小説「世界の割れる音」

有原野分

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世界の割れる音

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 記憶は前後するが、事故によって意識を失っていたようで、気がついたら病室のベッドの上に眠っていた。だからきっと僕は夢を見ていたんだと思う。そう、夢を――。
「目が覚めましたか」
 目の前に立っていたのは人間ではなかった。それはまるで、――ああ、まさかそんなことが――それはお金だった。
 カネ。そう、あの硬貨や紙幣のお金、英語で言うならマネー。それが僕の目の前に立って喋っているもんだから、きっとこれはまだ夢なんだと思いながら、それでも遠くからいやにリアルな救急車の音や、晩ご飯の後なのかカレーの残り香などが漂ってくると、その瞬間に夢とはまた違う世界に来てしまったではないだろうかと、ひどく不安になって、ただきょろきょろと辺りを見回すしかできなかった。
 なんの変哲もない病室。ただここがどこかは分からないし、目の前にいるお金のような化け物も、――実際にそう見えていたのだから仕方ないが――どうみても人間には見えない。
「きみは大きな手術を受けたのです」
 お金が言った。どうやら僕は不慮の事故に遭い、死にかけの状態で病院に搬送されたそうだが、体中の臓器がやられていたので、まだ臨床段階だったが可能な限りの人工臓器で命を繋いだらしい。
「脳の損傷が特にひどくてね……。今の気分はどうですか」
 僕は言った。あなたがお金に見えるのです、それも札束に、と。なにも誇張はしていない。本当にお金に見えるのだ。確かに医者と名乗るこの男は一万円の札束に見える。少なく見積もっても百万はあるだろう。それを丁寧に、また大げさに伝えると、その札束は笑いながら「ハハハ、それは結構」と言って病室を後にした。
 それから。
 私は退院した。しかし、日常は戻ってこなかった。体の具合はよかったのだが、どうも脳みそがダメになったみたいで、見る人見る人すべてがお金に見えるのだ。
 金、金、金――。生きている人間すべてが金に見える! 泣きながら抱きついてきた母親も、震える声で僕の名を呼ぶ父も、確かに思い出の中の声なのだが、見た目がやはり札束なので、どうしても人間には見えず、僕はその無機質な(実際に感触まで無機質に感じられるのだ)札束をぎゅっと抱きしめて、心の中で泣きながら、ああ、ここは僕のいた世界ではないのだ、札束が徘徊する化け物の世界なのだ、と悔しく思う日が続いた。
 ある日、母と名乗る札束が写真を持ってきたのを見て、――ああ、そこにはなんと人間の母と父が映っているではないか! 私はその写真を見つめながら、子供のように泣いて、つい衝動的に荒々しい罵詈雑言を吐き散らし、その札束の肩が震えるのを見て、後悔をして――。
 気がついたこともある。札束の人もいれば、硬貨の人もいた。また、札束も千円やら五千円やらの人もおり、束の数も人によってまちまちだった。僕ははじめそれはただのランダムなものだと思っていたのだが、どうやら適当に割り振られたわけではなく、そこには確実な意味があることが分かってきたのだ。
 自分にとって、価値があるのかないのか。
 それがすべてだった。価値がある人は一万円札の束に見えるし、価値がない人は薄汚れた硬貨に見える。だから医者は束に見えたのだろう。僕にとって命の恩人なのだから。
 僕はそれから生きるのが一気に億劫になった。価値が見える。それもお金として。それほどバカらしいものはなかったし、それほど虚しいものはなかった。ただ一つ、面白い発見もあった。お金の金額は時と場合で増減するということだ。
 しかし、ただそれだけだった。
 夜、眠るときにふと思い出す。昔懐かしい人がきちんとした人として見えていた頃を。記憶。それだけは誰にも奪われない。そうだ、思い出した。僕は実はまだ、鏡を見ていなかったんだ。鏡。それは今、僕の中のタブーだった。
 自分の価値。
 それを知った瞬間、いったい僕はどうなるのだろうか。僕は僕にとって価値があるのだろうか。ああ、怖い。例え価値があろうがなかろうが、きっと僕の世界は崩壊するだろう。価値、価値、価値――。トラウマがよみがえる。罵声。もっといい子でいなくては――、もっと勉強をしなくては――。心の奥に隠してあった感情があふれてくる。夜だ。真っ暗で、何も見えない夜が泣いている。いや、この声は僕自身の声じゃないだろうか。ああ、叩かないで、お願いだから家に入れて、父さん、どうして僕は生まれたの、母さん、どうして僕を生んだの、ああ、違う、頭が痛い、割れそうだ、割れそうなんだ……。
 おばあちゃんが好きだった。だから今夜はその夢が見たい。そう思いながら眠ったところで、きっと札束の波に飲まれるのが関の山で、僕はいつしか写真の中に真実を見出すようになり、心はカラカラに渇いていった。
 しばらくして、何気なく散歩をしているときだった。僕はつい声を上げた。人がいる! その発見は衝撃だった。人。それも女性だった。人が、人間が歩いている、微笑んでいる、紙幣でも硬貨でもない、ただの人間がまだこの世界にいたなんて!
 僕はこの奇跡に大いに喜んで、なんとか彼女に近づいて、まるで映画のように仲良くなっていき――どのぐらいの期間が経ったのだろうか――僕たちはいつしか二人だけの世界を望むようになり、誠実で美しい日々を築いていったのだ。
 ああ、愛だ!
 これほどまでに美しい響きの言葉が他にあるだろうか。僕は悟った。僕は彼女のために生まれてきたのだ、と。彼女は僕の手を握って、そうして僕たちは気がついたら愛以上の関係になっていき――。
 記憶が前後する。
 この思い出には悲しい終わりが待っていたのだ。彼女はもういない。いや、そもそもいたのかさえ分からない。なにせ僕が彼女だと思っていたものは、なんの変哲もない、手作りのバッグ――それも端切れを繋ぎ合わせたもの――だったのだ。
 言っている意味が分からない? ああ、僕もさ。人(お金)の話によると、僕はそのバッグを手に持って愛の言葉をささやいていたらしい。まさか、バッグが人に見えるなんて、しかし、現実はいつも僕を裏切る。それにしても、ああ、思い出したよ、このバッグはおばあちゃんに貰った思い出のバッグじゃないか。なんだ、そんなことも忘れていたのか、アハハハハ――。
 僕は今、鏡の前にいる。鏡。世界は終わればいい。本当に心からそう思っている。どうやら僕は迷い込んでしまったようだ。ここはお金の世界。お金が歩き、お金が喋り、お金がお金を生んで、お金がお金を働かせる。ここに僕の居場所はないし、きっと思い出だって、ここにはない。さようならだ。
 夜、僕は鏡を前に、目を開けた。





























          パリン――……












 ああ、どうかこのまま、目が覚めませんように。
 どうか天国には、お金などありませんように。
 いつか生まれ変わるなら、もう一度あの子に会えますように。
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