カフェと雪の女王と、多分、恋の話

凍星

文字の大きさ
上 下
1 / 36

プロローグ:巴里の空の下

しおりを挟む
『――あなたに出来ること、夢見ていることがあれば今すぐ始めなさい。
向こう見ずは天才であり、力であり、魔法です』

ゲーテのこの言葉を胸に、無茶を承知で単身フランスに渡った時。
下宿先を整えるより何より最初にしたことは、パリ・サンジェルマン・デ・プレ地区にある憧れの『カフェ・ド・フロール』を訪れることだった。

そこは、パリの知識人たちが集った場所として、今なお語り継がれる伝説的な店だ。
名実ともにパリを代表するカフェと言っていい。

地下鉄の駅を出て店の前に立った時、何だか現実とは思えなくて――
放心したように店の外観を眺め続けた僕は、少しおかしな外国人と思われたかもしれない。

エントランスの屋根を飾る植物のデコレーション。
全体がガラスに囲まれた明るいテラス席。
神殿のような白い柱が目を惹く、アールデコ風の内装。
観光客はもちろん、常連客のパリジャン、パリジェンヌで溢れる活気に満ちた店内。
ずっと来たかった場所は、全てがキラキラして見えた。

建物も雰囲気も、憧れていた通り素晴らしかったけれど、それ以上に僕を魅了したものがある。それは店の中を泳ぐように行き交う、黒いベストに蝶ネクタイ、白いカフェエプロンのギャルソン達。
その姿は僕の理想そのもので、いつまでも飽きることなく眺めていられた。
カフェという空間を完璧に演出する優雅な動きは、雑多な音を静かに調整するコンダクターのようだと思った。
むやみに笑顔を振りまくことはないが、アイコンタクトでこちらの意思を読み取って席まで来てくれる姿は本当にカッコよくて。
彼らはお客と対等な立場で接客する。そのプロらしい働きぶりに感動してしまった。

レモンタルトとカフェオレだけでゆっくりしていても、別段せかされることもない。
パリにおいてカフェは時間と空間を楽しむために訪れる場所であり、ただ珈琲を飲みほすだけの場所ではないのだと肌で感じた。

店内をうっとり眺めていると、隣席にいた地元のフランス人青年に声をかけられた。
この店は席と席との間隔がせまく、自然に人との距離感も近くなる。
間近で見るブルーの瞳がとても綺麗で。
僕がパリに来たばかりの日本人だと知ると、目を輝かせてこう言った。

「良かったらパリを案内してあげるよ。地元の美味しいお店を君に教えてあげたいな」

笑顔が優しくて――この人ならついて行っても大丈夫かなと思わせる雰囲気があった。
一人で海外に修行に来た心細さもあって、ついほだされたところもある。
ただ初対面の人間に対する警戒心ももちろんあって、危ないと感じたら口実を作って逃げなくちゃなどと頭の片隅で思ったりもしたけど……僕は彼の誘いにのった。
あの時のことは、自分でも想定外だった。
どちらかと言えば人見知りの僕がとった大胆な行動。
今までの自分とは違うと、思いたかったのかもしれない。

セーヌ川に向かいカルーゼル橋を通り、ルーブル美術館、パレ・ロワイヤルを眺めながらオペラ座、ガルニエ宮を目指して二人で歩いた。
夢のように美しい建物が次々と目の前に現れる。
普段、どちらかと言えば大人しい僕も、この時ばかりは高揚感につつまれて……
ああ、本当にパリに来たんだなと、彼に何とか興奮を伝えようとして拙いフランス語で頑張ったのを覚えてる。

彼は話し上手で、明るくて、退屈しなかった。建物の歴史を軽く説明してくれたり、おすすめの場所を熱心に教えてくれたり。
僕はまだフランス語が片言だったけれど、お互い英語が少し話せたのもコミュニケーションが楽にとれた理由の一つだった。

結局、最初の不安や疑いもいつの間にか消え失せて――日が暮れるころ、気付けば僕は彼の部屋の中にいたのだった。
彼の熱っぽい目線や、仕種や、触れてくる指先から、単なる好意以上のものがあると気付いていた。僕らは同類を見抜くことにとても敏感な生き物だから、はっきり言葉にしなくても分かった。

――ある種の覚悟も期待もあった。
この場所で、自分を知る人間が誰もいないここでなら、生まれ変われるんじゃないか。
素晴らしく美しい街の魔法がかかっている今ならば、過去なんて忘れられる。
彼なら、もしかして本当に、僕を変えてくれるんじゃないか。
そう願って――彼の誘いを拒まなかった。

……結果、僕は彼を傷つけた。

キスまでは平気だ。
だけど、その先に行為が進むと――
僕の身体は動かなくなる。
僕はセックスに苦手意識があって……楽しむことが、出来ない。

相手が自分の身体を求めてくると頭の奥が急に冷えて、一体何をしているんだろう?と、俯瞰でお互いの姿を眺めてしまって、他人事のような感覚に陥ってしまう。
何の反応もなくシリアスに見つめ返されたら、相手は成す術もない。
百年の恋も魔法も、冷水を浴びせかけるような僕の態度で、全て泡と消える。
彼ならと思ったけれど、この時もやはりダメだった。

ごめん、とただひたすら謝る僕に、気にしなくていいよと言ってくれた。
ベッドの上で身支度を整えながら、そう言えば知っているかい?と何事もなかったかのように話し始めた。

「あのカフェ・ド・フロールも、1950年頃には同性愛者の客に3倍もの料金をふっかけたりしていたんだ。店から追い払いたいっていう理由でね。酷い話さ。でも僕は、それでも店に通いつづけた当時の恋人達に、拍手喝采を送りたくなるなと思ったりもして……時代や受け取る相手によって、物事の価値や、見えかたは変わるっていう良い例だと思うんだけど」

蒼い瞳でじっと僕をみて、彼はこう尋ねた。

「君も、誰かに酷い扱いをされたことがある?」

それは、僕の心の奥深くに潜む疵に触れる問いで。
とっさに――返せる言葉が出て来なくて。

「……Aucun problème」

ただ、“問題ない”としか、言えなかった。
そんな僕を見て彼は少し寂しそうに笑い、肩を抱き寄せ瞼にキスを落とした。

「君のゲルダになれなくて残念」と。

その時は彼の言葉の意味がよく分からなかった。
後から、ああ、雪の女王か、と思い当たり苦笑した。
瞳と心臓に、悪魔の鏡のカケラが刺さったせいで人間らしい心を失くしてしまい、雪の女王に魅入られた少年カイが、幼馴染のゲルダという少女に救われる物語……。

――彼を、好きになりたかったし、なれると思ったのに。

どうしてダメなんだろう?
どうして、どうして、と――
何度、問いかけたところで答えは同じだった。

……理由は分かっている。だけど、どうしたらいいのかが分からないのだ。

あの時から4年も経つのに、僕の心は凍って、ひび割れたまま。
手酷いかたちで初恋を失った高校生のあの日から。
今に至ってもまだ、僕は、砕けた心を抱えた自分を、鏡に映った他人のように冷ややかに眺めることしかできないでいる――…
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

ハンターがマッサージ?で堕とされちゃう話

あずき
BL
【登場人物】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ハンター ライト(17) ???? アル(20) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 後半のキャラ崩壊は許してください;;

好きなあいつの嫉妬がすごい

カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。 ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。 教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。 「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」 ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

おかわり

ストロングベリー
BL
恐ろしいほどの美貌と絶品の料理で人気のカフェバーのオーナー【ヒューゴ】は、晴れて恋人になった【透】においしい料理と愛情を注ぐ日々。 男性経験のない透とは、時間をかけてゆっくり愛し合うつもりでいたが……透は意外にも積極的で、性来Dominantなヒューゴを夜ごとに刺激してくる。 「おいしいじかん」の続編、両思いになった2人の愛し合う姿をぜひ♡

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

忘れ物

うりぼう
BL
記憶喪失もの 事故で記憶を失った真樹。 恋人である律は一番傍にいながらも自分が恋人だと言い出せない。 そんな中、真樹が昔から好きだった女性と付き合い始め…… というお話です。

処理中です...