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 フィクトの呼びかけに、リビングの作業机にはりついていたルーヴェンスが顔を上げた。フィクトを見上げた彼の目は、頭の中で処理している最中の情報が目の前に流れ続けているかのように左右にぶれている。極度の集中状態から無理に引き戻そうとすると、いつもこうなのだ。フィクトは小さく微笑み、師の目がきちんと自身を捉えるのを待ってから、カップを差し出した。

「聞いていなかったでしょう。そろそろ休憩にしたらいかがです、と言ったんです。集中しはじめると倒れるまで戻ってこないこともあるんですからね、あなたは」

「あ、ああ。そうだね。もう少しだったのだが、休憩してからでもいいだろう。それで、戦績の方はどうだい?」

「……こんなに短期間で結果を求めるなんて。さすが、〈天才〉の考えることは理解不能ですね」

 フィクトはこめかみに手をやりつつ、嫌味まじりに応じる。彼の目の下には、深い疲労の色が刻まれていた。
 開かずの間――『魔術』に関する研究室に出入りする許可を受けてから、はや三日。フィクトは睡眠も食事も忘れ、ルーン語の解読を続けてきた。もちろん、その合間に、ルーヴェンス宅の雑事をこなすのも忘れない。むしろ、そちらの方が休憩らしく思えたほどだ。
 そんなフィクトを横目に、ルーヴェンスがコーヒーのかぐわしい香りに首をひねる。

「めずらしく素直だな。君がコーヒーを用意するなんて。ようやく私のいうことを聞く気になったのかい」

「わざとではありません。ぼうっとしていたら、手が勝手にコーヒーを……。すいません、紅茶に替えてきます」

「いや、コーヒーのままでいい」

 カップを回収しかけた所をルーヴェンスにとがめられ、フィクトは力なくカップから手を離した。いつものフィクトなら、無理にでもカップを回収して紅茶を入れ直しているところだが、今の彼にそんな気力はなかった。何より、『魔術』のことで頭がいっぱいだ。

 一文字。徹夜で調べつづけて、自分なりの読みを見つけられたルーン文字は、たった一文字。対して、ルーン文字の総数は、数えた限りでも百二十を超えていた。
 正確には、文字の種類自体は三十にも満たない。だが、いくつかの文字を一つの音として扱っている場合を含めると、その何倍ものパターンがあげられるのだ。そういった、特定の文字の組み合わせを一つの文字として扱う場合もすべて含めれば、その総数はいったいいくらになるだろうか。それを、ルーヴェンスは自由自在に扱えるというのだ。
 ルーヴェンスはカップに口をつけると、にやりと笑ってこう言った。

「それとも、もう諦めがきたかい。だとしても、私は君に失望したりしないから安心したまえ。そもそも期待なんてしていないよ、自分以外の誰にもね」

「……諦めませんよ」

 フィクトは短く応じつつ、作業机の上を盗み見る。
 執筆中らしい紙束には、読者を意識してか、文字が整然と並んでいた。ルーヴェンスの作る資料のたぐいは、どれもわかりやすく、見た目も美しい。フィクトは感心しながらも、昨日渡されたメモ書きを思い出して、物足りなさを感じた。こうしてコーヒーを飲んでいる姿は人並みでも、ルーヴェンスの頭の中には、『魔術』の資料に表れていたような〈嵐〉が渦巻いているに違いない。ソーサーを支えるフィクトの手が、小さく震えた。

 この天才に追いつくためには、一分一秒さえ惜しい。徹夜で研究に没頭しているルーヴェンスを寝室に叩きこんだ経験には事欠かないフィクトだったが、今では、そんなときのルーヴェンスの気持ちが嫌というほどわかる。家事をしつつも手帳のルーン文字列を凝視し、何度慣れた廊下でつまずいたかもわからない。ルーヴェンスのように気絶したことこそないものの、このままだと、そのうち彼のようになってしまうかもしれない。

 けれどもフィクトは、そうなってもいいと思いはじめていた。『魔術』という研究テーマと本物の天才を前に、自らの胸に熱が宿るのを、たしかに感じたのだ。大抵のことはそつなくこなしてきたフィクトだからこそ、目の前に立ちはだかった大きな壁への畏怖と、鳥肌が立つほどの高揚感を前に、焦がれる自身を止めることができなかった。
 コーヒーの残りが半分ほどになったところで、ふと、ルーヴェンスが口を開く。

「『魔術』はルーン語がすべてじゃない。他にも学ぶべきことはいくつもある。君に与えられた時間は半期もないが、どうなることやら。……ところでだ、フィグ君。研究熱心なのは感心するが、今日は大事な用事がある。私の弟子というのなら、当然来るだろう?」

「大事な用事ですか。わかりました。ちなみに、どちらへ?」

「おや、目の前のことに夢中になるあまり、今日が何の日かさえ忘れてしまったようだね。妖精学者を志す者として、これほど大切な日を忘れるのはどうかと思うが。三十秒やるから、自分で確認したまえ」

 ルーヴェンスの言葉に、フィクトはあわてて手帳を取り出す。そこには、今日の日付とともに〈学会〉とのメモ書きがあった。そういえば、数週間前からルーヴェンスが作業に追われていたのもこのためだったか――フィクトはぼんやりと脳内で整合性をたしかめつつ、ソーサーを支える手の甲をかいた。『魔術』のことばかりを考えたせいで、こんなメモ書きをしたことさえ、すっかり忘れていたのだった。

「この前、少し遠出したろう。その時のサンプルから、新しい論文をまとめたんだ。せっかくの機会だから発表しておこうと思ってね。……よし、と。これでいいだろう」

 ルーヴェンスは作業中の一枚に何やら書き足すと、卓上の紙束を手際よくまとめた。その表紙には、『妖精の種類と都の誕生予測・第三版』という文字が伺える。
 ルーヴェンスの言うように、二人は半月ほど前に、光の都ルミエーラまで実地調査に出ていた。フィクトは、そのときに収集したサンプルの量を思い出して、自分ならその整理にどれだけかかるだろうと考え、どんなに急いでも三か月程度は必要だろうと思い至った。要領のいい自負があるフィクトでもそれだけかかるだろうデータを半月で取りまとめたことにも驚きだが、それをすでに論文に反映しているとは……フィクトは徹夜で痛むこめかみを押さえつつ、感嘆の声をもらした。

 当のルーヴェンスは、特にそれを誇るそぶりもなしに、無邪気な笑みで成果物を眺めている。誰に対しても愛想のないルーヴェンスだが、学ぶことに対しては誰よりも真摯であることは、そばにいるフィクトが一番よく知っている。

「ひさしぶりの学会だ、わくわくするな。さあ、君も早く準備したまえよ」

 僕がさっさと準備をしたところで、あなたは数時間かけて服を選ぶんでしょうね――そんな不満を口にする気力もなかったフィクトは、ただ素直にうなずいた。
 ルーヴェンスの方は、自身にとってはおよそ一年ぶりの学会が楽しみで仕方ないらしく、軽い足取りでウォークインクローゼットへと向かっていく。その背中を呆れ半分に見送ろうとしたフィクトは、ふと、妙な悪寒を感じて、ルーヴェンスを呼び止めた。
 今までにも何度か、こんな感覚に襲われたことがあった。そしてその後には、必ず、悪い意味で〈何か〉が起こるのだ。

「師匠、どうしても今日、行かなければいけませんか? なんだか……いえ、気のせいだといいのですが……」 

「なんだい、君にしては歯切れが悪いね。どうしても今日、だって? 久々の口頭発表の機会なんだ。最終日の今日を逃すと、この規模の発表会はまたしばらくないんだよ」

 振り返ったルーヴェンスは、怪訝そうにフィクトを見やる。フィクトはかぶりを振った。
 嫌な予感がする。その正体が何なのかはわからないが、ただそんな予感がするのだ。何もないに越したことはないが、もし何かが起きるのだとしても、ルーヴェンスと、彼の研究成果だけは守らなければならない。

「師匠、論文とポスターの写しは取ってありますか」

「必要ないさ。私の記憶力を知っているだろう。どちらも、複製するのは簡単なことだ。一字一句違わずにね」

「二部ずつ持っていくことはできませんか? 不慮の事故で発表に支障が出るようなことがあれば……」

「不慮の事故? たとえば、どんな? 安心したまえ、君は私の弟子として、ただついてくるだけでいい。余計な気を回されると、かえって迷惑だ」

 ルーヴェンスの返事は素っ気ない。フィクトはめげずに何度も訴えかけたが、すべて軽くあしらわれてしまった。
 きっと〈何か〉が起きる。何が、とは言えないが、フィクトの第六感とも呼べるものが、けたたましく鐘を鳴らしていた。フィクトはルーヴェンスがクローゼットに消えるのを見送り、発表資料を手に取った。

 あの態度からして、ルーヴェンスがフィクトの話に耳を貸すとは思えない。不安の根拠を示すことができれば良かったのだが、うまく説明することのできない、いわば勘のようなものを証明する術を、フィクトは持ち合わせていなかった。となれば、ルーヴェンスがクローゼットにこもっているうちに、発表資料を書き写すしかない。
 だが、めずらしく――また、不運なことに――、今日のルーヴェンスの服選びにはそう時間がかからなかった。

「何のつもりだ? 〈フィクト・フェルマー君〉」

 背後からの呼びかけに、フィクトはたじろいだ。振り返ると、不機嫌そうに目を眇めたルーヴェンスと視線がかち合う。
 ルーヴェンスがフィクトのことをフルネームで呼ぶのは、とてつもなく機嫌が悪い時だ。ここしばらくの関係がそれなりにうまくいっていただけに、このときのルーヴェンスの態度はいっそう冷たく感じられた。

「必要ないと言ったはずだ。それとも、師の研究成果を勝手に持ち出す気かね? まったく信じがたい。これだから学究の何たるかを知らない俗物は……」

 ルーヴェンスの言葉に、フィクトは息を詰まらせる。
 〈俗物〉というのは、ルーヴェンスが他人を蔑む時に使う罵りの中でも、最もひどい表現だ。ルーヴェンスからの小言やからかいには幾度となく晒されてきたフィクトだったが、この言葉を自身に向けられたのははじめてだった。

「そんな、違います。ただ、嫌な予感が……。師匠は感じないんですか」

 フィクトの衝撃のあまり、まともに切り返すこともできなかった。ルーヴェンスを説得しなければという気持ちも、ルーヴェンスの一言で、すっかり萎えてしまっていた。
 〈俗物〉――学問の聖性を心から信じるルーヴェンスが、その言葉を口にするときの心持ちがいかなるものか、同じような美意識を持つフィクトには痛いほどわかる。〈凡才〉と呼びかけるのとでは、まるで次元が違うのだ。

「〈嫌な予感〉か。実に非科学的だ。私も含め、他者にそれを信じさせようと思うのなら、根拠を提示したうえで証明してみせるんだ。できないのなら、勝手な行動は慎みたまえ」

 ルーヴェンスは鼻を鳴らすと、フィクトの手元からポスターの原本を取り上げる。
 フィクトはどうすることもできないままペンを置き、〈準備をしてきます〉とだけ言うと、逃げるように席を立った。



 全都妖精学会による大規模な口頭発表会がフィーエル・アラロヴ大学校の多目的ホールで開催されるのは、半年に一度のことだ。期間中には、世界中から名のある学者たちが集い、それぞれの研究成果を披露することになっている。発表者にはあらかじめ論文の提出が義務付けられており、提出した論文が審査に通らなければ、舞台に立つことすら許されない――そういった事情も、名誉フェローであるルーヴェンスには無縁の話だった。一定額以上の寄付金を納めた者ばかりの中、権威に媚を売らないルーヴェンスがその称号を与えられたのは、ひとえに実力あってのことだ。当のルーヴェンス自身は、〈彼らは私の研究成果を横取りしたいだけさ〉と鼻で笑ったものだが。

 それはさておき、フィーエル校の廊下に漂う智の匂いを感じてか、ルーヴェンスの機嫌はだいぶ良くなっていた。普段ならセンスがないだのなんだのとごねて絶対に着ないフィーエル校指定のマントを羽織っているあたり、よほどこの時を楽しみにしていたことがうかがえる。それでもフィクトは下手に師を刺激してしまわないようにと、さかんに行き交う学者、学生たちの間、慎重に数歩後をついていった。

 研究成果は研究者にとっての〈作品〉であり、それに対して無粋な行いをする者は絶対に許せない――ルーヴェンスは常日頃からそう語っていた。そんなルーヴェンスからしてみれば、先ほどのフィクトの行動は、許しがたいものだったはずだ。

 表面上機嫌が直ったように見えても、フィクトの行動一つが彼の逆鱗に触れる可能性もある。いつもならフィクトに預けるはずの荷物を自分で持っているところからも、まだ彼がフィクトを警戒していることが伝わってくる。〈発表資料を僕に預けてください〉などと言い出せる雰囲気ではなかった。こういう場合は、ルーヴェンス自身がフィクトを許したという意志表示をするまで、何も言わず距離を置いた方がいいのだ。

 〈嫌な予感〉の正体はいまだにわからないままだ。今はとにかく、ルーヴェンスと彼の荷物に注意を払うしかない。けれども、ルーヴェンスの周囲ばかり警戒していたフィクトは、自分の背後にはまるで不用心だった。

「よう、ルーヴェンス」

 すぐ後ろからの一声に不意を打たれたフィクトは、思わずルーヴェンスから視線を外してしまった。その隙に、声の主――学者にしては声も図体も大きな男がフィクトを追い抜き、慣れた調子でルーヴェンスの腰を抱く。

「いやいや、まったく。久しぶりじゃねえか。元気にしてたか? 会えて嬉しいよ。三年ぶりかな」

「……二度とその顔を見せるなと言ったはずだがね。何の用だ」

 ルーヴェンスが、嫌悪感を露わにして答えた。
 男の態度は親しげだが、ルーヴェンスの反応からして、彼がルーヴェンスにとって好ましい相手であるなんてことはないだろう。フィクトは助けに入ろうとしたが、振り返ったルーヴェンスの鋭い目配せに立ち止まる。
 ルーヴェンスの明らかな拒絶にも、男が気を悪くした様子はなかった。

「相変わらずつれないな。黙ってりゃかわいいのによ」

 そう言った男の手が、ルーヴェンスの腰から下へと動く。ぎょっとしたフィクトは早足に距離を詰め、男の手首をつかんだ。男が驚いたように振り返る。

「どなたか存じませんが、師匠にご用でしたら、前からいらっしゃってください。それとも、後ろから迫り、不意を打って相手を困惑させるのがあなたの作法なんですか」

 フィクトの言葉に、男は舌打ちで答えた。男の腕から開放されたルーヴェンスが、男に追い打ちをかける。

「学会に君の席はない。これからも変わらずね。君のような俗物に、ここに立ち入る資格はないのだから。消えたまえ、目障りだ」

「……〈資格〉? はっ、資格ねえ……」

 男は意味深な笑みで、ルーヴェンスの言ったことを繰り返した。かと思えば、再びルーヴェンスとの距離を詰めると、そのあごをつかむ。強引に顔を上げさせられたルーヴェンスの目に、はじめて警戒の色が浮かんだ。

「その様子じゃ、やっぱり忘れてないようだな。俺を侮辱してくれた報い、楽しみにしているといい。じゃあな、ルーヴェンス〈先生〉」

 男はそれだけ言うと、現れたときと同じ親しげな態度でルーヴェンスの肩をたたき、向かっていたままの方向へと歩き去っていった。
 フィクトは男の背中が見えなくなったことを確かめてから、ルーヴェンスの方を見やる。師の白い横顔には、かすかに青みが差していた。

「あの、今のは――」

「余計な気遣いに感謝しよう」

 フィクトの問いを遮るように、ルーヴェンスが冷たく言いはなった。
 エドマンドに腰を抱かれたとき、ルーヴェンスはフィクトに〈何もするな〉と言いたげな視線を送ってきた。これまでで、彼のそういった指示が無意味なものだったことは一度もない。今回も、何か考えがあってのことだったに違いないのだ。

「助けてくれとは言われませんでしたが、あなたの身に危険が及びそうでしたので。迷惑だったのなら、謝ります」

「……今回は君に助けられたのも事実だがね。あんな言い方をして、あのろくでなしに目をつけられたらどうするつもりなんだい。これから何年にもわたって、しつこく付きまとわれることになるかもしれないんだよ」

 フィクトが素直に謝ると、ルーヴェンスはきまり悪そうに頭をかく。
 初対面のフィクトにも、先ほどの男が〈まとも〉でないことは想像がついた。ルーヴェンスがフィクトに助けを求めなかったのは――もちろん彼の性格のためもあるだろうが――自身が不快な思いをしてでも、フィクトをあの男から遠ざけておこうとしたためだったらしい。師の考えに気づいたフィクトは、胸のうちに敬愛の情がわき上がるのを感じながら、頭を下げる。

「すいませんでした。……いえ、ありがとうございました」

「その礼は返しておくよ。ハンカチーフにでも包んで懐に戻しておきたまえ」

 ルーヴェンスは軽い口調で答えたが、彼の横顔はこわばっていた。その視線は、先ほどのあの男が去っていった方に向けられている。

「先ほどの男についてだが……あれは、卑劣な手で他人の作品を汚す、学者としての誇りを失った俗物だ。名はエドマンド・ノーシュ。繰り返さないでくれたまえよ、必要以上に聞きたくもない名前だからね。ただ、忘れないように。覚えていなければ、気をつけようがないだろう」

 一息でそう言ってから、ルーヴェンスはつかれたようにため息をついた。

「彼……エドマンドも、もともとは真面目な同業者だった。凡才なりにだがね。だが、学会で発表した研究内容についての不足を私が指摘して以来、おかしな行動をとるようになった。そして三年前、他人の研究成果を横取りして発表したことが明らかになって、学会からはじき出されたんだ」

 ルーヴェンスの説明を聞いたフィクトは、思わず顔をしかめる。話を聞いた限り、ルーヴェンスに落ち度はないはずだが、エドマンドの方は、ルーヴェンスに明らかな敵意を向けているようだった。ルーヴェンスは、〈それが正しいと思っているんだろう〉と肩をすくめてみせる。

「さて。そろそろ行かなくては。大丈夫、ああいった手合いは、口に行動が伴わないものだから」

 ルーヴェンスは疲れたようにそう言うと、早足で歩き出した。彼の言葉はフィクトに向けられたものでありながら、どこか自己暗示めいてもいた。
 フィクトの〈嫌な予感〉に似たものを、この時のルーヴェンスも感じ始めていたのかもしれない。それでも彼は、自らのかばんが少しだけ軽くなったことには気付けなかった。
    


 妖精研究の先駆者たちが集う、フィーエル校の多目的ホールにて。フィクトは隣でうつらうつらしているルーヴェンスを見やり、メモを取る手を止めた。

 学会において発表されるのは、審査を通り抜けた選りすぐりのテーマばかりだ。だが、その中でもルーヴェンスの琴線に触れるものはごく少ない。こうして船をこいでいるのも、発表内容に興味がない証拠だ。いつもルーヴェンスに小言を言ってばかりのフィクトにも、研究者としてのルーヴェンスの感性が確かであることはよくわかっている。そのルーヴェンスが退屈そうにしている様子から、この発表においてはメモを取る必要性がないと判断したのだ。

 ちなみに、興味のある発表テーマを耳にした時には――次の発表テーマが述べられた途端、ルーヴェンスががたりとイスを鳴らした。彼は目を爛々と輝かせ、水筒に用意してあったコーヒーを一気飲みすると、姿勢を整えて発表に集中しはじめる。つまりは、そういうことだ。

 そうしてしばらく、ようやくルーヴェンスに発表の番が回ってきた。
 フィーエル校に籍をおく発表者の多くは、事前のうちに係の者に発表資料を預けて演壇を調えさせるが、フィーエル構外に研究室を構え、かつ弟子を持つ発表者であれば、発表資料を持参し、直前の用意を弟子に任せる場合もある。こうして資料を持参した以上、ルーヴェンスは後者の方法をとるはずだった。けれども、ルーヴェンスは冷ややかにフィクトを一瞥すると、自ら革かばんに手を差し入れる。フィクトは、ルーヴェンスからの信頼が、完全には回復していないことを悟った。

 とはいえ、発表者自ら演壇を調えることになれば、聴講者に後々どんな陰口をたたかれるかわかったものではない。大切な発表の機会において、師に恥をかかせるわけにはいかなかった。ルーヴェンスに声をかけようとしたフィクトは、かばんの中をさぐる彼の様子がおかしいことに気がついた。

「師匠、どうかしましたか」

 ルーヴェンスは、フィクトに声をかけられたことにも気づいていない様子で、かばんをひっくり返した。メモ用に切りそろえられた紙の束、教員証、筆記用具等が、ばらばらと床に散らばる。その内容を確かめたうえで、ルーヴェンスの両手がかばんで埋まっているのを見たフィクトは、目の前の事実に血の気が引いていくのを感じた。
 発表資料をかばんに入れたことは間違いない。それは、出発する際に何度も確認したことであったし、フィクトも確かに見たのだ。それなのに、用意したはずの発表資料がどこにもないのだ。

 ルーヴェンスの様子がおかしいことに気づいた周囲がざわつきはじめる。ルーヴェンスを気遣う声もあったが、それ以上に、ルーヴェンスの失態を期待するささやきが聞こえていた。

「――おやおや、ルーヴェンス大先生。ご発表なさるのでは?」

 空になったかばんを見つめていたルーヴェンスに、ふと声がかかった。聞き覚えのある、軽薄で、媚びるような話し方――フィクトは、自分の中にあった〈嫌な予感〉が、ついに正体を現すのを感じた。声のした方を見やったルーヴェンスの横顔が、苦々しげに歪む。

「……エドマンド」

「あなたほどの大先生に覚えていただけていたなんて、いやはや、光栄ですな」

 声の主――エドマンドは、ホールの前方、演台のすぐそばの席に陣取っていた。覚えめでたく光栄も何も、彼とルーヴェンスとは先ほど言葉を交わし、互いの認識を確かめ合ったばかりだ。だが、向こうはあくまで、ルーヴェンスとの距離を〈適切に〉保つつもりであるらしい。
 聴衆の代表にでもなったかのように立ち上がったエドマンドは、やや演技がかった口調でルーヴェンスを追い詰める。

「さあ、早く演壇へどうぞ。あなたのご発表を皆待ち焦がれていたんですよ。もちろん、この私も。おや、どうしてそうやって突っ立っているんです。もしや〈お忘れ物〉ですか? 期待しておりましたので残念ではありますが……さすがの大先生でも、いつでも偉大なるご研究を、というわけにはいきませんでしょう」

 エドマンドの言葉に、聴衆から失笑がもれる。
 〈俺を侮辱してくれた報い、楽しみにしているといい〉――先ほどすれ違った時、エドマンドは確かにそう言った。それなら、これは間違いなく彼のしわざだろう。ルーヴェンスは、はっとしたようにエドマンドを睨みつけると、つかつかと彼に歩み寄っていく。フィクトが止めに入ろうとするも遅く、ルーヴェンスは乱暴にエドマンドのかばんの中身をぶちまけると、その中身を改めはじめた。

 ホール外での師弟とのやりとりからして、ルーヴェンスの発表資料を盗んだ者がいるとすれば、エドマンドに間違いない。だが、だからこそ彼が自らそれを明かすはずがないのだ。はいつくばるようにしてエドマンドの荷物の中身を確かめたルーヴェンスの顔は、フィクトの方からはうかがえない。だが、ルーヴェンスの絶望的なつぶやきは、フィクトの耳にも届いていた。〈ない〉、と。

「ああ、かわいそうなルーヴェンス先生! そうまでして、ご自身の才能の終わりを認めたくなかったのですね……。いえ、誰もあなたを責めたりはいたしませんよ。先生だって、我々と同じ人間なのですから。そうでしょう?」

 エドマンドが、勝ち誇ったようにルーヴェンスを見下ろす。対するルーヴェンスは、エドマンドに言葉を返すこともできずに黙り込んでいた。ルーヴェンスの性格をよく知っているフィクトには、今の彼の気持ちが痛いほどにわかる。

 フィクトは、ざわつきを増したホールを駆け足に下り、ルーヴェンスの元に駆け寄った。しかし、ルーヴェンスは呆然としたまま、何度呼びかけても反応を返さない。フィクトは唇を噛み、脱力しきっていた師の手を取って、ホールから逃れ出た。背中に突き刺さる嘲笑の中、ルーヴェンスがどんな表情をしているのか、フィクトにはわからなかった。それを見てしまえば、足を止めてしまいそうに思えた。
 今はとにかく、ルーヴェンスを人のいない場所に連れていってやらなくてはならない。二人は押し黙ったまま、フィーエル校を後にした。
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