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 フィクトは、朝食片手にルーヴェンスの寝室をノックしてから、控えめに声をかけた。

「師匠。いくら寝起きが悪いとはいっても、いいかげん起きているんでしょう。朝食が用意できましたよ。いかがです」

 ルーヴェンスの返事はない。扉の向こうのバリケードが動く様子も、やはりなかった。フィクトは大きくため息をつくと、再び扉を叩く。

「昨日の学会のことも、エドマンドのことも。どうすればいいのか、協力して考えましょう。……こんな言い方はしたくありませんが、引きこもっているだけでは、どうにもなりませんよ」

 期待はしていなかったが、こうして呼びかけても、ルーヴェンスは扉を開けようとしない。こんな状態が、昨日からずっと続いていた。
 学会を抜け出して帰宅するやいなや、ルーヴェンスはすぐに寝室に閉じこもってしまった。ドアに鍵をかけるだけならまだいいのだが、寝室内の家具――もちろん、ベッド以外――を総動員して、簡易ながらも厄介なバリケードまで築きあげるほどの徹底ぶりだ。こうなってしまえば、彼は自分が納得するまで、てこでも動かないだろう。

 フィクトが最後に見たルーヴェンスの横顔は、〈もう誰にも会いたくない〉と言いたげなそれだった。この行動も、ルーヴェンスの落ち込みがすさまじいことを示唆している。だが、このままルーヴェンスを一人にしておけば、余計に自分を追いつめてしまうかもしれない。ルーヴェンスのことを真剣に考えるなら、彼をこのまま放置しておくわけにはいかなかった。

「師匠、ルーヴェンス師匠……。〈天才〉が、あの程度でへこたれてどうするんですか。一度かいた恥を帳消しにして余りあるほどの発表を、今度こそすればいい。こんなことで研究を遅らせてしまえば、それこそ、あのエドマンドとかいう悪党の思うつぼですよ」

 ドアの向こうでルーヴェンスがどうしているのかはわからない。それでも、この声だけは確かに届いているはずだ。フィクトは冷めた朝食をかたわらに置き、扉に向けて呼びかけ続ける。

「聞いてください、師匠――」

「――もう黙ってくれないか!」

 何度目かの呼びかけで、初めてルーヴェンスが応じた。しかし、その声は半分悲鳴じみていて、話が通じる状態ではないことを物語っていた。
 すべてを拒絶するような状態のルーヴェンスから、言葉を引き出せただけで上出来だろう――フィクトは子供をなだめるような調子で、扉に向けてこう言った。

「……わかりました。では、朝食はここに置いておきます。気が向いたら食べてください。僕は、フィーエルまで用事を済ませに行ってきます。しばらく戻ってこないと思いますので、その間はひとりでご自由に」

 ドア向こうのルーヴェンスは、どんな顔をしているのだろうか。再び黙りこんでしまった師の様子を気にかけつつも、フィクトは用事を済ませるべく家を出た。



 バリケードで固められた扉と、背後の窓を覆い隠すカーテンの向こうから、くぐもったドアベルの音が聞こえてくる。フィクトは出かけてしまったらしい。
 ベッドの上に座ったまま毛布に包まっていたルーヴェンスは、さらに身を縮める。頭を動かした拍子に、頬にこぼれた髪が、あやしくぎらついた。ルーヴェンスは忌々しげに自らの髪を一束つかんで引き抜く。抜け落ちた髪は、カーテンを抜けてシーツに斜め差す光の中で輝いた。見慣れてきた黒銀色にではなく、すっかり色を失った灰銀に。

 うつむいたルーヴェンスの目の下は、暗がりにも明らかなほどに黒ずんでいる。学会で受けた屈辱のために、昨晩は一睡もできなかったのだ。いや、〈屈辱〉という表現は適切ではない。ルーヴェンスを傷つけたのは、学問の場の聖性を信じていたために、エドマンドが取ったような卑劣な手段を受け入れられなかったところによるものだった。あんな方法で自身の作品が踏みにじられたこと、そして、卑怯な手の前に自分があまりにも無力であったこと――その事実が、ルーヴェンスの中に深い傷を残していた。

 正味の話、一度覚えたことは決して忘れない驚異的な記憶力を持つルーヴェンスには、発表原稿の有無などあまり影響を持たない。あの場で取り乱してさえいなければ、身一つでも演壇に立っていただろう。実際、論文の内容、数値等サンプルの詳細、ポスター上の図番号に至るまで、一字一句違わずに暗唱することができるのだ。だが、あのときのルーヴェンスに、発表を続けるという判断はできなかった。――それが、今となっては何よりも悔やまれるのだが。

「〈一度かいた恥を帳消しにして余りあるほどの発表を、今度こそ〉……」

 ルーヴェンスは、フィクトから投げかけられた言葉を、ぼんやりと繰り返した。〈今度こそ〉――そう思えたなら、あるいは、いっそ学会など捨てて『魔術』の研究だけにすべてを捧げることができたなら、どれほどよかっただろうか。ルーヴェンスは自身の髪をくしゃりとつかみ、力なくうなだれる。

 つい昨日まで黒銀だったはずの頭髪が、色が抜けたような灰銀に変わってしまった――ルーヴェンス自身がそのことに気がついたのは、朝方、日に照らし出された髪を視界に捉えたときだった。あわてて自分の姿を鏡に映した彼は、頭髪だけでなく、青かったはずの瞳も灰色にくすんで輝きを減じているのを見た。

 思い当たるところのあったルーヴェンスは、服を脱ぎ、変わったところがないかと全身をくまなく調べた。そうして見つけたわき腹の辺りに浮かび上がった刻印は、ルーヴェンスの〈心当たり〉が確かだったことを告げていた。灰色の髪に、灰色の虹彩、そして、体にはりついた刻印。一夜にしてすっかり様変わりしてしまった彼の見てくれは、間違いなく、ルーヴェンスが『大罪の器』として選ばれてしまったことを示していた。

 都世界誕生の折、自然力の主である妖精女王は、恩寵を与えるかわりに、高潔さの証を示すよう人間に申しつけたという。そのやりとりは、盟約の一文として、今も都世界に語られている。

 ――〈人間は自らの罪を戒め、妖精は人間を祝福する〉と。

 そうして、あらゆる場所に散っていた妖精は人々のそばにコロニーをつくるようになり、人々は妖精の恩恵に守られるその場所を『都』と呼ぶようになった。

 理想的な取引のように思われたこの盟約だが、〈卑しく狡猾な〉人間たちは、その文言を独自に解釈し、自分たちに都合のいい方法でそれを充足させることを選んだ。その方法こそが、すべての人間が持つと言われる、人を死へと導く八つの恐ろしい欲望に名を与え、それぞれの器となる人間に宿らせることだったのだ。そうして生まれたのが、憤怒、傲慢、強欲、悪食、色欲、嫉妬、怠惰に、広くは知られていないもう一つを加えた『八つの大罪』と、『大罪の器』だった。

 『大罪の器』として選ばれた者の体には忌痕と呼ばれる刻印が宿り、与えられた『大罪』の名に応じた業を成すことを器に強いる。例えば、憤怒なら燃えたぎるような怒りに、強欲なら物欲や知識欲に、悪食なら血と肉の匂いにそれぞれ苛まれ、器自身の意志とは無関係に、他者を、ときには器自身を害する宿命を負わされることになる。

 ルーヴェンスは、すべてを拒絶するように頭まで毛布で包み、体の震えを抑えようと深く息を吐いた。
 『大罪の器』に選ばれてしまった以上、普通に生きていくことなど望めない。妖精にも人間にも拒絶され、自らの人格が『大罪』に飲まれてしまうまで、この身で他者を屠り続けることになるだろう。ルーヴェンスを守るバリケードも、今の彼の支えにはならなかった。その向こうの世界が『大罪の器』となったルーヴェンスを排斥しようとすることなど、わかりきっている。その〈排斥〉がどんな形をとって現れるのかは、まるで想像が及ばないとしても。

 自らが一夜にして世界の異物へと変わってしまったことを――にもかかわらず、自身の体が今まで通り平然と脈打っていることを――、ルーヴェンスは事実として理解しながらも、心ではまったく受け入れられていなかった。息をしているだけで苦しいのは、扉の向こうにあるはずの何もかもが、恐ろしくてならないからかもしれない。

 昨日背を向けた演壇は、もうルーヴェンスの手が届かないほど遠ざかってしまった。こうして森の中に隠れ住みながらも、確かに抱えていた社会とのつながり一つ一つが、ルーヴェンスをとがめるように脳裏をよぎっていく。中でも気がかりなのは、一番近くにいる者――フィクトのことだ。

「今、彼に会うわけにはいかないか。だが、いずれ罪の名が、〈私〉の行動原理がはっきりすれば……」

 そうつぶやいたルーヴェンスだったが、少しの間をおくと、くつくつと含み笑いをもらした。

「ふふ、何を言っているんだ、私は。フィグ君には、二度と会うべきじゃない。それなのに、〈罪の名がわかるまでは〉なんて、馬鹿げたことを……。私は……」

 擦れるような笑い声はいつしか苦渋に満ちた浅い吐息へと変わり、薄暗い部屋を悲痛に満たしていった。



 『大罪の器』。〈灰の忌み人〉、あるいは単に〈忌み人〉と呼ばれることもあるそれについて、ルーヴェンスは大衆より多くを知っている。正確には、妖精の研究をする者であれば、暗黙の決まりとして、『大罪の器』についても学んでおくことが求められた。研究対象としてではなく、禁忌として認識しておく必要があるためだ。
 決して触れてはいけない、この世界の汚点。何不自由ない街に差す一筋の影。『大罪の器』とはそんな存在だった。

 今でこそルーヴェンスの体は彼自身の支配下にあるが、『大罪』が覚醒している間のすべての行動は、彼自身にも制御しきれない。覚醒のタイミングも、また罪の名もわからないとなれば、フィクトがいつ帰って来るかもわからないこの家に居続けるのは危険だ。フィクトがルーヴェンス宅を出発していくらかたったころ、ルーヴェンスは決意とともに寝室を飛び出して、荷物をまとめはじめた。

 『魔術』に関する資料一式と、魔法陣を描くための鉱石をかばんに詰め、出掛け用の分厚いマントを羽織る。表に出すはずだった『魔術』以外の研究資料は、すべてリビングの作業机にまとめておいた。もはやそれらには何の意味もなく、また研究を続けることもできないのだから、せめて、残されるフィクトの助けになればと思ってのことだった。

 自身が『大罪の器』として選ばれてしまったのは、妖精女王に庇護される身でありながら『魔術』などという禁忌に手を出した罰なのではないか――ルーヴェンスは一瞬だけそんなことを思ったが、すぐに迷いは消えた。

 ――これが探究心への罰なのだとしたら、あえて禁忌の根まで暴いてやるとしよう。そして、たとえ妖精女王であろうとこの私の邪魔をすることなどできないのだと知らしめてやる。誰の助けも必要ない。今までも、ずっとそうだったのだから……。

 ルーヴェンスは、大きいとはいえない旅荷物を足元に、リビングを見回す。フィクトが片付けたのだろうか、長らくともに過ごしてきた家は、あまりに物寂しげに見える。ルーヴェンスは心残りを振り払うように身を翻すと、廊下の向こう、『魔術』研究室へと足を踏み入れた。

 遠くへ行かなくてはならない。フィーエルの人間にも、フィクトにも追えないような場所に。あわよくば、誰とも会うことなく一生を終えなくてはならない。ルーヴェンスは、自らの両手のひらを見つめる。一瞬、青白い肌に、ぱっと暗赤色が広がった気がしたが、気のせいだった。ルーヴェンスは身震いし、〈誰の助けも必要ない〉と繰り返した。

 ルーヴェンスは、研究室の中央に残されていた魔法陣のそばに立ち、フィクトに使ってみせたのと同じ、転移魔術のルーン列を唱えた。何度も訪れた場所なら、鮮明にイメージすることができる。ほぼ正確に転移することも可能なはずだ。ルーヴェンスは目的地を強く意識しながら、長々とルーンを紡いでいく。普段よりゆっくりとした口調は、名残惜しさの表れだろうか。自らそれに気がついたルーヴェンスは、自嘲気味に微笑む。

 この世界において、『大罪の器』の居場所などどこにもない。それなのに、今さら何に頼ろうというのか。何に期待できるというのか――。

「――師匠?」

 突然の呼びかけに背を突かれ、ルーヴェンスの詠唱が止まる。ためらいがちに振り返った彼の視線の先には、息を切らしたフィクトが立っていた。フィーエル校まで行ってきたというにはあまりに早すぎる彼の戻りに、ルーヴェンスは体を固くする。フィクトが帰ってこないうちにという狙いも、こんな姿を彼に見られたくないという願いも、あっさりと打ち砕かれてしまった。

 ルーヴェンスの髪と瞳が灰に濁っているのを見て言葉をなくしたフィクトだったが、足早にルーヴェンスのもとに歩み寄ろうとする。

「来るな、フィグ君!」

 ルーヴェンスはフィクトに一言警告すると、彼自身も一歩退いた。フィクトはルーヴェンスのただならない様子に足を止めたが、ひるむことはなく、血の気を失った師を正面から見据える。

「どういうことですか」

 そう言って魔法陣と師とを見比べるフィクトの顔には、戸惑いも、怒りもなかった。

「お食事、召し上がっていませんよね。お風呂もまだでしょう。ベッドもぐちゃぐちゃでしたし、寝室も散らかしたままでしたよ。それなのに、どこにお出かけを?」

 フィクトはそう言いながら、大股にルーヴェンスとの距離を詰める。フィクトが一歩近づくたびに一歩引いていたルーヴェンスだったが、あっという間に壁ぎわまで追い詰められてしまった。ルーヴェンスはフィクトの顔を見返すことができず、視線を下に逃がす。

「師匠」

「だめだ」

「何がだめなんです」

 ルーヴェンスはなにも答えられず、ただもどかしげに首を振った。ろくに人付き合いをしてこなかったためか、他者を罵る言葉には事欠かないというのに、こんなときに限って、なんと言っていいものかわからなかったのだ。
 ルーヴェンスがひどく混乱していることを察したフィクトが、優しく声をかける。

「……わかりました。話は落ち着いてからにしましょう。何か飲みながらでも」

 ルーヴェンスは壁に背をつけたまま、かろうじて一度だけうなずいた。これで、フィクトに黙って発つことはできなくなってしまったと、苦い思いを抱えながら。



 ミルクの熱が、カップづたいに手のひらにしみこんでくる。ルーヴェンスは、おそるおそる、フィクトの様子をうかがった。

 フィクトが戻ってきたあと、ルーヴェンスは彼に手を引かれ、寝室にやってきた。フィクトはルーヴェンスに温かいミルクを用意すると、自身はバリケードの残骸の中からいすを引っ張ってきて、ルーヴェンスの向かいに座った。それからは、ルーヴェンスを急かすこともなく、黙り込んだままだ。ルーヴェンスにしてみれば、その沈黙がかえっておそろしいのだが。

 エドマンドのあまりに卑劣な行動にショックを受けたこと、目が覚めたら『大罪の器』として選ばれてしまっていたこと、もうここにはいられないこと、そして、師弟関係は今日で終わりにするつもりであること――。ルーヴェンス自身にもよく理解できていない現状を、フィクトにどう伝えればいいものか。ルーヴェンスは、じんわりと温かくなった手で、くすんだ髪をもてあそびながら考えていた。
 重い沈黙の中で、ふと、フィクトが口を開く。

「……こんなことを言うべきかはわかりません。ですが、僕の本当の気持ちとして……今のあなたを、恐ろしいと思います。本能的に、近づいてはいけないと感じるんです。灰色というのは不吉な色だから、かもしれません」

 わずかに震える声で発された〈恐ろしい〉という言葉に、ルーヴェンスはぞくりとした。遠回しに表現してはいるが、灰色の髪、瞳という身体的特徴が何を表しているのか、フィクトにもわからないはずがない。
 フィクトもまた、師にどう声をかけるべきか、迷っているようだった。フィクトのその気遣いが、ルーヴェンスの中にあったある決意を、いっそう固くした。

「それでも、僕はあなたの弟子です。この半年をともに過ごしてきましたし、これから学びたいこともまだまだあります。ですから……」

「もう終わりにしよう」

「はい?」

 ルーヴェンスの言ったことが飲み込めていないらしいフィクトが、間の抜けた声を上げる。そんなフィクトの驚いた顔が徐々に歪んでいくのを、ルーヴェンスは複雑な思いで見つめていた。

「……今、なんと?」

 少しの間をおいて、フィクトが問いかける。
 ルーヴェンスは、弟子の瞳に浮かぶ翡翠色の輪の向こう、深くをのぞき込んだ。フィクトは聡い。一瞬でも目をそらせば、迷いを悟られてしまうに違いない。

「要らないと言ったんだ。君はここにいるべきじゃない。どこへでも行ってしまえ。君を受け入れるような物好きが私のほかにいるかと言われれば怪しい所だが、他の研究室を探すといい、そうすれば、少なくとも卒業することはできるだろう。もう君にはたいして時間もないのだから、急ぎたまえ。私のこれまでの研究成果については、あるだけすべて持ち出してかまわない。婿入り道具にでも何でもするといい、フィーエルの教授たちも大喜びするはずだ」

 ルーヴェンスは、言うべきことのすべてを、早口に言い切った。
 カップの中のミルクは、もうすっかり冷めてしまって、誘うようにとろりと波打つだけだ。ルーヴェンスは、慣れない緊張に乾ききっていたのどにミルクを流し込んだ。冷えたせいで、甘みさえ薄れてしまったように感じられる。

 師弟関係を解消しなければならない――フィクトを受け入れて半年、徐々にルーヴェンスの中から消えつつあった選択肢が、今は唯一の光をあびていた。フィクトをここにいさせてはならない、なにも打ち明けてはいけない。行き詰まった現状では、正体のわからない焦りばかりが確かだった。
 ルーヴェンスには、なぜ自身がこれほどまでに頑なになっているのかわからなかったが、なぜだか、〈フィクトには、できるかぎり事情を打ち明けずにおくべきだ〉という判断だけは正しいように思えた。

 一方のフィクトは、師の言葉を受け入れるのに、ずいぶん時間が要ったようだった。誰も口を開かないまま、数分の空白があった。

「何を言っているんです。出て行け? 研究成果を持ち出してもかまわない? ほかの誰でもなく、あなたが……あなたが、そんなことを?」

 沈黙のすえ、フィクトが、穏やかながらも熱のこもった調子で問い返した。感情を抑えた声色に反して、その瞳は激情にゆらいでいる。
 けれども、そんなフィクトの声は、いつしかルーヴェンスから遠ざかっていた。ルーヴェンスの耳の奥で、いつから聞こえていたのかもわからない耳鳴り――金属を叩いたような、こーん、という音――が、心地よく反響しはじめていたのだ。意識の輪郭がぼやけ、こめかみのあたりがじんわりと熱くなる……。

 ルーヴェンスは、はっとした。かすかに、わき腹のあたりが熱をもっている。わき腹といえば、ルーヴェンスが『大罪の器』であることを示す忌痕が焼きついていた場所だ。もしかすると、この耳鳴りや意識がとろけそうな感覚は、ルーヴェンスの中にある『大罪』の覚醒が近いことを示すものなのかもしれない。
 ルーヴェンスは、ぞっとしてフィクトを見やった。ルーヴェンスを説得しようと決めたらしい彼は、突然の攻撃から身を守るには、あまりに無防備に見えた。

「どうして、なにも話してくださらないんです。師匠、僕を見てください。あなたの弟子はここに――」

「――出ていけ」

 ルーヴェンスは、声を低めて言った。ルーヴェンスの尋常でない様子にぎょっとしたのか、フィクトが口をつぐむ。

「もう話すことはない。出ていけ、今すぐに! でないと……」

 〈でないと、私はきっと、君をどうにかしてしまう〉――自分が何を言おうとしたのか悟ったルーヴェンスは、かぶりを振った。そんなルーヴェンスをあざ笑うように、忌痕がさらに熱くなる。

「……出て行ってくれ。一人になりたい」

 そう口にしたときのルーヴェンスの声は、彼自身にもわかるほどに覇気を失っていた。
 ルーヴェンスは、弟子の――フィクトの前でだけは、情けない姿を見せたくないと常々思っていたが、それも昨日までだ。もはや、取り繕う必要もなければ、そんな気力もなかった。

 うつむいたルーヴェンスの視界の外で、フィクトが立ち上がる気配がした。
 フィクトの卒業まで、ほんの数か月しか残っていない。ここにいても学位が得られないとわかった以上、一刻も早く次の研究室を探し、改めて卒業研究のテーマを設定し直す必要がある。それでも間に合うかどうかはわからないが、〈天才〉である自分に食らいつこうとしてきたフィクトなら大丈夫だろう――ルーヴェンスは、フィクトの方を見ないままに、その足音が遠ざかるのを待った。
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