ショートショート「ドリル男」(第19回坊っちゃん文学賞落選)

有原野分

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ドリル男

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 ある朝、目を覚ますと右手の小指がドリルになっていた。よりによってなぜ利き手なのだろうか、せめて左手だったら――。いや、そんなことよりも重要なことがある。ドリル。右手の小指がドリルになるなんて、これはとても重大で複雑な哲学的難題で、かつ死活問題だ。
 俺はドリルをまじまじと眺めてみた。確かに金属製だ。適当にその辺の机をたたいてみるとコンコンと硬い音が響く。硬い岩石すらも軽々とえぐれるような鋭利な刃先。いったい俺はこれからどうしたらいいのだろう。
 とりあえず、回してみるしかない。なぜならドリルは回すものだから。運よく今日は有給で会社を休んでいる。もし穴を開けるのに最適な日があるとしたら、それは間違いなく今日のような日だと思う。すなわち、二日酔いで会社をさぼった日だ。
 さて、まずは目覚めのコーヒーでも飲もうか。でも、その前に。小指の付け根のあたりにギュッと力を入れてみる。他の指が動かないように、小指だけを動かす感覚で。
 回った。さすがはドリル。それはいかにもといったドリルらしい音を立てながら回転している。その勢いはすさまじく、誤って隣の薬指に触れようものなら大けがを負いかねない。いや、そんなことより――。
 これでいいか。貰い物のマグカップ。そっとドリルを近づけてみる。陶器に金属が触れる感覚がして、次に一瞬の振動、そして貫通したのが分かった。穴。穴が開いたのだ。結婚式の引き出物だったマグカップに穴が。
 ああ、しまった。ドリルといえば木だ。なぜ最初に陶器にしたんだろう。俺は後悔した。しかし後悔はときに人を成長させる。だから部屋の中が穴だらけになるのにさほど時間はかからなかった。
 会社なんて辞めてしまえ。だって、小指がドリルなんだぜ? もう行けやしないよ。ペンだって持てないし、電話も取れやしない。いや、左手は確かにあるんだけど、もうそういう問題ではないのだ。これは人類の歴史に関わる重大なことなんだ。それにもし万が一誰かに穴でも開けようものならその責任は誰がとってくれるんだ? まさか労災が下りるとは思えないし。とりあえず、明日からは有休消化でしばらく休みたいと思います。はい、すみませんがよろしくお願いいたします。
 さて。
 開けるか。穴を。なぜかって、右手の小指がドリルなんだぜ。穴を開ける以外になにがあるっていうんだ。天命、使命、いや、これは間違いなく運命だ。
 人はそれぞれ生まれてきた意味があると誰かが言っていた。意味、意味、そんなものあるわけがない、バカじゃないのか、と以前の俺なら確かに思っていたよ。でも、こうして自分の才能に気づいてみると、まんざら嘘でもないような気がしてくるから不思議だよな、人間ってやつは。
 まあいい。そんなことより、穴を開けよう。穴を。どこもかしこも開けがいのありそうなものばかりだな。そそるぜ、まったくよ。机、いす、玄関、照明、ドア、パソコン、テレビ、スマホ、壁、床、天井、ゴキブリ、鉄、プラスチック、木、布、温度計、……ちょっと待て、さすがに多すぎて思い出すのも面倒だ。うん、つまり、目に映るものは液体と空気以外すべて開けたということだ。そう、すべて――。
 ある日、町に出ていつものように穴を開けまくっていたとき、俺は不思議な感覚に襲われた。空虚感というか、孤独感というか、まあ、そんな感じのものだ。穴、穴、振り返ると俺の後ろには足跡のように穴が開いていた。ふと立ち止まる。俺はいったい、なんのために穴を開けているのだろうか。
 困った。せっかく使命を見つけたのに、その意味が見出せないなんて。
 気がついたら、森の中。人は悩んだら森に行く。そう決まっているんだよ、昔から。森林浴が俺を呼んでいる。ふと、目の前の木に目が釘づけになった。穴が開いていたんだ、立派な穴が。
 その穴は誰が開けたのか、はじめからきれいに開けられており、なんとなく小指のドリルをその穴に入れてみると、驚くほどにピッタリと収まるじゃないか。小指に力を入れる。ドリルが回る。その音が響いて、抜くとさっきと変わらない穴がそこには開いていた。
 それからだった。俺は家に引きこもって、珍しく考えたんだ。酒も煙草もそのときに辞めたのを覚えている。ただ、考えたかった。一人で、なにもない空間で――。
 ひげが外国の年取ったパンクロッカーのように伸びたある日、ようやく気がついた。思えば、この部屋だって誰かの開けた穴じゃないかって――。いや、誰かじゃない。それはきっと俺だ。俺が開けた穴なんだ――。
 木を思い出す。あの穴は、開いていたんじゃない。俺に開けられるのを待っていたんだ。ああ、そうか、分かった。やっと分かったぜ。すべての穴は俺のためにあって、俺の開けた穴はすでに世界中の空間として存在していたんだ。
 穴は空間だ。空間は無だ。それは有限のためにある。ドリルを回す。穴が広がっていく。部屋の中が前よりも広く感じる。
 出よう。――この世界はあまりにも狭すぎる。
 よく考えたら運命なんてどうでもいいんだ。それよりも仕事をしなきゃ人は生きていけない。だって金がいるからな。腹だって減るし、家賃だって溜まっていく一方だ。
 ん、待てよ。
 夜、見上げると星空が夢のように瞬いていた。俺は手を伸ばす。小指を回す。夜空が広がっていく。
 穴が空間だとしたら、この広大な宇宙もただの穴なんじゃないかって、そう思ったんだ。あの星空と、月を見ていたら、誰だってそう思うだろうし、いや、それはもちろん科学的根拠はないけどさ、哲学的には間違いのない事実なんだと俺は思うんだ。
 だって、この空を見てみろよ。これ、俺が開けたんだぜ?
 さて。
 仕事でも探すか。できればこのドリルを活かした仕事がしたいんだけどな。例えば、宇宙創造とか? ああ、バカ言ってらぁ。まあいい。とりあえず今日はもう寝るとしよう。ドリルで穴を開けるのもいいけど、最低限穴の開いていないものを残しておかないと人は生きていけないからな。だから腹だって減るし、眠たくもなる。大切なのは適度な隙間と適度な空間。うん、もうなんでもいいや。明日は大きなチーズの塊でも買ってきて、あのネコとネズミのアニメに出てくるような穴でも開けてみるか。おやすみ、ジェリー、そしてトム。いい夢見ろよ。
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