小説「紙幣」

有原野分

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紙幣

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 私はこれでも東京生まれなのです。ええ、あの花の都の大東京、最新のファッションの発信地であり、経済の中心地、日本中の憧れ、若者はこぞって上京し、ああ、でも、もういいんです。所詮私は、都落ちしたただの紙切れなのです。ええ、今はもう見る影もないボロボロの汚らしい手垢塗れの一万円札なのです。
 生まれたときの光景は今もはっきりと覚えています。太陽よりも明るい照明が私たちを迎えてくれるかのように輝いておりました。周囲を見回すと美しい札束が整然と並べてあり、ああ、そうか、私もこの美しいお札の一つなのか、とそれはもう涙が出そうなほど嬉しく感動したものです。
 それから私は外に運ばれていきました。銀行を中心に、人から人の手に、ときには何年も薄暗い金庫で眠っていることもありましたが、私は充分幸せでした。お金とは不思議なものです。人は私欲しさのために働き、寝る間も惜しんで苦労し、人を欺き、心に傷を負い、焦燥、枯渇、果ては自殺にまで追い込まれ、ああ、その度に私はなんと愚かな生き物なのだろうかと、ついクスクスと意地悪くも笑ってしまうのが常で、私たちとは違い時間が限られている人生をただの紙切れに翻弄されるなんて、ああ、なんともみっともないではありませんか。
 人は金のために生きている。私たちはいつも鼻高々で、弱肉強食で言えば一番の上、そうです、この地球上で一番偉いのは人間ではなく、私たちお金なのです。支配、とまでは言い切りたくはないのですが、でも仕方のないこと、お金は自然と人間を支配し、人間はお金に支配されるために生まれてきたのです。しかしながら、中にはその世界から逃れようと奮闘する人もいました。ただ、どうして今の世の中お金のない世界から逃れることができましょうか。ある人たちはこんな活動をしていました。金があるから悪いんだ、だから俺たちは金のない世界を作ろうと思い村を立ち上げるんだ、この村には金など存在しない、金は必要ないんだ、と。ただ、どこの世界も似たようなもので、金がないのなら金の代わりにと石ころや貝殻で品物と交換、つまるところお金はどうしても人間生活の中では切っても切れないものなのでしょう……、ああ、可哀そうに――。
 支配されるというのは、一体どのような感覚なのでしょうか。せっかくこの世に生を受けたというのに、そこに自由はなく、また些細な幸福に一喜一憂して、やれ金が欲しい、金が足りない、と浅ましく人を殺してまで手を伸ばし、その手の薄汚れていること、そのくせ、いったい金が手に入らないと分かれば、ふん、そんなものはいらないんだ、なにが金だ、世の中には金で買えないものがたくさんあるのがどうして分からんのだアホどもが、少なくとも、俺の心は金では買えんぞ、例え何億積まれようともな、カハハハ――、と乾いた笑い声を聞く度に、私は自身の存在理由について考えるのですが、しかし世の中は広いと見えて、私を大切にしてくれる人だっていた訳でして、貧乏ながらも赤の他人のために使う人や、お札の一枚一枚に言葉をかけて感謝の念を込めてくれる人なども中にはおりました。
 九州のあるお宅では、私は家族のよきパートナーとして扱われました。そのようなとき、お金に心があるのかは分かりませんが、なにやらじんわりとあたたかくなるような感覚に包まれ、そうしてこの世に生まれてきたのはこういう訳なのか、と一人納得する次第でして……。
 ええ、でも、人間はやはりダメでございます。私は今、そんな世界に見切りをつけたのです。自販機の裏でも、ドブの中でも、大海原の光の届かない底……ではないのですが、そうです、その辺の地方にある貧しい一軒家の床の上で寝転がっているのです。目の前には赤ん坊が、ハイハイした汚い手で私を舐め回し、ビリビリに破いて、その欠片を踏みつけ、すぐに飽きたと見えクルリと方角を変え、しかしその瞬間、こちらをチラと振り返り、あの屈託のない純真眼の笑顔を向けられたときなんて、ああ、本当にこれが幸福なのかと思ったのです。赤ん坊に必要なのは、私ではありません。それがきっと、私が生まれてきた理由なのでしょうか。今度もし生まれるとしたら、この田舎の家の埃にでもなって、ふわふわと舞いたいと思っています――。
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