上 下
1 / 1

春と娘

しおりを挟む
 魚のような雲が空に浮かんでいる。娘は足を止めて空を眺めた。透き通るような青空。日の光を浴びた雲がキラキラと泳いでいる。
さっき横切った公園から春の風が聞こえる。信号が赤から青に変わった。母は娘の手を引いて道路を渡る。途中、信号を待っている車の中に、パパにそっくりな人がいた。二人は駆け出す。母は慌てて、小石を蹴飛ばした。
「また、みんなで水族館に行きたいなあ」
 娘が寂しそうに言うと、母は少し困った顔をした。
 道端の桜が娘に笑いかける。娘は足を止める。しかし、娘はまた空を眺めた。桜は嫉妬した。だけど、母が笑いかけてくれたから、桜はうれしくなって微笑んだ。
 魚のような雲は、青空を横切るように風に乗って泳いでいた。娘は腕を竿にして、小さな身体でその魚を釣ろうとする。青空は頬っぺたを膨らまして、娘の気を引こうとした。キラッと空が光った。太陽が雲をなでつけるように優しく輝いた。まるで大きな水槽。娘はぼんやりと、楽しかった思い出を釣り上げる。キラキラ光る大きな青空。手の届かない美しい光景。たくさんの宝石のような輝き。
 まるで夢のような世界。
 娘は泣きそうになった。母はいつだって娘を心配している。どこからか風に乗って、カレーの匂い。太陽が少しずつ傾いていく。目を閉じて、少しして開けると、もう夕暮れだった。
 空がほんのりと赤みを帯びて、悲しいほど美しく見える。坂を下り、近所のファミリーレストランで少し早めの晩ご飯。
 明日は入学式だった。
 重たいドアを開ける。娘が先に入り、母が後ろを追いかけるようにドアを閉める。ふと、娘が悲しそうな顔をして、ある一点を見つめていた。母はドキッとした。ゆっくりと顔を向ける。いた。
 パパと、知らない女性。
 パパは娘に気がつくと、バツの悪そうな顔をして、一度視線を外したが、逃げられないと思ったのか、目の前の女性になにか一言二言ささやき、諦めた顔をして、再び母と娘に顔を向け、小さく手を振った。母は少し考えてから、パパに向かって、目を細め、自然な笑顔をつくった。パパの前に座っている女性は、肩をすぼめて、体を小さく折りたたむように縮めると、隠れるように、そうしてゆっくりと振り向き、二人を一瞬盗み見た。二人は、その顔を焼きつけるように、真っすぐ見つめ返した。
 テーブルに案内された二人は、放心状態。メニューを開いたり閉じたり。そのとき、はらりと一枚の紙が落ち、見ると、春メニューのキャンペーン。色とりどりのデザートのかわいらしい絵がたくさん描かれていた。
「水族館みたい」
 娘はそう言いながら、目から大きな涙をこぼした。パパと女性の帰っていく後ろ姿が遠くに見える。娘はテーブルにあった紙ナプキンを広げて、顔に押しつけた。涙がじわっと紙を濡らす。すると、紙ナプキンはまるで娘の顔をかたどったお面のようになったので、二人はそれを見て小さく笑った。
「今度、水族館行こっか」
「二人で?」
 母は答えなかった。アツアツの料理が運ばれてくる。周りにある空気がシャボン玉のように膨らんで、二人を包み込んだ。それはあたたかく、希望に満ちていた。
「いつもごめんね」
 娘は口をもぐもぐさせて頷いた。
「いつもありがとう」
 外に出ると、いつの間にか星空が広がっていた。冷たい風。二人は手を握って、寄り添った。
 春だった。空気の匂いも、風の冷たさも、星の瞬きも。二人は春の坂道をのぼる。山のてっぺんにいるお月さまが、明日の天気を低い声で教えてくれた。
「明日は、晴れ、晴れ」
 娘の歩く傍らで、闇に紛れたクローバーたちの笑い声が聞こえた。公園にいた梅の木が陽気に歌を歌う。見上げると、あ、流れ星。
 母は笑いながら、唐突に駆け出した。娘は母の後ろ姿を見つめながら、昼間見た魚の雲を思い浮かべる。
 夜空にキラキラ星が光った。
 まるで大きな水族館。
 母が振り返って大きく手を振った。
 娘もうれしくなって、走り出す。胸がドキドキした。周りにいるすべてのものが微笑んでいる気がした。ふと、パパの笑っている顔を思い出した。そうして、自分も大きく笑い返した。
 母が坂の上から娘の名前を呼んでいる。
 娘は春の夜が、少しだけ好きになった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

ショートショート「桜、それでも」

有原野分
現代文学
※2023年4月の作品です。 読んでいただけると幸いです。 いいね、スキ、フォロー、シェア、コメント、サポート、支援などしていただけるととても嬉しいです。 これからも応援よろしくお願いします。 あなたの人生の 貴重な時間をどうもありがとう。

詩「帰らぬ人」

有原野分
現代文学
※2022年9月の作品です。   読んでいただけると幸いです。 いいね、スキ、フォロー、シェア、コメント、サポート、支援などしていただけるととても嬉しいです。 これからも応援よろしくお願いします。       あなたの人生の 貴重な時間をどうもありがとう。

ショートショート「永い沈黙」

有原野分
SF
※2023年5月の作品です。 読んでいただけると幸いです。 いいね、スキ、フォロー、シェア、コメント、サポート、支援などしていただけるととても嬉しいです。 これからも応援よろしくお願いします。 あなたの人生の 貴重な時間をどうもありがとう。

詩「小さな声」

有原野分
現代文学
※2021年10月の作品です。

詩「チューリップ」

有原野分
現代文学
※2021年6月の作品です。

ショートショート「土中人間」

有原野分
SF
※2022年12月の作品です。 読んでいただけると幸いです。 いいね、スキ、フォロー、シェア、コメント、サポート、支援などしていただけるととても嬉しいです。 これからも応援よろしくお願いします。

詩「富士山」

有原野分
現代文学
※2021年8月の作品です。

詩「青春の夜」

有原野分
現代文学
※2021年7月の作品です。

処理中です...