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 水底の敷かれた線路を、汽車の車輪がなぞっていく。満潮の時間なのか、車輪はほとんど水に浸かり、進むたびに波しぶきを上げる。車窓から外を望んだルーヴェンスの横顔を、水の光が蒼く照らし出した。

 エドマンドをフィーエル校へと送ってすぐに、二人は家の扉を板で封じた。そして、必要なものだけを抱えて、隣接する水の都オーナへの切符とひきかえに、樹の都アルベリアを飛びだした。エドマンドの死が、そしてそれがルーヴェンスのしわざであることが発覚した以上、今樹の都アルベリアに居続けることは危険すぎるのだった。

 汽車は罪人を咎めることなく、水の上を滑っていく。大荷物を引く乗客のため、足元の空間が広くとられた――車体左右の窓を背に、壁に沿っていすが据え付けられている――この特別車両に、師弟以外の人影はない。二人は、がらんとした車両の半ば、通路の幅だけの距離をおいて、向かい合うようにして座っていた。フィクトは手元の『魔術』資料から視線を上げ、ぼんやりと窓の外をながめる師を見やった。

 灰色に濁ったルーヴェンスの髪に、瞳に、水面からの反射光が絶えず揺らめく。ルーヴェンスの横顔にはなんの表情も浮かんでいないというのに、彼を照らし出す光が形を変えるたびに、彼の表情も少しずつ変化しているように見えた。ときには憂鬱そうに、ときには微笑んでいるように……。

水の都オーナに行けば、師匠の……その、『大罪』が八つのうちどれであるのか、はっきりするんでしょう」

 フィクトのふとした問いかけに、ルーヴェンスはうなずいた。

 水の都オーナは、都世界における自然崇拝の中心地というべき場所だ。そこにある中央教会には、妖精に関する様々な品が祀られている。ルーヴェンスの目的である『大罪の仮器』と呼ばれるものも、その場所にあった。

 『大罪の仮器』は、その呼び名の通り、器を得ていない『大罪』が宿るための仮の器だ。たとえば『大罪の器』が死亡した際、『大罪』は次の器を選ぶ必要に迫られる。だが、適切な器がすぐには見つからないこともしばしばあるという。そんな時、『大罪』は一時的に『仮器』に宿り、そこから新しい器を探す。

 ルーヴェンスによると、その『仮器』を見れば、自分に与えられた『大罪』の名がわかる、とのことだった。そこで二人は、こうして水の都オーナを目指すことになった。
 フィクトはルーヴェンスの荷物の少なさを気遣いながらも、彼の様子を慎重にうかがっていた。心配だったといえば、そうなのかもしれない。ルーヴェンスは今、樹の都アルベリアで得たすべてを捨てて、いや……〈失って〉、ここにいるのだから。

 当のルーヴェンスは、ふと、何かを思いついたように、荷物の中から紙の切れ端とペンを取り出した。そして、紙に小さな魔法陣を描くと、短く呪文を唱える。彼の手元で魔法陣が光を放ち、辺りに漂っていた妖精の気配を目に見えるものへと変えてゆき……あっという間に、ルーヴェンスの目の前に水の球ができあがった。

 球は宙を漂い、フィクトの顔の辺りまでやってくると、唐突にぱちんと弾ける。顔面に冷水を浴びせられたフィクトは、あわてて手元の資料をわきに逃がし、目をしばたたいた。

「師匠。……何のつもりですか」

「なんだね、不満そうに。『魔術』を学びたいと懇願してきたのは、フィグ君、君の方じゃないか。今のは大切な講義の一部なんだよ。わからないのかね? ああ、そういえば、転移以外の魔術を見せてやったことはなかったな。だが、君に見せた資料の中には、転移以外の魔術に関しても記されていただろう。それらをちゃんと見ていたなら、私が何を言いたいのか、当然わかるはずだ」

 ルーヴェンスは、いかにも上機嫌といった様子で、フィクトに目を向ける。出てくるべき答えを期待する師の顔を見たフィクトは、彼に対する心配は無用なものだったことを思い知らされた。良くも悪くも、ルーヴェンスとはこんな人間なのだ。

「師匠、わざわざ口に出したくはありませんが、あなたは一番大事なことを忘れています。あなたの弟子は、あくまで凡才なんですよ」

「……何? しまった、そうか。いや、そうだな。すっかり忘れていたよ。私の弟子は愚かだった! まったく、これで優秀だと。フィーエルはどこまで落ちぶれたんだ」

 上機嫌も一転、それからの数分、ルーヴェンスはそうしてフィクトを罵り続けた。なにひとつ忘れたことがないくせに、こういうときには白々しく〈忘れた〉なんて口にするのだから困ったものだ。

 ルーヴェンスが落ち込んでいないという点では喜ぶべきなのだろうが、まるで反省していないというところについては、なんと言うべきか――フィクトがうんざりしはじめたころになって、ようやく、ルーヴェンスは説明をする気になったらしい。仰々しくのどを整えた彼は、早口にこう言った。

「多くの魔術は〈属性〉を有し、〈属性〉は基本的に、魔術が発動した場所において、最も影響力の強い妖精の属性に依存する。樹の都アルベリアでは樹の妖精、花の都フルーレリアでは花の妖精――」

「ここ、水の都オーナでは、水の妖精。……それを教えるために、先ほどの術を?」

「師の言葉を遮ってしゃべる元気があるのなら、もっと早くに発揮してほしかったものだ。嘆かわしいにもほどがある。付け加えておくと、魔術が発動した場所以上に、術者の出身地の属性が優先される場合もある。特別な場合だがね。……ああ、先の術については、もちろんそうだ。私が意味もなく他人をびしょ濡れにする思うのかね?」

 〈もちろん、あなたならするでしょう〉――フィクトは、出そうになった言葉をぎりぎりのところで飲みこんだ。一方、妙なところで察しがいいルーヴェンスは、フィクトののどに引っかかったそれに気がついたらしい。眉根を寄せた師に、フィクトはいつもの屁理屈が飛んでくることを覚悟した。

 けれども、口を開いたルーヴェンスは、一度、ためらうように口をつぐむ。彼の表情は険しいままだったが、その目はフィクトの方を見てはいなかった。しばらく黙り込んだあとで、ルーヴェンスは、何やらぼそぼそとつぶやきはじめた。

「――いや、待て。都同士の境界にほど近い位置ではどうなる? 前に行った実験においては、中間にあたる領域での魔術の属性は……。先ほどの実験に関しては、中間より水の都オーナ側の……。いや、樹の妖精と水の妖精では、属する性質が……。フィグ君、地図! 地図を出してくれ」

 幸い、ルーヴェンスの興味は、新たな発見の方に移ったらしい。フィクトが荷物から取り出した地図を持って行ってやると、ルーヴェンスは自らの気づきにすっかり興奮した様子で、地図をひったくった。

 地図を空いた座席に広げ、夢中で何かを記しはじめたルーヴェンスの世界からは、フィクトの存在どころか、厳しい現状さえ消えてしまっているようだった。フィクトは何も言えずに、そんな師の様子を見ていたが、やがて、安堵にため息をもらした。
 ルーヴェンスが〈学者〉でなくなることは、きっとこれからもないだろう。彼の好奇心と探究心は、彼自身にすら抑えきれないだろうから。



 師弟の会話も途絶えて、ずいぶん経ったころ。気の抜けた音を立てて、ゆっくりと汽車が停まる。フィクトは、ルーヴェンスに押しつけられた荷物を手に、高床のプラットホームに踏み出した。先に降りていたルーヴェンスは、灰髪を隠すためにと、薄手の毛布を折ってひもを通したフィクトお手製の簡易頭巾を被り、魔術杖を抱えている。

 水の都オーナの中央部も近い。樹の都アルベリアで汽車に乗りこんだときは、車輪や線路どころか、周囲のすべてが陸の上にあった。だが、水底に据えられていた線路は、いつからか、水底からのびる橋の上へと移っていた。

 水上の建築物ときくと足元がどうにも不安に思えるが、降り立ったホームは、意外にもしっかりとしていた。浅く水に浸かった車輪の下をのぞいてみると、線路の敷かれた橋の脚が、水底に向かって伸びていることがわかる。とはいえ、水中の暗さに言いようのない不安を感じて、フィクトは汽車の足元をのぞきこむのをやめた。

 ここ、水の都オーナの街は、巨大な湖の中央部に〈浮かんで〉いる。というのも、水の都オーナ中央部には、干潮――ときによって湖の水のかさが変化する奇妙な現象による、水位が最も低い状態――時にのみ現れる干潟があり、そこに家々が広がったためであるらしい。

「どうして、こんなところに街ができたんでしょうね。家ひとつ建てるのも、簡単じゃなかったでしょうに」

 プラットホームから階段を上がる途中、フィクトは何ともなしに言った。樹の都アルベリア生まれのフィクトにしてみれば、地盤が緩く、線路が敷かれるまでは船でしか出入りできなかったはずの場所にも、ほかの都と同じように人々が暮らしていることが不思議でならなかったのだ。
 フィクトは師の反応を期待していなかったが、意外にも、ルーヴェンスから返事があった。

「君、長旅をしたことはあるかね。何年も故郷を離れたことは」

「いいえ。なぜです?」

 今度は、ルーヴェンスの答えはなかった。ルーヴェンスはどうやら、この都に関して、フィクトとはまた違った認識をしているようだ。フィクトは物珍しさに周囲を見渡しながら、慣れた足取りの師の背中を追う。

 たいていの都において、隣接する都との間に位置する駅舎は、関所の役割も兼ねている。この水の都オーナも例外ではない。
 入出境者受付に向かう道のりで、フィクトは前を行くルーヴェンスの様子をうかがった。その背中はこれまでに見てきたそれと変わらずとも、今の彼は『大罪の器』であり、〈人殺し〉なのだった。目立つ灰髪を隠してはいるが、入境検査を受けるとなれば、正体を隠し通すのは難しいように思われた。

 師が危ないのではないか――フィクトのそんな懸念は、しかし杞憂に終わった。入境時、都によっては荷物検査等を伴う煩雑な手続きをとらなければならないところもあるのだが、幸い、水の都オーナにおいては厳しい取り締まりは行っていなかったのだ。こぢんまりとした受付カウンターで、受け取った紙に必要事項を記入するだけで、内容に問題がなければ、身分証明書の提示さえ不要だという。

 ほっとしたのもつかの間、受け取った書類に手をつけようとした二人は、困って顔を見合わせた。名前、年齢、出身都、職業、入境の目的……樹の都アルベリアを出てきた理由を考えれば、すべて本当のことを書くのは危険すぎる。受付員に聞こえない程度の小声で相談をした末、二人はそれぞれに、〈フィグ・フォルド〉、〈ルークス・ロビン〉と、偽名を使うことに決めた。その他の欄も、手早く、かつうまくごまかしながら埋めていく。

 ふと、ルーヴェンスの手が止まった。職業欄だ。フィクトは迷わず〈学生〉と記したが、今のルーヴェンスははっきりとした職業を持たない。フィーエル校の教員証がまだ有効なら〈教員〉ともいえるが、もう既に無効になっていると考えた方がいいだろう。ルーヴェンスはしばらく迷ってから、〈学者〉と記した。

 先に記入を終えたフィクトが書類を手渡すと、受付員はさっと目を通しただけで、すぐに入境許可を出した。これなら大丈夫だろうと油断していた矢先、ルーヴェンスの書類を見た受付員が、彼をとがめる。

「少々お待ち下さい。……〈ルークス・ロビン〉さんですね? 身分証はお持ちですか」

 ルーヴェンスが固まるのを見たフィクトは、思わず声を上げそうになった。
 焦っていることが相手に伝わってしまえば、さらに訝しまれることは間違いない。ここは落ち着いて対処しなければ……。
 不意打ちに弱い師を目配せで制したフィクトは、彼に代わって受付員に問い返す。

「それはまた……どうしてです?」

「実は先ほど、樹の都アルベリアから他の都への依頼という形で、ある人物の捜索要請がありまして。氷の都グラシニア出身――黒髪に青い目――で、中肉中背の男性、名前は〈ルーヴェンス・ロード〉。身体的特徴は合致しませんし、不快に思われるかもしれませんが、〈教員〉、または〈学者〉と名乗る方に対しては、身分証の提示をお願いすることになっておりますので……」

 まずいことになってしまった――フィクトは小さく舌打ちをして、師を見やる。
 この状況でルーヴェンスが身分証を提示すればどうなるかは明らかだ。まさか、こんなにも早く手が回るとは……。ルーヴェンスも同じことを考えていたらしく、フィクトの背後で〈フィーエルの奴ら、遠距離通信の技術を独り占めして儲けているんだ。忌々しい……〉だのなんだのとつぶやいている。

 風向きこそよくないが、受付員はまだ、ルーヴェンスに対して疑いを抱いているわけではなさそうだ。フィクトは、怪しまれないよう努めて平静を装った。

「彼、身分証を忘れてしまったようなのですが。手元にない場合はどうすれば?」

「一時入境の場合はお住まいの都、お引っ越しの場合はお住まいだった都をお聞きしたうえで、しばらくお待ちいただくことになります。お住まい、あるいはお住まいだった都の戸籍情報とお名前を照らし合わせるだけですが、少しお時間をいただくことに――」

 受付員の言葉を聞きながら、フィクトは自分の頬に冷や汗が伝っているのではないかと不安になった。戸籍を確認されれば、〈ルークス・ロビン〉が偽名であることが確実にばれてしまう。そうなればおしまいだ。
 焦るフィクトの背後から、ふと、ルーヴェンスが顔を出す。

「おっと、しばらく待ってくれたまえ。先ほど探したときには見つからなかったが、もしかすると、私の愛しい身分証はかばんの底で溺れているかもしれない。もう一度探してみるとするよ」

 その声色は、意外にも落ち着きはらっていた。
 ルーヴェンスは、言葉通りにフィクトからかばんをひったくって、中を漁りはじめる。だが、身分証を探しているにしては、動きがどうも不自然だ。受付員が怪訝そうにルーヴェンスの手元を覗き込んだ瞬間――彼の口からルーンが迸った。

「――、――!」

 文字には表せない〈音〉での呼びかけに応じ、ルーヴェンスの周囲に存在した水の妖精が、宙に浮かぶ水滴へと姿を変えていく。それらはルーヴェンスの顔のすぐ前に集まり、人の頭ほどの大きな水の塊を形づくった。
 身分証を取り出すふりをして、かばんの中の紙に魔法陣を描いていた? ――フィクトが息をのんだそのとき、水の塊が頬をかすめ、矢のように受付員の顔めがけて襲いかかる。

「う、うわあああっ!」

 ルーヴェンスの放ったその『魔術』にたいした威力はなかったが、受付員の隙を作るには十分だったようだ。受付員の注意がそれた一瞬の間に、フィクトは師に手首をつかまれ、ともに走り出していた。
 受付を抜ければ、ゲート――水の都オーナの市街につながる出入り口はすぐそこだ。そこに至るまでのごく短い間にも、二人の後ろでは、受付員の悲鳴を聞いた駅員や警備兵が集まりはじめていた。 

「なんてことを……。あれでは、自分が〈ルーヴェンス・ロード〉だと公言したようなものではないですか! むやみに敵を増やすことは――」

「些末なことを。〈天才〉たるこの私が、凡人相手の勝負に負けるわけがないだろう?」

 絶対的な自信をはらんだルーヴェンスの言葉は、フィクトの中に、普段の彼の振る舞いを思い起こさせた。

 ルーヴェンスは、敵を作ることを恐れない。いや、敵を作らずにすむやり方を考えもしないのだ。勝てる勝負に、いくつもの手を用意しておかないように。
 彼のそんな面は周囲との軋轢の原因になってきたのだろうが、彼の横顔に浮かんだいつもの挑発的な笑みは、フィクトの胸をたまらなく熱くした。

「それに、〈敵〉というなら、今の私の立場では、出会う者すべてが〈敵〉ではないかね。いつ感づかれるかと怯えるよりも、いっそ潔く追い立てられるとしようじゃないか。どうせ、急ぎの旅だ」

 ルーヴェンスが迷いのない声色でそう言うのと、二人がゲートを抜けるのとは、ほとんど同時だった。青みがかった、落ち着いた明るさの室内から、爽やかで遠慮のない日光のもとに飛び出す一瞬、明暗の激しさに視界が白くなる。

 ごく薄い膜を通り抜けたような感覚を経た先に、港が待っていた。光を受けてまぶしく輝く灯台が、波止場の真ん中で二人を出迎える。ぐるりと見渡せば、ずいぶん幅のある水路――規模からすると、水路というよりも、湾と表現した方がよさそうだ――の向こうに、市街の家々の平たい背、あるいは横顔が、白く輝いているのが見えた。師弟は今、湾の中にある円形の波止場、その駅舎との接続部におかれているのだった。

 石畳の敷かれた波止場の外周からは、いくつもの桟橋が放射状に伸びている。それらを二十四まで数えたところで、フィクトは再び、師に強く手を引かれた。二人は振り返ることなく灯台のそばをすり抜け、できるだけ水の都オーナ市街に近いほうの桟橋へと走る。

 ここの桟橋はどれも、水底に木の杭を打ち、板を張ったものだ。桟橋の片側には明かり掛けの棒が並び、その足元にはよく磨かれた金属の板が、橋の縁に沿って一列に打ち込まれている。夜になれば、明かり掛けにかけられた光源からの光を反射してかがやき、乗降者の足元を助けてくれるに違いない。

 師弟が選んだ桟橋には、小舟が縦に三つ、並んでつなぎとめられていた。すべて白塗りの上に、青とつつじ色の塗料で模様が描かれている。そういえば、背後にそびえる灯台の外壁にも、同じような装飾がほどこされていた――思わず灯台を見返ったフィクトに、ルーヴェンスがいらだった様子で声をかける。

「なにをやっているんだ、こんなときに! 早く舟に乗りたまえ! お友達と熱い抱擁を交わすつもりなら、それでもかまわないがね!」

 フィクトがあわてて小舟に乗り込んだのを見計らい、ルーヴェンスは魔術杖を舟の上に放り投げ、係留ロープを解いて舟に飛び乗った。ルーヴェンスの片足が桟橋の縁を蹴ると、斜めに押し出された小舟は、一度ぐらりと傾いてから水面をすべりはじめる。

「ルーヴェンス……〈ルーヴェンス・ロード〉だと! あいつだ!」

 したり顔でオールを握ったルーヴェンスは、駅員たちのその言葉を聞いて、あわてて背後を振り返る。追手の視線が集まる先には、小さな折りたたみ手帳があった。
 手帳の正体に気がついたフィクトは、責めるような視線をルーヴェンスに向ける。

「師匠、あれって――」

「おっと……ちゃんとつかまっていたまえよ、フィグ君!」

 ルーヴェンスはフィクトの声を遮ってそう言うと、かばんの中からペンを取り出して船底に魔法陣を描き、ルーンを唱えた。魔法陣が一瞬の光とともに消えるやいなや、水の妖精が小舟の周りに集まり、舟を加速させた。そうして巻き起こった風が、ルーヴェンスの頭巾を剥ぎ取る。
 灰色の髪を目にした追手の一団が、静まりかえった。けれども、そんな彼らの姿も、ルーヴェンスがあわてて頭巾を戻している間に遠ざかっていく。

 それからずいぶん長いこと、二人を乗せた小舟は、水の都オーナの市街に網の目のようにはりめぐらされた水路を進んでいった。経験豊富な船頭でもなければ道を誤りそうな複雑な水路だが、何度か水の都オーナを訪れたことがあるだけのルーヴェンスの頭には、それでも正確な地図が刻み込まれているらしかった。舟は、人目につかない細い水路を縫い、水の都オーナの中央部へとこぎ進んでいく。

 小舟がようやく止まったのは、すっかり暗くなったころだった。船灯にとつりさげられたカンテラに火をつければ、そばを通った舟の目を引いてしまう。水路を形づくる壁にちょうどいい突起を見つけたルーヴェンスは、月の光だけを頼りに、水路のわきに舟をつなぎとめた。
 陸地が恋しいが、この辺りで降りられるような場所といえば、民家の玄関くらいのものだ。そんな場所に舟をつけて通報でもされたら、たまったものではない。二人はしかたなく、暗い水路に潜み、一夜を明かすことを決めた。

 家々の白くよそよそしい外壁が、月明かりにぼんやりとかがやく。ときどき控えめに波の音がするほかは、驚くほど静かだった。あたりを包む暗がりが、静寂をさらにそれらしく感じさせる。

「まさか、あのタイミングで教員証を落とすなんて」

 暗闇の中、フィクトがぼそりとつぶやく。ルーヴェンスはウインクをして――フィクトの目にはそうしたように見えただけで、暗がりの中では、実際のところ確かではない――、得意げに答えた。

「数秒とはいえ、いい足止めになっただろう?」

「騙されませんよ。むしろ、素性がばれてしまったじゃありませんか。しかも、その髪まで見られてしまって……。明日には、〈黒髪に青目の男〉ではなく〈灰髪に灰青の目の男〉に情報が更新されているでしょう。どうするつもりです」

 ルーヴェンスは、フィクトの責めるような口調に気圧されたのか、口をつぐんだ。さすがの彼も、教員証を落とすという失態については反省しているらしい。
 ルーヴェンスは、少しの間をおいてから、言い訳をするような調子で、こう答えた。

「できることをするさ。私の中の『大罪』が覚醒しないことを祈りつつ、ね」

「そうですか。ずいぶん非科学的ですね、それは」

 フィクトがむっすりと応じると、ルーヴェンスはあっけにとられたようだった。
 学会の前――フィクトの〈嫌な予感〉は、ルーヴェンスに、非科学的であると一蹴されてしまった。後悔などしないルーヴェンスに何を言っても無駄だろうが、もしあの時いうことをきいてくれていればと、フィクトは今でも思わずにはいられなかった。

「なんだい、フィグ君。そんなことを根に持っていたのかね」

「嫌なことは忘れにくいたちなので。普段はあまりこだわりもしませんが、今回はあなたへの説教の材料として活用させていただきます」

「嫌なこと、か。それじゃあ、逆はどうなんだい」

 ルーヴェンスの茶化すような問いに、フィクトは少し考え込んだ。
 逆というと、〈楽しかったこと〉だろうか。フィクトの頭に、あらゆる〈楽しかったこと〉が浮かんでくる。意外なことに、中でも色濃いのは、ここ半年――ルーヴェンスとともに過ごしたときのことだった。
 あれこれ言いはするものの、まんざらでもなかったのかもしれない。フィクトは思わず頬を緩めた。

「それなりに、ですかね。師匠は、楽しかったこと、そうじゃなかったことどころか、意識しなくても一か月前の夕食だって覚えていられるのでしょうが、僕は〈凡才〉ですので」

 フィクトがそう言うと、闇の中、ルーヴェンスが微笑む気配がした。

「いいのだか悪いのだか、私はものを忘れることがないからね。一か月前は、たまねぎのスープとパンだった。あのときはフィグ君が家にいなかったから、自分で夕食を用意して――」

「師匠、あの日は僕も家にいましたよ。研究許可うんぬんの言い争いになって、僕が夕食をつくることを放棄したので、師匠がありもので夕食をまかなったんじゃないですか」

 一か月前のその日を思い出したフィクトが、何気なく訂正する。
 あの日のけんかは、師弟のいざこざの中でも、五本の指に入るほど激しいものだった。普段はルーヴェンスの体調を気遣うフィクトだが、このときばかりは食事の用意を投げ出したほどだ。それから数日、二人はまったく口をきかなかった。

 家の柱の木目さえ一度見たら忘れないような記憶力を持つルーヴェンスが、たった一か月前の、しかもあれほど印象的な日のことを言い間違えるなんて、珍しいこともあるものだ。フィクトは、余計なことを言って師の機嫌を損ねたかもしれないと、師の罵りにそなえる。
 だが、暗がりの中フィクトに向けられたルーヴェンスの瞳は、戸惑いに揺れていた。

「けんか? いや、そんなはずはない。なにせあのとき、君は私の家に……いなかった? いなかった、はずだ。なんだ? おかしい……こんな感覚は……」

 ルーヴェンスは、自分自身の言葉に困惑したかのように首を振る。いつものルーヴェンスなら、フィクトの方が間違っていると語気を荒げるところだが、そんな様子はまるでない。
 ルーヴェンスの様子がおかしいことに気がついたフィクトは、暗闇の中に師の手を探す。しばらくさまよった先にようやく触れたその手は、ひどく震えていた。

「〈忘れた〉……?」

「……師匠」

「見つからない。信じられないよ、フィグ君。見つからないんだ。一か月前どころか、十年前の今日の夕食だってわかるのに、ごく最近のけんかの記憶が見つからない。まるで、はじめからそこには何もなかったかのようだ。こんな感覚は知らない。これが〈忘れる〉ということか? だが、どうして。どうして私が。今までは何ひとつ忘れなかった、この私が……」

 ルーヴェンスは、無意識にか、すがるようにフィクトの指先を握りしめる。

 張りつめた静寂ののち、ルーヴェンスが、ふと口を開いた。その唇からあふれ出したのは、ルーヴェンスが持つあらゆる記憶だった。ルーヴェンスは、自身の頭の中を確認するように、持てるだけのあらゆる情報を口にしていった。研究のために集めた数値データの一つ一つしかり、赴いた地名しかり、自ら書いてきたすべての論文の内容ですら、一字一句正確に。
 その記憶力におののくフィクトを置いて、ルーヴェンスの言葉がふと途切れる。

「……。行動や感情の伴わない情報は、ある。ないのは、思い出だ。思い出だけが欠けている。しかも、こんなに、こんなに足りていない。いったい、いつから……どうして……」

 ルーヴェンスは小さくそううめいたきり、膝に顔を埋め、口を閉ざしてしまった。
 ルーヴェンスにとっての〈忘れる〉とはどういうことなのか、凡人であるフィクトにはわからなかった。だが、一度覚えたことは二度と忘れないらしい彼と、フィクトの中での〈記憶〉の認識に溝があることは想像がつく。

 凡人であるフィクトにとってみれば、忘れるなんてごく当たり前のことだ。それでも、自身が何かを忘れたとに気がついたときのことを思い出してみると、決して無感動ではなかったことがわかる。忘れたものごとの内容によって程度はさまざまだが、少しの焦りや寂しさを覚え、そんな気持ちもまた、忘れたことがらと同じように忘れてしまう。

 フィクトは、冷えたルーヴェンスの手から自らの指先を離し、彼と同じように膝を抱える。

 ルーヴェンスにとっての〈記憶〉とは、きっと、決して失われることのないものだった。人間が決して失うことのないもの――例えば、肉体の一部のようなものだろうか。フィクトは、すっかり落ち込んだ様子の師を見やりつつ、手のひらを一度開き、閉じてみる。

 人の体が成長していくように、記憶が自身の一部として大きくなる。子どものころは想像もつかなかったほどの背丈にも自然と慣れていくように、自身にはりついた膨大な記憶を受け入れて生きていく……。無理のある想像かもしれないが、もしそうなのだとしたら、ルーヴェンスにとっての忘却とは、体の一部を無理に引きちぎられるようなものだ。形がないために気づくのが遅れた分、いっそう大きな衝撃を受けたに違いない。

 なぜ今になって記憶に欠損が生じたのかはわからないが、原因を突き止めようという提案さえ、ルーヴェンスの口からは出てこない。フィクトは少しだけ船べりに身を寄せ、ちらちらと輝く水面に手を伸ばす。水はひんやりと冷たく、澄んでいた。

 ――仮に、このまま師匠の思い出が欠けていったとしたら、どうなるのだろう。

 指先からしたたり落ちた水滴が、静かな水面を乱す。再び自身の膝を抱いたフィクトは、なかなか眠ることができないまま、この長い夜が早く終わってくれるよう願った。
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