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第八話 本当の名前
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翌朝、キーリは、目を覚ましてすぐにキャラバン一行のもとに向かった。
幸いにもキャラバンはまだ解散しておらず、同行していた者たちをさがすのはむずかしくなかった。キーリは倉庫街を探し回り、休憩を取っていたフリッツを見つけると、彼にかけ寄った。
「いっしょに、博物館に連れていって! お願い!」
キーリのおかしな頼みに、フリッツは目をしばたたいた。
昼の博物館に入る方法はないかとユエンに聞いたところ、素性のはっきりしたおとなとキーリだけならだいじょうぶなはずだ、という答えが返ってきた。そこで、キーリのまわりで、もっとも頼み事をしやすい〈素性のはっきりしたおとな〉であるフリッツに頼むことにしたのだ。
バードであるユエンの事情に気づいたフリッツは、キーリの頼みを二つ返事で引き受けてくれた。キーリは、フリッツの仕事が終わる昼過ぎまで彼を待ってから、彼とともに、博物館に向かうことになった。
そうして訪れた昼の博物館は、夜のときとはだいぶ印象が違って見えた。
きれいな石や、いろいろな刺繍が施された布、古い本などの収集物が解説付きで展示されており、それらを見たキーリは、当初の目的を忘れて夢中になってしまった。
中でも驚かされたのは、天井の空間を広く使った、巨大なムカデの生体展示だった。天井の透明な板越しに、黒光りするムカデが、ぬらりと頭上を横切っていくのだ。
ムカデが透明な板を踏むたびに、カツカツと金属質な音がする。もし、あの透明な板が割れてしまったら……恐ろしい想像をして、キーリは思わず首をすくめた。
キーリには人間の使う文字がほとんど読めなかったが、ときどき、フリッツが解説文を読み上げてくれた。そんなフリッツの方も、文字の読み書きはあまり得意ではないらしいが、多少読めるというだけで、キーリは彼がうらやましかった。
フリッツは、この博物館の起こりを記したプレートも読み上げてくれた。それによると、めずらしいものを集めるのが好きなこの町の長が、少しの税金と、多くの私財を投じて、収集物の展示場として作ったのがこの博物館なのだそうだ。
キーリは、博物館という施設がとても気に入った。けれども、そんな気持ちも、しっぽの展示室に入ったとたん、しぼんでしまった。〈しっぽ人〉を知るフリッツも、しっぽの展示室には、いやな顔をした。
ユエンのしっぽは、この展示室の中で、もっとも目立つ場所に飾られている。キーリは、昨晩ユエンが見ていた展示ケースをのぞきこんだ。
ユエンのしっぽは、長老のものとよく似て、青みがかった灰色をした長毛のしっぽだった。そういえば、ユエンは長老のことを父と言っていた。長老の息子であり、こんなにすばらしいしっぽを持っていたのだから、本来なら、いずれは彼が村を治めることになっていたかもしれない。
キーリの隣で、観覧客たちがユエンのしっぽを見つめている。彼らの〈しっぽの生えた人間だって〉〈変なの〉というやりとりを聞いたキーリは、言葉にならない、もやもやとした気持ちがわいてくるのを感じた。
「このしっぽが飾られてるってことは、しっぽを切り落とされた〈しっぽ人〉がいるってことだろ。許せないよな」
ユエンが〈しっぽ人〉であることを知らないはずのフリッツの声色には、怒りの色がにじんでいた。フリッツのこの態度に、この人なら信じてもいいという確信を得たキーリは、自分の計画を彼に打ち明けることにした。
「フリッツさん。ちょっと、手伝ってほしいことがあるんだ」
◆
キーリが博物館から戻ってきたのは、日暮れごろのことだった。フリッツとともに、閉館ぎりぎりの時間まで博物館内を歩き回っていたためだ。
もちろんそれは、ただの興味からではない。キーリは、フリッツの手を借りて、博物館内の地図を書いていたのだ。できあがった地図には、高さが足りず、かくれられそうにない展示台や、逆にかくれるのにふさわしいと思われる展示台、灯火の位置、大まかな展示物の位置などが、こと細かに記してある。
宿で待っていたユエンは、キーリの作った地図を見て、とてもおどろいたようだった。とはいえ、そのおどろきは、キーリの功績だけに向けられたものではなかった。
「キーリ、これはどういうつもりだ?」
ユエンは、とがめるような口調で言った。
キーリは、ユエンに〈フリッツさんと出かけてくる〉とだけ言って、宿を出ていた。それは、地図を作るために博物館に行くだなんて言えば、ユエンに止められることがわかっていたからだ。
ユエンは、自分のしっぽがそこにあるとわかっているのに、取りもどす気がないようだった。キーリには、そんな彼の方こそ、ふしぎでならなかった。
「ユエンのしっぽを取り返しに行くんだ」
「ダメだ。昨晩しのびこんだせいで、見回りだって増えているはずだ。私ならまだいいけれど、もし君が彼らに顔を見られでもしたら……最悪、追われる身になる可能性もある。東を目指すどころじゃなくなるんだ」
〈東を目指すどころじゃなくなる〉――ユエンの強い言葉に、キーリは迷った。
これまで、どんなにつらいときにも、ナヴァドゥルールのように東を目指すことへのあこがれが、キーリを支えてくれた。それがなくなってしまうなんて、想像もできない。あこがれは、キーリの心の一部なのだ。それこそ、しっぽのように。
キーリは、はっとした。ユエンはきっと、ただ体の一部を失ったわけではない。〈しっぽ人〉だった彼もまた、しっぽを失うことで、心の一部も同時に失ったに違いないのだ。
ユエンはキーリの肩をつかみ、抑えた調子で語りかける。
「よくお聞き、キーリ。わかっていないかもしれないけれど、しっぽを取りもどしたところで、体にくっつけられるわけじゃないんだよ。私は〈しっぽ人〉にはもどれない。それなのに、君の人生をかける価値があるのかい?」
「あるよ!」
キーリは、大きな声を出してしまったことに、自分でびっくりしてしまった。ひるんだ一方で、ユエンのしっぽを取りもどすためなら、大事にしてきたあこがれを差し出してもいいと思う気持ちは本物だった。
「ぼくは、ユエンのしっぽが見世物にされるのもいやだし、それを見た人たちが勝手なことを言うのもいやだ。ぼくは〈しっぽ人〉だし、ユエンの友だちだから」
キーリはそう口にして、ようやく、ユエンのしっぽを前にしたときの、もやもやとした気持ちの正体に気がついた。キーリは、しっぽがあんなふうに扱われることに、怒っていたのだ。
ユエンは、困ったように頭をかいた。
「まいったな、友だちか。私たちは、友だちだったかな」
「〈ティルキィーリリ〉。生まれたときに授かった、ぼくの本当の名前」
キーリのこの言葉に、ユエンの表情が変わった。
〈しっぽ人〉の本当の名前は、本人と、名付け親である長老しか知らないのがふつうだ。キーリは、その大切な名前を、ユエンに明かしたのだ。それだけ、キーリは本気なのだった。
呆けたようにキーリを見つめていたユエンだったが、キーリの方に引く気がないことを悟ったのか、あきらめたようにこう言った。
「……わかったよ、キーリ。作戦を聞かせてくれ」
キーリは、うれしくなって大きくうなずいた。そこから、二人の作戦会議がはじまった。
◆
夜を待って、キーリとユエンは、ふたたび博物館にしのびこんだ。できる限り姿が隠れるようにと、二人ともマントで全身をおおって、フードを深くかぶっている。ユエンの方は、展示ケースを壊すため、手斧を持っていた。
地図の上で考え出した最短のルートでしっぽの展示室に向かい、ユエンのしっぽを盗み出す――この作戦は、単純ではあるが、簡単ではなかった。なにしろ、前日にもしのびこんだせいで、見回りの警備兵が増やされている可能性が高いからだ。
裏口から侵入し、そっと展示エリアの通路をのぞきこんだキーリは、違和感を覚えた。見回りの警備兵が増えるどころか、館内には、まったくひと気がない。
「見回りの人間、いないね。どうしたんだろう」
「妙だけれど、こちらとしては好都合だ。このすきに、しっぽを取り返そう」
ユエンはそう言うと、灯火のおかげでじゅうぶんに明るい通路に足を踏み入れる。暗くて手元が見えなかったときのために、ユエンはキーリの地図を覚えてきていた。見つかるおそれがないのであれば、すぐに展示室までたどり着けるだろう。
ふと、どこからか、金属で床をたたいているような音がした。キーリはこの音に聞き覚えがある気がしたが、それがなんの音なのか、思い出せなかった。音が脅威でないと判断したユエンは警戒をといて、まっすぐにしっぽの展示室へと向かう。
ユエンのあとを追おうとしたキーリは、じゃりじゃりしたものを踏んだ感触に立ち止まった。足もとの暗がりを見れば、何か、光沢のあるものが散らばっている。ガラスの破片だろうか?
キーリは「何かがおかしい」と思ったが、立ち止まっている暇も、天井を見上げるだけの余裕もなかった。
ユエンは、先にしっぽの展示室にたどり着いていた。ユエンのしっぽは、変わらず展示ケースの中に横たわっている。青みがかった灰色のしっぽを前にしたユエンは、展示ケースを壊そうとして、どうしてか、ためらいを見せた。
キーリはユエンのそばに歩み寄り、控えめに声をかける。
「どうしたの、ユエン?」
「こわいんだ。今になって……自分のしっぽをさわるのが、こわい。もし自分のしっぽが冷たかったら、かたかったら……。自分のしっぽを取りもどすどころか、自分のしっぽが二度ともどらないのだと思い知らされるだけかもしれない」
ユエンは、片手でにぎっていた手斧を、両手で持ち直した。彼の手は、手斧を取り落とさないのがふしぎなほどにふるえていた。
「自分のしっぽを手に取って、それでも自分が〈しっぽ人〉なのか人間なのかわからなかったら、私はこの先も、どっちつかずでいなければならないような気がする。死ぬまで、ずっと!」
ユエンは、激しい衝動をぶつけるように、さけびとともに展示ケースをたたき割った。ガラスの破片があたりに飛び散り、透明な音をたてる。力の抜けたユエンの手から、手斧がすべり落ちた。
ユエンがうしなったしっぽは、いまや、ユエンのふれられるところにあった。だが、ユエンの手はふるえるばかりで、しっぽにふれようとはしない。
「ユエン、だいじょうぶだよ。しっぽは、ぼくたちをうらぎったりしない。ユエンといっしょに生きたしっぽが、ユエンのことを傷つけるはずない。ユエンの心の一部なんだから」
キーリのはげましに、ユエンの腕が、少しだけ持ち上がった。
しっぽをなくしたユエンがどんな苦しみとともに生きてきたのか、キーリにはわからない。だが、しっぽをうしなった〈しっぽ人〉は〈しっぽ人〉なのかという、同じ〈しっぽ人〉であるキーリにも答えが出せないような問いに立ち向かい続けてきたことは間違いない。
しっぽをうしない、人間のような体になって、故郷を追われた彼にとって、目の前のしっぽは、彼がなくした希望そのものだ。希望の抜けがらにふれることがユエンにとってどれほど重大な意味を持っているのか、キーリには想像もつかなかった。
ユエンは、ずいぶん長い間、自分のしっぽと向き合っていた。もうユエンの心にしたがって動くこともないしっぽは、それでも、ユエンにふれられるのをじっと待っているようだった。
とうとう、ユエンがしっぽに手を伸ばしたとき。展示室の外から、先ほどと同じ、金属質な音が、つらなって聞こえてきた。カツ、カツカツ……。ユエンは、しっぽに集中していて、音に気づいていないらしい。
どこで聞いたのかは思い出せないが、この音を聞いていると、なんだかいやな気持ちになる。音の源を探して、あたりを見回していたキーリは、天井を見上げて息をのんだ。
天井の限られた空間をつかって生体展示されていたはずの大ムカデが、天井からかべにかけてはりつき、じっと、キーリたちの方をうかがっている。長く伸びた触角が、ユエンの背中に軽く触れる。
キーリの頭のなかに、先ほど入口あたりで踏みつけた、ガラス片らしきもののことがよみがえった。あれは、割れた天井板だったのだ。
「ユエン、あぶないっ!」
キーリは、大ムカデがユエンを狙っているのに気がついて、ユエンに飛びかかった。その直後、ユエンがいた場所に、大ムカデの巨大な頭が振り下ろされる。
もつれあって転がった拍子に、手斧は少し離れた場所に飛んで行ってしまった。ユエンは切羽詰まったまなざしでキーリを見て、続けて手斧、そして最後にしっぽの方へと、素早く視線を移した。
大ムカデの突進によって、いくつかの展示台は壊れてしまっていたが、幸いにも、ユエンのしっぽは無事だった。ユエンは、覚悟を決めたようすでしっぽをつかみ取ると、もう片方の手でキーリの手を引いて、しっぽの展示室を飛び出した。
大ムカデは、黒々とした巨大な体を光らせながら廊下の壁を這い、二人を追ってきた。カツカツカツ……。たくさんの足がせわしなく音を立て、二人を追い立てる。
「さっき通ってきた道を戻ろう! 一番早く博物館を出られるはず――」
そう言ったユエンの前に、天井から大ムカデが回り込む。触角にぞわりと撫でられた二人は、やむなく方向を変えた。
キーリの作った地図にしたがって、行き止まりを避けて逃げ回るさなか、むごい姿になった警備兵を何人も見かけた。大ムカデの「食べ残し」だ――キーリは血の気が引いて、つまづきそうになった。そのたび、ユエンが強く手を引いて、キーリを支えてくれた。
「はあ、はあ……。たっぷり食っただろうに、まだ腹が空いているのか……! なんとか気を引いて、出口までの道を開かないと」
いよいよ息を切らしたユエンが、苦々しくつぶやいた。武器になりそうな手斧は展示室に捨ててきてしまったため、今のユエンが持っているのは、しっぽのはく製だけだ。
そうだ、〈名付け〉の力があるじゃないか。思い立ったキーリは、ユエンの手を解いて、向かってくる大ムカデをにらみつけた。
〈名付け〉を使えるくらい集中してしまえば、逃げることはできなくなる。機会は一度きり。キーリはほんの一瞬、目を閉じて、心を研ぎ澄ました。
「おまえは芋虫! のろのろと動く、青い葉っぱが大好きな芋虫だ!」
キーリの言葉に、大ムカデがびくっと反応した。しめたと思ったキーリが表情をゆるめた、次の瞬間。大ムカデは、〈芋虫〉になることなく、これまで通りの勢いで、キーリにおそいかかってきた。
〈名付け〉の力がはたらかなかった? キーリがそう気づいたときには、すでに、刃物のようにとがった大ムカデの顎肢が、キーリを抱きすくめようとしていた。
「キーリ!」
ユエンの声とともに、キーリと大ムカデの目の前を、白っぽいものが通りすぎていく。それは大ムカデの触角にぶつかり、彼の注意を強く引き付けた。大ムカデがそちらに気を取られているすきに、ユエンは、キーリを大ムカデの前から引っ張り出した。
二人はそのまま、頭の中の地図をたどり、博物館の裏口を目指した。しっぽのことなど忘れて、ただ、大ムカデに追いつかれないことを祈りながら、力のかぎり走った。
◆
裏口にたどり着いたころには、二人とも、緊張とつかれでへとへとになっていた。博物館を出て、冷たい外の空気をあびたキーリは、ユエンがしっぽのはく製を持っていないことに気がついた。
「ユエン、しっぽはどうしたの?」
「腹をすかせたあいつにあげてしまったよ」
そう答えたユエンは、泣き出しそうな顔をしていた。
キーリが〈名付け〉に失敗して大ムカデにつかまりかけたとき、ユエンは、自分のしっぽを大ムカデに投げつけてキーリを助け出したのだ。キーリを助けるために、ユエンは、大事なしっぽを大ムカデにやってしまったのだった。
しっぽは今ごろ、大ムカデに食べられるか、踏み潰されるかして、粉々になってしまっていることだろう。
ユエン自身以上にユエンのしっぽを取り戻したいと思っていたキーリは、自分のせいでユエンのしっぽがなくなってしまったのがくやしくて、涙をこぼした。
「ごめんなさい、ユエン。ぼくの〈名付け〉がへただったから、ユエンの大切なしっぽ、なくなっちゃった。せっかく取り戻せたしっぽだったのに……」
「いいや、キーリ。君のせいじゃないさ。あの大ムカデに〈名付け〉が通じなかったのは、しかたのないことなんだ」
ユエンはそう言うと、キーリの頭をなでてくれた。月光の下、宙を見つめるユエンは、なんだか神秘的に見える。
「ほら、〈しっぽ人〉には、知恵のあるものに〈名付け〉の力を使ってはいけない、というおきてがあるだろう? このおきては本来、『人に向けて〈名付け〉の力を使ってはいけない』というものだった。それが変化して、今の形になったんだ。そして、もともとのおきてがさだめられたのには、ちゃんとした理由がある」
ユエンは言葉を切り、歩き出した。
態度には出さないものの、しっぽをうしなったこの博物館から、早くはなれたいのかもしれない。キーリはそんなことを思いながら、そっとユエンの背に寄り添う。
「人が人に向かって〈名付け〉を行おうとしても、相手にはなんの効果もないんだ。けれど、〈名付け〉をした方は、呪い返しを受けて、〈名付け〉の力が使えなくなってしまう。同時に、〈名付け〉を行うのに必要な、本当の名前を思い出せなくなってしまうのさ。あの大ムカデは、人を食らっていた。だから〈名付け〉がきかなかったんだ。……キーリ、君は呪い返しを受けてしまったはずだ。自分の本当の名前を思い出せるかい?」
キーリは、自分の本当の名前を思い出そうとした。けれども、ユエンの言うとおり、思い出せなくなってしまっていた。とまどうキーリに、ユエンが振り返り、ほほえみかけた。
「君が私を信じて名を明かしてくれていて、よかったよ。他者から本当の名前で呼びかけられたとき、返された呪いは解けるのだから。〈ティルキィーリリ〉」
〈ティルキィーリリ〉。その名前は、心にもしっぽにも、しっくりとなじんだ。
キーリは、ユエンと自分とが、しっぽでつながっているのを感じた。ユエンは目に見えるしっぽをうしなったかもしれないが、今の彼の背には、目に見えない尊いしっぽがのびている。キーリには、ふしぎとそれがわかるのだった。
幸いにもキャラバンはまだ解散しておらず、同行していた者たちをさがすのはむずかしくなかった。キーリは倉庫街を探し回り、休憩を取っていたフリッツを見つけると、彼にかけ寄った。
「いっしょに、博物館に連れていって! お願い!」
キーリのおかしな頼みに、フリッツは目をしばたたいた。
昼の博物館に入る方法はないかとユエンに聞いたところ、素性のはっきりしたおとなとキーリだけならだいじょうぶなはずだ、という答えが返ってきた。そこで、キーリのまわりで、もっとも頼み事をしやすい〈素性のはっきりしたおとな〉であるフリッツに頼むことにしたのだ。
バードであるユエンの事情に気づいたフリッツは、キーリの頼みを二つ返事で引き受けてくれた。キーリは、フリッツの仕事が終わる昼過ぎまで彼を待ってから、彼とともに、博物館に向かうことになった。
そうして訪れた昼の博物館は、夜のときとはだいぶ印象が違って見えた。
きれいな石や、いろいろな刺繍が施された布、古い本などの収集物が解説付きで展示されており、それらを見たキーリは、当初の目的を忘れて夢中になってしまった。
中でも驚かされたのは、天井の空間を広く使った、巨大なムカデの生体展示だった。天井の透明な板越しに、黒光りするムカデが、ぬらりと頭上を横切っていくのだ。
ムカデが透明な板を踏むたびに、カツカツと金属質な音がする。もし、あの透明な板が割れてしまったら……恐ろしい想像をして、キーリは思わず首をすくめた。
キーリには人間の使う文字がほとんど読めなかったが、ときどき、フリッツが解説文を読み上げてくれた。そんなフリッツの方も、文字の読み書きはあまり得意ではないらしいが、多少読めるというだけで、キーリは彼がうらやましかった。
フリッツは、この博物館の起こりを記したプレートも読み上げてくれた。それによると、めずらしいものを集めるのが好きなこの町の長が、少しの税金と、多くの私財を投じて、収集物の展示場として作ったのがこの博物館なのだそうだ。
キーリは、博物館という施設がとても気に入った。けれども、そんな気持ちも、しっぽの展示室に入ったとたん、しぼんでしまった。〈しっぽ人〉を知るフリッツも、しっぽの展示室には、いやな顔をした。
ユエンのしっぽは、この展示室の中で、もっとも目立つ場所に飾られている。キーリは、昨晩ユエンが見ていた展示ケースをのぞきこんだ。
ユエンのしっぽは、長老のものとよく似て、青みがかった灰色をした長毛のしっぽだった。そういえば、ユエンは長老のことを父と言っていた。長老の息子であり、こんなにすばらしいしっぽを持っていたのだから、本来なら、いずれは彼が村を治めることになっていたかもしれない。
キーリの隣で、観覧客たちがユエンのしっぽを見つめている。彼らの〈しっぽの生えた人間だって〉〈変なの〉というやりとりを聞いたキーリは、言葉にならない、もやもやとした気持ちがわいてくるのを感じた。
「このしっぽが飾られてるってことは、しっぽを切り落とされた〈しっぽ人〉がいるってことだろ。許せないよな」
ユエンが〈しっぽ人〉であることを知らないはずのフリッツの声色には、怒りの色がにじんでいた。フリッツのこの態度に、この人なら信じてもいいという確信を得たキーリは、自分の計画を彼に打ち明けることにした。
「フリッツさん。ちょっと、手伝ってほしいことがあるんだ」
◆
キーリが博物館から戻ってきたのは、日暮れごろのことだった。フリッツとともに、閉館ぎりぎりの時間まで博物館内を歩き回っていたためだ。
もちろんそれは、ただの興味からではない。キーリは、フリッツの手を借りて、博物館内の地図を書いていたのだ。できあがった地図には、高さが足りず、かくれられそうにない展示台や、逆にかくれるのにふさわしいと思われる展示台、灯火の位置、大まかな展示物の位置などが、こと細かに記してある。
宿で待っていたユエンは、キーリの作った地図を見て、とてもおどろいたようだった。とはいえ、そのおどろきは、キーリの功績だけに向けられたものではなかった。
「キーリ、これはどういうつもりだ?」
ユエンは、とがめるような口調で言った。
キーリは、ユエンに〈フリッツさんと出かけてくる〉とだけ言って、宿を出ていた。それは、地図を作るために博物館に行くだなんて言えば、ユエンに止められることがわかっていたからだ。
ユエンは、自分のしっぽがそこにあるとわかっているのに、取りもどす気がないようだった。キーリには、そんな彼の方こそ、ふしぎでならなかった。
「ユエンのしっぽを取り返しに行くんだ」
「ダメだ。昨晩しのびこんだせいで、見回りだって増えているはずだ。私ならまだいいけれど、もし君が彼らに顔を見られでもしたら……最悪、追われる身になる可能性もある。東を目指すどころじゃなくなるんだ」
〈東を目指すどころじゃなくなる〉――ユエンの強い言葉に、キーリは迷った。
これまで、どんなにつらいときにも、ナヴァドゥルールのように東を目指すことへのあこがれが、キーリを支えてくれた。それがなくなってしまうなんて、想像もできない。あこがれは、キーリの心の一部なのだ。それこそ、しっぽのように。
キーリは、はっとした。ユエンはきっと、ただ体の一部を失ったわけではない。〈しっぽ人〉だった彼もまた、しっぽを失うことで、心の一部も同時に失ったに違いないのだ。
ユエンはキーリの肩をつかみ、抑えた調子で語りかける。
「よくお聞き、キーリ。わかっていないかもしれないけれど、しっぽを取りもどしたところで、体にくっつけられるわけじゃないんだよ。私は〈しっぽ人〉にはもどれない。それなのに、君の人生をかける価値があるのかい?」
「あるよ!」
キーリは、大きな声を出してしまったことに、自分でびっくりしてしまった。ひるんだ一方で、ユエンのしっぽを取りもどすためなら、大事にしてきたあこがれを差し出してもいいと思う気持ちは本物だった。
「ぼくは、ユエンのしっぽが見世物にされるのもいやだし、それを見た人たちが勝手なことを言うのもいやだ。ぼくは〈しっぽ人〉だし、ユエンの友だちだから」
キーリはそう口にして、ようやく、ユエンのしっぽを前にしたときの、もやもやとした気持ちの正体に気がついた。キーリは、しっぽがあんなふうに扱われることに、怒っていたのだ。
ユエンは、困ったように頭をかいた。
「まいったな、友だちか。私たちは、友だちだったかな」
「〈ティルキィーリリ〉。生まれたときに授かった、ぼくの本当の名前」
キーリのこの言葉に、ユエンの表情が変わった。
〈しっぽ人〉の本当の名前は、本人と、名付け親である長老しか知らないのがふつうだ。キーリは、その大切な名前を、ユエンに明かしたのだ。それだけ、キーリは本気なのだった。
呆けたようにキーリを見つめていたユエンだったが、キーリの方に引く気がないことを悟ったのか、あきらめたようにこう言った。
「……わかったよ、キーリ。作戦を聞かせてくれ」
キーリは、うれしくなって大きくうなずいた。そこから、二人の作戦会議がはじまった。
◆
夜を待って、キーリとユエンは、ふたたび博物館にしのびこんだ。できる限り姿が隠れるようにと、二人ともマントで全身をおおって、フードを深くかぶっている。ユエンの方は、展示ケースを壊すため、手斧を持っていた。
地図の上で考え出した最短のルートでしっぽの展示室に向かい、ユエンのしっぽを盗み出す――この作戦は、単純ではあるが、簡単ではなかった。なにしろ、前日にもしのびこんだせいで、見回りの警備兵が増やされている可能性が高いからだ。
裏口から侵入し、そっと展示エリアの通路をのぞきこんだキーリは、違和感を覚えた。見回りの警備兵が増えるどころか、館内には、まったくひと気がない。
「見回りの人間、いないね。どうしたんだろう」
「妙だけれど、こちらとしては好都合だ。このすきに、しっぽを取り返そう」
ユエンはそう言うと、灯火のおかげでじゅうぶんに明るい通路に足を踏み入れる。暗くて手元が見えなかったときのために、ユエンはキーリの地図を覚えてきていた。見つかるおそれがないのであれば、すぐに展示室までたどり着けるだろう。
ふと、どこからか、金属で床をたたいているような音がした。キーリはこの音に聞き覚えがある気がしたが、それがなんの音なのか、思い出せなかった。音が脅威でないと判断したユエンは警戒をといて、まっすぐにしっぽの展示室へと向かう。
ユエンのあとを追おうとしたキーリは、じゃりじゃりしたものを踏んだ感触に立ち止まった。足もとの暗がりを見れば、何か、光沢のあるものが散らばっている。ガラスの破片だろうか?
キーリは「何かがおかしい」と思ったが、立ち止まっている暇も、天井を見上げるだけの余裕もなかった。
ユエンは、先にしっぽの展示室にたどり着いていた。ユエンのしっぽは、変わらず展示ケースの中に横たわっている。青みがかった灰色のしっぽを前にしたユエンは、展示ケースを壊そうとして、どうしてか、ためらいを見せた。
キーリはユエンのそばに歩み寄り、控えめに声をかける。
「どうしたの、ユエン?」
「こわいんだ。今になって……自分のしっぽをさわるのが、こわい。もし自分のしっぽが冷たかったら、かたかったら……。自分のしっぽを取りもどすどころか、自分のしっぽが二度ともどらないのだと思い知らされるだけかもしれない」
ユエンは、片手でにぎっていた手斧を、両手で持ち直した。彼の手は、手斧を取り落とさないのがふしぎなほどにふるえていた。
「自分のしっぽを手に取って、それでも自分が〈しっぽ人〉なのか人間なのかわからなかったら、私はこの先も、どっちつかずでいなければならないような気がする。死ぬまで、ずっと!」
ユエンは、激しい衝動をぶつけるように、さけびとともに展示ケースをたたき割った。ガラスの破片があたりに飛び散り、透明な音をたてる。力の抜けたユエンの手から、手斧がすべり落ちた。
ユエンがうしなったしっぽは、いまや、ユエンのふれられるところにあった。だが、ユエンの手はふるえるばかりで、しっぽにふれようとはしない。
「ユエン、だいじょうぶだよ。しっぽは、ぼくたちをうらぎったりしない。ユエンといっしょに生きたしっぽが、ユエンのことを傷つけるはずない。ユエンの心の一部なんだから」
キーリのはげましに、ユエンの腕が、少しだけ持ち上がった。
しっぽをなくしたユエンがどんな苦しみとともに生きてきたのか、キーリにはわからない。だが、しっぽをうしなった〈しっぽ人〉は〈しっぽ人〉なのかという、同じ〈しっぽ人〉であるキーリにも答えが出せないような問いに立ち向かい続けてきたことは間違いない。
しっぽをうしない、人間のような体になって、故郷を追われた彼にとって、目の前のしっぽは、彼がなくした希望そのものだ。希望の抜けがらにふれることがユエンにとってどれほど重大な意味を持っているのか、キーリには想像もつかなかった。
ユエンは、ずいぶん長い間、自分のしっぽと向き合っていた。もうユエンの心にしたがって動くこともないしっぽは、それでも、ユエンにふれられるのをじっと待っているようだった。
とうとう、ユエンがしっぽに手を伸ばしたとき。展示室の外から、先ほどと同じ、金属質な音が、つらなって聞こえてきた。カツ、カツカツ……。ユエンは、しっぽに集中していて、音に気づいていないらしい。
どこで聞いたのかは思い出せないが、この音を聞いていると、なんだかいやな気持ちになる。音の源を探して、あたりを見回していたキーリは、天井を見上げて息をのんだ。
天井の限られた空間をつかって生体展示されていたはずの大ムカデが、天井からかべにかけてはりつき、じっと、キーリたちの方をうかがっている。長く伸びた触角が、ユエンの背中に軽く触れる。
キーリの頭のなかに、先ほど入口あたりで踏みつけた、ガラス片らしきもののことがよみがえった。あれは、割れた天井板だったのだ。
「ユエン、あぶないっ!」
キーリは、大ムカデがユエンを狙っているのに気がついて、ユエンに飛びかかった。その直後、ユエンがいた場所に、大ムカデの巨大な頭が振り下ろされる。
もつれあって転がった拍子に、手斧は少し離れた場所に飛んで行ってしまった。ユエンは切羽詰まったまなざしでキーリを見て、続けて手斧、そして最後にしっぽの方へと、素早く視線を移した。
大ムカデの突進によって、いくつかの展示台は壊れてしまっていたが、幸いにも、ユエンのしっぽは無事だった。ユエンは、覚悟を決めたようすでしっぽをつかみ取ると、もう片方の手でキーリの手を引いて、しっぽの展示室を飛び出した。
大ムカデは、黒々とした巨大な体を光らせながら廊下の壁を這い、二人を追ってきた。カツカツカツ……。たくさんの足がせわしなく音を立て、二人を追い立てる。
「さっき通ってきた道を戻ろう! 一番早く博物館を出られるはず――」
そう言ったユエンの前に、天井から大ムカデが回り込む。触角にぞわりと撫でられた二人は、やむなく方向を変えた。
キーリの作った地図にしたがって、行き止まりを避けて逃げ回るさなか、むごい姿になった警備兵を何人も見かけた。大ムカデの「食べ残し」だ――キーリは血の気が引いて、つまづきそうになった。そのたび、ユエンが強く手を引いて、キーリを支えてくれた。
「はあ、はあ……。たっぷり食っただろうに、まだ腹が空いているのか……! なんとか気を引いて、出口までの道を開かないと」
いよいよ息を切らしたユエンが、苦々しくつぶやいた。武器になりそうな手斧は展示室に捨ててきてしまったため、今のユエンが持っているのは、しっぽのはく製だけだ。
そうだ、〈名付け〉の力があるじゃないか。思い立ったキーリは、ユエンの手を解いて、向かってくる大ムカデをにらみつけた。
〈名付け〉を使えるくらい集中してしまえば、逃げることはできなくなる。機会は一度きり。キーリはほんの一瞬、目を閉じて、心を研ぎ澄ました。
「おまえは芋虫! のろのろと動く、青い葉っぱが大好きな芋虫だ!」
キーリの言葉に、大ムカデがびくっと反応した。しめたと思ったキーリが表情をゆるめた、次の瞬間。大ムカデは、〈芋虫〉になることなく、これまで通りの勢いで、キーリにおそいかかってきた。
〈名付け〉の力がはたらかなかった? キーリがそう気づいたときには、すでに、刃物のようにとがった大ムカデの顎肢が、キーリを抱きすくめようとしていた。
「キーリ!」
ユエンの声とともに、キーリと大ムカデの目の前を、白っぽいものが通りすぎていく。それは大ムカデの触角にぶつかり、彼の注意を強く引き付けた。大ムカデがそちらに気を取られているすきに、ユエンは、キーリを大ムカデの前から引っ張り出した。
二人はそのまま、頭の中の地図をたどり、博物館の裏口を目指した。しっぽのことなど忘れて、ただ、大ムカデに追いつかれないことを祈りながら、力のかぎり走った。
◆
裏口にたどり着いたころには、二人とも、緊張とつかれでへとへとになっていた。博物館を出て、冷たい外の空気をあびたキーリは、ユエンがしっぽのはく製を持っていないことに気がついた。
「ユエン、しっぽはどうしたの?」
「腹をすかせたあいつにあげてしまったよ」
そう答えたユエンは、泣き出しそうな顔をしていた。
キーリが〈名付け〉に失敗して大ムカデにつかまりかけたとき、ユエンは、自分のしっぽを大ムカデに投げつけてキーリを助け出したのだ。キーリを助けるために、ユエンは、大事なしっぽを大ムカデにやってしまったのだった。
しっぽは今ごろ、大ムカデに食べられるか、踏み潰されるかして、粉々になってしまっていることだろう。
ユエン自身以上にユエンのしっぽを取り戻したいと思っていたキーリは、自分のせいでユエンのしっぽがなくなってしまったのがくやしくて、涙をこぼした。
「ごめんなさい、ユエン。ぼくの〈名付け〉がへただったから、ユエンの大切なしっぽ、なくなっちゃった。せっかく取り戻せたしっぽだったのに……」
「いいや、キーリ。君のせいじゃないさ。あの大ムカデに〈名付け〉が通じなかったのは、しかたのないことなんだ」
ユエンはそう言うと、キーリの頭をなでてくれた。月光の下、宙を見つめるユエンは、なんだか神秘的に見える。
「ほら、〈しっぽ人〉には、知恵のあるものに〈名付け〉の力を使ってはいけない、というおきてがあるだろう? このおきては本来、『人に向けて〈名付け〉の力を使ってはいけない』というものだった。それが変化して、今の形になったんだ。そして、もともとのおきてがさだめられたのには、ちゃんとした理由がある」
ユエンは言葉を切り、歩き出した。
態度には出さないものの、しっぽをうしなったこの博物館から、早くはなれたいのかもしれない。キーリはそんなことを思いながら、そっとユエンの背に寄り添う。
「人が人に向かって〈名付け〉を行おうとしても、相手にはなんの効果もないんだ。けれど、〈名付け〉をした方は、呪い返しを受けて、〈名付け〉の力が使えなくなってしまう。同時に、〈名付け〉を行うのに必要な、本当の名前を思い出せなくなってしまうのさ。あの大ムカデは、人を食らっていた。だから〈名付け〉がきかなかったんだ。……キーリ、君は呪い返しを受けてしまったはずだ。自分の本当の名前を思い出せるかい?」
キーリは、自分の本当の名前を思い出そうとした。けれども、ユエンの言うとおり、思い出せなくなってしまっていた。とまどうキーリに、ユエンが振り返り、ほほえみかけた。
「君が私を信じて名を明かしてくれていて、よかったよ。他者から本当の名前で呼びかけられたとき、返された呪いは解けるのだから。〈ティルキィーリリ〉」
〈ティルキィーリリ〉。その名前は、心にもしっぽにも、しっくりとなじんだ。
キーリは、ユエンと自分とが、しっぽでつながっているのを感じた。ユエンは目に見えるしっぽをうしなったかもしれないが、今の彼の背には、目に見えない尊いしっぽがのびている。キーリには、ふしぎとそれがわかるのだった。
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