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十四

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 樹の都アルベリアの端、深い森の奥にある、古い一軒家。その扉は枠から外され、金具とともに、玄関に立てかけられていた。
 レースカーテン越しに、昼下がりの陽光がリビングを暖める。昼食を抜いたにもかかわらず、なお食欲のわかないフィクトは、机の上に広げた資料をぼんやりと眺めていた。眠れない日が続いていたせいか、乾いた空気が目にしみる。

 フィクトの言葉と、ルーヴェンスの描いた魔法陣に反応したあのルーン文字の本質は、〈固定〉であるらしかった。フィクトが苦し紛れに口にした〈止まれ〉という祈りがルーン文字の本質にごく近いところを突いたことで、師弟に迫っていた警備兵の体内のどこかしらに〈固定〉の魔術が作用した――それが、師弟が救われたあの状況の正体だった。

 そうとわかれば、気になるのは魔法陣の方だ。フィクトは、手元の紙に描いた魔法陣――〈傲慢〉の『大罪』に支配されていたときのルーヴェンスが描いていた、あの簡略化された魔法陣について考えていた。

 魔法陣の中央に描かれた上向きの矢印のようなルーン文字だが、これは、ルーヴェンスの書いた資料には見られなかったものだ。また、実験してみたところ、この魔法陣は、〈同化〉の魔術にも、〈固定〉の魔術にも反応を示した。やはり、中央のルーン文字は、ある特別なはたらきをするルーン文字なのだろうが……。
 そこまで考えたところで、フィクトは頭をかきむしる。ルーヴェンスのことを思えば、とても手元に集中していられる状況ではないのだった。

 樹の都アルベリアの自宅に戻ったルーヴェンスは、力を使い果たしたかのように気を失い、今日に至るまでの一週間ほど、目覚めてはまた意識を失うことを何度も繰り返していた。

 このままはっきりと意識を取り戻さなければ――きちんとした食事をとることも、運動することもできなければ、体が衰弱して、今度こそ二度と目を覚まさなくなってしまうかもしれない。フィクトは祈るような思いでルーヴェンスに声をかけ、彼の意識が戻るのを待ってきた。ルーヴェンスの呼気が少し弱まっただけでイスを蹴ったこともあれば、ほんの数秒意識を取り戻しただけで大喜びしたこともあった。

 そうしてすっかり疲れた心をなんとかごまかそうと、フィクトは手元に意識を向ける。
 上を向いた矢印が意味するものは何だろうか。〈天井〉、〈傘〉、それか、〈放射状に振り落ちる何か〉という可能性もある。あるいは、〈空〉、〈天〉――

「――〈妖精女王〉?」

 フィクトはそうつぶやき、手元のルーン文字を見つめた。
 たとえばこの魔法陣が、〈同化〉、〈固定〉以外の魔術にも適合する万能の魔法陣であるなら、その中央にひとつ描かれたルーン文字が妖精女王を象徴していたとしても、おかしくないのではないか。
 フィクトは力の抜けた笑みを浮かべ、いすの背もたれに上体を預けた。視界の隅に捉えた鍋の中では、先ほど用意した二人分の昼食が、手もつけられないまま冷えている。

「……疲れてるな」

 ふとこぼした言葉は、誰に拾われるでもなく、生ぬるい室内を漂った。



 うっすらと目を開いたルーヴェンスは、小さくうなった。全身を包む柔らかい感触――どうやら、ベッドの上にいるらしい。見上げた視界の中、右手の窓が開いていた。ゆったりと入ってくる風が、冷たくも心地良い。金色の光の中に、埃が白くかがやいている。

 体がひどく重い。指先を動かすことすら難しく思えるほどだ。首だけで辺りを見回したルーヴェンスは、ようやく、自分が樹の都アルベリアの自宅に戻ってきたことを思い出した。戻ってきて、それから……どうなったんだか。

 覚めやらぬ意識の端を、ふと、廊下からの足音につかまれる。どうやら、フィクトが歩き回っているらしい。弟子の気配を感じ、無理に体を起こそうとしたルーヴェンスは、背中の激痛に悲鳴を上げた。
 ルーヴェンスの声が聞こえたのだろうか。廊下の足音が一度止まり、この寝室の前に近づいてきたところで、また止まった。

「――師匠?」

 気のない調子の呼びかけとともに、扉が開く。隙間から仏頂面をのぞかせたフィクトは、困ったような笑みを浮かべたルーヴェンスを見るや、その場に硬直した。彼は、持っていた桶やら水差しやらをテーブルに放り投げて、すぐさまベッドサイドに駆け寄ってくる。

「目を覚まされたんですか?」

「おかしな質問をするものだ。私が今、眠っているように見えるのかね」

 ルーヴェンスが答えると、フィクトは口をつぐんだ。彼は、おそるおそるルーヴェンスの頬にふれ、その感触を確かめるようになでる。

「……いいえ。いいえ」

 繰り返された返事は、フィクト自身に向けられているようだった。フィクトは脱力したように、ベッドのそばの丸いすに腰を下ろす。彼の目の下は、疲労に黒ずんでいた。

水の都オーナの中央教会からここに転移してきて、今日で七日目です。いいですか、七日ですよ。師匠はずっと眠っていたんです。死んだみたいに」

 フィクトはそう言うと、深く息を吐いた。
 ずいぶん長らく意識を失っていたにもかかわらず、ルーヴェンスの体はべたついておらず、服も清潔で、巻かれた包帯も新しい。フィクトが、常に気を配ってくれていたのだ。七日――生きるか死ぬかもわからない師を見守りながら過ごすには、長すぎる時間だったに違いない。

 これまでになく疲れ切った様子の弟子に、ルーヴェンスはやりきれなくなった。もちろん、ルーヴェンスにとっても、意識を失ったままでいた期間は長すぎるものだったのだが。

「……なるほど、体も動かなくなるわけだ」

 ルーヴェンスは小さくつぶやき、腹のあたりに力を入れる。背中の痛みをなんとかこらえ、差し出されたフィクトの手にすがりながらも、どうにか上体を起こすことはできた。

「まだ無理はしないでください。きちんと体を慣らしてから――」

 フィクトの言葉は、しかしルーヴェンスには届かない。ルーヴェンスは壁に立てかけてあった魔術杖を引き寄せ、力の入らない足をベッドの外に垂らす。そして、重たい体を無理にベッドから引きずり出した。力の入らない体は、一歩も前に進むことなく、杖とともにその場に崩れ落ちる。

「師匠!」

「は、はあっ……ああ、ひどい気分だな。ベッドから降りるだけのことが、こんなに難しいとは。一気に十も年を取ったようだ」

 フィクトは言葉を失ったようにかぶりを振り、ルーヴェンスを助け起こそうと手を差し出した。ルーヴェンスはその手を拒み、再び杖を使って立ち上がろうとする。師としても見栄もあったが、それ以上に、これ以上フィクトに心配をかけたくなかったのだ。
 だが、これは逆効果だったらしい。フィクトは行き場のない手をそのままに、怒りを抑えたような調子で、こう言った。

「あなたは、どうしていつもそうなんです。こんなときにさえ、僕のいうことをきいてくれないんですか?」

「これ以上おとなしくしていたら、足が萎えてしまうよ。それより――」

 ルーヴェンスは一旦言葉を切ると、床にへたりこんだまま、フィクトを見上げる。
 口調に反して、フィクトは怒っていなかった。嬉しそうに、それでいて悲しそうに、顔をくしゃりとゆがめているだけだ。この数日の心労は相当なものだっただろうに、フィクトは決して、ルーヴェンス本人にいらだちをぶつけようとはしない。

 十分に労をねぎらってやらなくては――ルーヴェンスは笑みを深めると、いつも通り、弟子に呼びかけようと口を開いた。……はずだったのだが。

「……おや?」

 言い表しようのない違和感に、ルーヴェンスは首をひねる。
 目の前にいるのは、自分の大切な弟子だ。多くの時間を共にしてきたし、命さえ救われた。それなのに、何と呼びかけたらいいか、わからなかったのだ。
 名前はわかる。〈フィクト・フェルマー〉だ。だが、何と呼びかけたものか。〈フィクト君〉? 〈フェルマー君〉? それとも、フルネームで? どれも違うような気がしてならない。先の転移魔術が、またルーヴェンスの中から記憶を奪ってしまったらしかった。それも、おそらくはとても大事な記憶を。

 いたたまれなくなったルーヴェンスは、呼びかけのあとに続けるはずだった言葉を飲み込んだ。

「……いや、なんでもない。そうだ、私が意識をなくしていた間に、何かあったかね」

「いいえ。ですが、僕たちが水の都オーナに行っている間に、誰かがこの家を訪れていたようです。フィーエルの者たちでしょうか」

 フィクトは答えながら、床にへたりこんだルーヴェンスを助け起こし、ベッドの端に座らせた。

 ルーヴェンスには知るよしもなかったが、二人が戻ってきたときには、家中がひどく荒らされていた。エドマンドが訪れたあとと比べても、はっきりわかるほどに。床に散らばった家財道具に、無理やりに開けられてそのままになったタンスの引き出し。もちろん、血まみれの論文は回収されてしまったらしく、どこにも見当たらない。玄関のドアも、枠から引きはがされて外向きに倒れ、ドアベルがか細い音を立てているといった有様だった。

 フィクトがルーヴェンスの看護をしつつそれらを片付けたおかげで、部屋はある程度生活ができそうな状態にまで片付いていた。だが、そんな彼にも、どうすることもできなかった場所が、一か所だけあった。
 フィクトの話を聞いていたルーヴェンスは、その場所がどこなのか察すると、再び杖に手を伸ばす。

「だから、おとなしくしていてくださいと言って――」

 フィクトがそう言い終える前に、ルーヴェンスは、杖にすがってなんとか立ち上がった。全身が軋み、背中の痛みが体の力を奪おうとする。杖を握る手のひらが、じっとりと湿っている。それでも、一歩、また一歩と進み、ルーヴェンスは寝室を出た。心配そうなフィクトが、すぐ後ろをついてくる。

 稲穂色の光が満ちる廊下を、杖を突き、重い体を引きずりながら歩いていく。あまりにも長く感じられる廊下を進んだ末、たどり着いた突き当たりの部屋――『魔術』の研究室に待っていたのは、あまりに凄惨な光景だった。

「これはまた……やってくれたものだな」

 疲れ切ってしまったルーヴェンスは、こらえきれず、その場にへたり込む。
 部屋の床に散らばる、あちこちが燃え、欠けた書物に、本棚やテーブルをばらしたと思しき木片。力なく開かれている本の隙間からこぼれたページは、どれもひどく損傷していて読めそうにない。研究室の床から壁にかけ、炎に舐められた跡が生々しく残る中、オリハルコンで描いた魔法陣だけが、あぶりだされたように爛々と浮かび上がっている。

「資料のほとんどが燃やされてしまったようです。ここは、部屋としてまともに使うことも難しいでしょう。燃え残った資料を集めてみたのですが、冊数にして二十もなさそうでした」

「なんということだ。ここにあった資料は、とても貴重なものばかりなのに……。その価値も知らない俗物どもめ」

 ルーヴェンスは吐き捨てるようにそう言うと、呼びかけようとフィクトの方に視線をやった。フィクトもそれに気がついたらしく、問いかけるような目でルーヴェンスの言葉を待つ。
 だが、ルーヴェンスは口を開くことができなかった。自然に口に出していたはずの弟子への呼びかけは、いまや、ルーヴェンスの中にまったく残っていなかった。

「師匠、どうかしましたか? 何か言いたそうですが」

「あ、いや……。問題ない。焼かれてしまった資料の内容は、私が覚えている。時間さえあれば、復元は可能だ。当然、書籍が持つ信頼性までは再現できないが」

 ルーヴェンスは、あわててそう繕った。フィクトは怪訝そうに目を細めたが、とくに気にした様子はない。
 もしルーヴェンスがフィクトに〈フィクト・フェルマー君〉と呼びかけたとしたら、フィクトはどんな顔をするだろうか。ルーヴェンスはぞっとして、想像することをやめた。

 できることなら、このことはフィクトに言わずに済ませたかった。だが、いつまでも隠し通すことができるものだろうか。

「残った資料については、リビングにまとめてあるので、あとで確認してください。……その前に、食事にしませんか。食べられそうであれば、ですが」

 話を切り替えたフィクトの明るい声色――ルーヴェンスが目を覚ました喜びによるものだろう――に、ルーヴェンスは祈るような思いでうなずいた。ボロを出さなければいいのだが、と思いながら。



 ルーヴェンスは、フィクトの手を借りながら、廊下からリビングへとやってきた。記憶にある通りの、片付いたリビングが主人を出迎える。

 左手に据えられたテーブルには、いすが二つ、テーブルを挟んで向かい合わせに置いてあった。いつもそこで食事を取っていたことは思い出せる――いうことをきかない体を引きずり、手前のいすに向かおうとしたルーヴェンスだったが、すぐにフィクトに引き戻され、クッションを三つも敷いた奥のいすに座らされる。フィクトの態度からすると、これがいつもの状態らしい。だが、座るイスが決まっていたことすら、ルーヴェンスには思い出せなかった。

 昼食は、汁気の多い野菜粥だった。フィクトが食事の手助けを申し出たが、ルーヴェンスはそれを断り、力の入らない手でスプーンを握る。
 粥の薄く優しい味付けと、細かく刻まれ、よく煮込まれた野菜は、いつ目覚めるかもわからないルーヴェンスのことを思ってのものだろう。ルーヴェンスは不器用にそれを口に運びながら、向かいに座った弟子の様子をうかがった。
 ルーヴェンスの視線に気づいたのか、フィクトが食事の手を止める。

「どうかしましたか。ああ、僕も昼食はまだだったんです。食べる気になれなかったもので」

「……そうなのかい。あまり食事をおろそかにするのはよくないよ。頭のはたらきが落ちてしまうからね。気をつけたまえ」

「あなたにそんなことを言われる日がくるなんて。ええ、気をつけます」

 フィクトはそう答えると、くすくすと笑った。〈ところで、君のことをなんと呼べばいい?〉などと声をかけられる雰囲気ではない。もしそんなことを口にすれば、フィクトのこの微笑みも、一瞬にして崩れてしまうことだろう。

 ルーヴェンスはしばらく、無言で食事をしながら、フィクトに本当のことをどう伝えようかと考えた。正答がないぶん、これまでに研究してきたどんなものよりも難しい課題と言っていいかもしれない。
 しばらくして、フィクトがふと口を開く。

「今日はやけに静かですね。寝ている間に、しゃべり方も忘れたんですか。それとも喉の調子が戻りませんか?」

 フィクトのその言葉に、ルーヴェンスの心はまた一段と暗くなった。フィクトはそれに気づかないまま、〈静かな方がこちらとしてはありがたいですよ〉だとか、〈たまには上品でいいんじゃないでしょうか〉だとか、度々口にするだけだ。
 結局、食事を終えるまで、ルーヴェンスはほとんどしゃべらなかった。フィクトにどう呼びかけたらいいのかわからないためでもあったが、何より、話すことで記憶が欠けているとフィクトに気づかれるのが嫌だったのだ。

 皿を片付けたフィクトは、キッチンにもどると、湯の用意をしながらルーヴェンスに声をかける。

「食後はコーヒーと紅茶、どっちにします」

 フィクトの手元には、瓶入りの茶葉が用意されている。それを見たルーヴェンスは、いつもは紅茶に違いないと判断し、そのように答えた。
 ルーヴェンスの返事に、作業をしていたフィクトの手が止まる。彼はキッチンに広げた道具もそのままに、ルーヴェンスに歩み寄ると、一言こう言った。

「また、記憶を失っていたんですね」

 答えを誤ったことに気づいたルーヴェンスは、そうだともそうでないとも答えられず、黙り込んだ。フィクトは、ひどく落胆した様子で、向かいのイスに腰かける。

「やっぱりそうですか。目覚めたとしても、記憶を減らしているだろうと予想はしていましたが……。どうしてすぐ言ってくださらなかったんです」

「……私は、傷ついたような顔をしている君が嫌いだ」

 ルーヴェンスの返事に、フィクトが目をしばたたく。本音を口にしたことで勢いづいたルーヴェンスは、もどかしい思いで首を振り、喉にかかっていた事実を吐き出した。

「このテーブルに近づいたとき、どちらのいすに座るべきか、わからなかった。普段の私が紅茶とコーヒーのどちらを飲んでいたのかも、わからなかった。それに、君をどう呼んでいたかも、わからなくなってしまった。フィクト・フェルマー君、私は、君をなんと呼べばいい。どうして、どうしてわからないんだ。ほら、やはりそうじゃないか。こう言えば君は――」

 ――そんな顔をする。
 失意に表情を歪める弟子を前に、ルーヴェンスは肩を落とす。胸が苦しいのは、息切れのせいだけではなかった。

 それから、ずいぶん長い沈黙があった。リビングを照らす外光にかげりが差しはじめたころ、フィクトがようやく口を開く。

「僕とルーヴェンス師匠が出会ったばかりのころ……僕が弟子入りを認められて、この家に通うようになったばかりのころの話です」

 フィクトが語り出したのは、今のルーヴェンスが知らない、フィクトが〈フィグ君〉になるまでの話だった。

 はじめのうち、ルーヴェンスは、くどいほどにフィクトのことを〈フィクト・フェルマー君〉と呼び続けていた。そのころは、フィクトもルーヴェンスのいうことに従い、日々コーヒーを用意してやっていたという。
 だが、生活の多くの時間をともにする相手を、いちいち正式名で呼ぶ必要があるだろうか。長ったらしい呼称と、ルーヴェンスの横暴な振る舞いに耐え切れなくなったフィクトは、いつしか、大量の紅茶を持ち込んでは、コーヒーの代わりにルーヴェンスに押し付けるようになった。
 そんなフィクトに、ルーヴェンスは、けらけら笑いながらこう言ったのだという――〈フルネームで呼ばれるのがそんなに嫌かい? それなら、君は今日からフィグ君だ。だから、機嫌を直してコーヒーをいれてくれたまえよ〉、と。

「それからの僕は、ずっと〈フィグ君〉でした。その後ももちろん、あなたの言うことをあえて無視して紅茶ばかり入れていましたが。……今のあなたにこんなことを言っても、もうわからないでしょうけど」

「〈フィグ君〉……」

「フィクトでいいです。僕はあなたに、記憶を失う前と同じ振る舞いを求めるつもりはありません。どうせ、やれと言われても無理なんでしょうし」

 フィクトはそう言うと、しばらく、うつむいて額を押さえていた。少しの沈黙の後顔を上げた彼は、闇の淵でも覗き込んだかのような暗い目をしていた。

 ルーヴェンスの中にも、フィクトと過ごした記憶はまだ残っている。だが、その中でフィクトのことを〈フィグ君〉と呼んでいたことは、もう二度と思い出せないのだ。
 フィクトの表情はいまや、笑っているようにも、泣き出しそうにも見える。ルーヴェンスは、フィクトの態度の意味を理解できないまま、ただぼんやりと彼を見つめていた。やがて、弟子のそんな姿を見ていることも苦しくなり、顔を背ける。

 フィクトはずっと、ルーヴェンスが目覚めるのを待っていてくれた。それなのに、ここにいるルーヴェンスは、彼の知っている〈ルーヴェンス〉には、なりきれない。今のルーヴェンスでは、過去のルーヴェンスと同じ思いで〈フィグ君〉と呼びかけることも、できはしないのだ。

「すまない。……〈フィクト君〉」

 ルーヴェンスが口にしたのは、ごく短い一言だった。そのたった一言が、フィクトとルーヴェンスが共に戦ってきた時間のすべてを、急速に色褪せさせていく。

「……すいません、ちょっと風にあたってきます」

 フィクトはそれだけ言うと、口元に手を当てたまま、リビングを出ていってしまった。
 一人残されたルーヴェンスは、クッションに背を預けたまま、乾いた笑い声を上げる。フィクトを追うことも、目の前の現実を受け入れることもできないままに。
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