが、彼らの間にあったことについては、尋ねるつもりもなかった。ルーヴェンス自身が昔のことを話したがらない以上、フィクトもまた、師の過去を暴きたいとは思わないのだった。

 フィクトは、今でもあの青果店に通っている。ルーヴェンスは、それを知っていながらも、フィクトをとがめることも、果物入りのデザートを拒むこともなかった。
 彼が何を思っているのか、フィクトにはわからない。また、あえて知らなくてもいいことだろうと思ってもいた。ときどきルーヴェンスのことを尋ねるカミラについても、フィクトを見るたびに寂しげな顔をするだけで、決してルーヴェンスのことを口にしないオットーについても。

「……ああ、そうだ。約束していた土産を頼むよ」

 ルーヴェンスがふと、そんなことを言った。フィクトが首をかしげると、ルーヴェンスは体をひねり、いすの背にあごを乗せて、不満げにつけ足す。

「この前、約束したじゃないか。買い物の帰りに甘いものを買って帰ると。市場ならではのものが食べたいと、今、そんな気分になったんだよ」

「そうでしたっけ」

 そういえば、そんな約束をしたような気もする。だが、それはもう〈期限切れ〉ではないだろうか?
 ルーヴェンスはしばらく、きょとんとした顔でフィクトを見つめていた。そして、小さな声でつぶやいた。

「……そうだな、そういうものだ。そうか」

「何です?」

 今度は、フィクトがとまどう番だった。ルーヴェンスは、困ったように微笑む。

「私と友が気づいていなかったことに、ようやく気づいたんだ。人は、忘れるべきだ。あらゆることは、時間とともに風化するものだ。〈終わり〉には形がない。とくに、人と人の間にあるものの〈終わり〉には」

 ――〈期限〉の訪れない執着なんて、歪だった。
 遠くを見ているようなルーヴェンスのまなざしに、フィクトは息苦しさを覚えた。ルーヴェンスが、忘れることのできない自身を責めているように思われたからだ。

「私のことなんだ。君が傷ついたような顔をするんじゃない。……くれぐれも土産を忘れないように」
 
 ルーヴェンスはそう言うと、フィクトに背を向け、手元に視線を落とす。けれども、その手は止まったままだ。やがて彼は、ペンを動かす代わりに、こう言った。
 
「フィグ君。君は、自分の人生を決定づけるような相手に出会ったことがあるかね。友人でも、恋人でもいい」

 何気ない調子だった。けれどもフィクトは、ふしぎと、とても大事なことを尋ねられたような気になった。
 フィクトは、手元に視線を戻した師を見つめる。フィクトに、もっとも大きな衝撃を与えた人物。フィクトの生活を、人生を、まるきり変えてしまった〈天才〉――。

「あなたでしょう」

 ルーヴェンスは驚いたように顔を上げ、アイスブルーの目をしばたたいた。フィクトは複雑な心持ちで、間抜け面の師から視線を外し、玄関へと歩き出す。心には、師の友――オットーの姿が浮かんでいた。それも、ルーヴェンスと対面したあの日の彼だ。


(――オットーさんは、ルーヴェンス師匠の知り合いだったんですね。師匠とは、あまり良好な関係ではなかったようですが……)

(フィーエル校の同期で、ルームメイトだったんだ。歳は少しはなれているけれど。フィーエルにいたころは、ずいぶん彼に世話になった。彼は強くて、優しくて……憧れだった。ずっと、落ちこぼれでひとりだった僕のそばにいてくれた。関係、関係か。友人になりたかったけど、僕なんか、不釣り合いだったから……)

(謝りたかったというのは?)

(彼は、今でも自分のことを話したがらないみたいだね。それなら、僕からは何も言えない。僕が彼を傷つけてしまった、ということしか……。彼はまっすぐな人だから、僕の行いを許すことはできないと思う。それでもいい。ただ、今でも彼の中に悪い影響を残したままなんじゃないか……それだけが怖い)

(……)

(ごめんね、驚かせただろうに、説明もできなくて。ああ、そうだ。できるなら、ルーヴェンス君に、こう伝えてくれないか。〈僕のことは許さないでほしい〉、〈君はなにひとつ悪くなかった〉と。それと……〈さようなら〉と。ちゃんと言えなかったから――)


 オットーは、彼自身の思いを、ちゃんとルーヴェンスに伝えられたのだろうか。フィクトはいまだ、オットーからの伝言を師に伝えずにいる。おそらく、これからも伝えることはないのだろうが。
 ルーヴェンスとオットーの間に何があったにしろ、フィクトは今日も、あの青果店を訪ねる。そして、店主の選んだ極上の果物で、明日のデザートを作るだろう。そのデザートを、ルーヴェンスが口にする。ルーヴェンスとオットーが言葉を交わさずとも、〈店主のおすすめ〉は、たしかにルーヴェンスのもとに届くのだ。過去のしがらみなど、軽々と飛び越えて。
 二人にとっては、きっと、それだけでじゅうぶんなのだろう。
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