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風にさらわれて

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「この気持ちは言葉にできない」というセリフをよく耳にする。ほとんどが恋愛、とくに片思い――、その片思いのむず痒い、あの厄介な胸のモヤモヤのことだろう。ぼくも昔、そのセリフを言ったことがあるような気がする。思い出すのも恥ずかしい。それでいて、思い出さずにはいられない。でも、本当に、その気持ちは言葉にできないのか――。
 ぼくがまだ貧乏だった頃、生活はその日暮らしの怠惰なもので、夢も目標もなく、ただひたすら無駄な時間を過ごしていた。金は尽き、なんでもいいからとにかくバイトをしなくてはならず、仕方なく給料がすぐにもらえる日雇いに行くことにした。
 翌日ぼくは現場に出向いた。駅前で数十人が集まっており、責任者が順番に点呼をとる。そのときだった。ぼくの呼吸が止まった。胸が高鳴った。早朝の清々しい空の青さに吸い込まれるような浮遊感に襲われた。
 一目惚れだった。ぼくは、――彼女を見つけてしまった。
 彼女はぼくと違い、爽やかな笑顔で、太陽のように眩しかった。まるで、……まるでなんだろう。思い浮かばない。天使とでも言うべきか、いや、そうじゃない。もっと胸の奥が騒ぎ出すような、逃げ出したくなるような、よく分からないそんな気持ちになったんだ。そう考えたら、天使よりは悪魔の方が正しい気がする。だってぼくは、狂って死んでしまいそうなほど胸が苦しくなったのだから。
 日雇いの仕事は基本的に一日一現場で、次の日はほとんどが別の現場になる。だから一日で辞める人も大勢いる。それが日雇いのメリットであり、デメリットだ。
 現場には気がつけば大勢の人が集まっていた。そんな中、ぼくは彼女を見つめていた。声を掛けたかった。彼女は日雇いの仕事には無縁そうに見えた。今日、たまたま気まぐれで来たのかもしれない。どうしよう、チャンスは今日しかないんだ。そう考えると、無性に悲しくなったのを覚えている。
 責任者が仕事の指示を出し、班分けをしていく。どうか同じ班になれますように、そう願いながらぼくは彼女の近くに行った。けど、残念ながら班は別々になってしまった。
 仕事は簡単だった。ぼくは資材を右から左に運びながら、頭の中で必死に作戦を練っていた。しかし、時間はあっという間に過ぎ、とうとう仕事は終わってしまった。作戦なんてなにも思い浮かばなかった。
 作業終了書という紙にハンコをもらい、ぼくは帰り支度をはじめた。そもそも無理なんだ。仕事中に声なんて掛けられないし、仮にできたとしても迷惑なだけだろう。彼氏がいるのかも分からないし、もしかしたら結婚しているかもしれない。こんな言い訳を並べながら肩を落として歩いていると、駅に向かう道の前方に彼女が歩いていた。
 ぼくは歩みを速めた。ふいに一陣の風が吹いた。砂埃が舞い上がり、落ち葉やゴミらしきチラシが宙に浮かんだ。ぼくは一瞬、目を閉じた。そして目を開け、前方を眺めると、彼女はもういなかった。がっかりした。その瞬間、横から声が聞こえた。
「すみません、こっちに紙が飛ばされて――」
 彼女だった。心臓が止まりそうになった。
 気がつけば、ぼくは帰りの電車に乗っていた。隣には彼女がいた。なにを話したのか、なにを聞いたのか、今ではほとんど覚えていないけど、一つだけ覚えている言葉がある。
「私ね、今度、アメリカに行くんだ」
 彼女は確かにそう言った。ぼくは、なにも言えなかった。そしてぼくたちは別れた。連絡先どころか、名前すらも名乗れなかった。そんな自分が情けなく、ぼくはこのままではいけないと思ったんだ。
 後日、ぼくはまた日雇いで何度か同じ現場に行った。だが、もちろん彼女はいなかった。無理だとは分かっていたけど、もう一度会いたかった。ぼくはあのとき、彼女になにも言えなかった。言葉は喉までは出かかっていたのに、心臓が口から飛び出しそうになるだけで、結局なにも言えなかった。ぼくはなにを伝えたかったんだろう。なにを言えばよかったんだろう。今でも分からない。この気持ちを的確に表す言葉が見つからない。思い浮かんでも、まるで風のように一瞬で空に飛んでいく。まったくもって厄介だ。片思いのモヤモヤは、いつまでも消えやしない――。
 ぼくはそれから、生まれ変わったかのように勉強を重ね、ついには留学した。そして嵐のように日々が過ぎ去っていき、ぼくはある女性と結婚をした。思い出は懐かしくもあり、また、劇的だ。まるで風のように、ふわりとぼくたちをさらっていった。
「ねえ、なに考えてるの」と横にいる妻がぼくに言う。「ぼんやりしちゃって」
 ぼくはいつか言うのだろうか。きみは覚えているのだろうか。
「――言葉にできないよ」
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