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6章『忘却編』

105「ただの気の迷い」

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しばらくして、病室のドアが開く。

「入っていいぞ、姫木」

浅見に呼ばれて俺はゆっくりと病室に入って、思わず目を見開いてしまった。
それは、天王寺の頭に巻かれていた包帯が、すごく痛々しそうに映ったからだ。俺のせいで怪我させて、記憶まで奪ってしまった罪悪感が、一気に駆け抜けた。

「……大丈夫か」

消え入りそうな声で、俺は静かに頭を下げると謝罪をするように声をかける。

「姫木と言ったか、あまり気にせずとも良い」

大した怪我ではないと、天王寺は返事を返したが、『姫』ではなく『姫木』と呼ばれたことに俺は目を見開いてしまった。
本当に覚えていない、俺の事も忘れてしまったのだと、実感してしまったから。

「大丈夫か、姫木?」
「あ、……はい」
「尚人、姫木を見て何か思い出したか?」

浅見は、俺を見て何か思い出さないかと天王寺に質問するが、天王寺は首を左右に振った。
それを確認した浅見は、息を吐くようなため息を吐く。
姫木本人を見たら、何か思い出すんじゃないかと多少の期待をしていたからこそ、浅見は落胆を息に乗せた。

「すまない、冬至也」
「いや、無理に思い出さなくてもいい」

何かを思い出そうとすると頭痛がするのか、天王寺は片手で頭を抑える。
結局、大学のことも俺のことも思い出すことはなく、浅見が説明した情報を天王寺は不思議な表情でただ受け止めていた。
会話の途中で呼ばれる『姫木』という名は、自分の名前なのに、とても遠い存在のように感じてしまっていた。
まるで天王寺との間に大きな壁ができたように。
浅見が失った記憶を埋めるように、大学での天王寺の生活を話し終わったのは、夜を迎えた頃だった。
俺は大学でできた友人だと紹介され、火月と水月も同様に紹介してくれたが、天王寺の表情は終始穏やかなまま、結局何も思い出すことはなかった。
姫木と呼ばれることだけが、俺と天王寺との距離を感じさせていた。





病院の静かな夜のロビーは怖いくらいに冷たく、俺は隅っこに座って、送ってくれるといった浅見を待つ。
本当に俺のこと忘れちゃったんだなって、一人になってようやく実感してきた。
気を遣ってくれたのか、浅見は俺のせいで怪我をしたことは一切話さず、天王寺が自ら足を踏み外して、二人同時に落ちたと説明していた。
おそらく天王寺家の三男に怪我をさせたなんてことになったら、大騒ぎになると判断した浅見の気遣い。
だから、心配して病室を訪れた俺に対して、「迷惑をかけた」と謝罪され、俺は胸が痛んだ。
俺の知らない天王寺が、俺の知らない名前を呼ぶ。
出会う前に時が戻る。……そう、俺の名前は姫木なんだと、思い知った。

「これって、いいことなんだよな……」

呟くように吐き出した言葉は、自分を言い聞かせるため。
これで天王寺に付きまとわれることも、言い寄られることもなくなるんだから、大学ライフを充実できる。俺は存在を忘れられてしまった自分を慰めるためにそう吐き出す。
『一目惚れ』なんて、架空世界の夢物語。現に天王寺は記憶をなくし、俺への想いも忘れたじゃないか。

「ただの気の迷い、……だったんだろう」

あんな出会いだったから、なんかいろいろ勘違いして、なんだか分からないうちに、俺が好きだと誤解して、そのままズルズルと流れてしまったんだ……。
そ、そうだよ。天王寺も俺も男なんか好きになるわけないだろう。俺だって、これでキッパリ離れられるじゃないか、俺たちは出会わなかった、そうすればいいだけだろう。
全部無かったことに……。

「はぁ……、出来るわけないよな」

深い息を吐き出して、俺はがっくりと項垂れた。天王寺はすっかりさっぱり忘れられても、俺に残る記憶は消えてくれない。
しかも、俺は天王寺が好きだと認めてしまっている。すぐに忘れろと言われても無理な話なんだ。
これって失恋になるのか。
俺は先行きが全く見えない霧の中で、呆然と立ち尽くす。

「姫木」

隅っこの椅子に腰かけて項垂れていたら、浅見がやってきた。

「話、終ったんですか?」

重たい頭を持ち上げて、俺は席をたつ。

「ああ。……それより大丈夫か?」
「ちょっとショックだったかも……、あ、浅見さん!」

頑張って笑ったはずなのに、俺は浅見に抱き締められていた。

「そんな泣きそうな顔をするな」

強く胸に抱かれて、俺は自分が泣き顔だったことを知る。浅見に隠し事ができるとは思えないけど、自分では平気な振りをしてみせたつもりだった。

「な、何言ってるんですか、……俺は全然平気ってか、これでほら、天王寺に振り回されることもないし……」
「……姫木」
「あいつのわがままに付き合わなくて済むし、俺としては嬉しいことなんだからさ……」

そうだよ、俺は普通になれたんだよ、普通の大学生。あんなわがまま身勝手な奴に脅かされる日々は、ここで終わる。
そう、全部無くなる……。

「あれ……?」

嬉しいはずなのに、俺の視界は霞んで歪んだ。止まらない涙に、俺は慌てて目を閉じるが、涙は止まってくれない。

「姫木、無理をするな」

震える肩を浅見は強く抱き締めてくれる。その温かさがさらに俺の涙を誘い、俺は浅見にしがみつくように抱きついて、声を殺して泣く。
なんでこんなに悲しいんだ、なんで、なんで、涙が止まらないのか、そんなこと分かっているのに、俺はそれに気づかないように泣いた。





浅見に一つ聞き逃したことがあり、まだ間に合うかと後を追ってきた天王寺は、ロビーで抱き合う二人を目撃してしまった。
その光景を見た瞬間、胸が鷲掴みにされたように痛み、天王寺は自然と胸元を掴む。
浅見から先ほど紹介されたばかりの姫木を抱き締めている光景、ただそれだけなのに、天王寺はなぜか浅見に怒りを覚えていた。

(なんなのだ、この気持ちは……)

姫木は私の友であると聞かされた、だが、紹介された時、初対面であるのに愛しいと感じてしまった。
わからぬ、わからぬ、何故に姫木にそのような感情を抱いたのか。

(姫木は、男であるのだぞ)

天王寺は、抱き合う二人を物陰から見ながら、自身の中に生まれる矛盾を問う。
けれども、自分も浅見のように姫木を抱き締めたいと、この腕に欲しいと願っている。
なぜ?

(姫木と浅見は、よもや付き合っておるのか?)

長く抱き合う二人を見ながら、天王寺はその結論を導き出す。

(ならば、なぜ、私は姫木に触れたいなどと……)

浅見の想い人であるなら、こんな感情が生まれる理由が分からない。自分は一体どうしてしまったのかと、天王寺はロビーの影で二人の姿をただただ眺めていた。
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