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番外編
はぐれ師弟とおてんば少女
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頭上高くで、樹の都の象徴たる巨大樹がそよぐ。青を白ませた空が、その葉の群れの隙間から覗いていた。
巨大樹の影は、樹の都の端々――こんな辺境の森までをも覆ってくれている。青年は木苺でいっぱいになったカゴを両手に、天を仰いだ。朝方まで降っていた雨のしずくが、そばの木の葉から滴って、青年の頬を濡らす。
青年は、名をフィクトといった。在学するフィーエル・アラロヴ大学校の規則に則り、卒業研究のためととある学者に弟子入りして以来、師の自宅に住み込みで勉学に励んでいる。……と言えば聞こえはいいが、実際は、雑事もろもろを押し付けられているだけなのだった。とはいえ、遊び盛りの弟妹をもつフィクトにしてみれば、横暴な師のわがままなどかわいいものだ。少なくとも、幼い子供のように、とても実現できそうにないことを要求してきたりはしないのだから。
――師匠は木苺が好きだから、たくさん採ってもすぐに食べきってしまうだろう。
甘味を口に含み、無愛想ながらも整った面立ちが緩むさまを思い浮かべると、フィクトはなんともいえない心地になった。あれほど幸せそうに食事をするひとは他にいない。フィクトは、師の反応を想像しながら、まだ手を付けていなかった木苺の茂みに手を差し入れ、まるまると膨らんだ木苺をカゴに放った。
「あなたがルーヴェンス・ロードかしら?」
背後からの呼びかけに、フィクトは目を瞬かせた。振り返ってみれば、気の強そうな少女が、屈んだフィクトを見下ろしている。毛先のゆるく波打つ赤毛が、木漏れ日に明るく輝いた。
こんな森の中に、少女がひとり。周囲には、大人の姿も見当たらない。フィクトは疑問に思いながらも、枝の棘にひっかかれて薄い傷のついた腕で頬を拭った。
「違いますが。ルーヴェンス師匠に何か?」
「そうよね! ああ、良かった。ルーヴェンス・ロードがこんな野暮ったい方でなくて。それで、あなたはルーヴェンス・ロードの何なの?」
「弟子です。用があるなら伝えておきますよ」
〈野暮ったい〉という、どう聞いても褒め言葉とはとれない評価を与えられても、フィクトは腹を立てなかった。その程度の罵りでは、師――ルーヴェンスの罵詈雑言には勝てやしない。そんなささいなことよりも、こんな森のなかで、たったひとりでうろついている少女のことが気になった。
この森に足を踏み入れる者といえば、狩人か、でなければルーヴェンスを訪ねてきた者だ。すその短いしゃれたドレスに身を包んだ少女が、狩人なわけもないが……。フィクトは少女のしたり顔を見て、ルーヴェンスが呼び出した相手ではないと確信した。ルーヴェンスは、子どもが苦手なのだ。
少女はフィクトの顔色など気にもせず、当然のようにこう命じる。
「口伝えではいけないわ。わたくしは、ルーヴェンス・ロードに会いに来たの。ねえ、あなた。ルーヴェンス・ロードの居所をご存じなら、わたくしを案内しなさいな」
「嫌です」
「あら! 森のなかで迷っているか弱い女性を放置するというの! 最低だわ」
「迷ってないじゃないですか。それに、うるさい人を連れて帰ると、さらにうるさい人に怒られるので」
フィクトがそう言うと、少女はあからさまに機嫌を損ねたようだった。
ルーヴェンスは、呼んでもいない客を家に入れようとはしない。それは、呼ばれてもいないのに彼の家の扉を叩いたフィクトが一番良く知っている。少女を案内してやったところで門前払いを食らうのがオチだろうし、たどり着くまでに日も傾いてしまう。
「……紹介状はあるんですか。面会の約束は?」
「そんなもの、あるわけないじゃない。そんなものがなければわたくしに会わないつもりなの?」
「当然でしょう。最低限のマナーですから。あなたは、約束もなしに他人の家を訪れるほどの礼儀知らずなんですか?」
フィクトのこの言いように、少女は続ける言葉を失ってしまったようだった。
フィクトは、満杯をこえ、赤い粒をこぼしそうになったカゴを片手に立ち上がる。今帰れば、夕方のお茶の時間に間に合いそうだ。木苺は、ジャムにすれば保存がきくし、あるいはケーキにしてしまってもいい。どちらにせよ、ルーヴェンスの機嫌はとれるだろう。
少女は、自分を無視して立ち去ろうとするフィクトの前に回り込むと、満杯になったカゴから野苺をひとつつまみ、口に放り込む。そして、その甘さを舌の上で転がしながら、含みのある笑みを浮かべた。
「せっかくのおいしい話なのに。あなたのお師匠様だって、聞きたいはずよ」
「あいにくですが、師匠はそういうことに頓着のないたちですので。追い返されると思いますよ」
「あなたはどうなの。お師匠様が出世したとしたら、嬉しいでしょう?」
「僕には関係のないことです」
フィクトは、少女の確信に満ちた言い振りにも興味を示さない。
実際、ルーヴェンスもフィクトも出世には縁のないたちであったし、たとえ社会的地位が与えられたとしても、それは彼ら自身の知的探究心の結果の、言うなればおまけでしかないと考えていた。わざわざこんな森の奥に引きこもって研究に没頭していることからも、それは明らかだ。
ルーヴェンスほどの実力者であれば、出世競争でも十分に戦っていける。だがあえてその道を選ばない――師のそういうところに、フィクトは魅力を感じていた。
師弟の事情を知らない少女は、フィクトのすげない返答に、きょとんとしてしまっていた。だが、隙をついて逃げようとするフィクトに気がつくと、慌ててその背中を追いかけはじめる。
「あ、こら! 待ちなさい! ねえったら、あなた。本当にわたくしを置いて行くつもり? とんでもない方なのね!」
フィクトは一瞬少女を見やったが、帰れともついて来いとも言わないまま、再び少女に背を向けた。
今までにも何度か、こんな客がルーヴェンスを訪ねてくることがあった。彼らは大抵、ルーヴェンスに無理難題を押し付けようとして、断られては唾を吐いて帰っていく。自分たちが去った後にルーヴェンスが浮かべる、ほんの少しだけ寂しそうな表情を知りもせずに。彼は見た目よりも繊細なのだ。だからこそ、不躾な客を近づけたくはなかった。
フィクトがルーヴェンスの前に立ち、無愛想に振る舞えば、そういった客人は望み薄と去ってくれる。ルーヴェンスの家のドアを叩くのは、フィクトの振る舞いを見てもなお面会を望む者だけだ。この少女がどちらであるかフィクトにはわからなかったが、いつまでもついてくる小さな足音に、かすかな喜びを覚えていた。
――久しぶりの客人に、師匠はどんな顔をするだろうか?
* * *
「帰りたまえ」
小さな客人に対し、ルーヴェンスが放った一言がこれだ。
フィクトを出迎えたルーヴェンスは、はじめ、弟子の抱えたかごを見て、喜色を顔いっぱいに浮かべた。だが、フィクトの背後にくっついてきた少女の姿を見つけるや、露骨に不愉快そうにその表情を歪めたのだった。
少女は、ルーヴェンスの態度など気にもとめず、ひょいとフィクトの前に飛び出す。
「あなたがルーヴェンス・ロードね? 案外失礼なお方なのね……。でも、まあ、許してあげますわ。あら、麗しいお顔には微笑みの方が似合うと思いますわよ。そんな風に睨むのではなくて」
「……フィグ君」
返事に困ったルーヴェンスは、〈フィグ君〉――フィクトを見やった。助けを求めるようなまなざしに、フィクトは思わず吹き出しそうになってしまったが。
「どうしようもないでしょう。僕が連れてきたのではなく、彼女がついてきたんです」
「そう言うんなら、いいだろう、君も一緒にこの家からしめ出してやる。……彼女を送り返すんだ、いいね?」
「今日のおやつはなくなりますが、構いませんか。今日は木苺で何かデザートでも作ろうと思っていたのですが……彼女を送りに出るなら、作る暇がありませんね。また今度にしましょう」
おやつなし――フィクトの返事に、ルーヴェンスの顔色が変わる。
「ま、待ちたまえ? おやつも食べずに、夕食までどう過ごせというんだ。おやつの用意は弟子の最も重要な仕事だよ」
「おやつの用意は弟子の仕事じゃありませんよ。それに僕は、彼女を送りに行かなければなりませんからね」
返す言葉をなくしたルーヴェンスは、面倒そうに少女の方を見やった。
本当は、フィクトもろとも彼女をしめ出してやりたいところだが、それによって自身のおやつがなくなるというのなら話は違ってくる。フィクトの作るデザートはとびきり美味であるし、一日中頭を使い続ける仕事をしているのだから、作業の合間に甘いものは欠かせない。作業の効率を考えれば、おやつ抜きというのは非常によろしくない。
……とルーヴェンス自身は主張するが、フィクトに言わせれば、「胃袋をつかまれている」とはまさにこういうことなのだった。ルーヴェンスはいらいらと頭をかきむしったが、ついには、諦めたようにうなだれた。
「……そこの。話だけは聞こう。上がるといい」
それを聞いた少女の顔色が、ぱっと明るくなる。彼女はフィクトを小突き、にぱっと笑った。
「やるじゃない、お弟子さん」
「フィクトです」
「あなたのお名前なんかどうでもよくってよ。さ、席に案内しなさいな」
上品ぶった口調に反して、少女のしぐさは、あまりに庶民くさく見える。フィクトは内心首をひねったが、あえて口には出さなかった。わざわざ余計なことを言って、「失礼なお方ね」だのなんだのと突っかかられることもないだろう。
「フィグ君、お茶を出してやりたまえ」
「木苺はケーキがいいわ!」
フィクトは呆れ、彼らに隠れてため息をついた。雛鳥が二羽、餌を求めてうるさくなる前に、お茶の用意を整えたほうが良さそうだ。
* * *
「あなたなら、確実に成果を出せる。わたくしには分かりますの。わたくしの頼みごとを聞くなら、あなたの研究を援助してあげてもいいわ。あなたの幅広い活動のことは聞いていましてよ、お金がいくらあっても足りないでしょう?」
「何度言われようと同じだよ。内容を聞かないことには、なんともね」
「いいえ、あなたはわたくしの依頼を断れないの。分かるでしょう」
フィクトがお茶とケーキを持ってリビングに戻る頃になっても、彼の師と少女の話し合いはろくに進んでいなかった。いや、どちらかといえば、ずっと〈平行線を辿っていた〉。
廊下のかげで二人のやり取りを聞いていたフィクトは、すぐにその原因を悟った。少女の方が、肝心の依頼内容を明かそうとしないのだ。少女は「あなたにならできる」と言い、ルーヴェンスは「内容を聞かないことには判断のしようがない」と応じ――二人はずっと、それだけの不毛なやりとりをえんえんと続けていた。
「それ、楽しいんですか」
トレイを手にしたフィクトが割って入ると、ルーヴェンスの頬が安堵に緩んだ。わけのわからない子供を相手にするのに、相当ストレスを感じていたらしい。いらだちを通り越して疲れ切った師の面持ちに、フィクトは哀れみさえ感じた。
一方、対話を邪魔された少女の方は、むっすりと頬を膨らませている。
「ちょっと、お弟子さん? あなたの師はどうなっているの? いつまでたっても首を縦に振らないじゃない。承りました、ってひとことおっしゃるだけのことが、どうしてできないのかしら」
「お弟子さんじゃなくて、フィクトです。それは、あなたが用件をはっきりと伝えないからでしょう。中身のわからない依頼なんて、どんな面倒ごとかわかりませんからね」
「……あら、あなた? あなた方が、わたくしの依頼を断れるとでも思っているの? むしろ、このわたくしに頼まれごとをされるだなんて、ありがたいと思いなさいな」
含みのあるその言葉を聞いたフィクトは、怪訝そうに少女を見やり、耳打ちするようにしてルーヴェンスに尋ねる。
「あの……彼女は?」
「私が知るものか。名乗りもしないんだから」
フィクトの気づかいもあえなく、ルーヴェンスはしれっとそう答えた。また面倒なことになりそうだ――フィクトの予想に違わず、少女の眉がぴくりと上がる。
「なんですって? あなたたち、わたくしが誰かも知らないなんて、非常識にもほどがありますのよ!」
「誰なんですか」
もうどうにでもなれ、だ。ルーヴェンスや少女の前に、気遣いなど何の役にも立たないことを悟りつつあったフィクトは、気だるげに問い返す。少女はフィクトをきつく睨みつけたが、フィクトの目線は、少女を避けるように手元のケーキに向けられている。フィクトのその態度が、なおさら少女を怒らせたらしい。
「――ッ、聞くがいいわ、お馬鹿さんたち! ……あら? 木苺のケーキ! すっごくおいしそうね。……じゃ、なくって! わたくしはベアトリス・ド・アルトワ! モルガン・ド・アルトワの一人娘よ!」
少女――ベアトリスは、差し出されたケーキに歓喜の声を上げたが、すぐに気を取り直して、堂々と名乗りを上げた。それを聞いたルーヴェンスは「腑に落ちた」、フィクトは「いや、だから誰なんですか」という顔で、それぞれに少女の正体を受け止める。
「モルガン・ド・アルトワ……なるほどね」
「モルガン?」
訳知り顔のルーヴェンスに、フィクトが問い返す。ルーヴェンスは半ば呆れたようだったが、フィクトの無知を咎めることなく、小声で教えてくれた。
「〈あの〉光の船商会の会長だよ」
光の船商会といえば、樹の都の物流を取り仕切る、都世界でも指折りの大商会だ。ようやく事態を飲み込んだフィクトは、「まさか」と言いたげにベアトリスを見やる。
一方のベアトリスは、師弟がこそこそ話をしている間に、喜々としてケーキに手を伸ばしていた。
「いい? 貴方がたが手にしているもののほとんどは、父の管理下にあったものなのよ。その紙も、この紅茶もケーキも!」
ベアトリスは、フィクトの表情の変化に満足したのか、したり顔でフォークをかざし、目に映るあれこれを指す。「この小生意気なお弟子さんも、きっとわたくしの言うことをきくようになったはずだわ」――ベアトリスの余裕は、しかし、フィクトの一言で打ち砕かれた。
「……通りで。振る舞いが少々庶民くさいと思いました。光の船商会の主は、たしか、一代であの大商会を築き上げたんでしたね」
フィクトの言葉に、ベアトリスはしばらくぽかんとしていた。だが、それが背伸びする彼女を小馬鹿にするものであったことに気付くと、顔を真っ赤にした。
大商人の娘でも、高貴な血は買えない。貴族だらけの派手なパーティーが大好きなベアトリスにしてみれば、それが一番のコンプレックスだったのだ。ベアトリスはすっかり元気をなくし、しゅんとしてしまった。
「わたくしが、貴族じゃないからいけないの? わたくしが貴族なら、あなたたちはわたくしの依頼を受けてくださったの? わたくし……」
「……フィグ君。君のせいだろう、なんとかしてくれ」
すんすんと泣き出したベアトリスを前に、ルーヴェンスは、咎めるようにフィクトを見やった。
子供の扱いになれたフィクトは、少女の涙にも動揺することなく、冷静に語りかける。
「ベアトリス」
名前を呼ばれ、ベアトリスの肩が跳ねた。
敬称もなしに彼女を呼ぶ者など、彼女の周囲には、父親と義母くらいしかいない。だが、少女が腹を立てるには彼の声色はあまりにも優しく、それでいて絶対的だった。
「ちゃんと、話してください。連れもなしに、たった一人でここまで来たからには、それだけの理由があるんでしょう。僕たちになにかしてほしいことがあるのなら、何もかも正直に話して下さい」
「けれど、わたくしは……」
「あなたの血の話なんて、僕たちにはどうだっていいんです。ただ、ここはルーヴェンス師匠の家であり、あなたは客でしょう。自分の立場をわきまえてください。それが礼儀であり、そこにこそ人の品格は表れるんですから」
フィクトのその言葉に、ベアトリスはおずおずと顔を上げる。
血なんてどうだっていい――そう言ったフィクトの声は、穏やかに澄んでいた。軽蔑や嫌悪のないときわ色の瞳は、雨を待つ水面のように、少女をじっと見つめている。
ベアトリスは、フィクトの作った柔らかな沈黙に背中を押され、とうとう口を開いた。
「……探しものをしておりますの。けれど、見つからなくて」
「あのね、君。私は何でも屋ではないんだよ」
「違いますわ! それが妖精に深く関係しているものだから、きっと貴方なら……!」
「途方もない。そんな理由であてにされては困る」
「いいえ、見つけられるわ! 『妖精術』があれば!」
ベアトリスの一言に、ルーヴェンスの顔色が変わる。
『妖精術』――ルーン語と呼ばれる特殊な言語を通して、都世界の根源たる領域に干渉することを目的とした術。ルーヴェンスが研究していたそれは、都世界の倫理に反するとして、学会の場においては〈なかったこと〉にされた。ルーヴェンスはこの分野を諦めていなかったが、公には、資料さえ非公開にされているはずだ。
「……それを、どこで知った?」
「知っていて当たり前だわ。商人の情報網とはそういうものですのよ」
「学会の人間にさえ、表立っては公開されてはいないはずだ」
ルーヴェンスの追求に、ベアトリスはうろたえた。彼女は縋るようにフィクトを見やったが、彼は首を横に振るだけだ。
少女はしばらく答えに迷っていたが、結局、ウソをつくのは諦めたようだった。
「……フィーエル校の資料室」
この答えに、ルーヴェンスが目を丸くする。
ルーヴェンスとフィクトが所属するフィーエル校の資料室には、学校関係者しか立ち入れない。中でも、『妖精術』の資料が封されているのは、特別な許可を得なければ入れないエリアだというのに。
「あそこは関係者以外立入禁止になっているはずだが」
「忍び込んだんでしょう」
「彼女が?」
ルーヴェンスの問いには、驚きと呆れが混ざっていた。フィクトがこともなげにうなずくと、ルーヴェンスは、少女を見てくつくつと笑いだした。
「ど、どうして笑うんですの? 悪いことだって、分かってはいましたわ。でも、でも……」
「ふふっ、安心したまえ。君を責めているわけじゃない。むしろ、関心したんだよ」
ベアトリスは、ルーヴェンスの言葉をどうとも受け取りかねたらしく、困ったような顔でルーヴェンスを見つめる。少女のその様子が、ルーヴェンスをなおさら愉快にさせた。
――〈あの〉フィーエル校の資料室に忍び込んでまで叶えたい望みが何なのか、聞いてやろうじゃないか。
ルーヴェンスは力の抜けた笑いを口元だけに収斂させ、ベアトリスに問いかける。
「それで、探しものというのは?」
「『大地の息吹』ですわ」
少女の迷いない答えに、フィクトが怪訝そうな顔をした。
都世界の大地には、ところどころに『割れ目』がある。空間の歪みが地を割り、青白い光をまとった霧となって、突発的に地面から噴出するのだ。そうした青い霧に包まれた場所は、立ち入った者に幻を見せる亜空間となり、人には『大地の息吹』と呼ばれる。非常にめずらしい現象ではあるが、なるほど、妖精に干渉することができれば、見つけるのも不可能ではない。かくいうルーヴェンスも、フィクトと共に樹の都外に調査に出た際に、その現象を目撃したことがあった。
「できないことはない。……が、何のために? 別の空間に足を踏み入れてしまえば、戻れなくなるかもしれない。危険だよ。『大地の息吹』を見つけることができたとしても、あれの中まで付き合うことはできない」
「かまいませんわ! もう、覚悟はできていますもの」
――覚悟、か。この歳の少女の口から出る言葉ではないな。
ルーヴェンスはあごに手をやりつつ、目をうるませるベアトリスを一瞥した。
――依頼の内容さえわかれば、その理由を聞く必要はない。彼女の方も、話すことを望んでいないように見える。それならば……。
「もう日も暮れてしまいましたし、無理に家に帰すのもいかがなものかと思いますが」
絶妙なタイミングで、フィクトが二人の間に割って入る。ルーヴェンスは他人を家に泊めることに抵抗を感じたが、フィクトの言うことももっともだと、しぶしぶうなずいた。
フィクトは無表情を和らげ、ベアトリスに声をかける。
「よろしければ、泊まっていきませんか?」
フィクトの提案を聞いたベアトリスの顔に、蕾が開くように笑みが広がった。
「……いいわ、泊まっていってあげる! 喜びなさいな」
* * *
夜も中ごろ。トレイを手にしたフィクトは、甘酸っぱい香りを引き連れて、ベアトリスのいる寝室を訪れた。
「眠れませんか」
フィクトの声に、考え事をしていたベアトリスが顔を上げる。彼女は、起こした上体を丸め、腰までかぶった毛布に肘をついたまま、不満げにフィクトを睨んだ。
「マットは固いし、毛布は薄いし……散々ですわ。こんなところで寝られるはずないじゃない」
「すいません」
「あら、言い訳もしないの?」
「してほしいんですか」
「ふふ。あなたって、見た目よりも気持ちのいい方なのね」
フィクトはベッドのわきまでイスを引いてきて、ベアトリスのかたわらに座る。フィクトがカップを差し出すと、甘くもぴりりとした香りが糸を引いた。カモミールだわ――ベアトリスはカップに口をつけ、ゆったりと息を吐く。
温かな静けさの中、いつとも知れず、ベアトリスが口を開いた。
「……わたくし、お母様に会いたいんですの。『大地の息吹』は過去を見せてくれるのでしょう。こんなことを言ったら、ルーヴェンス様は嫌がるかしら。気難しい方のようでしたし」
「過去だけではありませんし、望むものを見せてくれるとも限りませんよ」
「それでも、またお母様の姿が一目見られるかもしれないというのなら、かまいませんわ。成功するかどうかは、やってみなければわかりませんもの」
ベアトリスの答えに迷いはない。フィクトは彼女の横顔に、いい意味で〈庶民らしい〉強かさを垣間見た気がした。
「お母様は、わたくしが小さい頃に、病気で亡くなりましたの。優しい声だけは覚えているけれど……。お父様が迎え入れた新しいお母様は、わたくしのことが好きじゃないのですって。大人びていて可愛くないと、よく言われますわ。姉弟もなくて、お父様もお忙しいから、いつも新しいお母様と二人きり。お父様のお仕事のためにも我慢しなくてはならないのだけど……」
ベアトリスはそう言ったきり、金色の液面に視線を落とし、黙り込んでしまった。
「泊まっていきませんか」と言われたあの時、ベアトリスはえらく喜んでいた。彼女にしてみれば、一晩きりでも、居心地の悪い家に帰らずに済むのが嬉しかったに違いない。フィクトは目を細め、自らの家のことを思い浮かべた。
「僕の家は五人姉弟です。姉が一人、弟が二人に妹が一人」
「まあ、五人も? とても楽しそうね。でも、お菓子が一つしかなかったらどうしますの?」
「ケンカになるときもありますし、みんなでひとかけらずつ食べることもあります。大抵、弟たちに譲ってしまいますが」
「あなたは食べなくていいの?」
「ええ。自分より、弟妹にたくさん食べさせてやりたいので」
ベアトリスは、間の抜けた顔で口をつぐんだ。彼女は自分の行いを思い出すように視線をさまよわせていたが、ついには手元に視線を落とし、ぼそりとつぶやく。
「わたくし、パンくずを鳩に食べられてしまうのも嫌ですわ」
少女の正直な一言に、フィクトは目を細めた。
フィクトにとっては、いつだって、弟妹が我慢せずにいてくれることが何よりの幸せだった。フィクトが好んで料理をするのも、そういう気性のためかもしれない。だが、小さい頃から弟妹の面倒ばかりみてきたフィクトに、こんなことを口にできた時期が、はたしてあっただろうか。
「……明日はパンを焼きましょう。ちょうど、木苺のジャムもありますし」
フィクトは、受け取ったカップをトレイに戻すと、妹がひとり増えたような心持ちで、ベアトリスをなでてやる。ベアトリスはフィクトの手に少し戸惑ったようだったが、やがて、安らかな寝息をたてはじめた。
* * *
壁のくぼみに妖精寄せの蜜油を注ぐと、蜜油に引き寄せられた光の妖精が、リビングをやわらかく照らしだす。室内に満ちる淡い金の光は、浸るものを感傷的にさせる月の気配を窓の外に押し返してくれた。
「母親に会いたいんだそうです」
トレイとともに蜜油の瓶を片したフィクトは、ソファに伸びているルーヴェンスに声をかける。
ルーヴェンスの夜更かし癖はいつものことだが、彼が机に向かうでも何をするでもなくソファを占拠しているときは、たいてい、フィクトと話したいことがあるときだった。こと今日は、ベアトリスに寝床を譲ったフィクトがソファで寝ようとしていることを知っていながら居座っているのだから、間違いないだろう。
フィクトの予想通り、ルーヴェンスは眠気を感じさせない口調で切り返した。
「そんなところだろうと思ったよ。『大地の息吹』は、その領域に立ち入った者に、あらゆる幻を見せる。フィグ君、君も覚えているだろう?」
「……ええ。僕が見たのは、あまり気持ちのいいものではありませんでしたが」
「彼女が見るものも同じかもしれない。ろくでもない幻を見て、それきりの可能性のほうが高いんだ。それに、『大地の息吹』に立ち入るのには危険が伴う。空間のねじれた場所でもあるのだからね。この前はすぐに出たから良かったが……」
めずらしく、ルーヴェンスは語尾を濁した。本人の前ではああして振る舞っていても、ちゃんとベアトリスのことを気にかけているのだ。フィクトは、師のこういった――真面目で、情に厚い面を好ましく思っていた。ルーヴェンスを避ける者たちは、彼がこうして思い悩む姿など想像もできないに違いない。
考え事をしているせいか、今のルーヴェンスは、いつも以上に〈ひとり〉に見える。師を案じたフィクトは、ソファの端に腰かけた。
「母親、か」
「どうかなさったんですか」
ルーヴェンスがもらしたつぶやきは小さなものだったが、彼のすぐそばにいたフィクトの耳には届いていた。ルーヴェンスは視線を宙に漂わせながら、輪郭のない息で答える。
「いいや。ただ、優しい母の姿など、記憶にないと思ってね。私の母親は、良くも悪くも凡人だった。正直、煩わしかったよ」
「めずらしいですね。あなたが、ご自分のことを話すなんて。……気になりますか、彼女。気に入らない義母といつも二人きり、姉弟もいないと言っていました。まだ幼いですし、寂しい思いをしているでしょうね」
ルーヴェンスは黙して応じた。伏せられた長いまつげに、稲穂色のかがやきが伝っては落ちる。
彼は寂しい人だ。人を避けてこんな森の奥に暮らし、フィクトが現れるまでは、誰もそばに置かなかった。一日のほとんどを研究に費やしていたとしても、息をつく間はあったはずだ。イスに背を預けて疲れを実感する瞬間、あるいは食事時、寝る間際……そういうときにも、彼はひとりだった。
フィクトは、出会う前のルーヴェンスをほとんど知らない。ルーヴェンスは昔話を好まず、誰とどういう暮らしをしていただとか、どんな子どもであっただとか……そういうことを知られるのを、ことさら嫌がった。それはきっと、彼が先ほどこぼしたように、母親や周囲の人間との関係が芳しいものでなかったからなのかもしれない。
「彼女のことが気にならないと言えば嘘になる。子どもというのは不自由なものであるし。だからと言って、いつまでもここにいさせるわけにはいかない」
「分かっています。ただ、どうしたいかは彼女に選ばせるべきだと思いませんか」
「立入禁止の場所に侵入するようなおてんばだ。自分の道くらい、自分で選べるだろうが……手を貸すくらいなら、まあ、してやってもいいだろう。君も、せいぜい上手くやりたまえ」
やはり、ベアトリスに自身と似たものを感じているのか――返ってきたのは、日頃のルーヴェンスからは考えられないほど色の良い返事だった。
短く礼を言い、明かりを少し落とそうかと立ち上がったフィクトのすそが、遠慮がちに引かれる。
「フィグ君、私にもなにか飲み物を」
ルーヴェンスが無意識に見せた首を傾けるしぐさが、フィクトの目には、甘えているように映った。ベアトリスの存在に思うところがあったのだろう、今夜の彼は、いつもよりどこか感傷的になっているようだ。
フィクトはひとつうなずき、話し足りない師に何を用意しようかと考えを巡らせる。しばらくして、キッチンに残った優しい香りが再び湯を注がれて、リビングにくゆりと広がった。
* * *
辺境の森は、朝らしい小鳥のさえずりには事欠かない。フィクトは、昨晩から貸していた寝室の窓を開け、ほどよく冷たい風を部屋に取り入れる。
レースカーテンごしに陽の光を浴びて、ベアトリスが小さくうなった。フィクトの服に染み付いた紅茶の匂いが、少女の眠りを優しく解いていく。
そんな穏やかな朝を吹き飛ばすように、寝室の扉が勢いよくたたき開けられた。ドア枠に両手をついたルーヴェンスは、不満げにフィクトとベアトリスを睨む。
「おはよう、フィクト・フェルマー君。考えてもみたまえ、起こすなら私の方が先じゃないか?」
「めずらしいですね、師匠が自分から起きてくるなんて。……おっと」
二人のやり取りが聞こえているのかいないのか、寝ぼけたベアトリスがフィクトに抱きついた。小さな唇が、「お父様」とこぼすのを見たフィクトは、少女の背をなでてやりつつ、起きるよう促す。これにはさすがのルーヴェンスも言葉を失ったようだった。
「……フィグ君、コーヒー!」
年端もいかない少女に対してジェラシーを感じるなんて大人げないと割り切ったのか、ルーヴェンスはそれだけ言って二人に背を向ける。〈あの〉ルーヴェンスに気を遣わせるなんてたいしたものだと、フィクトはベアトリスにえらく感心してしまった。
一方、当のベアトリスは、まだフィクトの腰に抱きついたままだった。彼女は眠気に潤んだ目でフィクトを見上げ、首を振る。
「あなた……ああ、そうでしたわね。わたくし……あら、ごめんなさい! わたくしったら!」
彼女は抱きしめた相手が父親でないことをようやく飲み込んだらしく、弾かれるようにフィクトから離れた。ベアトリスくらいの歳の子なら、まだ大人に甘えていていいとフィクトは思うのだが、ませた少女自身にはそうは思えなかったらしい。
「フィクトからは、紅茶の香りがするわ」
ベアトリスは赤くなった頬をばつの悪い笑顔で隠しつつ、「いい朝ね、ルーヴェンス様!」だのなんだのと言いながら、リビングに飛び出していった。
朝食の席、カフェオレを差し出したフィクトを、ルーヴェンスはまじまじと見つめた。普段のフィクトは、ルーヴェンスにコーヒーと言われれば紅茶を出す男だというのに。
「君が素直にコーヒーをいれるなんて……」
「子どもの前で意地を張るほど、僕も子どもではありませんから」
「……ほう?」
ルーヴェンスは、バターと木苺のジャムたっぷりのパンをカフェオレに浸しながら、ベアトリスの方を見やった。口周りを真っ赤にした少女の姿は、なるほど、〈子ども〉には違いない。
ベアトリスがパンとジュースと平らげ、指先についたジャムを舐めはじめたころ。こんこん、と玄関のドアが叩かれた。ベアトリスに続く来客に心当たりを見出したフィクトが、応対にと立ち上がる。
ドアを開けると、そこには、従者を連れた女が立っていた。こんな森の奥にやってくるには華美すぎるドレスに、フィクトは「たいそう歩きにくかったことだろう」と思った。ほつれた裾が哀れに見えるくらいだ。本当は馬車で来るつもりだったのだろうが、何しろ、木々のひしめく森に馬車は入れない。
フィクトの不躾な視線を不快に思ったのか、女は細く整った眉を吊り上げる。
「こちらが、ルーヴェンス・ロード様のお宅でよろしいのかしら?」
「ええ。弟子のフェルマーです。ご用なら僕が承りますが」
「あら、そう。娘が昨日からこちらにお邪魔しているはずなのだけど、返していただけませんこと?」
何の連絡もなしにやってきて、要件だけを押し付けようとするこの種の高慢さには、覚えがあった。昨日フィクトにそれを味わわせたベアトリスが、フィクトの背中からひょっこりと顔をのぞかせる。少女の姿を捉えた女は、芯の残る笑みで、彼女に語りかけた。
「お父様がお待ちよ、ベアトリス。さ、帰りましょう」
「お義母様……」
ベアトリスはフィクトの服をつかんだまま、女を見つめる。
ベアトリスの知っている義母は、美しいドレスが好きで、その裾が擦れるのを忌む人だった。そんな彼女がドレスをぼろにしてまで追ってくるなんて……どれほど怒らせてしまったのだろう。
――いいえ。お義母様がなんと言おうと、わたくしには関係ありませんわ!
覚悟を決めたベアトリスは、フィクトの腕を引っつかみ、高らかにこう宣言した。
「わたくし、この方と婚約しましたの! もう家には帰りませんわ」
「……は?」
ベアトリスの言葉に、フィクトがすっとんきょうな声を上げる。帰りたくない少女の言い逃れにしては、ずいぶん過激すぎやしないか? フィクトがベアトリスを諭すより、激高した女がベアトリスの手をつかむのが先だった。
手の甲を平手で打つ、いつもの「おしおき」。ベアトリスはぎゅっと目をつむったが、妙なことに、痛みがやってこない。少女がまぶたを開くと、振り上げられた手を――女の手首を掴む、フィクトの姿があった。
「親が子どもを叩いていいのは、子どもの命を守ろうとするときだけです。違いますか?」
怒りに取り乱した女とは対象的に、フィクトの声は、あくまで冷めていた。女はフィクトの手を振りはらい、彼をきつく睨みつける。
ベアトリスが不安げにフィクトの名を呼ぶと、フィクトはベアトリスを見下ろし、目を細めた。「安心してください」と言うようなまなざしに、ベアトリスの表情が少しだけ和らぐ。
フィクトはベアトリスの背を軽く叩いてやってから、女の方に視線を戻した。
「……ベアトリスのお義母さん、でしたか。申し訳ありませんが、今日のところはお帰りください。彼女が嫌がっている以上、無理に引き渡すわけにはいきません」
「何をっ……これは誘拐ですわ! こちらが申し立てれば、すぐにでも――」
「子供ひとりの主張になど、耳を傾けないと言うのですね。あなたは。彼女は、自分の足でここまで来たんです。彼女自身の意思で。こちらを罪人扱いするということは、彼女の意思を無視することと同義ではありませんか」
思い当たるところがあったのだろう――女がたじろぐ。不利を悟った彼女は、ベアトリスの方に標的を移した。
「ベアトリス、お父様を困らせて何が楽しいの。大人になりなさい。あなたは、あの人の一人娘なの。その意味がわかるでしょう? こんな、どこの馬の骨とも知れない……」
ベアトリスは、おしおきがよほど怖かったのか、女に話を振られるなり、フィクトの背中に隠れて固まってしまった。フィクトはそんな少女をかばいつつ、自らに向けられた軽蔑するようなまなざしを正面から受け止める。
「そうですね。ですが、僕はあなたよりも彼女のことをよく知っていると思いますよ。それに、僕が子供に手を出すような悪趣味な人間だと思われますか。心外です」
ベアトリスとの間を遮られた女は、真っ赤に色づいた唇を噛み締める。フィクトは、木苺のジャムで口周りを汚したベアトリスを思い出した。
「……頭を冷やしなさい、ベアトリス。今のあなたに、モルガンの娘を名乗る資格はないわ」
女は悔しげにそう吐き捨てると、擦れた裾を翻す。
去りゆく義母の背を見送るベアトリスは、華やかな唇をかたく噛みしめていた。フィクトは少女の肩を優しく抱き、騒ぐドアベルを黙らせるように、そっとドアを閉めた。
* * *
「朝食が不味くなった。私はあのドアベルの音が嫌いなんだ」
食事を終え、テーブルに肘をついていたルーヴェンスは、誰にともなくつぶやいた。
「手がジャムまみれだわ。洗わなくちゃ」。そう言って洗面所に引っ込んだベアトリスは、手はきれいになっただろうに、まだ戻ってきていない。小さな手が水面を乱す音だけが、絶え間なく聞こえてくる。
今のあなたに、モルガンの娘を名乗る資格はない――義母のあの言葉に、ベアトリスがどれほど傷ついたことだろう。彼女は、幼いながらも父を気遣い、苦手な義母との生活に耐えてきたというのに。
「どうするつもりだい」
ルーヴェンスは、向かいに掛けたフィクトに短く問いかける。
ルーヴェンスにも、先ほどのやり取りは聞こえていたはずだ。それなら彼の問いは、言葉通りの意味ではないだろう。フィクトの視線の先で、ベアトリスが飲み残したジュースの液面が揺れる。
「力を貸していただけませんか。どんな方法でもかまいません。僕とベアトリスを、『大地の息吹』まで導いてほしいんです」
ルーヴェンスは、フィクトのこの決断を、よくは受け止めなかったらしい。彼は、指先で自らの頬を落ち着きなく叩きつつ、呆れたようにこう言った。
「彼女を導くのはよしとしよう。そういう依頼なのだから。だが、君まで行くことはないんだ。君は、『大地の息吹』にたどり着くまで、彼女の面倒を見てやればいい。そこから先、一緒に行く必要はない」
「ですが、」
「導いた先での勝手な行動は許可しない。私の指示に従ってもらう。そもそも、この依頼を受けたのは私だ。いいね?」
「……分かりました」
この件の当事者ではない以上、フィクトにできるのは、ベアトリスを手助けすることだけだ。フィクト自身、ベアトリスに対して過保護になってしまっていることには気づいていた。ルーヴェンスのきつい物言いは、そんなフィクトを案じてこそのものなのかもしれない。
フィクトが礼を言うと、ルーヴェンスは居心地悪そうに顔を背けた。とんとんと、頬を叩く指先のテンポが少しだけ早くなる。
「我々のすることが、必ずしも彼女にいい影響を与えるとは限らない。君の善意が彼女を傷つけるかもしれない。それだけは忘れないように」
照れ隠しのような一言に、ルーヴェンスの本音が垣間見えた気がして、フィクトは頬を緩めた。昨晩からずっと、ルーヴェンスも迷っていたのだろう。
もし本当に『大地の息吹』が彼女に母親の幻を見せてくれたとして、死んだ母親に会わせることは、ベアトリス自身にとって、必ずしもよいことなのだろうか。彼女が生きている現実を、さらにつらく苦しいものにしてしまうだけなのではないのだろうか。彼女を『大地の息吹』に導くことは、正しいことなのだろうか――。
「ベアトリスは強かな子ですよ。傷つくかもしれないだなんて、最初から分かりきっていることです。それにあなたは、僕の善意にではなく、彼女の覚悟に手を貸すのではありませんか」
自身の頬を叩いていたルーヴェンスの指先が止まる。彼はゆっくりとフィクトの言葉を咀嚼し、浅くうなずいた。どうやら、決意は固まったらしい。
ベアトリスは一人ではない。彼女が傷つくとき、同じように傷つく者たちがここにはいる。
「大丈夫ですよ、師匠」
フィクトは、師の薄氷色の瞳に、淡く微笑みかけた。
ちょうど、それまで絶えなかった水音が止む。洗面所から出てきたベアトリスは、自身の両手をフィクトの前にかざし、小首をかしげる。
「お義母様、わたくしの手が汚れているのに気づいたかしら。はしたないと思ったかしら……ねえ、フィクト。わたくしの手、きれいになったかしら? 自分ではよくわからないの」
ベアトリスの手は、やたらとこすられたせいか、真っ赤になっていた。彼女はなおも両手をこすり合わせ、小さな額にぎゅっとしわを寄せる。
フィクトは、彼女の両手を、自らの手のひらで包み込んだ。もう、彼女が自分で自分の手を傷つけてしまわないように。
「準備をしたまえ。『大地の息吹』に向かう」
ルーヴェンスがそう言うと、ベアトリスは大きな目をさらに大きくした。フィクトが手を離すと、彼女はぱたぱたとルーヴェンスに駆け寄り、にぱっと笑んだ。
「ふふ、ありがとう、ルーヴェンス様!」
屈託のない笑顔にきまりが悪くなったルーヴェンスは、ふいと少女から視線をそらす。だが、その横顔は、少女の鈴のような笑い声にほころんでいた。
ベアトリスに「早く早く」とばかりに袖を引っ張られながら、フィクトはルーヴェンスの方を振り返る。
「師匠。ひとつ、お願いがあるのですが――」
* * *
花の都の風は、ふわりと甘い花の香りがする。樹の都と花の都とを結ぶ汽車を降りたベアトリスは、深く息を吸い、その優しい匂いを鼻の奥で味わった。
花の都は光の船商会が生まれた地であり、また、ベアトリスの故郷でもあった。ベアトリスの父モルガンは、ここで出会ったベアトリスの実母と共に、後に大商会となるかの商会の基礎を作り上げたのだ。
花の都の生まれ――赤い髪に翠の瞳というその容姿が何よりの証拠だ――であるベアトリスは、故郷に何を感じているのだろうか。彼女との付き合いが浅いフィクトにはわからなかったが、ベアトリスの明るい横顔から、彼女が故郷に嫌悪を感じていないことは伝わってくる。フィクトは口元を緩め、風と共にベアトリスの髪に降りかかった花びらを払い落とした。
ルーヴェンスが言うには、この都の端あたりに『大地の息吹』があるとのことだった。不定期に表れるそれが、ごく近くにあったのは幸運だったと言えるだろう。もちろん、行き先がベアトリスの故郷であったのは、ほんの偶然だ。駅舎で馬車を借りる手続きを済ませ、一行はさっそく目的地へと向かった。
「もうすぐお母様に会えるのね! 楽しみだわ。お母様、わたくしのことを覚えておいでかしら……」
フィクトの隣、馬車に揺られるベアトリスは上機嫌だった。彼女が足をぱたぱたと動かすたびに、飾りの少ない膝丈のワンピースが揺れる。枝葉避けにと、丈にあわせて折ったルーヴェンスのマントをまとった彼女は、しかし来たままの靴を履いていた。ルーヴェンス宅に子ども用の靴などあるはずもなく、そのままにするしかなかったのだが、フィクトにはどうしてもそれが気がかりだった。
「その靴で、本当に大丈夫なんですか。高いかかとを木の根にひっかけてしまいますよ」
「大丈夫ですわ。でなければ、どうやってあなた方のお宅にたどりつけるのかしら?」
ベアトリスはつんと澄まして答えた。ベアトリスの言うとおり、彼女は、この靴でルーヴェンス宅までの森を抜けてきた。きっと大丈夫なのだろうが……。フィクトの背が、妙な寒気に粟立つ。どことなく嫌な予感がするのだ。
フィクトの不安一行の短い馬車の旅は、すぐに終わりを告げた。馬車がゆっくりと速度を落としていく。思ったよりは遠かった――フィクトは乗車代の上乗せ分を御者に支払い、『大地の息吹』を抱く森を見やった。
同じ〈森〉とはいえ、樹の都の森と花の都の森では、まるで違って見える。木々の幹は黒々として、枝葉を支えるには頼りないほど細い。そんな幹のところどころから規則なく蕾が顔を出し、葉の少ない枝は、その分赤い花で包まれている。まるで、木が花に喰われているようだ――漂ってきたむせ返るような花の香りに、フィクトは思わず口元を覆った。フィクトと同じ感想を抱いたらしいルーヴェンスも、眉根にしわを寄せている。
「あら、どうしましたの? 情けないのね」
ベアトリスは二人の態度をどうとらえたのか、愉快そうに笑いながら足踏みをする。早く向かいたくて仕方がないようだ。
ルーヴェンスは、少女の視線にも焦ることなく、懐からタリスマンをひとつ取り出す。フィクトの瞳と同じ色の石がはめ込まれた、アルベリア・タリスマンだ。ルーヴェンスはタリスマンを口元に寄せ、何かをささやきかける。なんと言ったのか、そもそも何をしているのか――フィクトが聞けずにいるうちに、タリスマンの石が淡い光を帯びた。
「これが、我々の行き先を教えてくれる。……少女、君が持ちたまえ」
「わたくしが? いいの?」
「君が持つべきだ」
ベアトリスは、ルーヴェンスの突き放すような言い方にたじろぎながらも、小さな手でタリスマンを受け止める。瞬間、タリスマンがひときわ強く輝き、一筋の光を放った。
ベアトリスの手を伝い落ちた光の筋は、どんな生き物にも似ていない動きで地を這い、森の中へと伸びていく。ベアトリスはその光につられるように、一歩踏み出した。師弟も、そんな彼女の後を追う。
* * *
ぱたたっ――枝葉を叩く翼の音に、フィクトは顔を上げた。
この森に足を踏み入れてから、もうどれくらい経ったのだろうか。木々が枝を絡ませ、豊かな花房で日の光を遮っているために、時間の感覚もつかめない。強烈な花の匂いに、嗅覚もほとんど麻痺してしまっている。視界を覆う鮮やかさは、耐えかねて視線を地面に逃がしてしまうほどだ。
「まだ着かないの? ずいぶん遠いのね……」
タリスマンに導かれ、一行の先頭を歩いていたベアトリスが、小さくつぶやいた。そのかわいらしい靴は土に汚れ、マントの裾はほつれてしまっている。元気をなくしたベアトリスに、ルーヴェンスは、「そら見たことか」とでも言いたげな笑みを浮かべた。
「『大地の息吹』は非常に珍しい現象だ。ちょうど発見できただけ運がいい」
「あら、そう」
ルーヴェンスの態度に、ベアトリスはきゅっと眉根を寄せる。負けず嫌いらしい彼女は、ここで音を上げてたまるかとばかりに歩速を上げた。
最後尾のフィクトが、疲れた様子のベアトリスを見かねて声をかける。
「その靴ではつらいでしょう。目的地まで背負います」
フィクトのその提案に、ルーヴェンスはあからさまに不快感を示した。
「フィグ君、彼女は誰の意志でここまで来たと思っているんだ。甘やかしちゃいけない」
「……遠慮しておきますわ。わたくし、まだ歩けますもの」
ベアトリスはそう答えると、また少し早足になった。
そこから、ベアトリスはだんだんと言葉少なになっていった。だが、何度もふらつき、土のおうとつや石ころ、木の根に足をとられかけても、彼女は弱音を吐かず、足を止めることもしなかった。少しの意地と、母親に会いたいという思い――フィクトは、ベアトリスがどんなに疲れても、彼女自身が求めるまでは、手助けをしないでおこうと決めた。
ほとんど会話もなくなってから、また長らく経った。一行は、それぞれとある一歩を境に、周囲の空気が変わったのを感じ取っていた。
「……近い」
ルーヴェンスのつぶやきに応じるように、視認できるほど濃く青白い霧が、やわらかく彼らを迎え入れる。前に『大地の息吹』に近づいた際に見たものを思い出したフィクトは、二人に隠れて顔をしかめた。
さらに奥まで進み続けると、いよいよ霧は濃くなった。タリスマンが行先を示すのをやめてしまったところで、一行は足を止める。五歩先さえ十分に見えないような霧を前に、ベアトリスは眉をひそめた。
「これが、『大地の息吹』なの?」
「ああ。――少女、ここから先は君ひとりで行く道だよ。我々は共に行けないと言ったろう」
ルーヴェンスは突き放すようにそう言ったものの、その言葉尻は弱々しかった。フィクトは、立ちすくむベアトリスのそばに屈みこみ、師が口に出せなかった思いを代弁する。
「ベアトリス。今ならまだ引き返せますよ」
できることなら、ここで諦めてほしい――ルーヴェンスは、そんな思いを抱えていた。一歩『大地の息吹』に足を踏み入れてしまえば、どうなるかわからない。この場から『大地の息吹』が姿を消しても、その中に囚われたまま、戻ってこられない可能性だってある。それに、『大地の息吹』がどんな幻を見せるかは予測できない。幼い少女が、心に消えない傷を負ってしまうかもしれないのだ。
ベアトリスは唇を噛み締め、フィクトを見据える。彼女はしばらく迷っていたが、ついには心を決めたらしかった。
「いいえ、フィクト。わたくしひとりでもやれますわ。自分で決めたことだもの」
予想どおりの返事に、フィクトは眉尻を下げた。
ベアトリスの気持ちは、師弟を訪ねてやって来たあのときから、少しも変わっていない。それなら、引き止めることも……。
少女の決意を受け入れたフィクトは、懐からペンダント型のタリスマンを取り出し、道案内のタリスマンと引き換えに、ベアトリスの首にかけてやった。深い緑の光が、少女の胸元に輝く。
「お守りです。これを、絶対に離さないでください」
ベアトリスは浅くうなずいてから、心細さを振り払うように身を翻す。いよいよ霧の中へ踏み出すことをためらっていた彼女に、フィクトが声をかける。
「大丈夫ですよ。ベアトリスなら」
フィクトのこの言葉が、ベアトリスを勇気づけた。彼女は手のひらを固く握り、振り返ることなく『大地の息吹』へと飛び込んでいく。小さな後ろ姿は、あっという間に青く霞んで見えなくなってしまった。
「会えるといいですね」
「どうだろうね」
ルーヴェンスは、いやに落ち着いたフィクトを見やりつつ、ぶっきらぼうに応じる。ルーヴェンスの余裕のない横顔を見たフィクトは、頬を緩めた。
「心配ですか」
「当然だよ」
ルーヴェンスがこうして人を気にかけていると明らかにするのはめずらしい。ルーヴェンスの視界の外で、フィクトはくすりと笑った。
「彼女は強い子です。信じて待ちましょう」
* * *
「お母様、そこにいらっしゃるのでしょう? お母様!」
青い霧の中、ベアトリスは足早に歩き続けていた。あの師弟と離れてから、もうだいぶ経ったような気はするのに、周囲の景色にはまるで変化がない。ただ、濃霧が漂うだけだ。分かりやすい道標もなければ、母の姿も見当たらない。
靴先を木の根に引っ掛けたベアトリスは、草生えに倒れ込んだ。転んだのだと理解すると同時に、木肌をかすめ、すりむいた膝がじくじくと痛みだす。ベアトリスは唇を引き結び、フィクトに渡された『お守り』を強く握りしめて立ち上がった。
(――大丈夫ですよ。ベアトリスなら)
「……わたくしなら、うまくやれますわ。だってわたくしは、モルガンの娘ですもの」
つぶやいた父の名前が、ベアトリスの足を少しだけ軽くした。商人たるもの、強く、まっすぐであれ――大商人である父の教えが、ベアトリスの不安に寄り添ってくれているようだ。
歩みを止めない彼女に、いつしか、『大地の息吹』もその様相を変化させはじめた。あちこちから聞こえてくる鐘を打ったような重く鈍い音。にわかに騒ぎ、何かの気配を伝えてくる背の高い草の群れ。ときおり背後に感じる、正体の分からない〈恐ろしいもの〉の気配。ベアトリスは背後を振り返らないようにしながら先を急いだ。
同じような景色の中を同じように進んでいると、しだいに意識がもうろうとしてくる。周囲の物音も、ベアトリスの意識をかき乱そうとする。自分はここで何をしているのか、何がしたかったのか――自分を見失いそうになるたび、ベアトリスは足を止め、首を振った。
そうよ、お母様のことを考えればいいのだわ――ベアトリスは気を確かにもつため、大好きな母親のことを考えることにした。
小さい頃の記憶は輪郭が曖昧で、水に絵の具を落としたかのような、滲んだ色彩に満ちている。ざらざらとした雑音の中に、澄んだ優しい声と、肌に触れる温かさ。「ベアト」と呼ばれるごとに不思議な力が湧いてきて、なんでもできそうに思えた。
「お母様……」
会いたい。もう一度だけでいいから、あの優しい声で「ベアト」と――。
――ベアト。
霧の向こうから響いたその声は、たしかに少女の鼓膜を揺らした。ベアトリスは立ち止まり、周囲を見回す。
「お母様……?」
――かわいいベアト。こっちにおいで。
声は優しくベアトリスを呼んだ。ベアトリスの胸に熱が広がっていく。
「お母様! そこに、そこにいらっしゃるのね! お母様!」
ベアトリスは、霧をかき分け、夢中で走った。ずっと焦がれてきた母親に、ようやく会えるのだ。
声は、彼女を『大地の息吹』の奥へ奥へと誘う。わき目もふらず駆けていたベアトリスは、周囲の霧が濃紺に変わったことに気がつくことができなかった。
――ベアト。
少女を導いていた声が、ほんの少し低くなる。ベアトリスは戸惑い、その場で立ち止まった。
どうしてこんなに走り続けているのに、声はすぐそこに聞こえるのに、お母様の姿が見えないの? ――ようやく疑問に思ったときには、もう遅かった。
――ベアト。ベアト。ベアト……
ベアトリスに語りかける声がぐわんぐわんと反響し、あっという間に優しい母親の声ではなくなっていく。周囲の景色がぐにゃりと歪み、まだらに混ざりあう。ベアトリスの足元がどろりと溶け、後ずさりした彼女の靴を飲み込んだ。ベアトリスは足を引き抜こうともがいたが、溶けた足元はひどく粘り、小さな靴を捕らえて離さない。
「いやっ……お母様……お母様ぁ……っ!」
そこにいらっしゃるのではないの? ――ベアトリスの体はゆっくりと沈み、足首まで泥に浸かってしまった。青から濃紺へと変わっていた霧が、少女の視界を黒く遮った。
足が動かない。何も見えない。ベアト、ベアト――耳を苛む声に、もはや母親の存在は感じられない。耳を押さえてうずくまると、その勢いで、また少し身体が泥に沈んだ。
このまま、お母様にもお会い出来ないまま、溺れ死んでしまうなんて嫌。どうすればいいの――泣き出しそうになったベアトリスの胸元で、ときわ色の光がまたたく。まるで、誰かのまなざしのように。ベアトリスは、震える手で〈それ〉――フィクトのくれた『お守り』を握り、祈るように両手を固めた。
「お願い、助けて! フィクトっ……!」
少女の祈りに応えるように、一筋の光が濃霧を貫いた。
* * *
炎が頬をかすめた。頬を拭った手の甲が、すすで汚れている。フィクトは、苦い思いで周囲を見回した。前に『大地の息吹』に足を踏み入れたときにも見た光景――視界を埋め尽くす、一面の炎。焼かれていく体。煙の匂い……。
戻りが遅いベアトリスの身を案じたフィクトは、彼女を追って『大地の息吹』に足を踏み入れていた。ベアトリスを探しに行きたいと言い出したフィクトを、ルーヴェンスが強く咎めなかったのは、ルーヴェンス自身がそうしたかったからでもあったのだろう。フィクトは、道に迷わないようにと自らの手首に糸を結び、その一端をルーヴェンスに預け、青い霧の中にベアトリスの姿を探しはじめた。
だが、そんなフィクトにも、『大地の息吹』は容赦なかった。
足の裏が熱い。一歩踏み出すたびに、足裏の皮が引き剥がされていく感覚に襲われる。
なにもかも幻覚だ。『大地の息吹』がなぜこんな情景を見せるのかはわからないが、すべて、この場限りの幻でしかない。前回『大地の息吹』で負ったやけども、外に出れば消えてしまっていたのだから。
分かっている。分かっているのに、煙を吸った肺が、苦しいと訴えてくる。浅くなる呼吸。身体が重い――……
『助けて! フィクトっ……!』
ふらつき、膝をついたフィクトの耳に、小さな祈りが届く。フィクトは気だるげに顔を上げ、煙と霧の向こうを見据える。そこに輝く、ときわ色の光……。
「ベアトリス!」
フィクトは、瞬時に正気を取り戻した。
ベアトリスが呼んでいる。助けを求めている。行かなければ――立ち上がった瞬間、胸の苦しさも、やけどの痛みも、振り切れるように消え去った。周囲を包んでいた炎が、ざあっと引いていく。
フィクトは、炎が晴れたあとの澄んだ霧の中に、へたり込んだ少女の姿を見た。
「ベアトリス。迎えに来ましたよ」
フィクトの声に、ベアトリスの肩が跳ねる。
ベアトリスは、両方の靴を木の根に引っかけて、動けなくなっていた。彼女はフィクトの方に顔を向けてはいたが、幻覚にとらわれてしまっているらしく、焦点が合っていない。
「フィクト……? そこにいるの? 足が、動かないの。泥に埋まってしまって……暗くて、なにも見えないわ。ねえ、フィクト……どこにいるの……わたくし……」
フィクトは、ベアトリスの前に片膝をつき、優しく彼女の頬に触れる。その合図で、少女の視界に光が戻った。ようやく目の前にフィクトの姿をとらえたベアトリスは、くしゃりと顔を歪める。
「フィクト……お母様……いらっしゃらなかった……」
よほど怖かったのだろう――小さく震えるベアトリスに、フィクトが小さくうなずいた。
「そうですか」
唇を噛み締めていたベアトリスが、はっとしたように顔を上げる。
フィクトは、ベアトリスを責めることも哀れむこともせず、ただまっすぐに見つめていた。商人の娘としてではなく、ベアトリスというひとりの少女として。
「怖い夢はもう終わりです。帰りましょう、ベアトリス」
ベアトリスの瞳から、大粒の涙があふれ出した。
* * *
「もう帰るんですか」
フィクトの呼びかけに、ベアトリスが照れたように笑う。彼女の背後では、背の高い女――ベアトリスを迎えに来た義母が控えていた。
『大地の息吹』でベアトリスを迎えたフィクトは、泣き疲れて眠ってしまったベアトリスを背負い、手首に巻いた糸を頼りにルーヴェンスのもとに戻った。足元を舐めていた控えめな炎は、ひとたび『大地の息吹』を出ると、すぐに消えてしまった。消えなかったのは、ベアトリスの頬に残った涙のあとだけだ。
樹の都のルーヴェンス宅に戻ってからも、ベアトリスが『大地の息吹』での出来事を話すことはなく、また、師弟の方もなにも問わなかった。フィクトは黙ってベアトリスに紅茶を差し出し、ベアトリスもなにも語らないまま眠りについた。心も体も、ひどく疲れていたに違いない。そして今朝、ベアトリスは、義母の迎えに素直に応じたのだった。
とはいえ、ベアトリスにそうさせたのは、諦めではなかったらしい。玄関口に現れた女は、ベアトリスの姿を見るなり、言葉を失った。彼女に向かい立ったベアトリスは、木苺のジャムで真っ赤になった手や口周りを隠そうともしなかったのだ。フィクトは、堂々としたベアトリスの姿に、やはり自分の見立ては間違っていなかったと確信した。
ベアトリスは強い。母親に会いたいという願いが潰えても、絶望することなく、新しい道を探している。それならば、自分の振る舞いが彼女の障害になってはいけない――フィクトはベアトリスに道を空けてやりつつ、女に向けて軽く頭を下げた。
「この前は失礼しました。言い過ぎましたね」
それまであからさまにフィクトから目をそらしていた女が、この謝罪でようやく彼の方に視線を向ける。彼女は心底不快そうに眉根を寄せ、案の定きつく切り返そうとした。
「謝って許されると思って? 私はモルガンの――」
「お義母様」
ジャムを口紅代わりにしたベアトリスが、女の言葉を遮る。彼女は一歩義母との距離を詰めると、きっぱりとこう言い放った。
「わたくし、お義母様のこと好きじゃありませんわ。いいえ、嫌い」
この告白には、義母の方もぎょっとしたようだった。言葉を失う彼女に、ベアトリスは、にぱっと笑ってこう続ける。
「嫌いよ……今は。好きになるように努力します。だって、お父様が好きな人ですもの。わたくしにもきっと好きになれるわ。お父様が選ばれたのだから、きっとあなたは素敵な人よ」
「……ベアトリス」
女の瞳が、少女のひたむきさに揺れた。ベアトリスは、ほんの一瞬だけ唇を噛み締めたが、それもすぐに解いた。もう会えない母親の声ではない、もっと確かなものに勇気をもらって。
「いいえ。『ベアト』って呼んでもいいのよ。お義母様」
屈託のない、相手の好きも嫌いも押しのける、花のような笑顔。女は、よほど迷ったのだろう――縋るようにフィクトを見やる。フィクトは、そんな彼女に向けて、ただうなずいてみせた。
長い沈黙の末に、女が、かすかな声で何やらつぶやく。消え入りそうな声だったが、耳を澄ませていたベアトリスには、ちゃんと聞こえていた。「ベアト」、と。
――お母様。遠くにいらっしゃるお母様。わたくし、本当は昨晩、ちっとも眠れなかったの。寝たふりをしていただけ。一晩中、お義母様のことを考えていて……。ねえ、お母様。わたくし、お義母様のことを、ちゃんと好きになれるかもしれないわ。わたくしがどうしたらいいかわからなかったことと同じように、お義母様だって、迷っていらっしゃったんだもの。それに気づけたから……気づかせてくれた方がいらっしゃったから……。
「……ねえ、フィクト。わたくし、大きくなったらフィクトのお嫁さんになりたいわ」
ベアトリスの唐突な申し出に、フィクトはきょとんとした。二人の背後でルーヴェンスがばたばたと物音を立てたが、ベアトリスは気にもせずに言葉を続ける。
「結婚したら、一緒に暮らせるのでしょう? フィクトなら、毎日おいしいお菓子にお茶を用意してくれそうだもの。毎晩、あなたの大きな手になでられながら眠りにつくの。子どもはたくさん欲しいわ。おやつがひとつしかなかったら、みんな子どもたちに譲ってあげるの」
「ベアトリス、僕は――」
「ええ、ええ。わかっているわ。〈子供に手を出すような悪趣味な人間〉ではないのでしょう? いいの、いつまででも待ちますもの」
「大丈夫ですよ。ベアトリスなら」――その言葉が、どれほどベアトリスを勇気づけてくれたか、フィクトは知らないだろう。それでもこの先、彼の言葉を思い出すたびに、心の端に、フィクトの存在を感じることになるのなら。フィクトがいれてくれた紅茶の匂いや、木苺の甘酸っぱさ、ぼんやりとした意識の中で感じた背中の温度と心地よさを思い出すことになるのなら……そう考えると、今、胸の中にある熱くてくすぐったい気持ちを、伝えておかなければならない気がした。
これまでのベアトリスなら、あらゆる手段を使って、フィクトを手に入れようとしていただろう。金を積んで、あるいは彼の師を攻撃してでも。だが、ベアトリスにはもう、どんなに手を尽くしても叶わない願いがあることが分かっていた。
「あなたが大きくなる頃には、おじさんになってしまっていますよ」
彼らしい、柔らかな拒絶。フィクトの返答に、ベアトリスはころころと笑った。
「ありがとう、フィクト」
ベアトリスはひとつ小首をかしげると、ふわりとスカートのすそを翻す。待ちきれずに歩きだしていた義母と従者の間に割って入った彼女は、迷いなく義母の手を取った。
さようならの言葉はない。澄んだ笑い声と、木苺の甘酸っぱい香り――フィクトは小さく手を振り、親子になったばかりの二人の背を見送った。
* * *
「……あの男からの貰い物が役に立つ日がくるとはね。よりにもよって引き合うタリスマンを、それも対で渡すなんて、嫌味なやつだと思ったものだが。ま、いいさ」
机に肘をついていたルーヴェンスが、わざとらしくひとりごちる。
ジェイムズ・マークレイ准教授――フィクトをえらく気に入り、たびたびちょっかいをかけてきた男のことは、師弟の記憶に新しい。フィクトにルーヴェンスのもとを離れる気はないと彼が納得してからは縁遠くなっていたが、今回の一件では、彼の置き土産が『大地の息吹』をさまようベアトリスとフィクトを結びつけてくれた。
「まさか、こんな形で貸しを作ることになるとは」――ルーヴェンスは、不本意だと言いたげにため息をもらした。ベアトリスの見送りから戻ったフィクトは、彼女が座っていたイスに腰掛けつつ、ルーヴェンスに頭を下げる。
「師匠。……いろいろと、ありがとうございました」
本来なら感謝するべきはベアトリスであるはずなのに、彼女に代わったにしては、フィクトの礼は重く、含みのあるものだった。『大地の息吹』から出てきたときのフィクトの張りつめた顔を思いだしたルーヴェンスは、にやりとして応じる。
「これで、おやつに関しては安泰というわけか。木苺がまだ残っていたね、楽しみにしていよう」
ルーヴェンスがそれきり黙ってしまうと、リビングは急に静かになった。
少女の皿には、まだこぼれたジャムが残っている。衣服掛けにかけられたマントも、少女の背丈に合わせて折られたままだ。穏やかというには少し寂しい静寂が、去った少女を惜しむように、ひたと二人の周囲を満たす。
ベアトリスは、これからうまくやっていけるだろうか。母親の姿に焦がれはしないだろうか――義母とまっすぐ向かいった少女の姿を思いだしたフィクトは、彼女の行く先を案じる気持ちが溶けていくのを感じた。自分なら大丈夫と示すような、小さくも力強い背中。
「本当に、彼女からの報酬を受け取らなくて良かったんですか」
フィクトのふとした言葉に、ルーヴェンスが「ん、」と顔をあげる。
ルーヴェンスは、今後市場でフィクトを見かけたら優待してほしいと言ったきりで、ベアトリスからの直接の報酬を断っていた。もともと研究以外に関心のないルーヴェンスではあるが、それでも、まったく欲がないということはないはずなのに。
真剣に答えを待つフィクトに、ルーヴェンスは困ったように微笑むだけだった。師のその態度に、フィクトの中で、もうひとつの疑問が頭をもたげる。ベアトリスの言葉を聞いてから、ずっと気にかかっていたこと――。
「――師匠。『妖精術』とは、いったい何ですか。ベアトリスはそれを頼って師匠のもとを訪れたと言っていました。それなら、我々を『大地の息吹』に導いたのは『妖精術』とやらなんでしょう」
フィクトの問いに、ルーヴェンスの笑みが固まる。
それまで、ルーヴェンスの口から『妖精術』なるものの存在を告げられたことはなかった。ルーヴェンスがあえて言わずにいたことなら、こうして尋ねることで、彼を不快にさせるかもしれない。ただでさえ気短なルーヴェンスだ、いつ逆鱗に触れてしまうかもわからないのだから――フィクトは身構えたが、予想に反して、怒声は飛んでこなかった。ルーヴェンスは顔を覆い、しばらく黙り込んだあと、鬱々とこう答えた。
「忘れたまえ。君のような凡人には関係のない話だ」
* * *
聞き慣れた床の軋みが、妙に耳に障る。フィクトは唇を噛み、今まで入ったことのない、施錠されたきりの扉に向かい立った。
ベアトリスを見送ったあの日から一週間。好奇心に衝き動かされたフィクトは、ルーヴェンスに隠れ、『妖精術』に関する調査を続けていた。その末に分かったのは、『妖精術』の正体が『妖精の意志と本能的指針の応用』と題された研究であることと、それが学会に受け入れられなかったことだけだ。研究についての詳しい資料は、フィーエル校からの許可が下りず、手に入らなかった。
とはいえ、自宅を研究拠点としているルーヴェンスが今も『妖精の意志と本能的指針の応用』の研究を続けているなら、その資料がこの家のどこかにあることは間違いない。幸いにも、フィクトには思い当たる場所があった。それが、ルーヴェンスが物置きと呼び、フィクトを遠ざけてきた〈開かずの間〉――この部屋だ。
研究に関する詳細はまだわからない。『妖精術』がどんなもので、なぜルーヴェンスがそれを隠すのか、なぜ学会がそれを拒んだのかも。だが、フィクトは不思議にも、扉の向こうに心惹かれていた。確信じみた直感に、引き寄せられるようにして。
――扉の向こう、そこにあるものが見たい。
決意に満ちたまなざしで扉を見つめるフィクトの頬を、樹の妖精の気配がかすめる。木の葉の姿をした妖精は、フィクトの肌をひとなでし、からかうような笑い声とともに宙に溶け消えた。
巨大樹の影は、樹の都の端々――こんな辺境の森までをも覆ってくれている。青年は木苺でいっぱいになったカゴを両手に、天を仰いだ。朝方まで降っていた雨のしずくが、そばの木の葉から滴って、青年の頬を濡らす。
青年は、名をフィクトといった。在学するフィーエル・アラロヴ大学校の規則に則り、卒業研究のためととある学者に弟子入りして以来、師の自宅に住み込みで勉学に励んでいる。……と言えば聞こえはいいが、実際は、雑事もろもろを押し付けられているだけなのだった。とはいえ、遊び盛りの弟妹をもつフィクトにしてみれば、横暴な師のわがままなどかわいいものだ。少なくとも、幼い子供のように、とても実現できそうにないことを要求してきたりはしないのだから。
――師匠は木苺が好きだから、たくさん採ってもすぐに食べきってしまうだろう。
甘味を口に含み、無愛想ながらも整った面立ちが緩むさまを思い浮かべると、フィクトはなんともいえない心地になった。あれほど幸せそうに食事をするひとは他にいない。フィクトは、師の反応を想像しながら、まだ手を付けていなかった木苺の茂みに手を差し入れ、まるまると膨らんだ木苺をカゴに放った。
「あなたがルーヴェンス・ロードかしら?」
背後からの呼びかけに、フィクトは目を瞬かせた。振り返ってみれば、気の強そうな少女が、屈んだフィクトを見下ろしている。毛先のゆるく波打つ赤毛が、木漏れ日に明るく輝いた。
こんな森の中に、少女がひとり。周囲には、大人の姿も見当たらない。フィクトは疑問に思いながらも、枝の棘にひっかかれて薄い傷のついた腕で頬を拭った。
「違いますが。ルーヴェンス師匠に何か?」
「そうよね! ああ、良かった。ルーヴェンス・ロードがこんな野暮ったい方でなくて。それで、あなたはルーヴェンス・ロードの何なの?」
「弟子です。用があるなら伝えておきますよ」
〈野暮ったい〉という、どう聞いても褒め言葉とはとれない評価を与えられても、フィクトは腹を立てなかった。その程度の罵りでは、師――ルーヴェンスの罵詈雑言には勝てやしない。そんなささいなことよりも、こんな森のなかで、たったひとりでうろついている少女のことが気になった。
この森に足を踏み入れる者といえば、狩人か、でなければルーヴェンスを訪ねてきた者だ。すその短いしゃれたドレスに身を包んだ少女が、狩人なわけもないが……。フィクトは少女のしたり顔を見て、ルーヴェンスが呼び出した相手ではないと確信した。ルーヴェンスは、子どもが苦手なのだ。
少女はフィクトの顔色など気にもせず、当然のようにこう命じる。
「口伝えではいけないわ。わたくしは、ルーヴェンス・ロードに会いに来たの。ねえ、あなた。ルーヴェンス・ロードの居所をご存じなら、わたくしを案内しなさいな」
「嫌です」
「あら! 森のなかで迷っているか弱い女性を放置するというの! 最低だわ」
「迷ってないじゃないですか。それに、うるさい人を連れて帰ると、さらにうるさい人に怒られるので」
フィクトがそう言うと、少女はあからさまに機嫌を損ねたようだった。
ルーヴェンスは、呼んでもいない客を家に入れようとはしない。それは、呼ばれてもいないのに彼の家の扉を叩いたフィクトが一番良く知っている。少女を案内してやったところで門前払いを食らうのがオチだろうし、たどり着くまでに日も傾いてしまう。
「……紹介状はあるんですか。面会の約束は?」
「そんなもの、あるわけないじゃない。そんなものがなければわたくしに会わないつもりなの?」
「当然でしょう。最低限のマナーですから。あなたは、約束もなしに他人の家を訪れるほどの礼儀知らずなんですか?」
フィクトのこの言いように、少女は続ける言葉を失ってしまったようだった。
フィクトは、満杯をこえ、赤い粒をこぼしそうになったカゴを片手に立ち上がる。今帰れば、夕方のお茶の時間に間に合いそうだ。木苺は、ジャムにすれば保存がきくし、あるいはケーキにしてしまってもいい。どちらにせよ、ルーヴェンスの機嫌はとれるだろう。
少女は、自分を無視して立ち去ろうとするフィクトの前に回り込むと、満杯になったカゴから野苺をひとつつまみ、口に放り込む。そして、その甘さを舌の上で転がしながら、含みのある笑みを浮かべた。
「せっかくのおいしい話なのに。あなたのお師匠様だって、聞きたいはずよ」
「あいにくですが、師匠はそういうことに頓着のないたちですので。追い返されると思いますよ」
「あなたはどうなの。お師匠様が出世したとしたら、嬉しいでしょう?」
「僕には関係のないことです」
フィクトは、少女の確信に満ちた言い振りにも興味を示さない。
実際、ルーヴェンスもフィクトも出世には縁のないたちであったし、たとえ社会的地位が与えられたとしても、それは彼ら自身の知的探究心の結果の、言うなればおまけでしかないと考えていた。わざわざこんな森の奥に引きこもって研究に没頭していることからも、それは明らかだ。
ルーヴェンスほどの実力者であれば、出世競争でも十分に戦っていける。だがあえてその道を選ばない――師のそういうところに、フィクトは魅力を感じていた。
師弟の事情を知らない少女は、フィクトのすげない返答に、きょとんとしてしまっていた。だが、隙をついて逃げようとするフィクトに気がつくと、慌ててその背中を追いかけはじめる。
「あ、こら! 待ちなさい! ねえったら、あなた。本当にわたくしを置いて行くつもり? とんでもない方なのね!」
フィクトは一瞬少女を見やったが、帰れともついて来いとも言わないまま、再び少女に背を向けた。
今までにも何度か、こんな客がルーヴェンスを訪ねてくることがあった。彼らは大抵、ルーヴェンスに無理難題を押し付けようとして、断られては唾を吐いて帰っていく。自分たちが去った後にルーヴェンスが浮かべる、ほんの少しだけ寂しそうな表情を知りもせずに。彼は見た目よりも繊細なのだ。だからこそ、不躾な客を近づけたくはなかった。
フィクトがルーヴェンスの前に立ち、無愛想に振る舞えば、そういった客人は望み薄と去ってくれる。ルーヴェンスの家のドアを叩くのは、フィクトの振る舞いを見てもなお面会を望む者だけだ。この少女がどちらであるかフィクトにはわからなかったが、いつまでもついてくる小さな足音に、かすかな喜びを覚えていた。
――久しぶりの客人に、師匠はどんな顔をするだろうか?
* * *
「帰りたまえ」
小さな客人に対し、ルーヴェンスが放った一言がこれだ。
フィクトを出迎えたルーヴェンスは、はじめ、弟子の抱えたかごを見て、喜色を顔いっぱいに浮かべた。だが、フィクトの背後にくっついてきた少女の姿を見つけるや、露骨に不愉快そうにその表情を歪めたのだった。
少女は、ルーヴェンスの態度など気にもとめず、ひょいとフィクトの前に飛び出す。
「あなたがルーヴェンス・ロードね? 案外失礼なお方なのね……。でも、まあ、許してあげますわ。あら、麗しいお顔には微笑みの方が似合うと思いますわよ。そんな風に睨むのではなくて」
「……フィグ君」
返事に困ったルーヴェンスは、〈フィグ君〉――フィクトを見やった。助けを求めるようなまなざしに、フィクトは思わず吹き出しそうになってしまったが。
「どうしようもないでしょう。僕が連れてきたのではなく、彼女がついてきたんです」
「そう言うんなら、いいだろう、君も一緒にこの家からしめ出してやる。……彼女を送り返すんだ、いいね?」
「今日のおやつはなくなりますが、構いませんか。今日は木苺で何かデザートでも作ろうと思っていたのですが……彼女を送りに出るなら、作る暇がありませんね。また今度にしましょう」
おやつなし――フィクトの返事に、ルーヴェンスの顔色が変わる。
「ま、待ちたまえ? おやつも食べずに、夕食までどう過ごせというんだ。おやつの用意は弟子の最も重要な仕事だよ」
「おやつの用意は弟子の仕事じゃありませんよ。それに僕は、彼女を送りに行かなければなりませんからね」
返す言葉をなくしたルーヴェンスは、面倒そうに少女の方を見やった。
本当は、フィクトもろとも彼女をしめ出してやりたいところだが、それによって自身のおやつがなくなるというのなら話は違ってくる。フィクトの作るデザートはとびきり美味であるし、一日中頭を使い続ける仕事をしているのだから、作業の合間に甘いものは欠かせない。作業の効率を考えれば、おやつ抜きというのは非常によろしくない。
……とルーヴェンス自身は主張するが、フィクトに言わせれば、「胃袋をつかまれている」とはまさにこういうことなのだった。ルーヴェンスはいらいらと頭をかきむしったが、ついには、諦めたようにうなだれた。
「……そこの。話だけは聞こう。上がるといい」
それを聞いた少女の顔色が、ぱっと明るくなる。彼女はフィクトを小突き、にぱっと笑った。
「やるじゃない、お弟子さん」
「フィクトです」
「あなたのお名前なんかどうでもよくってよ。さ、席に案内しなさいな」
上品ぶった口調に反して、少女のしぐさは、あまりに庶民くさく見える。フィクトは内心首をひねったが、あえて口には出さなかった。わざわざ余計なことを言って、「失礼なお方ね」だのなんだのと突っかかられることもないだろう。
「フィグ君、お茶を出してやりたまえ」
「木苺はケーキがいいわ!」
フィクトは呆れ、彼らに隠れてため息をついた。雛鳥が二羽、餌を求めてうるさくなる前に、お茶の用意を整えたほうが良さそうだ。
* * *
「あなたなら、確実に成果を出せる。わたくしには分かりますの。わたくしの頼みごとを聞くなら、あなたの研究を援助してあげてもいいわ。あなたの幅広い活動のことは聞いていましてよ、お金がいくらあっても足りないでしょう?」
「何度言われようと同じだよ。内容を聞かないことには、なんともね」
「いいえ、あなたはわたくしの依頼を断れないの。分かるでしょう」
フィクトがお茶とケーキを持ってリビングに戻る頃になっても、彼の師と少女の話し合いはろくに進んでいなかった。いや、どちらかといえば、ずっと〈平行線を辿っていた〉。
廊下のかげで二人のやり取りを聞いていたフィクトは、すぐにその原因を悟った。少女の方が、肝心の依頼内容を明かそうとしないのだ。少女は「あなたにならできる」と言い、ルーヴェンスは「内容を聞かないことには判断のしようがない」と応じ――二人はずっと、それだけの不毛なやりとりをえんえんと続けていた。
「それ、楽しいんですか」
トレイを手にしたフィクトが割って入ると、ルーヴェンスの頬が安堵に緩んだ。わけのわからない子供を相手にするのに、相当ストレスを感じていたらしい。いらだちを通り越して疲れ切った師の面持ちに、フィクトは哀れみさえ感じた。
一方、対話を邪魔された少女の方は、むっすりと頬を膨らませている。
「ちょっと、お弟子さん? あなたの師はどうなっているの? いつまでたっても首を縦に振らないじゃない。承りました、ってひとことおっしゃるだけのことが、どうしてできないのかしら」
「お弟子さんじゃなくて、フィクトです。それは、あなたが用件をはっきりと伝えないからでしょう。中身のわからない依頼なんて、どんな面倒ごとかわかりませんからね」
「……あら、あなた? あなた方が、わたくしの依頼を断れるとでも思っているの? むしろ、このわたくしに頼まれごとをされるだなんて、ありがたいと思いなさいな」
含みのあるその言葉を聞いたフィクトは、怪訝そうに少女を見やり、耳打ちするようにしてルーヴェンスに尋ねる。
「あの……彼女は?」
「私が知るものか。名乗りもしないんだから」
フィクトの気づかいもあえなく、ルーヴェンスはしれっとそう答えた。また面倒なことになりそうだ――フィクトの予想に違わず、少女の眉がぴくりと上がる。
「なんですって? あなたたち、わたくしが誰かも知らないなんて、非常識にもほどがありますのよ!」
「誰なんですか」
もうどうにでもなれ、だ。ルーヴェンスや少女の前に、気遣いなど何の役にも立たないことを悟りつつあったフィクトは、気だるげに問い返す。少女はフィクトをきつく睨みつけたが、フィクトの目線は、少女を避けるように手元のケーキに向けられている。フィクトのその態度が、なおさら少女を怒らせたらしい。
「――ッ、聞くがいいわ、お馬鹿さんたち! ……あら? 木苺のケーキ! すっごくおいしそうね。……じゃ、なくって! わたくしはベアトリス・ド・アルトワ! モルガン・ド・アルトワの一人娘よ!」
少女――ベアトリスは、差し出されたケーキに歓喜の声を上げたが、すぐに気を取り直して、堂々と名乗りを上げた。それを聞いたルーヴェンスは「腑に落ちた」、フィクトは「いや、だから誰なんですか」という顔で、それぞれに少女の正体を受け止める。
「モルガン・ド・アルトワ……なるほどね」
「モルガン?」
訳知り顔のルーヴェンスに、フィクトが問い返す。ルーヴェンスは半ば呆れたようだったが、フィクトの無知を咎めることなく、小声で教えてくれた。
「〈あの〉光の船商会の会長だよ」
光の船商会といえば、樹の都の物流を取り仕切る、都世界でも指折りの大商会だ。ようやく事態を飲み込んだフィクトは、「まさか」と言いたげにベアトリスを見やる。
一方のベアトリスは、師弟がこそこそ話をしている間に、喜々としてケーキに手を伸ばしていた。
「いい? 貴方がたが手にしているもののほとんどは、父の管理下にあったものなのよ。その紙も、この紅茶もケーキも!」
ベアトリスは、フィクトの表情の変化に満足したのか、したり顔でフォークをかざし、目に映るあれこれを指す。「この小生意気なお弟子さんも、きっとわたくしの言うことをきくようになったはずだわ」――ベアトリスの余裕は、しかし、フィクトの一言で打ち砕かれた。
「……通りで。振る舞いが少々庶民くさいと思いました。光の船商会の主は、たしか、一代であの大商会を築き上げたんでしたね」
フィクトの言葉に、ベアトリスはしばらくぽかんとしていた。だが、それが背伸びする彼女を小馬鹿にするものであったことに気付くと、顔を真っ赤にした。
大商人の娘でも、高貴な血は買えない。貴族だらけの派手なパーティーが大好きなベアトリスにしてみれば、それが一番のコンプレックスだったのだ。ベアトリスはすっかり元気をなくし、しゅんとしてしまった。
「わたくしが、貴族じゃないからいけないの? わたくしが貴族なら、あなたたちはわたくしの依頼を受けてくださったの? わたくし……」
「……フィグ君。君のせいだろう、なんとかしてくれ」
すんすんと泣き出したベアトリスを前に、ルーヴェンスは、咎めるようにフィクトを見やった。
子供の扱いになれたフィクトは、少女の涙にも動揺することなく、冷静に語りかける。
「ベアトリス」
名前を呼ばれ、ベアトリスの肩が跳ねた。
敬称もなしに彼女を呼ぶ者など、彼女の周囲には、父親と義母くらいしかいない。だが、少女が腹を立てるには彼の声色はあまりにも優しく、それでいて絶対的だった。
「ちゃんと、話してください。連れもなしに、たった一人でここまで来たからには、それだけの理由があるんでしょう。僕たちになにかしてほしいことがあるのなら、何もかも正直に話して下さい」
「けれど、わたくしは……」
「あなたの血の話なんて、僕たちにはどうだっていいんです。ただ、ここはルーヴェンス師匠の家であり、あなたは客でしょう。自分の立場をわきまえてください。それが礼儀であり、そこにこそ人の品格は表れるんですから」
フィクトのその言葉に、ベアトリスはおずおずと顔を上げる。
血なんてどうだっていい――そう言ったフィクトの声は、穏やかに澄んでいた。軽蔑や嫌悪のないときわ色の瞳は、雨を待つ水面のように、少女をじっと見つめている。
ベアトリスは、フィクトの作った柔らかな沈黙に背中を押され、とうとう口を開いた。
「……探しものをしておりますの。けれど、見つからなくて」
「あのね、君。私は何でも屋ではないんだよ」
「違いますわ! それが妖精に深く関係しているものだから、きっと貴方なら……!」
「途方もない。そんな理由であてにされては困る」
「いいえ、見つけられるわ! 『妖精術』があれば!」
ベアトリスの一言に、ルーヴェンスの顔色が変わる。
『妖精術』――ルーン語と呼ばれる特殊な言語を通して、都世界の根源たる領域に干渉することを目的とした術。ルーヴェンスが研究していたそれは、都世界の倫理に反するとして、学会の場においては〈なかったこと〉にされた。ルーヴェンスはこの分野を諦めていなかったが、公には、資料さえ非公開にされているはずだ。
「……それを、どこで知った?」
「知っていて当たり前だわ。商人の情報網とはそういうものですのよ」
「学会の人間にさえ、表立っては公開されてはいないはずだ」
ルーヴェンスの追求に、ベアトリスはうろたえた。彼女は縋るようにフィクトを見やったが、彼は首を横に振るだけだ。
少女はしばらく答えに迷っていたが、結局、ウソをつくのは諦めたようだった。
「……フィーエル校の資料室」
この答えに、ルーヴェンスが目を丸くする。
ルーヴェンスとフィクトが所属するフィーエル校の資料室には、学校関係者しか立ち入れない。中でも、『妖精術』の資料が封されているのは、特別な許可を得なければ入れないエリアだというのに。
「あそこは関係者以外立入禁止になっているはずだが」
「忍び込んだんでしょう」
「彼女が?」
ルーヴェンスの問いには、驚きと呆れが混ざっていた。フィクトがこともなげにうなずくと、ルーヴェンスは、少女を見てくつくつと笑いだした。
「ど、どうして笑うんですの? 悪いことだって、分かってはいましたわ。でも、でも……」
「ふふっ、安心したまえ。君を責めているわけじゃない。むしろ、関心したんだよ」
ベアトリスは、ルーヴェンスの言葉をどうとも受け取りかねたらしく、困ったような顔でルーヴェンスを見つめる。少女のその様子が、ルーヴェンスをなおさら愉快にさせた。
――〈あの〉フィーエル校の資料室に忍び込んでまで叶えたい望みが何なのか、聞いてやろうじゃないか。
ルーヴェンスは力の抜けた笑いを口元だけに収斂させ、ベアトリスに問いかける。
「それで、探しものというのは?」
「『大地の息吹』ですわ」
少女の迷いない答えに、フィクトが怪訝そうな顔をした。
都世界の大地には、ところどころに『割れ目』がある。空間の歪みが地を割り、青白い光をまとった霧となって、突発的に地面から噴出するのだ。そうした青い霧に包まれた場所は、立ち入った者に幻を見せる亜空間となり、人には『大地の息吹』と呼ばれる。非常にめずらしい現象ではあるが、なるほど、妖精に干渉することができれば、見つけるのも不可能ではない。かくいうルーヴェンスも、フィクトと共に樹の都外に調査に出た際に、その現象を目撃したことがあった。
「できないことはない。……が、何のために? 別の空間に足を踏み入れてしまえば、戻れなくなるかもしれない。危険だよ。『大地の息吹』を見つけることができたとしても、あれの中まで付き合うことはできない」
「かまいませんわ! もう、覚悟はできていますもの」
――覚悟、か。この歳の少女の口から出る言葉ではないな。
ルーヴェンスはあごに手をやりつつ、目をうるませるベアトリスを一瞥した。
――依頼の内容さえわかれば、その理由を聞く必要はない。彼女の方も、話すことを望んでいないように見える。それならば……。
「もう日も暮れてしまいましたし、無理に家に帰すのもいかがなものかと思いますが」
絶妙なタイミングで、フィクトが二人の間に割って入る。ルーヴェンスは他人を家に泊めることに抵抗を感じたが、フィクトの言うことももっともだと、しぶしぶうなずいた。
フィクトは無表情を和らげ、ベアトリスに声をかける。
「よろしければ、泊まっていきませんか?」
フィクトの提案を聞いたベアトリスの顔に、蕾が開くように笑みが広がった。
「……いいわ、泊まっていってあげる! 喜びなさいな」
* * *
夜も中ごろ。トレイを手にしたフィクトは、甘酸っぱい香りを引き連れて、ベアトリスのいる寝室を訪れた。
「眠れませんか」
フィクトの声に、考え事をしていたベアトリスが顔を上げる。彼女は、起こした上体を丸め、腰までかぶった毛布に肘をついたまま、不満げにフィクトを睨んだ。
「マットは固いし、毛布は薄いし……散々ですわ。こんなところで寝られるはずないじゃない」
「すいません」
「あら、言い訳もしないの?」
「してほしいんですか」
「ふふ。あなたって、見た目よりも気持ちのいい方なのね」
フィクトはベッドのわきまでイスを引いてきて、ベアトリスのかたわらに座る。フィクトがカップを差し出すと、甘くもぴりりとした香りが糸を引いた。カモミールだわ――ベアトリスはカップに口をつけ、ゆったりと息を吐く。
温かな静けさの中、いつとも知れず、ベアトリスが口を開いた。
「……わたくし、お母様に会いたいんですの。『大地の息吹』は過去を見せてくれるのでしょう。こんなことを言ったら、ルーヴェンス様は嫌がるかしら。気難しい方のようでしたし」
「過去だけではありませんし、望むものを見せてくれるとも限りませんよ」
「それでも、またお母様の姿が一目見られるかもしれないというのなら、かまいませんわ。成功するかどうかは、やってみなければわかりませんもの」
ベアトリスの答えに迷いはない。フィクトは彼女の横顔に、いい意味で〈庶民らしい〉強かさを垣間見た気がした。
「お母様は、わたくしが小さい頃に、病気で亡くなりましたの。優しい声だけは覚えているけれど……。お父様が迎え入れた新しいお母様は、わたくしのことが好きじゃないのですって。大人びていて可愛くないと、よく言われますわ。姉弟もなくて、お父様もお忙しいから、いつも新しいお母様と二人きり。お父様のお仕事のためにも我慢しなくてはならないのだけど……」
ベアトリスはそう言ったきり、金色の液面に視線を落とし、黙り込んでしまった。
「泊まっていきませんか」と言われたあの時、ベアトリスはえらく喜んでいた。彼女にしてみれば、一晩きりでも、居心地の悪い家に帰らずに済むのが嬉しかったに違いない。フィクトは目を細め、自らの家のことを思い浮かべた。
「僕の家は五人姉弟です。姉が一人、弟が二人に妹が一人」
「まあ、五人も? とても楽しそうね。でも、お菓子が一つしかなかったらどうしますの?」
「ケンカになるときもありますし、みんなでひとかけらずつ食べることもあります。大抵、弟たちに譲ってしまいますが」
「あなたは食べなくていいの?」
「ええ。自分より、弟妹にたくさん食べさせてやりたいので」
ベアトリスは、間の抜けた顔で口をつぐんだ。彼女は自分の行いを思い出すように視線をさまよわせていたが、ついには手元に視線を落とし、ぼそりとつぶやく。
「わたくし、パンくずを鳩に食べられてしまうのも嫌ですわ」
少女の正直な一言に、フィクトは目を細めた。
フィクトにとっては、いつだって、弟妹が我慢せずにいてくれることが何よりの幸せだった。フィクトが好んで料理をするのも、そういう気性のためかもしれない。だが、小さい頃から弟妹の面倒ばかりみてきたフィクトに、こんなことを口にできた時期が、はたしてあっただろうか。
「……明日はパンを焼きましょう。ちょうど、木苺のジャムもありますし」
フィクトは、受け取ったカップをトレイに戻すと、妹がひとり増えたような心持ちで、ベアトリスをなでてやる。ベアトリスはフィクトの手に少し戸惑ったようだったが、やがて、安らかな寝息をたてはじめた。
* * *
壁のくぼみに妖精寄せの蜜油を注ぐと、蜜油に引き寄せられた光の妖精が、リビングをやわらかく照らしだす。室内に満ちる淡い金の光は、浸るものを感傷的にさせる月の気配を窓の外に押し返してくれた。
「母親に会いたいんだそうです」
トレイとともに蜜油の瓶を片したフィクトは、ソファに伸びているルーヴェンスに声をかける。
ルーヴェンスの夜更かし癖はいつものことだが、彼が机に向かうでも何をするでもなくソファを占拠しているときは、たいてい、フィクトと話したいことがあるときだった。こと今日は、ベアトリスに寝床を譲ったフィクトがソファで寝ようとしていることを知っていながら居座っているのだから、間違いないだろう。
フィクトの予想通り、ルーヴェンスは眠気を感じさせない口調で切り返した。
「そんなところだろうと思ったよ。『大地の息吹』は、その領域に立ち入った者に、あらゆる幻を見せる。フィグ君、君も覚えているだろう?」
「……ええ。僕が見たのは、あまり気持ちのいいものではありませんでしたが」
「彼女が見るものも同じかもしれない。ろくでもない幻を見て、それきりの可能性のほうが高いんだ。それに、『大地の息吹』に立ち入るのには危険が伴う。空間のねじれた場所でもあるのだからね。この前はすぐに出たから良かったが……」
めずらしく、ルーヴェンスは語尾を濁した。本人の前ではああして振る舞っていても、ちゃんとベアトリスのことを気にかけているのだ。フィクトは、師のこういった――真面目で、情に厚い面を好ましく思っていた。ルーヴェンスを避ける者たちは、彼がこうして思い悩む姿など想像もできないに違いない。
考え事をしているせいか、今のルーヴェンスは、いつも以上に〈ひとり〉に見える。師を案じたフィクトは、ソファの端に腰かけた。
「母親、か」
「どうかなさったんですか」
ルーヴェンスがもらしたつぶやきは小さなものだったが、彼のすぐそばにいたフィクトの耳には届いていた。ルーヴェンスは視線を宙に漂わせながら、輪郭のない息で答える。
「いいや。ただ、優しい母の姿など、記憶にないと思ってね。私の母親は、良くも悪くも凡人だった。正直、煩わしかったよ」
「めずらしいですね。あなたが、ご自分のことを話すなんて。……気になりますか、彼女。気に入らない義母といつも二人きり、姉弟もいないと言っていました。まだ幼いですし、寂しい思いをしているでしょうね」
ルーヴェンスは黙して応じた。伏せられた長いまつげに、稲穂色のかがやきが伝っては落ちる。
彼は寂しい人だ。人を避けてこんな森の奥に暮らし、フィクトが現れるまでは、誰もそばに置かなかった。一日のほとんどを研究に費やしていたとしても、息をつく間はあったはずだ。イスに背を預けて疲れを実感する瞬間、あるいは食事時、寝る間際……そういうときにも、彼はひとりだった。
フィクトは、出会う前のルーヴェンスをほとんど知らない。ルーヴェンスは昔話を好まず、誰とどういう暮らしをしていただとか、どんな子どもであっただとか……そういうことを知られるのを、ことさら嫌がった。それはきっと、彼が先ほどこぼしたように、母親や周囲の人間との関係が芳しいものでなかったからなのかもしれない。
「彼女のことが気にならないと言えば嘘になる。子どもというのは不自由なものであるし。だからと言って、いつまでもここにいさせるわけにはいかない」
「分かっています。ただ、どうしたいかは彼女に選ばせるべきだと思いませんか」
「立入禁止の場所に侵入するようなおてんばだ。自分の道くらい、自分で選べるだろうが……手を貸すくらいなら、まあ、してやってもいいだろう。君も、せいぜい上手くやりたまえ」
やはり、ベアトリスに自身と似たものを感じているのか――返ってきたのは、日頃のルーヴェンスからは考えられないほど色の良い返事だった。
短く礼を言い、明かりを少し落とそうかと立ち上がったフィクトのすそが、遠慮がちに引かれる。
「フィグ君、私にもなにか飲み物を」
ルーヴェンスが無意識に見せた首を傾けるしぐさが、フィクトの目には、甘えているように映った。ベアトリスの存在に思うところがあったのだろう、今夜の彼は、いつもよりどこか感傷的になっているようだ。
フィクトはひとつうなずき、話し足りない師に何を用意しようかと考えを巡らせる。しばらくして、キッチンに残った優しい香りが再び湯を注がれて、リビングにくゆりと広がった。
* * *
辺境の森は、朝らしい小鳥のさえずりには事欠かない。フィクトは、昨晩から貸していた寝室の窓を開け、ほどよく冷たい風を部屋に取り入れる。
レースカーテンごしに陽の光を浴びて、ベアトリスが小さくうなった。フィクトの服に染み付いた紅茶の匂いが、少女の眠りを優しく解いていく。
そんな穏やかな朝を吹き飛ばすように、寝室の扉が勢いよくたたき開けられた。ドア枠に両手をついたルーヴェンスは、不満げにフィクトとベアトリスを睨む。
「おはよう、フィクト・フェルマー君。考えてもみたまえ、起こすなら私の方が先じゃないか?」
「めずらしいですね、師匠が自分から起きてくるなんて。……おっと」
二人のやり取りが聞こえているのかいないのか、寝ぼけたベアトリスがフィクトに抱きついた。小さな唇が、「お父様」とこぼすのを見たフィクトは、少女の背をなでてやりつつ、起きるよう促す。これにはさすがのルーヴェンスも言葉を失ったようだった。
「……フィグ君、コーヒー!」
年端もいかない少女に対してジェラシーを感じるなんて大人げないと割り切ったのか、ルーヴェンスはそれだけ言って二人に背を向ける。〈あの〉ルーヴェンスに気を遣わせるなんてたいしたものだと、フィクトはベアトリスにえらく感心してしまった。
一方、当のベアトリスは、まだフィクトの腰に抱きついたままだった。彼女は眠気に潤んだ目でフィクトを見上げ、首を振る。
「あなた……ああ、そうでしたわね。わたくし……あら、ごめんなさい! わたくしったら!」
彼女は抱きしめた相手が父親でないことをようやく飲み込んだらしく、弾かれるようにフィクトから離れた。ベアトリスくらいの歳の子なら、まだ大人に甘えていていいとフィクトは思うのだが、ませた少女自身にはそうは思えなかったらしい。
「フィクトからは、紅茶の香りがするわ」
ベアトリスは赤くなった頬をばつの悪い笑顔で隠しつつ、「いい朝ね、ルーヴェンス様!」だのなんだのと言いながら、リビングに飛び出していった。
朝食の席、カフェオレを差し出したフィクトを、ルーヴェンスはまじまじと見つめた。普段のフィクトは、ルーヴェンスにコーヒーと言われれば紅茶を出す男だというのに。
「君が素直にコーヒーをいれるなんて……」
「子どもの前で意地を張るほど、僕も子どもではありませんから」
「……ほう?」
ルーヴェンスは、バターと木苺のジャムたっぷりのパンをカフェオレに浸しながら、ベアトリスの方を見やった。口周りを真っ赤にした少女の姿は、なるほど、〈子ども〉には違いない。
ベアトリスがパンとジュースと平らげ、指先についたジャムを舐めはじめたころ。こんこん、と玄関のドアが叩かれた。ベアトリスに続く来客に心当たりを見出したフィクトが、応対にと立ち上がる。
ドアを開けると、そこには、従者を連れた女が立っていた。こんな森の奥にやってくるには華美すぎるドレスに、フィクトは「たいそう歩きにくかったことだろう」と思った。ほつれた裾が哀れに見えるくらいだ。本当は馬車で来るつもりだったのだろうが、何しろ、木々のひしめく森に馬車は入れない。
フィクトの不躾な視線を不快に思ったのか、女は細く整った眉を吊り上げる。
「こちらが、ルーヴェンス・ロード様のお宅でよろしいのかしら?」
「ええ。弟子のフェルマーです。ご用なら僕が承りますが」
「あら、そう。娘が昨日からこちらにお邪魔しているはずなのだけど、返していただけませんこと?」
何の連絡もなしにやってきて、要件だけを押し付けようとするこの種の高慢さには、覚えがあった。昨日フィクトにそれを味わわせたベアトリスが、フィクトの背中からひょっこりと顔をのぞかせる。少女の姿を捉えた女は、芯の残る笑みで、彼女に語りかけた。
「お父様がお待ちよ、ベアトリス。さ、帰りましょう」
「お義母様……」
ベアトリスはフィクトの服をつかんだまま、女を見つめる。
ベアトリスの知っている義母は、美しいドレスが好きで、その裾が擦れるのを忌む人だった。そんな彼女がドレスをぼろにしてまで追ってくるなんて……どれほど怒らせてしまったのだろう。
――いいえ。お義母様がなんと言おうと、わたくしには関係ありませんわ!
覚悟を決めたベアトリスは、フィクトの腕を引っつかみ、高らかにこう宣言した。
「わたくし、この方と婚約しましたの! もう家には帰りませんわ」
「……は?」
ベアトリスの言葉に、フィクトがすっとんきょうな声を上げる。帰りたくない少女の言い逃れにしては、ずいぶん過激すぎやしないか? フィクトがベアトリスを諭すより、激高した女がベアトリスの手をつかむのが先だった。
手の甲を平手で打つ、いつもの「おしおき」。ベアトリスはぎゅっと目をつむったが、妙なことに、痛みがやってこない。少女がまぶたを開くと、振り上げられた手を――女の手首を掴む、フィクトの姿があった。
「親が子どもを叩いていいのは、子どもの命を守ろうとするときだけです。違いますか?」
怒りに取り乱した女とは対象的に、フィクトの声は、あくまで冷めていた。女はフィクトの手を振りはらい、彼をきつく睨みつける。
ベアトリスが不安げにフィクトの名を呼ぶと、フィクトはベアトリスを見下ろし、目を細めた。「安心してください」と言うようなまなざしに、ベアトリスの表情が少しだけ和らぐ。
フィクトはベアトリスの背を軽く叩いてやってから、女の方に視線を戻した。
「……ベアトリスのお義母さん、でしたか。申し訳ありませんが、今日のところはお帰りください。彼女が嫌がっている以上、無理に引き渡すわけにはいきません」
「何をっ……これは誘拐ですわ! こちらが申し立てれば、すぐにでも――」
「子供ひとりの主張になど、耳を傾けないと言うのですね。あなたは。彼女は、自分の足でここまで来たんです。彼女自身の意思で。こちらを罪人扱いするということは、彼女の意思を無視することと同義ではありませんか」
思い当たるところがあったのだろう――女がたじろぐ。不利を悟った彼女は、ベアトリスの方に標的を移した。
「ベアトリス、お父様を困らせて何が楽しいの。大人になりなさい。あなたは、あの人の一人娘なの。その意味がわかるでしょう? こんな、どこの馬の骨とも知れない……」
ベアトリスは、おしおきがよほど怖かったのか、女に話を振られるなり、フィクトの背中に隠れて固まってしまった。フィクトはそんな少女をかばいつつ、自らに向けられた軽蔑するようなまなざしを正面から受け止める。
「そうですね。ですが、僕はあなたよりも彼女のことをよく知っていると思いますよ。それに、僕が子供に手を出すような悪趣味な人間だと思われますか。心外です」
ベアトリスとの間を遮られた女は、真っ赤に色づいた唇を噛み締める。フィクトは、木苺のジャムで口周りを汚したベアトリスを思い出した。
「……頭を冷やしなさい、ベアトリス。今のあなたに、モルガンの娘を名乗る資格はないわ」
女は悔しげにそう吐き捨てると、擦れた裾を翻す。
去りゆく義母の背を見送るベアトリスは、華やかな唇をかたく噛みしめていた。フィクトは少女の肩を優しく抱き、騒ぐドアベルを黙らせるように、そっとドアを閉めた。
* * *
「朝食が不味くなった。私はあのドアベルの音が嫌いなんだ」
食事を終え、テーブルに肘をついていたルーヴェンスは、誰にともなくつぶやいた。
「手がジャムまみれだわ。洗わなくちゃ」。そう言って洗面所に引っ込んだベアトリスは、手はきれいになっただろうに、まだ戻ってきていない。小さな手が水面を乱す音だけが、絶え間なく聞こえてくる。
今のあなたに、モルガンの娘を名乗る資格はない――義母のあの言葉に、ベアトリスがどれほど傷ついたことだろう。彼女は、幼いながらも父を気遣い、苦手な義母との生活に耐えてきたというのに。
「どうするつもりだい」
ルーヴェンスは、向かいに掛けたフィクトに短く問いかける。
ルーヴェンスにも、先ほどのやり取りは聞こえていたはずだ。それなら彼の問いは、言葉通りの意味ではないだろう。フィクトの視線の先で、ベアトリスが飲み残したジュースの液面が揺れる。
「力を貸していただけませんか。どんな方法でもかまいません。僕とベアトリスを、『大地の息吹』まで導いてほしいんです」
ルーヴェンスは、フィクトのこの決断を、よくは受け止めなかったらしい。彼は、指先で自らの頬を落ち着きなく叩きつつ、呆れたようにこう言った。
「彼女を導くのはよしとしよう。そういう依頼なのだから。だが、君まで行くことはないんだ。君は、『大地の息吹』にたどり着くまで、彼女の面倒を見てやればいい。そこから先、一緒に行く必要はない」
「ですが、」
「導いた先での勝手な行動は許可しない。私の指示に従ってもらう。そもそも、この依頼を受けたのは私だ。いいね?」
「……分かりました」
この件の当事者ではない以上、フィクトにできるのは、ベアトリスを手助けすることだけだ。フィクト自身、ベアトリスに対して過保護になってしまっていることには気づいていた。ルーヴェンスのきつい物言いは、そんなフィクトを案じてこそのものなのかもしれない。
フィクトが礼を言うと、ルーヴェンスは居心地悪そうに顔を背けた。とんとんと、頬を叩く指先のテンポが少しだけ早くなる。
「我々のすることが、必ずしも彼女にいい影響を与えるとは限らない。君の善意が彼女を傷つけるかもしれない。それだけは忘れないように」
照れ隠しのような一言に、ルーヴェンスの本音が垣間見えた気がして、フィクトは頬を緩めた。昨晩からずっと、ルーヴェンスも迷っていたのだろう。
もし本当に『大地の息吹』が彼女に母親の幻を見せてくれたとして、死んだ母親に会わせることは、ベアトリス自身にとって、必ずしもよいことなのだろうか。彼女が生きている現実を、さらにつらく苦しいものにしてしまうだけなのではないのだろうか。彼女を『大地の息吹』に導くことは、正しいことなのだろうか――。
「ベアトリスは強かな子ですよ。傷つくかもしれないだなんて、最初から分かりきっていることです。それにあなたは、僕の善意にではなく、彼女の覚悟に手を貸すのではありませんか」
自身の頬を叩いていたルーヴェンスの指先が止まる。彼はゆっくりとフィクトの言葉を咀嚼し、浅くうなずいた。どうやら、決意は固まったらしい。
ベアトリスは一人ではない。彼女が傷つくとき、同じように傷つく者たちがここにはいる。
「大丈夫ですよ、師匠」
フィクトは、師の薄氷色の瞳に、淡く微笑みかけた。
ちょうど、それまで絶えなかった水音が止む。洗面所から出てきたベアトリスは、自身の両手をフィクトの前にかざし、小首をかしげる。
「お義母様、わたくしの手が汚れているのに気づいたかしら。はしたないと思ったかしら……ねえ、フィクト。わたくしの手、きれいになったかしら? 自分ではよくわからないの」
ベアトリスの手は、やたらとこすられたせいか、真っ赤になっていた。彼女はなおも両手をこすり合わせ、小さな額にぎゅっとしわを寄せる。
フィクトは、彼女の両手を、自らの手のひらで包み込んだ。もう、彼女が自分で自分の手を傷つけてしまわないように。
「準備をしたまえ。『大地の息吹』に向かう」
ルーヴェンスがそう言うと、ベアトリスは大きな目をさらに大きくした。フィクトが手を離すと、彼女はぱたぱたとルーヴェンスに駆け寄り、にぱっと笑んだ。
「ふふ、ありがとう、ルーヴェンス様!」
屈託のない笑顔にきまりが悪くなったルーヴェンスは、ふいと少女から視線をそらす。だが、その横顔は、少女の鈴のような笑い声にほころんでいた。
ベアトリスに「早く早く」とばかりに袖を引っ張られながら、フィクトはルーヴェンスの方を振り返る。
「師匠。ひとつ、お願いがあるのですが――」
* * *
花の都の風は、ふわりと甘い花の香りがする。樹の都と花の都とを結ぶ汽車を降りたベアトリスは、深く息を吸い、その優しい匂いを鼻の奥で味わった。
花の都は光の船商会が生まれた地であり、また、ベアトリスの故郷でもあった。ベアトリスの父モルガンは、ここで出会ったベアトリスの実母と共に、後に大商会となるかの商会の基礎を作り上げたのだ。
花の都の生まれ――赤い髪に翠の瞳というその容姿が何よりの証拠だ――であるベアトリスは、故郷に何を感じているのだろうか。彼女との付き合いが浅いフィクトにはわからなかったが、ベアトリスの明るい横顔から、彼女が故郷に嫌悪を感じていないことは伝わってくる。フィクトは口元を緩め、風と共にベアトリスの髪に降りかかった花びらを払い落とした。
ルーヴェンスが言うには、この都の端あたりに『大地の息吹』があるとのことだった。不定期に表れるそれが、ごく近くにあったのは幸運だったと言えるだろう。もちろん、行き先がベアトリスの故郷であったのは、ほんの偶然だ。駅舎で馬車を借りる手続きを済ませ、一行はさっそく目的地へと向かった。
「もうすぐお母様に会えるのね! 楽しみだわ。お母様、わたくしのことを覚えておいでかしら……」
フィクトの隣、馬車に揺られるベアトリスは上機嫌だった。彼女が足をぱたぱたと動かすたびに、飾りの少ない膝丈のワンピースが揺れる。枝葉避けにと、丈にあわせて折ったルーヴェンスのマントをまとった彼女は、しかし来たままの靴を履いていた。ルーヴェンス宅に子ども用の靴などあるはずもなく、そのままにするしかなかったのだが、フィクトにはどうしてもそれが気がかりだった。
「その靴で、本当に大丈夫なんですか。高いかかとを木の根にひっかけてしまいますよ」
「大丈夫ですわ。でなければ、どうやってあなた方のお宅にたどりつけるのかしら?」
ベアトリスはつんと澄まして答えた。ベアトリスの言うとおり、彼女は、この靴でルーヴェンス宅までの森を抜けてきた。きっと大丈夫なのだろうが……。フィクトの背が、妙な寒気に粟立つ。どことなく嫌な予感がするのだ。
フィクトの不安一行の短い馬車の旅は、すぐに終わりを告げた。馬車がゆっくりと速度を落としていく。思ったよりは遠かった――フィクトは乗車代の上乗せ分を御者に支払い、『大地の息吹』を抱く森を見やった。
同じ〈森〉とはいえ、樹の都の森と花の都の森では、まるで違って見える。木々の幹は黒々として、枝葉を支えるには頼りないほど細い。そんな幹のところどころから規則なく蕾が顔を出し、葉の少ない枝は、その分赤い花で包まれている。まるで、木が花に喰われているようだ――漂ってきたむせ返るような花の香りに、フィクトは思わず口元を覆った。フィクトと同じ感想を抱いたらしいルーヴェンスも、眉根にしわを寄せている。
「あら、どうしましたの? 情けないのね」
ベアトリスは二人の態度をどうとらえたのか、愉快そうに笑いながら足踏みをする。早く向かいたくて仕方がないようだ。
ルーヴェンスは、少女の視線にも焦ることなく、懐からタリスマンをひとつ取り出す。フィクトの瞳と同じ色の石がはめ込まれた、アルベリア・タリスマンだ。ルーヴェンスはタリスマンを口元に寄せ、何かをささやきかける。なんと言ったのか、そもそも何をしているのか――フィクトが聞けずにいるうちに、タリスマンの石が淡い光を帯びた。
「これが、我々の行き先を教えてくれる。……少女、君が持ちたまえ」
「わたくしが? いいの?」
「君が持つべきだ」
ベアトリスは、ルーヴェンスの突き放すような言い方にたじろぎながらも、小さな手でタリスマンを受け止める。瞬間、タリスマンがひときわ強く輝き、一筋の光を放った。
ベアトリスの手を伝い落ちた光の筋は、どんな生き物にも似ていない動きで地を這い、森の中へと伸びていく。ベアトリスはその光につられるように、一歩踏み出した。師弟も、そんな彼女の後を追う。
* * *
ぱたたっ――枝葉を叩く翼の音に、フィクトは顔を上げた。
この森に足を踏み入れてから、もうどれくらい経ったのだろうか。木々が枝を絡ませ、豊かな花房で日の光を遮っているために、時間の感覚もつかめない。強烈な花の匂いに、嗅覚もほとんど麻痺してしまっている。視界を覆う鮮やかさは、耐えかねて視線を地面に逃がしてしまうほどだ。
「まだ着かないの? ずいぶん遠いのね……」
タリスマンに導かれ、一行の先頭を歩いていたベアトリスが、小さくつぶやいた。そのかわいらしい靴は土に汚れ、マントの裾はほつれてしまっている。元気をなくしたベアトリスに、ルーヴェンスは、「そら見たことか」とでも言いたげな笑みを浮かべた。
「『大地の息吹』は非常に珍しい現象だ。ちょうど発見できただけ運がいい」
「あら、そう」
ルーヴェンスの態度に、ベアトリスはきゅっと眉根を寄せる。負けず嫌いらしい彼女は、ここで音を上げてたまるかとばかりに歩速を上げた。
最後尾のフィクトが、疲れた様子のベアトリスを見かねて声をかける。
「その靴ではつらいでしょう。目的地まで背負います」
フィクトのその提案に、ルーヴェンスはあからさまに不快感を示した。
「フィグ君、彼女は誰の意志でここまで来たと思っているんだ。甘やかしちゃいけない」
「……遠慮しておきますわ。わたくし、まだ歩けますもの」
ベアトリスはそう答えると、また少し早足になった。
そこから、ベアトリスはだんだんと言葉少なになっていった。だが、何度もふらつき、土のおうとつや石ころ、木の根に足をとられかけても、彼女は弱音を吐かず、足を止めることもしなかった。少しの意地と、母親に会いたいという思い――フィクトは、ベアトリスがどんなに疲れても、彼女自身が求めるまでは、手助けをしないでおこうと決めた。
ほとんど会話もなくなってから、また長らく経った。一行は、それぞれとある一歩を境に、周囲の空気が変わったのを感じ取っていた。
「……近い」
ルーヴェンスのつぶやきに応じるように、視認できるほど濃く青白い霧が、やわらかく彼らを迎え入れる。前に『大地の息吹』に近づいた際に見たものを思い出したフィクトは、二人に隠れて顔をしかめた。
さらに奥まで進み続けると、いよいよ霧は濃くなった。タリスマンが行先を示すのをやめてしまったところで、一行は足を止める。五歩先さえ十分に見えないような霧を前に、ベアトリスは眉をひそめた。
「これが、『大地の息吹』なの?」
「ああ。――少女、ここから先は君ひとりで行く道だよ。我々は共に行けないと言ったろう」
ルーヴェンスは突き放すようにそう言ったものの、その言葉尻は弱々しかった。フィクトは、立ちすくむベアトリスのそばに屈みこみ、師が口に出せなかった思いを代弁する。
「ベアトリス。今ならまだ引き返せますよ」
できることなら、ここで諦めてほしい――ルーヴェンスは、そんな思いを抱えていた。一歩『大地の息吹』に足を踏み入れてしまえば、どうなるかわからない。この場から『大地の息吹』が姿を消しても、その中に囚われたまま、戻ってこられない可能性だってある。それに、『大地の息吹』がどんな幻を見せるかは予測できない。幼い少女が、心に消えない傷を負ってしまうかもしれないのだ。
ベアトリスは唇を噛み締め、フィクトを見据える。彼女はしばらく迷っていたが、ついには心を決めたらしかった。
「いいえ、フィクト。わたくしひとりでもやれますわ。自分で決めたことだもの」
予想どおりの返事に、フィクトは眉尻を下げた。
ベアトリスの気持ちは、師弟を訪ねてやって来たあのときから、少しも変わっていない。それなら、引き止めることも……。
少女の決意を受け入れたフィクトは、懐からペンダント型のタリスマンを取り出し、道案内のタリスマンと引き換えに、ベアトリスの首にかけてやった。深い緑の光が、少女の胸元に輝く。
「お守りです。これを、絶対に離さないでください」
ベアトリスは浅くうなずいてから、心細さを振り払うように身を翻す。いよいよ霧の中へ踏み出すことをためらっていた彼女に、フィクトが声をかける。
「大丈夫ですよ。ベアトリスなら」
フィクトのこの言葉が、ベアトリスを勇気づけた。彼女は手のひらを固く握り、振り返ることなく『大地の息吹』へと飛び込んでいく。小さな後ろ姿は、あっという間に青く霞んで見えなくなってしまった。
「会えるといいですね」
「どうだろうね」
ルーヴェンスは、いやに落ち着いたフィクトを見やりつつ、ぶっきらぼうに応じる。ルーヴェンスの余裕のない横顔を見たフィクトは、頬を緩めた。
「心配ですか」
「当然だよ」
ルーヴェンスがこうして人を気にかけていると明らかにするのはめずらしい。ルーヴェンスの視界の外で、フィクトはくすりと笑った。
「彼女は強い子です。信じて待ちましょう」
* * *
「お母様、そこにいらっしゃるのでしょう? お母様!」
青い霧の中、ベアトリスは足早に歩き続けていた。あの師弟と離れてから、もうだいぶ経ったような気はするのに、周囲の景色にはまるで変化がない。ただ、濃霧が漂うだけだ。分かりやすい道標もなければ、母の姿も見当たらない。
靴先を木の根に引っ掛けたベアトリスは、草生えに倒れ込んだ。転んだのだと理解すると同時に、木肌をかすめ、すりむいた膝がじくじくと痛みだす。ベアトリスは唇を引き結び、フィクトに渡された『お守り』を強く握りしめて立ち上がった。
(――大丈夫ですよ。ベアトリスなら)
「……わたくしなら、うまくやれますわ。だってわたくしは、モルガンの娘ですもの」
つぶやいた父の名前が、ベアトリスの足を少しだけ軽くした。商人たるもの、強く、まっすぐであれ――大商人である父の教えが、ベアトリスの不安に寄り添ってくれているようだ。
歩みを止めない彼女に、いつしか、『大地の息吹』もその様相を変化させはじめた。あちこちから聞こえてくる鐘を打ったような重く鈍い音。にわかに騒ぎ、何かの気配を伝えてくる背の高い草の群れ。ときおり背後に感じる、正体の分からない〈恐ろしいもの〉の気配。ベアトリスは背後を振り返らないようにしながら先を急いだ。
同じような景色の中を同じように進んでいると、しだいに意識がもうろうとしてくる。周囲の物音も、ベアトリスの意識をかき乱そうとする。自分はここで何をしているのか、何がしたかったのか――自分を見失いそうになるたび、ベアトリスは足を止め、首を振った。
そうよ、お母様のことを考えればいいのだわ――ベアトリスは気を確かにもつため、大好きな母親のことを考えることにした。
小さい頃の記憶は輪郭が曖昧で、水に絵の具を落としたかのような、滲んだ色彩に満ちている。ざらざらとした雑音の中に、澄んだ優しい声と、肌に触れる温かさ。「ベアト」と呼ばれるごとに不思議な力が湧いてきて、なんでもできそうに思えた。
「お母様……」
会いたい。もう一度だけでいいから、あの優しい声で「ベアト」と――。
――ベアト。
霧の向こうから響いたその声は、たしかに少女の鼓膜を揺らした。ベアトリスは立ち止まり、周囲を見回す。
「お母様……?」
――かわいいベアト。こっちにおいで。
声は優しくベアトリスを呼んだ。ベアトリスの胸に熱が広がっていく。
「お母様! そこに、そこにいらっしゃるのね! お母様!」
ベアトリスは、霧をかき分け、夢中で走った。ずっと焦がれてきた母親に、ようやく会えるのだ。
声は、彼女を『大地の息吹』の奥へ奥へと誘う。わき目もふらず駆けていたベアトリスは、周囲の霧が濃紺に変わったことに気がつくことができなかった。
――ベアト。
少女を導いていた声が、ほんの少し低くなる。ベアトリスは戸惑い、その場で立ち止まった。
どうしてこんなに走り続けているのに、声はすぐそこに聞こえるのに、お母様の姿が見えないの? ――ようやく疑問に思ったときには、もう遅かった。
――ベアト。ベアト。ベアト……
ベアトリスに語りかける声がぐわんぐわんと反響し、あっという間に優しい母親の声ではなくなっていく。周囲の景色がぐにゃりと歪み、まだらに混ざりあう。ベアトリスの足元がどろりと溶け、後ずさりした彼女の靴を飲み込んだ。ベアトリスは足を引き抜こうともがいたが、溶けた足元はひどく粘り、小さな靴を捕らえて離さない。
「いやっ……お母様……お母様ぁ……っ!」
そこにいらっしゃるのではないの? ――ベアトリスの体はゆっくりと沈み、足首まで泥に浸かってしまった。青から濃紺へと変わっていた霧が、少女の視界を黒く遮った。
足が動かない。何も見えない。ベアト、ベアト――耳を苛む声に、もはや母親の存在は感じられない。耳を押さえてうずくまると、その勢いで、また少し身体が泥に沈んだ。
このまま、お母様にもお会い出来ないまま、溺れ死んでしまうなんて嫌。どうすればいいの――泣き出しそうになったベアトリスの胸元で、ときわ色の光がまたたく。まるで、誰かのまなざしのように。ベアトリスは、震える手で〈それ〉――フィクトのくれた『お守り』を握り、祈るように両手を固めた。
「お願い、助けて! フィクトっ……!」
少女の祈りに応えるように、一筋の光が濃霧を貫いた。
* * *
炎が頬をかすめた。頬を拭った手の甲が、すすで汚れている。フィクトは、苦い思いで周囲を見回した。前に『大地の息吹』に足を踏み入れたときにも見た光景――視界を埋め尽くす、一面の炎。焼かれていく体。煙の匂い……。
戻りが遅いベアトリスの身を案じたフィクトは、彼女を追って『大地の息吹』に足を踏み入れていた。ベアトリスを探しに行きたいと言い出したフィクトを、ルーヴェンスが強く咎めなかったのは、ルーヴェンス自身がそうしたかったからでもあったのだろう。フィクトは、道に迷わないようにと自らの手首に糸を結び、その一端をルーヴェンスに預け、青い霧の中にベアトリスの姿を探しはじめた。
だが、そんなフィクトにも、『大地の息吹』は容赦なかった。
足の裏が熱い。一歩踏み出すたびに、足裏の皮が引き剥がされていく感覚に襲われる。
なにもかも幻覚だ。『大地の息吹』がなぜこんな情景を見せるのかはわからないが、すべて、この場限りの幻でしかない。前回『大地の息吹』で負ったやけども、外に出れば消えてしまっていたのだから。
分かっている。分かっているのに、煙を吸った肺が、苦しいと訴えてくる。浅くなる呼吸。身体が重い――……
『助けて! フィクトっ……!』
ふらつき、膝をついたフィクトの耳に、小さな祈りが届く。フィクトは気だるげに顔を上げ、煙と霧の向こうを見据える。そこに輝く、ときわ色の光……。
「ベアトリス!」
フィクトは、瞬時に正気を取り戻した。
ベアトリスが呼んでいる。助けを求めている。行かなければ――立ち上がった瞬間、胸の苦しさも、やけどの痛みも、振り切れるように消え去った。周囲を包んでいた炎が、ざあっと引いていく。
フィクトは、炎が晴れたあとの澄んだ霧の中に、へたり込んだ少女の姿を見た。
「ベアトリス。迎えに来ましたよ」
フィクトの声に、ベアトリスの肩が跳ねる。
ベアトリスは、両方の靴を木の根に引っかけて、動けなくなっていた。彼女はフィクトの方に顔を向けてはいたが、幻覚にとらわれてしまっているらしく、焦点が合っていない。
「フィクト……? そこにいるの? 足が、動かないの。泥に埋まってしまって……暗くて、なにも見えないわ。ねえ、フィクト……どこにいるの……わたくし……」
フィクトは、ベアトリスの前に片膝をつき、優しく彼女の頬に触れる。その合図で、少女の視界に光が戻った。ようやく目の前にフィクトの姿をとらえたベアトリスは、くしゃりと顔を歪める。
「フィクト……お母様……いらっしゃらなかった……」
よほど怖かったのだろう――小さく震えるベアトリスに、フィクトが小さくうなずいた。
「そうですか」
唇を噛み締めていたベアトリスが、はっとしたように顔を上げる。
フィクトは、ベアトリスを責めることも哀れむこともせず、ただまっすぐに見つめていた。商人の娘としてではなく、ベアトリスというひとりの少女として。
「怖い夢はもう終わりです。帰りましょう、ベアトリス」
ベアトリスの瞳から、大粒の涙があふれ出した。
* * *
「もう帰るんですか」
フィクトの呼びかけに、ベアトリスが照れたように笑う。彼女の背後では、背の高い女――ベアトリスを迎えに来た義母が控えていた。
『大地の息吹』でベアトリスを迎えたフィクトは、泣き疲れて眠ってしまったベアトリスを背負い、手首に巻いた糸を頼りにルーヴェンスのもとに戻った。足元を舐めていた控えめな炎は、ひとたび『大地の息吹』を出ると、すぐに消えてしまった。消えなかったのは、ベアトリスの頬に残った涙のあとだけだ。
樹の都のルーヴェンス宅に戻ってからも、ベアトリスが『大地の息吹』での出来事を話すことはなく、また、師弟の方もなにも問わなかった。フィクトは黙ってベアトリスに紅茶を差し出し、ベアトリスもなにも語らないまま眠りについた。心も体も、ひどく疲れていたに違いない。そして今朝、ベアトリスは、義母の迎えに素直に応じたのだった。
とはいえ、ベアトリスにそうさせたのは、諦めではなかったらしい。玄関口に現れた女は、ベアトリスの姿を見るなり、言葉を失った。彼女に向かい立ったベアトリスは、木苺のジャムで真っ赤になった手や口周りを隠そうともしなかったのだ。フィクトは、堂々としたベアトリスの姿に、やはり自分の見立ては間違っていなかったと確信した。
ベアトリスは強い。母親に会いたいという願いが潰えても、絶望することなく、新しい道を探している。それならば、自分の振る舞いが彼女の障害になってはいけない――フィクトはベアトリスに道を空けてやりつつ、女に向けて軽く頭を下げた。
「この前は失礼しました。言い過ぎましたね」
それまであからさまにフィクトから目をそらしていた女が、この謝罪でようやく彼の方に視線を向ける。彼女は心底不快そうに眉根を寄せ、案の定きつく切り返そうとした。
「謝って許されると思って? 私はモルガンの――」
「お義母様」
ジャムを口紅代わりにしたベアトリスが、女の言葉を遮る。彼女は一歩義母との距離を詰めると、きっぱりとこう言い放った。
「わたくし、お義母様のこと好きじゃありませんわ。いいえ、嫌い」
この告白には、義母の方もぎょっとしたようだった。言葉を失う彼女に、ベアトリスは、にぱっと笑ってこう続ける。
「嫌いよ……今は。好きになるように努力します。だって、お父様が好きな人ですもの。わたくしにもきっと好きになれるわ。お父様が選ばれたのだから、きっとあなたは素敵な人よ」
「……ベアトリス」
女の瞳が、少女のひたむきさに揺れた。ベアトリスは、ほんの一瞬だけ唇を噛み締めたが、それもすぐに解いた。もう会えない母親の声ではない、もっと確かなものに勇気をもらって。
「いいえ。『ベアト』って呼んでもいいのよ。お義母様」
屈託のない、相手の好きも嫌いも押しのける、花のような笑顔。女は、よほど迷ったのだろう――縋るようにフィクトを見やる。フィクトは、そんな彼女に向けて、ただうなずいてみせた。
長い沈黙の末に、女が、かすかな声で何やらつぶやく。消え入りそうな声だったが、耳を澄ませていたベアトリスには、ちゃんと聞こえていた。「ベアト」、と。
――お母様。遠くにいらっしゃるお母様。わたくし、本当は昨晩、ちっとも眠れなかったの。寝たふりをしていただけ。一晩中、お義母様のことを考えていて……。ねえ、お母様。わたくし、お義母様のことを、ちゃんと好きになれるかもしれないわ。わたくしがどうしたらいいかわからなかったことと同じように、お義母様だって、迷っていらっしゃったんだもの。それに気づけたから……気づかせてくれた方がいらっしゃったから……。
「……ねえ、フィクト。わたくし、大きくなったらフィクトのお嫁さんになりたいわ」
ベアトリスの唐突な申し出に、フィクトはきょとんとした。二人の背後でルーヴェンスがばたばたと物音を立てたが、ベアトリスは気にもせずに言葉を続ける。
「結婚したら、一緒に暮らせるのでしょう? フィクトなら、毎日おいしいお菓子にお茶を用意してくれそうだもの。毎晩、あなたの大きな手になでられながら眠りにつくの。子どもはたくさん欲しいわ。おやつがひとつしかなかったら、みんな子どもたちに譲ってあげるの」
「ベアトリス、僕は――」
「ええ、ええ。わかっているわ。〈子供に手を出すような悪趣味な人間〉ではないのでしょう? いいの、いつまででも待ちますもの」
「大丈夫ですよ。ベアトリスなら」――その言葉が、どれほどベアトリスを勇気づけてくれたか、フィクトは知らないだろう。それでもこの先、彼の言葉を思い出すたびに、心の端に、フィクトの存在を感じることになるのなら。フィクトがいれてくれた紅茶の匂いや、木苺の甘酸っぱさ、ぼんやりとした意識の中で感じた背中の温度と心地よさを思い出すことになるのなら……そう考えると、今、胸の中にある熱くてくすぐったい気持ちを、伝えておかなければならない気がした。
これまでのベアトリスなら、あらゆる手段を使って、フィクトを手に入れようとしていただろう。金を積んで、あるいは彼の師を攻撃してでも。だが、ベアトリスにはもう、どんなに手を尽くしても叶わない願いがあることが分かっていた。
「あなたが大きくなる頃には、おじさんになってしまっていますよ」
彼らしい、柔らかな拒絶。フィクトの返答に、ベアトリスはころころと笑った。
「ありがとう、フィクト」
ベアトリスはひとつ小首をかしげると、ふわりとスカートのすそを翻す。待ちきれずに歩きだしていた義母と従者の間に割って入った彼女は、迷いなく義母の手を取った。
さようならの言葉はない。澄んだ笑い声と、木苺の甘酸っぱい香り――フィクトは小さく手を振り、親子になったばかりの二人の背を見送った。
* * *
「……あの男からの貰い物が役に立つ日がくるとはね。よりにもよって引き合うタリスマンを、それも対で渡すなんて、嫌味なやつだと思ったものだが。ま、いいさ」
机に肘をついていたルーヴェンスが、わざとらしくひとりごちる。
ジェイムズ・マークレイ准教授――フィクトをえらく気に入り、たびたびちょっかいをかけてきた男のことは、師弟の記憶に新しい。フィクトにルーヴェンスのもとを離れる気はないと彼が納得してからは縁遠くなっていたが、今回の一件では、彼の置き土産が『大地の息吹』をさまようベアトリスとフィクトを結びつけてくれた。
「まさか、こんな形で貸しを作ることになるとは」――ルーヴェンスは、不本意だと言いたげにため息をもらした。ベアトリスの見送りから戻ったフィクトは、彼女が座っていたイスに腰掛けつつ、ルーヴェンスに頭を下げる。
「師匠。……いろいろと、ありがとうございました」
本来なら感謝するべきはベアトリスであるはずなのに、彼女に代わったにしては、フィクトの礼は重く、含みのあるものだった。『大地の息吹』から出てきたときのフィクトの張りつめた顔を思いだしたルーヴェンスは、にやりとして応じる。
「これで、おやつに関しては安泰というわけか。木苺がまだ残っていたね、楽しみにしていよう」
ルーヴェンスがそれきり黙ってしまうと、リビングは急に静かになった。
少女の皿には、まだこぼれたジャムが残っている。衣服掛けにかけられたマントも、少女の背丈に合わせて折られたままだ。穏やかというには少し寂しい静寂が、去った少女を惜しむように、ひたと二人の周囲を満たす。
ベアトリスは、これからうまくやっていけるだろうか。母親の姿に焦がれはしないだろうか――義母とまっすぐ向かいった少女の姿を思いだしたフィクトは、彼女の行く先を案じる気持ちが溶けていくのを感じた。自分なら大丈夫と示すような、小さくも力強い背中。
「本当に、彼女からの報酬を受け取らなくて良かったんですか」
フィクトのふとした言葉に、ルーヴェンスが「ん、」と顔をあげる。
ルーヴェンスは、今後市場でフィクトを見かけたら優待してほしいと言ったきりで、ベアトリスからの直接の報酬を断っていた。もともと研究以外に関心のないルーヴェンスではあるが、それでも、まったく欲がないということはないはずなのに。
真剣に答えを待つフィクトに、ルーヴェンスは困ったように微笑むだけだった。師のその態度に、フィクトの中で、もうひとつの疑問が頭をもたげる。ベアトリスの言葉を聞いてから、ずっと気にかかっていたこと――。
「――師匠。『妖精術』とは、いったい何ですか。ベアトリスはそれを頼って師匠のもとを訪れたと言っていました。それなら、我々を『大地の息吹』に導いたのは『妖精術』とやらなんでしょう」
フィクトの問いに、ルーヴェンスの笑みが固まる。
それまで、ルーヴェンスの口から『妖精術』なるものの存在を告げられたことはなかった。ルーヴェンスがあえて言わずにいたことなら、こうして尋ねることで、彼を不快にさせるかもしれない。ただでさえ気短なルーヴェンスだ、いつ逆鱗に触れてしまうかもわからないのだから――フィクトは身構えたが、予想に反して、怒声は飛んでこなかった。ルーヴェンスは顔を覆い、しばらく黙り込んだあと、鬱々とこう答えた。
「忘れたまえ。君のような凡人には関係のない話だ」
* * *
聞き慣れた床の軋みが、妙に耳に障る。フィクトは唇を噛み、今まで入ったことのない、施錠されたきりの扉に向かい立った。
ベアトリスを見送ったあの日から一週間。好奇心に衝き動かされたフィクトは、ルーヴェンスに隠れ、『妖精術』に関する調査を続けていた。その末に分かったのは、『妖精術』の正体が『妖精の意志と本能的指針の応用』と題された研究であることと、それが学会に受け入れられなかったことだけだ。研究についての詳しい資料は、フィーエル校からの許可が下りず、手に入らなかった。
とはいえ、自宅を研究拠点としているルーヴェンスが今も『妖精の意志と本能的指針の応用』の研究を続けているなら、その資料がこの家のどこかにあることは間違いない。幸いにも、フィクトには思い当たる場所があった。それが、ルーヴェンスが物置きと呼び、フィクトを遠ざけてきた〈開かずの間〉――この部屋だ。
研究に関する詳細はまだわからない。『妖精術』がどんなもので、なぜルーヴェンスがそれを隠すのか、なぜ学会がそれを拒んだのかも。だが、フィクトは不思議にも、扉の向こうに心惹かれていた。確信じみた直感に、引き寄せられるようにして。
――扉の向こう、そこにあるものが見たい。
決意に満ちたまなざしで扉を見つめるフィクトの頬を、樹の妖精の気配がかすめる。木の葉の姿をした妖精は、フィクトの肌をひとなでし、からかうような笑い声とともに宙に溶け消えた。
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