視線

一ノ瀬なつみ

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第11節(最終話)

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 熱い湯が、全身を覆っていた脂汗と冷や汗を洗い流していく。また、尻と内ももについた大便はトイレットペーパーで拭いたものの、ボディソープで洗い流さなくては気持ち悪かった。
 大谷芳子が走り去った後、すぐに玄関ドアの鍵をかけた。合鍵を奪った今、ベランダの窓ガラスを割られでもしない限り、芳子は侵入できない。
 また、すぐに警察に電話を入れた。警察はすぐに駆けつけてくれるらしい。その間にさっさと下痢気味だった便を洗い流そうとしたのだった。
 「はあぁ……」
 再び深いため息をついた。
 芳子が逮捕されるのも時間の問題だろう。下着姿の女が、外を走り回っていたら目立つ。芳子を追っている警官でなくても、すぐに職務質問をするだろう。街中の人々も、すぐに不審者情報として通報してくれるはずだ。
 そして、この部屋ともさっさとお別れだ。退去の際に、オーナーが立ち会うそうだが、その前に警察の現場検証とやらが行われるのかもしれない。オーナーはさぞ驚くことだろう。
 『次の住人は、家賃を安くしてもらえるのかな』
 シャワーを浴びて、少し冷静さを取り戻すことができた。そんなくだらないことを考える余裕も生まれた。
 シャンプーのボトルに手を伸ばそうとして、髪まで洗う必要がないことを思い出す。警察が来るまでに脚のこびりついた便と雑菌を洗い流したかっただけなのだ。
 「ふん……」
 かつてシャンプーが怖かったことを、再び思い出した。今思い出してみると、なぜこんなものが怖かったのかと、バカらしく思えてくる。
 本当に怖いのは、幽霊やお化けの類ではない。
 本当に怖いのは、話が通じない女だ。
 『目を開けたときに、誰かの顔が目の前にあるのではないか』
 『浴槽の中に、誰かが立っているのではないか』
 『曇った鏡の中に、何者かが映っているのではないか』
 子どもの頃にシャンプーを怖がった気持ちは、今でもよくわかる。でも、中高生になってからは、そんな妄想以外に考えることがたくさんできた。
 『明日、好きな子とどんな話をしようかな?』
 『なんであんなヤツとチームを組まないといけないんだよ』
 『やばいな、模試で志望校判定がE判定だった』
 『中山って小柄な割に乳デカイな。もみてえな』
 シャンプー中に怖がっている余裕など、孝一の日常生活において、なくなっていったのだ。それは孝一だけではなく、誰にとっても同じなのかもしれない。
 「臆病な孝一」はいなくなったわけではなく、日常の忙しさにまぎれてしまっているだけなのかもしれない。
 「臆病な自分」は今でも自分の心の奥底で、じっと大きく目を見開いて、大人になった自分をのぞき見ているのかもしれない。
 大谷芳子のように。
 「ふうぅ……」
 孝一はシャワーを止めて、大きく息を吐き出し、天井を仰ぎ見た。
 孝一の目の前に、眼球があった。
 『そんなものが、あるわけがない』
 この1カ月近く、あまりにも信じられないな出来事が立て続けに起こったせいで、見えるはずのないものが見えてしまったのだろうか。
 恐怖心が度重なって、神経がすり減っているのかもしれない。
 孝一は目を閉じた。
 目を開く。
 やはり目の前に、眼球はあった。
 しかも血走っている。
 「……」
 孝一ののどが完全に詰まってしまった。
 息をすることも、言葉を発することもできない。
 脚ががくがくと震え始め、一瞬のうちに力が入らなくなってしまった。
 膝ががくりと折れ曲がり、風呂の床に崩れ落ちる。
 しかし、目は天井からそらすことはできなかった。
 『そ……そんな』
 天井から距離を置いてみて、ようやく状況が理解できた。
 風呂の天井の点検口のフタが、少しズレていた。
 真っ暗な天井裏が、薄く口を開いている。
 その暗闇から、血走った目が孝一を観察していたのだ。
 『いつから?』
 眼球がすっと消えた。
 点検口の四角いフタが、ゆっくりと取り払われていく。
 黒い隙間が大きくなり、ぽっかりと穴が空いた。
 『……うそだろ……』
 腰を抜かした孝一は、ただ床にへたりこむことしかできない。
 その上空の黒い穴から、骨ばった脚がにゅっと突き出された。
 ふくらはぎに肉はなく、青白く骨と筋肉が浮かんで見える。
 そのふくらはぎと同じくらいの太さしかない、両ももが姿を現した。
 骨に張り付いた薄い筋肉と皮は、理科室の人体模型を思い出させる。
 『え……』
 陰毛が見えた。
 細い両脚のあいだには、大きな隙間があいている。
 その隙間から、女性器が孝一を見下ろしていた。
 さきほどトイレで見た、腰骨とあばら骨が浮き出た腹がおりてくる。
 『合鍵で侵入していたんじゃ……なかったのか……』
 ようやくその事実に思い至る。
 女はドアから出入りしているものと思い込んでいた。
 『いったいどこから……』
 しかし、その疑問の答えは、すぐに思い浮かんだ。
 芳子と駅前で出会った翌日、マンションの前でオーナーと立ち話をした。そのときの光景を思い出す。
 色の剥げかけたマンションの塗装。
 郵便受けの下に散らばったままのピザ屋や不動産関連のチラシ。
 そして、フタは外れた壁の通気口。
 『ああぁ……』
 さきほど玄関から外に走り去ったように見えた芳子は、すぐに通気口の穴にもぐりこみ、再び101号室の天井裏にひそんでいたのだ。
 薄い胸が、天井裏からおりてきた。
 今はスポーツブラすら身につけていない。
 乳房と呼べるような脂肪はなく、飾りのような乳首がついている。
 それまではスローモーションのように見えていたが、肩から先は一瞬にしてぼとりと浴室内に降ってきた。
 『ひっ!』
 孝一の悲鳴は声にならない。
 ただ全身を震わせるばかりである。
 芳子の腕力では体を支え切れなくなり、天井から落下した。
 孝一の足元で、芳子はつぶれたように倒れ込んだ。
 「電話番号といただいた写真をもとに、名前や住所はすでに割り出しています。しかし、大谷芳子は行方不明になっていて、現在行方を調べています」
 警察の言葉を思い出した。しかし、孝一には、芳子が自分の家に帰らず、どこに潜んでいたのかわかった気がした。
 芳子はむくりと上体を起こし始めた。全身の筋肉をかくかくと震わせながら。
 今は髪を結んでいないらしい。長い髪が顔に覆いかぶさっている。
 しかし、その髪の毛の奥から、視線を感じることができた。
 骨のような脚もがくがくと震わせながら立ち上がる。
 よろけて浴槽の縁に手をついた。
 ガチャッ……。
 芳子の手と浴槽から、かたい音が聞こえた。
 『……なんだ?』
 孝一の体は、金縛りにあったように動けない。目だけかろうじて動かすことができた。音が鳴った方向を見やる。
 芳子の手には、ハサミが握られていた。
 「……なんで?」
 そう問うたのは、大谷芳子だった。
 孝一は視線を芳子の顔に戻す。
 芳子は血走った目を大きく見開き、孝一を見下ろしていた。すだれのように垂れ下がる長い髪の隙間から、強い意志のこもった視線を向けられている。
 その目にこめられているのは怒り?
 憎しみ?
 それとも……。
 「なんで……勃たないの……」
 芳子は孝一の股間を見下ろしながら、震える声で言った。
 力なく倒れ込んだ孝一の股の間には、彼と同様、男根が力なくしなだれている。
 その下にある陰嚢も、恐怖のせいで縮こまっていた。
 「どうして……勃たないのよ……」
 芳子は質問しているのではなかった。
 勃起しないことを責めているだけだった。
 孝一は体を動かすことができないのに、全身の筋肉は勝手に震えていた。
 『気持ち悪いんだよ!』
 『お前なんかで勃つわけないだろ!』
 さきほどのように威勢よく叫んでしまいたかった。しかし、言葉を発しようとしたが、唇をひくひくと痙攣させただけだった。
 芳子は落胆の色をにじませながら言う。
 「裸を見ても……興奮しないんだ……」
 そう言って、一歩踏み出した。
 狭い浴室内である。芳子の足は、孝一の両脚の間に踏み込まれた。
 『来るな……来るな!』
 声にならない声は、涙となってあふれだした。
 しかし、芳子はペニスだけを見つめていた。
 「じゃあ……要らないわね……」
 芳子はそう言って、右手を持ち上げた。浴室のライトが、ハサミに反射して光った。
 『え……』
 湯気がまだ立ちこめる浴室内で、孝一の全身が冷たくなる。
 芳子が勢いよくしゃがみこんだ。
 ペニスに顔を近づける。
 血走った目を大きく見開いて、その瞳に萎えた男根を映し出す。
 『勃起しないなら……こんなもの要らないわね……』
 芳子の目がぎょろりと動き、孝一の顔を上目づかいで見た。
 そして、無表情だった顔に、ようやく感情が宿る。
 口の端がにゅっとつり上がり、口が三日月状に広がった。
 視線がぶつかった瞬間、金縛りが解けた。
 孝一は涙を流しながら、悲鳴を上げた。
 「ひいっ! やめて! やめてくださいいいっ!」
 しかし、その懇願を、芳子の笑い声がかき消した。
 「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
 のどが引きつらせながら、芳子は目を大きく見開いて笑った。
 芳子のハサミの刃が、萎れた肉をとらえた。
 「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
 悲鳴はマンション中に響き渡った。

(完)
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