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第1節
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今岡孝一は改札口を出た。普通列車しか停まらない小さな駅だが、さすがに帰宅ラッシュの時間帯には、たくさんの乗客たちが改札口から吐き出されていく。
冷房の効いた車内でひいていた汗が、わずかの間にまた全身から噴き出してきた。孝一はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイをほどいた。しかし、開放された首周りにまとわりついてきたのは、むっとするような熱気だった。
「あつ……」
孝一は顔をしかめて、思わず口走る。
梅雨明けが発表されたにも関わらず、天気はぐずつき、湿度が高い日が続いていた。
孝一は大手の自動車メーカーに勤めている。1年目は本社で研修を受けていたが、2年目は系列の自動車販売会社へと配属された。
「家に帰るまでが仕事だ。お客様から見られていることを常に意識するように」
子会社の社長は、口うるさい男だった。
家に帰るまでは、スーツもネクタイも脱いではならない。
会社の近くで、寄り道をしてはならない。
「中学生じゃあるまいし」
孝一はいつも心の中で、その社長のことを見下していた。中小企業に多い、社員を家族のように考えている親分肌の社長だった。慕っている社員も多い。しかし、1年の出向を終えると本社に戻ることになっている孝一は、販売子会社の社風になじむつもりはなかった。
いちおう会社の人間に見られる可能性がある電車の中までは、きちんとスーツを着るようにしていた。しかし、家の最寄り駅に着いたら、すぐに脱いだ。勤務時間を終えて退社したら、そこからはプライベートの時間だと孝一は考えていた。本来なら、会社を出てすぐにネクタイを外してしまいたいくらいだ。
夏の19時はまだ明るい。駅前ロータリーには、バスに乗り継ごうとする学生や会社員が列を作っていた。孝一と同様、暑そうに顔をしかめている者もいれば、スマートフォンの操作に夢中になっている者もいる。
孝一は駅から徒歩10分ほどの距離にある、ワンルームマンションで独り暮らししている。
「ちっ」
孝一は舌うちした。少し先の交差点で、信号が赤になるのが見えたのだ。
今日は販売手続きのミスで課長に小言を言われて、孝一は機嫌が悪い。本社から出向で来ている孝一のことが気に入らないのか、課長はねちねちと注意をしてくる。
「どうせあと数カ月で本社に戻るんだし」
孝一のそのような態度が、課長をいらつかせていることに、孝一自身は気づいていなかった。
交差点に近づくと、車の走行音にまじって、か細い女の声が聞こえてきた。
「お仕事、お疲れさまでした。神様はそんなあなたのことも、見守っていらっしゃいます」
交差点の隅に目をやると、白いワンピースを着た女が立っていた。声と同様、ワンピースから伸びた腕と脚も細く、骨が浮き出ていた。彼女の足元には、チラシの山が置かれている。どうやら宗教の勧誘をしているらしい。
すると、孝一以外にもイライラしている男がいたらしかった。
「邪魔だ! うるせえんだよ!」
女が差し出したチラシを手で払いのけ、彼女の足元に山積みにされたチラシを蹴り上げた。
チラシが舞い上がる。
車道に散らばったチラシもあれば、歩道の植え込みに隠れたチラシもあった。そして、孝一の足元にもチラシは舞い降りた。
「あなたの人生は、救われるようにできている」
チラシには、そんな宣伝文句が書かれてあった。病や暴力、理不尽な人間関係で悩んでいる人間には、もしかしたら突き刺さる言葉なのかもしれない。しかし、一流大学を卒業し、大手企業に就職した孝一には、特に心惹かれるものはなかった。美人の彼女もできたばかりだ。
「ひどいね」
周囲の女たちが、声をひそめるようにして、チラシを拾い始めた。女たちがさきほどの男の方に目をやると、男は赤信号にも関わらず、交差点を渡っていった。クラクションを鳴らされているが、気にする様子もなく、我が物顔で交差点を渡りきった。
「あ……ありがとうございます。ありがとうございます」
痩せた宣教師は、周囲に頭をさげて、チラシを受け取った。タチの悪い人間よりも、親切な人間の方が、数は多いようだった。
『自分はどちらの人間だろうか?』
孝一はふと自分に問いかけた。
親切にチラシを拾った女たちの手前、自分だけ素通りするわけにもいかなかった。自分はさっきのガラの悪い男とは、別の生き物だ。
孝一は足元のチラシを拾い上げ、痩せた女に手渡した。
女は孝一からチラシを受け取ると、ぴたりと動きを止めた。
ポニーテールというには色気がなさすぎる。ぱさぱさに傷んだ髪を後ろに束ねているだけだ。
その髪を振り上げて、ぐりんと顔をあげた。
「あ……ありがとうございます」
大きく見開いた目が、孝一を下から覗きあげる。
化粧気はまったくない。
夕日を浴びているにもかかわらず、顔色は青白かった。
頬はげっそりとこけている。
孝一は言葉を返すことなく、目をそらした。
化粧品会社に勤める美しい彼女とは、月とすっぽんだ。
孝一は交差点で立ち止まり、信号が青に変わるのを待った。
西の空に目をやると、夕陽が都心のビル街に沈んでいこうとしているのが見えた。おそらく日が沈んでも、このむせかえるような熱と湿度は変わらないだろう。今夜も熱帯夜になりそうだ。
目の前を横切っていく車の量が減った。信号が黄色になっている。孝一が横断したい方向の信号が、もうそろそろ青に変わる。
顔を前に戻すと、視界の隅に、視線を感じた。
孝一が振り向くと、文字通り目と鼻の先に、やせ細った女の顔があった。
「うわっ!」
孝一は驚いて、思わずのけ反った。
筋を浮き立たせた細い首をめいっぱい伸ばして、女は孝一の顔を覗き込んでいた。
さきほどよりも、さらに目を大きく見開いている。
まばたきをすることも忘れているのか、真っ黒な瞳に孝一を映し続けている。
女はぱくぱくと口を動かした。
「……さきほどは……ほんとうに……ありがとうございました……」
周囲の人波が動いた。
信号待ちをしていた人たちが、交差点を渡っていく。
「な、なんなんだよ……」
孝一は引きつった声をあげて、周囲にまぎれて交差点を渡り始めた。
速足で交差点を渡りきる。
心臓が早鐘を打っているのが自覚できた。
また、両腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。
こんなにも蒸し暑いにも関わらず。
交差点から少し離れたところで、孝一は振り返った。信号は再び赤に変わり、通行人が歩道に溜まり始めていた。その人ごみの中に、女の姿が見えた。
チラシを配ることを忘れて、まだこちらを見つめていた。
冷房の効いた車内でひいていた汗が、わずかの間にまた全身から噴き出してきた。孝一はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイをほどいた。しかし、開放された首周りにまとわりついてきたのは、むっとするような熱気だった。
「あつ……」
孝一は顔をしかめて、思わず口走る。
梅雨明けが発表されたにも関わらず、天気はぐずつき、湿度が高い日が続いていた。
孝一は大手の自動車メーカーに勤めている。1年目は本社で研修を受けていたが、2年目は系列の自動車販売会社へと配属された。
「家に帰るまでが仕事だ。お客様から見られていることを常に意識するように」
子会社の社長は、口うるさい男だった。
家に帰るまでは、スーツもネクタイも脱いではならない。
会社の近くで、寄り道をしてはならない。
「中学生じゃあるまいし」
孝一はいつも心の中で、その社長のことを見下していた。中小企業に多い、社員を家族のように考えている親分肌の社長だった。慕っている社員も多い。しかし、1年の出向を終えると本社に戻ることになっている孝一は、販売子会社の社風になじむつもりはなかった。
いちおう会社の人間に見られる可能性がある電車の中までは、きちんとスーツを着るようにしていた。しかし、家の最寄り駅に着いたら、すぐに脱いだ。勤務時間を終えて退社したら、そこからはプライベートの時間だと孝一は考えていた。本来なら、会社を出てすぐにネクタイを外してしまいたいくらいだ。
夏の19時はまだ明るい。駅前ロータリーには、バスに乗り継ごうとする学生や会社員が列を作っていた。孝一と同様、暑そうに顔をしかめている者もいれば、スマートフォンの操作に夢中になっている者もいる。
孝一は駅から徒歩10分ほどの距離にある、ワンルームマンションで独り暮らししている。
「ちっ」
孝一は舌うちした。少し先の交差点で、信号が赤になるのが見えたのだ。
今日は販売手続きのミスで課長に小言を言われて、孝一は機嫌が悪い。本社から出向で来ている孝一のことが気に入らないのか、課長はねちねちと注意をしてくる。
「どうせあと数カ月で本社に戻るんだし」
孝一のそのような態度が、課長をいらつかせていることに、孝一自身は気づいていなかった。
交差点に近づくと、車の走行音にまじって、か細い女の声が聞こえてきた。
「お仕事、お疲れさまでした。神様はそんなあなたのことも、見守っていらっしゃいます」
交差点の隅に目をやると、白いワンピースを着た女が立っていた。声と同様、ワンピースから伸びた腕と脚も細く、骨が浮き出ていた。彼女の足元には、チラシの山が置かれている。どうやら宗教の勧誘をしているらしい。
すると、孝一以外にもイライラしている男がいたらしかった。
「邪魔だ! うるせえんだよ!」
女が差し出したチラシを手で払いのけ、彼女の足元に山積みにされたチラシを蹴り上げた。
チラシが舞い上がる。
車道に散らばったチラシもあれば、歩道の植え込みに隠れたチラシもあった。そして、孝一の足元にもチラシは舞い降りた。
「あなたの人生は、救われるようにできている」
チラシには、そんな宣伝文句が書かれてあった。病や暴力、理不尽な人間関係で悩んでいる人間には、もしかしたら突き刺さる言葉なのかもしれない。しかし、一流大学を卒業し、大手企業に就職した孝一には、特に心惹かれるものはなかった。美人の彼女もできたばかりだ。
「ひどいね」
周囲の女たちが、声をひそめるようにして、チラシを拾い始めた。女たちがさきほどの男の方に目をやると、男は赤信号にも関わらず、交差点を渡っていった。クラクションを鳴らされているが、気にする様子もなく、我が物顔で交差点を渡りきった。
「あ……ありがとうございます。ありがとうございます」
痩せた宣教師は、周囲に頭をさげて、チラシを受け取った。タチの悪い人間よりも、親切な人間の方が、数は多いようだった。
『自分はどちらの人間だろうか?』
孝一はふと自分に問いかけた。
親切にチラシを拾った女たちの手前、自分だけ素通りするわけにもいかなかった。自分はさっきのガラの悪い男とは、別の生き物だ。
孝一は足元のチラシを拾い上げ、痩せた女に手渡した。
女は孝一からチラシを受け取ると、ぴたりと動きを止めた。
ポニーテールというには色気がなさすぎる。ぱさぱさに傷んだ髪を後ろに束ねているだけだ。
その髪を振り上げて、ぐりんと顔をあげた。
「あ……ありがとうございます」
大きく見開いた目が、孝一を下から覗きあげる。
化粧気はまったくない。
夕日を浴びているにもかかわらず、顔色は青白かった。
頬はげっそりとこけている。
孝一は言葉を返すことなく、目をそらした。
化粧品会社に勤める美しい彼女とは、月とすっぽんだ。
孝一は交差点で立ち止まり、信号が青に変わるのを待った。
西の空に目をやると、夕陽が都心のビル街に沈んでいこうとしているのが見えた。おそらく日が沈んでも、このむせかえるような熱と湿度は変わらないだろう。今夜も熱帯夜になりそうだ。
目の前を横切っていく車の量が減った。信号が黄色になっている。孝一が横断したい方向の信号が、もうそろそろ青に変わる。
顔を前に戻すと、視界の隅に、視線を感じた。
孝一が振り向くと、文字通り目と鼻の先に、やせ細った女の顔があった。
「うわっ!」
孝一は驚いて、思わずのけ反った。
筋を浮き立たせた細い首をめいっぱい伸ばして、女は孝一の顔を覗き込んでいた。
さきほどよりも、さらに目を大きく見開いている。
まばたきをすることも忘れているのか、真っ黒な瞳に孝一を映し続けている。
女はぱくぱくと口を動かした。
「……さきほどは……ほんとうに……ありがとうございました……」
周囲の人波が動いた。
信号待ちをしていた人たちが、交差点を渡っていく。
「な、なんなんだよ……」
孝一は引きつった声をあげて、周囲にまぎれて交差点を渡り始めた。
速足で交差点を渡りきる。
心臓が早鐘を打っているのが自覚できた。
また、両腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。
こんなにも蒸し暑いにも関わらず。
交差点から少し離れたところで、孝一は振り返った。信号は再び赤に変わり、通行人が歩道に溜まり始めていた。その人ごみの中に、女の姿が見えた。
チラシを配ることを忘れて、まだこちらを見つめていた。
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