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溺れる人魚の見る夢は①
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――雨は上がっていた。
けれど、線状降水帯がもたらした大量の水は街を覆い尽くし、歩道にも車道にも大きな水鏡を作っていて、そこかしこで車が水飛沫を跳ね上げていた。
空気は重く、澱んでいて。
6月の熱気は陽が落ちても衰えることがなく、暑さと湿度でかなり息苦しかったのを憶えている。
水を跳ね上げないようにゆっくり歩いていた。
道端にそっと咲く紫陽花の、朽ち始めた鈍色と蒼色が、足元の水鏡に映るのを視界の端に収めながら。
通い始めて2ヶ月ほど経った大学から、下宿先へ帰ろうとしていた時だった。
その日は珍しく帰りが遅くなって、21時を過ぎていた。
それでも駅の周りは明るいし人通りも多い。
けれど、すれ違う人の様相は、太陽が昇っている時とは少し変わっていて。
酔った人間が道端でスマホを片手に大声を上げていたり、話し込んでいる若者が数人、階段に座り込んでいたりする。目的もなく行き場もないけれど、ただ話していたい、人と一緒にいたいとでもいうように。
突然、やめて下さいと言う大きな声が聞こえて、思わず足が止まった。
二人組の男が女子大生らしき女の子を捕まえて、飲みに行こうとしきりに誘っている。
(うちの大学の子かな……あれは、ちょっとマズいんじゃ)
はっきり言って女の子は本気で嫌がっている。なのに腕を掴まれて逃げられないみたいだ。
周りの大人たちは見て見ぬふりだった。
男達は体格がよく、その腕には民族的な紋様のタトゥーが入っていたし、明らかに喧嘩慣れしていそうな風体。止めに入るのは勇気がいる。
しばらく様子を見ていたけど、男達は彼女を解放しようとしない。そんな様子を放って置けなくなり、何とかしようとして急に身体の向きを変えた――
「わっ」
そうしたら、道を横切ろうとした誰かの背中にぶつかってしまった。ドスンという衝撃と共に、被っていたキャップが頭から溢れ落ちる。
が、ぶつかった相手が、地面に落下する前に器用にもキャッチしてくれて、濡れるのを免れた。
「おっと、ごめん大丈夫?」
こちらからぶつかったにも関わらず、相手は自分から謝ってくれた。
「ごめんなさい」とこちらも謝って、思わず顔を上げて相手のことを見ると、モデルか芸能人かと思うような、華やかな顔立ちの男が自分を見下ろしていた。
自分より10センチは身長が高い。
優しげに笑っていて、迷惑そうな表情は全く浮かんでいなかった。
「あれ、お兄さん」
「?」
ぐっと顔を近づけて、まじまじと覗き込んで来たのでびっくりしてしまう。
初対面の知らない人に、こんなに距離を詰められるなんて――普通はない。
綺麗な顔、だ。
それが目の前に迫った。
女性的な美貌だけれど、男らしいと感じる。何だか不思議な印象を受けた。
こちらを見詰める大きな瞳には、何か言いたそうな、悪戯っぽい表情が浮かんでいて。
瞳だけで訴えかけてくる何かがあって、視線を逸らせない。
同時にフワッと爽やかな良い匂いに包まれ、湿度で重苦しいはずの呼吸が、一瞬だけ軽くなる。
「……何ですか?」
「綺麗な瞳してるね」
そう言いながらこちらの顎に指をかけ、少し上向かせるようにして更に顔を近づけてくる。
睫毛が長い……なんて、そんな事まで判る距離だ。
「意思が強そうでいいなぁ。思わずスカウトしたくなる」
「……!?」
驚いて固まっているこちらを気にすることもなく、何てね、と笑いながら拾ったキャップと、持っていたどこかのお店のチラシをぎゅっとこちらの手に握らせてきた。
「良かったらいつでも遊びにおいで」
パッと花が咲くような笑顔と、気障なウィンクをひとつ残して。
そのまま身を翻し、バシャリと水飛沫を上げて駆けていく。
けれど、線状降水帯がもたらした大量の水は街を覆い尽くし、歩道にも車道にも大きな水鏡を作っていて、そこかしこで車が水飛沫を跳ね上げていた。
空気は重く、澱んでいて。
6月の熱気は陽が落ちても衰えることがなく、暑さと湿度でかなり息苦しかったのを憶えている。
水を跳ね上げないようにゆっくり歩いていた。
道端にそっと咲く紫陽花の、朽ち始めた鈍色と蒼色が、足元の水鏡に映るのを視界の端に収めながら。
通い始めて2ヶ月ほど経った大学から、下宿先へ帰ろうとしていた時だった。
その日は珍しく帰りが遅くなって、21時を過ぎていた。
それでも駅の周りは明るいし人通りも多い。
けれど、すれ違う人の様相は、太陽が昇っている時とは少し変わっていて。
酔った人間が道端でスマホを片手に大声を上げていたり、話し込んでいる若者が数人、階段に座り込んでいたりする。目的もなく行き場もないけれど、ただ話していたい、人と一緒にいたいとでもいうように。
突然、やめて下さいと言う大きな声が聞こえて、思わず足が止まった。
二人組の男が女子大生らしき女の子を捕まえて、飲みに行こうとしきりに誘っている。
(うちの大学の子かな……あれは、ちょっとマズいんじゃ)
はっきり言って女の子は本気で嫌がっている。なのに腕を掴まれて逃げられないみたいだ。
周りの大人たちは見て見ぬふりだった。
男達は体格がよく、その腕には民族的な紋様のタトゥーが入っていたし、明らかに喧嘩慣れしていそうな風体。止めに入るのは勇気がいる。
しばらく様子を見ていたけど、男達は彼女を解放しようとしない。そんな様子を放って置けなくなり、何とかしようとして急に身体の向きを変えた――
「わっ」
そうしたら、道を横切ろうとした誰かの背中にぶつかってしまった。ドスンという衝撃と共に、被っていたキャップが頭から溢れ落ちる。
が、ぶつかった相手が、地面に落下する前に器用にもキャッチしてくれて、濡れるのを免れた。
「おっと、ごめん大丈夫?」
こちらからぶつかったにも関わらず、相手は自分から謝ってくれた。
「ごめんなさい」とこちらも謝って、思わず顔を上げて相手のことを見ると、モデルか芸能人かと思うような、華やかな顔立ちの男が自分を見下ろしていた。
自分より10センチは身長が高い。
優しげに笑っていて、迷惑そうな表情は全く浮かんでいなかった。
「あれ、お兄さん」
「?」
ぐっと顔を近づけて、まじまじと覗き込んで来たのでびっくりしてしまう。
初対面の知らない人に、こんなに距離を詰められるなんて――普通はない。
綺麗な顔、だ。
それが目の前に迫った。
女性的な美貌だけれど、男らしいと感じる。何だか不思議な印象を受けた。
こちらを見詰める大きな瞳には、何か言いたそうな、悪戯っぽい表情が浮かんでいて。
瞳だけで訴えかけてくる何かがあって、視線を逸らせない。
同時にフワッと爽やかな良い匂いに包まれ、湿度で重苦しいはずの呼吸が、一瞬だけ軽くなる。
「……何ですか?」
「綺麗な瞳してるね」
そう言いながらこちらの顎に指をかけ、少し上向かせるようにして更に顔を近づけてくる。
睫毛が長い……なんて、そんな事まで判る距離だ。
「意思が強そうでいいなぁ。思わずスカウトしたくなる」
「……!?」
驚いて固まっているこちらを気にすることもなく、何てね、と笑いながら拾ったキャップと、持っていたどこかのお店のチラシをぎゅっとこちらの手に握らせてきた。
「良かったらいつでも遊びにおいで」
パッと花が咲くような笑顔と、気障なウィンクをひとつ残して。
そのまま身を翻し、バシャリと水飛沫を上げて駆けていく。
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