はなかんむり

彩城あやと

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はなかんむり part3

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『ごめん…拓哉さんは平気なの?』
 せめて男の性を共有できてたら、笑い話にでもなるかもしれない。
 でも拓哉さんは自嘲的に笑った。
『俺は女には興味ないからな。でも、こんな密室で、隣にいるお前が勃つって状況はマズイな』
 拓哉さんは綺麗に整った眉をよせて軽くため息を付いた。
 それは……どういう事だろう?
 う…。やっぱ嫌だって事だよな。気持ち悪いよな。
 俺は焦った。
 だけどクローゼットの向こう側からは「あ…ああ…あん…いい…もっと…もっと……っ!」と女の人の卑猥な声が響いてて、俺はどうしようもない興奮に、ぐっと股間を押さえ込んだ。
 拓哉さんはそんな俺の様子に見兼ねたのか恐ろしい事を言う。
『気にするな。むこう向いててやるから、ヌけ』
『は? い、いいよ。そんなの…!』
 でも、人間の心理って言うのは不思議なもので、ヌきたいのに、ヌけない状況となると、余計に興奮するものだ。
 外は情事。
 狭いクローゼットの中では拓哉さんの息遣いさえ聞こえてきそうな距離。
 俺はこのどうしようもない状況に泣きたくなってきた。
 拓哉さんが俺の異変に気付いたのか、俺の顔を深く覗き込んできた。
『辛いのか?』
 辛かった。ホントに辛かった。だから涙目で素直にこくりと頷くと、拓哉さんは目を見開き驚いた。俺は正直過ぎたんだろうか…?
『…一人でするのが恥ずかしいなら、俺が手伝ってやるよ』
 そう言って拓哉さんが俺の股間に手を伸ばした。
『え!? た、拓哉さん?』
『し……! 気づかれるぞ。恥ずかしいならじっとして、目をつぶっていろ。すぐ終わらせてやる』
 拓哉さんは俺のジーンズをくつろげ始めた。ぱんぱんに張り詰めたソレはジーンズの圧迫から解放を願っている。でもちょっと待って……っ! と慌てて拓哉さんの手を払いのけようとしたら、クローゼットの扉がゴツン。と鳴った。
 ……気付かれる! と慌てて息を飲んだけど、クローゼットの向こうからは何の反応もない。
 良かった。と思った瞬間。俺の下肢が外気にさらされた。外気に触れたのと拓哉さんに見られた。そう思ったらぞくりと震えが走しって思わず目を閉じた
 性器に拓哉さんの手がそっと触れる。
『あ、やめっ…』
 男同士だけど。同じモノ付いてるだろうけど。男に性器に触られると言う経験は未だかつてない。身をよじるとぎゅっと性器を握られた。
『………っ!』
『静かにしてろ。さっさと終わらせてやる。そう言っただろう。それとも自分でするか?』
 拓哉さんに見られてヌくのと、拓哉さんにヌかれるのと、そんな究極の選択なんて選べない。
 言葉を詰まらせていると、拓哉さんが長い指先で茎を下から上に撫で始めた。
『ふ……っ!』
『慣れてないのか…?』
『こ、こんなの初めてで、俺、どうしたらいいか……っ!』
 それはそうだろう。普通に考えてこんな状況ありえない。でも俺はかなりテンパってた。思考を上手く伝えることさえ出来ない。
 拓哉さんは筋をなぞるように指を這わせてくる。すると先端から雫が滲み出す。こんな状況に俺はひどく興奮してた。でも拓哉さんはこんなの嫌じゃないんだろうか。そう思って振り仰ぐと、拓哉さんは気にするなと言うような顔で俺を見ている。
 大人の余裕。そんなものなのかもしれない。違いを見せつけられた感じがする。
 俺はと言うと、情けなくも、拓哉さんの指先でゆっくりと何度も何度も扱き上げられて、先端から雫が零れてぬるぬるとした雫が溢れ出してた。拓哉さんが親指をヌルヌルと鈴口に擦り付けるように何度も上下に擦り上げると、たまらなくなって、吐息が漏れた。
 さっさと終わらせてやる。そう言った意味を理解してしまう。
 呼応するかのように拓哉さんの吐息が耳元に当たると、ゾクゾクして体がビクリと震えた。
『悠真……』
 脳にまで響く重厚感のある声。耳にしていられなくて、身をよじると耳朶を噛まれた。
『ん、……んぅ……』
 俺は早くこんなおかしな状況から解放されたくて、もうイク事に集中するべきなんじゃないかと思った。と、言うより嫌でも集中してしまう状況に急き立てられてる気がする。
 早く終わらせてやる。
 そんな言葉を思い出した。
 俺は荒くなる呼吸を抑え、もう性の開放を願うしかない。
『最後、飲むぞ』
『…………!?』
 最後飲む。それは…もしかして……俺の体液か!? 俺は慌てて首を振った。
『出しても拭くものがない』
 ちょっと待って! 拓哉さんが俺のモノを手で扱いてるのもどうかと思うのに、それはいくらなんでも…無理。
 そう口にしようとする前に体をずらした拓哉さんがベロリと先端を舐めた。
『…………!?』
 拓哉さんは鈴口をくすぐるように舌を差し込んだ。気持ちよさに頭の芯がぼうっと霞む。俺が快感に打ち震えてブルリと体を揺らすと、拓哉さんは一度顔を上げて重く響く低音で囁いた。
『悠真は嫌じゃないか?』
 それはこっちのセリフだと思う。
『た、拓哉さんは…?』
『嫌じゃない。むしろ興奮する』
『あ………』
 外からは嬌声と水音。
 何だか、自分だけが興奮していない事にほっと安堵を覚えた。でも。
『俺も……拓哉さんの……したほうがいいの?』
 素朴な疑問が口から飛び出る。
『………!? …いや今はいい。悠真だけ、イけ』
 拓哉さんぬるりと性器を咥え込むと、手を激しく動かし頂上目指して擦り上げてきた。
『ぁ……あぁ、ぁ……もっ…もう…! イ、イク……っ!』
 拓哉さんが激しく上下に扱きながら先端をじゅうっと導くように吸った。
『……んんっ!』
 どくん。白濁した体液が拓哉さんの口の中に放たれる。
 拓哉さんはじゅるりと音をたててそれを飲み込んだ。動機が止まらない。最後の一滴まで逃さない。そんな舌の動きがゾクゾクとした余韻を生む。
 俺はあられもない嬌声を上げそうになって、必死にそれをかみ殺し小刻みに震えた。
『もう…これ以上は…俺がもちそうにない』
 拓哉さんはそう呟いて、俺のジーンズを丁寧に元に戻すと、息の乱れてる俺の肩を抱いてその胸に預けてくれた。
 拓哉さんは嫌悪感を微塵も見せるようなことはなく、俺の髪を優しく撫ぜる。
 緊張の糸がぷっつりと切れた俺は拓哉さん腕の中、優しい心音に包まれた。
 とくん。とくん。
 拓哉さんの体から、一定のリズムが鳴り響く――…。

 
「おい、悠真?」
 はっ! と気がつくと俺は拓哉さんの腕の中で眠りこけてた。
「巽のヤツ、出て行ったぞ」
「あ……? ごめん。俺、寝てた?」
 ここはどこだったっけ。と目をこすりながら拓哉さんを見ると、拓哉さんは耐え切れなかったように、くっくっと肩を揺らして笑った。
 狭くて暗い。ここはクローゼットの中。
 俺は顔に血を登らせて、口をぱくぱくさせてると、拓哉さんが笑いながら、巽が帰って来ないうちに行くぞ。と俺の肩を叩いた。
 マンションを出てもまだ外は暗いまま。
 拓哉さんの運転する車の窓から流れる光がひどく幻想的に映る。
 やがて見慣れた景色が見えてくると、車は音もなく止まった。
「着いたぞ」
「ありがとう。助かった」
「気にするな。それより約束は?」
「え?」
「勝利の口づけ」
「また! そうやって人をからかう!」
「俺はいつでも本気だぞ」
 ~~~~~!! 
 俺は勇気を持って、身を乗り出すとギュッと目をつぶって拓哉さんの頬に唇を押し当てた。
 冗談くらい俺もノれるようにならないと……!
「おやすみ!」
 そう言って車から飛び降りる。ちらりと見た拓哉さんは綺麗に整った顔に驚いた表情を浮かべてて。
 約束だって言ってたから、頑張ったのに、ウケてもらえなかった。
 ノリ方が悪かったのかな? と反省しながら俺は玄関の扉を開けた。


******


 次の日。
 Fiolaの練習を見に行こうと、いつものようににキングへと足を運んだ。
 でも重くて黒い扉を開くと、まだ練習時間にしては早い時間だったのに、珍しくコータロー意外のメンバーが揃っていた。
 何故かみんな楽器は手にしていなくて、ステージ辺りで屯っている。
「おはようございます。今日はみんな早いんだね」
 俺がそう声をかけると、尚さんが疲れ切ったような顔で振り向いた。
「コータローが脱退したんや」
「え?」
「さっき電話があったんだ。音だけのバンドは自分の目指すバンドじゃないから、今のV系バンド一筋でやって行きたいそうだ」
「昨日の打ち上げで音外したとか、みんなで言ったから多分…気に入らなかったのかも」
「あーもう! 来週のチケットさばけてしまっとんのに、このままやったら拉致があかん。俺が説得しに行ってくるわ!」
「尚! 待て」
「なんや?」
「あいつとは音楽性が違う。本人が脱退したいと言ってるんだ。諦めろ」
「は? じゃあ一週間後のライブ、どうする気や?」
「ヘルプキーボードを捜す他ない」
「無理や! あんな難しいコード一週間でマスター出来るヤツなんか、そうそうおらへんわ!」
 尚さんがイラついたように、バンッとステージを叩いた。
「なら、ライブは中止だ」
「ちょっと待て! なんやそれ!?」
 翔太もライブ中止にする位なら、頭下げて来週のライブだけでもコータローに入ってもらおう。と拓哉さんを説得するが、拓哉さんは頑として、譲らない。
 ライブが中止……? みんなライブを凄く楽しみにして頑張って練習してきたのに……。それにライブを楽しみにして待ってるファンは一体どうなるんだろう?
 でも拓哉さんはFiolaをいい加減なバンドにしたくないと言い切ってる。これからもずっと続けていくなら、妥協しない方がいいと。
 でも、俺はせっかくライブの為に頑張って寝る間も惜しんで練習してきたみんなを見てたから、中止にされてしまうのは悔しくて堪らなかった。楽しみにしていたファンも俺はフロアで間近に見てた。
 ライブを中止させたくない。キーボード。キーボードだ。キーボーダーが居れば……!
「あっ、あのっ…! 俺キーボード弾けます!」
 自分からそう口にして、そんな事を言ってしまった自分に驚いた。
 みんなの視線がざっと俺に集まる。その中で拓哉さんが推し量るような声を出した。
 あ………どうしよう………でも口に出してしまったものは仕方ない。俺は覚悟を決めた。
「悠真、一週間で曲をマスター出来るのか?」
「…ライブの曲は全部弾ける。だから…、だから、次のライブは中止にするなんて言わないで欲しい」
「分かった。…とりあえず、弾いてみろ」
 俺の音をFiolaのメンバーに聴かせる。
 ぞくり。とした。
 ライブを中止にしたくなくて、思わず弾けるなんて口にしてしまったけど、メンバーのみんなの目は冷ややかで俺に何の期待もしていそうになかった。
 それはそうだろう。いくら仲が良くてもあり大抵な演奏でキーボードを任せてもらえるほど、Fiolaの音楽性は低くないのを俺も知っていた。
 でもみんなにも俺の音を聴いて欲しい。純粋な気持ちでしんっと、冷ややかな空気の中、俺はキーボードの前に立ち音を合わせた。
 大丈夫だ。音をなぞるだけなら、俺にでも出来る。
「曲は悠真に任せる」
 …曲。上手く弾きこなせる曲。
 いや違う。
 俺の頭の中でFate(フェイト)のメロディーが流れた。
 ああ、そうだ。Fiolaとの出会いの曲。
 軽く深呼吸して、俺は鍵盤に指を滑らせた。パートソロを弾き終えて、頭の中でギター、ベース、ドラムの音をイメージして音を重ね合わせてキーボードを弾く。
 ……どうかライブを中止になんてしないで欲しい。そんな願いを込めて音を拾う。
 Fate。悲しい恋の歌。その音ひとつ漏らさずに俺は完璧に弾きあげた。
 演奏が終わると、ゆっくりと手をおろして、静かになったホールで達成感に溜息をついた。家でこの曲はたくさん弾いてたけど、メンバーの前で披露するとなると、すごい緊張と興奮とで気分も高揚してる。
 結果を聞こうとしてみんなに顔を振り向かせると、みんなは呆けた顔をしてるだけで、何も言ってくれなかった。
 あ…駄目だったんだ。いくらピアノを20年近くしていたとしてもキーボードを弾き始めてまだ一週間だ。ロックバンドの音楽性だってよく分かっていない。ただコーターローの音を真似て弾いてみたけど、まったく違ったものだったのかもしれない。
 完璧に弾けた。そう思ってしまった自分が恥ずかしくなる。みんなに時間を割かせてしまった事、謝ろう。と口を開きかけた時だ。
 拓哉さんの低い重厚な声がフロアに響いた。
「音を合わせるぞ」
「え?」
「よっしゃあ! みんな行くで~!」
 尚さんのかけ声と共に、みんなが一斉にステージに上がると、慌ただしく楽器を手にし始めた。
 よかった。とりあえずは音を認めてくれたのかもしれない。いくらライブを中止にしたくないからって、とんでもない事を口にしてしまった。という気持ちが少し和らいだ。
 その場に崩れ落ちそうになる足を踏ん張り、緊張して汗ばんでしまった手をハンカチで拭いて、鍵盤も拭う。
 みんなが顔を見合わせ準備出来たと合図すると、拓哉さんは完璧とも言える美貌で頷いた。拓哉さんは音楽を目の前にするとゾクゾクするほどの色香を放つ。
「悠真がいるんだぞ。音外すなよ…――Fate!」
 圭太さんがシンバルでリズムを刻むと、俺はソロパートを指でなぞる。そのメロデイーの上を拓哉さんの低く重厚に響くハスキーな声を乗せ、その後続くのはドラムの力強い音。それらすべてを支えるベース音。ギターは切なく鳴き始めた。
 俺はどうしようもない興奮に包まれた。どうしても自分だけでは作り出せなかった音。
『Fate』
 俺は夢中になって音にのめり込むと、曲はあっと言う間に終わってしまった。
 緊張と楽しさにほっと息つく……間もなく拓哉さんの低く重厚な声がシンとしたフロアに響いた。
「悠真、すべての曲をマスターしていると言ったな。次は『FINE FINE FINE』だ」
 ドドドドッとドラム音が、待っていたかのように力強く鳴り響いた。
 Fiolaの中で一番ノリのいいナンバーだ。俺はもう、どうしようもなく興奮していたので、音を間違えないように必死に弾くのが精一杯だった。
 みんなの音に引きずられる。Fiolaの曲は基本メロディーラインがないものが多くて、個々の音がぶつかり合ってひとつの曲になるものばかりだ。
 一緒にセッションすると、聴いてるだけより、みんなから負けじとしたすごい迫力を感じる。
 FINE FINE FINEを何とか終えると、手にかいた汗を拭う為にハンカチに手を伸ばしかけ、拓哉さんの声でそれを止めた。
「BUNCHED BIRTH」
 圭太さんのスティックが鳴ったので、俺は慌ててすぐに自分のパート部分を鳴らした。
 セッションは終わらない。
 5曲立て続けに弾くと、緊張と興奮と集中した熱で、全身が汗でぐっしょり濡れていた。
「次は…FaceTime」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って! 喉が潰れる!」
 翔太が両手を大きく振って演奏を止めた。みんなは緊張から解き放たれたように、一斉に大きなため息をついた。
「拓哉さん、気持ちは分かりますよ! でも悠真は逃げませんからもっと落ち着いて下さいって!」
 翔太がペットボトルから水を飲みながら、シャツで汗を拭った。
「…すまなかった。おい悠真!」
「はっ、はい!」
「おまえ…駄目だ」
「えっ?」
 拓哉さんはつかつかと歩みより、俺の真横に着くと、キーボードの端を指先で弾いた。
「おまえ、Fiolaの楽譜持っていないだろう。たぶん見た事もない。違うか? いいか。このフレーズを聴いてみろ」
 拓哉さんの長い指先がキーボードをなぞり始める。
「これはコータローが難しいからといって音をいくつか飛ばしたパートだ。…元々の譜面ではこうなってる」
 拓哉さんがまた軽快にキーボードを弾くと、音が増えただけなのに同じメロディでも音の膨らみも奥行きも全く違メロディーが広がる。
「うわぁ。すごい! こっちのがいい!」
 思わず声をあげると尚さんが真後ろに立っていて、パチンと俺の後頭部を軽く叩いた。
「『うわぁ』じゃないやろ! なんや? 悠真音聴いただけであんなけ弾けとんかいな? と、言うかおまえ楽譜見た事もないのにFiolaのキーボードする言うたんか?」
 確かに。無謀としか言えない。
「ごめん…」
「謝ってすむ問題やないわ! でも悠真、おまえキーボード無茶苦茶上手いやんけ!」
 尚さんは興奮したあまりか、ぎゅうっと俺を抱きしめた。
 尚さんもスキンシップが過剰すぎる…!
「尚。離れろ」
 目を白黒させた俺から、拓哉さんが尚さんを引き剥がした。それから拓哉さんはみんなをぐるりと見回して視線を交わした後、軽く頷き、大きな手を俺に指し伸ばしてくる。
「悠真。Fiolaのキーボーディストは、もうお前しか考えられない」
 俺がその手を取ると、楽器の音が俺を歓迎するかのように、一斉にフロアに鳴り響いた――。


********


 譜面と睨めっこしてキーボードを叩いていると、にゅうっとペットボトルが目の前に現れた。何かと思って振り仰ぐと拓哉さんが男らしい端正な顔で笑ってる。
「あんまり、無理するな」
 ふと辺りを見回すと拓哉さん以外のメンバーはもういなくなっていた。
「あっごめん。もうこんな時間…」
 時計は午前6時を過ぎている。
 みんなとの練習に夢中で時間の感覚がなくなって全く気が付かなかった。
 キーボードの電源を落として譜面の片付けをして、拓哉さんが座っているステージに近寄ると俺は拓哉さんに謝った。
 多分、拓哉さんは俺に付き合って何も言わずにそばにいてくれたんだと思う。申し訳わけない気分でいっぱいになった俺に、拓哉さんは隣のスペースをトントンと指で叩いた。俺は大人しくそこに腰掛ける。
 拓哉さんはホールの向こう。どこか遠くを見ながら口を開いた。
「悠真、かなりキーボードを弾きこなせてたが、キーボードはいつから始めたんだ?」
「あ…一週間…くらい前、かな?」
 拓哉さんは切れ長の綺麗な目元を見開かせて、驚いたように俺の顔を覗き込んだ。
「あいつらには、その事言うな」
「どうして?」
「おまえが神聖化してしまうだろ。同じポジションで高みに登れない」
「あ! それは俺も嫌だな。ただ、ピアノやってたから意外とキーボードもスムーズに使えただけだし……」
 子供の頃みたいに訳も無く、持て囃されるのは……もう嫌だ。
「悠真はなんでピアノ辞めたんだ? もしかして本格的に習っていたんじゃないのか?」
 俺は軽く溜息をついて昔の記憶を呼び起こした。
「…ん、一応ピアニストを目指してたよ。沢山色んな賞も取ってた。でも、それは子供の時の話。中学に入った頃からかな? 段々と賞も取れなくなってきたんだ。母親は必死になっててさ。家庭教師を俺につけてくれたんだ。「コンクールで賞を取る」そんなレッスンを俺は受けた。ひたすらピアノピアノの毎日だったし、俺も必死で寝る間も惜しんで頑張ったんだ。でも結局、成果は出せなかった。
 ……そこに尊敬してた家庭教師からダメだし食らってさ。その時はもうピアノばっかり弾く生活が苦痛になっていた。音大も受かってたけど、音楽から離れたくてその音大には進学しなかった。一年留年して普通の大学に入学して、四年間まったくピアノは触らなかったんだけど…」
 俺は服の下にある蒼いピックを、ぎゅっと握り締めた。
「Fate(フェイト)をここで聴いたんだ。そこで思い出した。…音楽のすごさに。あの感動は忘れられない」
「四年間忘れてたのに?」
 俺は拓哉さんを見て笑ってしまった。
「いや、たぶん10年位忘れてた。ただ賞を取る。ずっとそんな風にしかレッスンしてなかったように思うよ。だから弾きたいから弾くっていうのは、新鮮で楽しくて仕方がないんだ。Fiolaが俺に音楽の楽しさを思い出させてくれてた。すごく感謝してる」
 拓哉さんは大きな手を俺の頭にぽんと乗せて、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「よかったな」
 拓哉さんの手は心地良かった。胸に広がる暖かい気持ちと混ざりあって、眠気とうっとりとした気分が混ざり合う。
「…おい。そんな無防備な顔するな。押し倒すぞ」
「なっ! 拓哉さんすぐにそうやって俺をからかう!」
 顔がいつものように、かぁっと火照るのを感じた。そんな俺を見て、拓哉さんは又、お腹を抑えて笑ってる。
「本当に俺、ピアノ、ピアノ、ばっかで育ってきたからそう言う冗談に免疫ないんだよ! 笑うなって!」
 腕をブンブンと振りまわして怒ると、拓哉さんが俺の体をトンッと押して俺に覆いかぶさってきた。俺は床と拓哉さんに挟まれてぎょっとした。
「じゃあ、こんなのは? 初めて?」
「そうだよ! 初めてだよ!」
 俺は顔を真っ赤にして叫んだ。
 その時、俺はもう状況についていけず、いっぱい、いっぱいで何も考えられなかったんだと思う。男が男に押し倒される経験なんて、ないのが普通だ。そこを見落としている。
「昨日、俺の口の中でイったのに?」
 拓哉さんが俺の耳元で、低く重厚な声で低く囁く。背中がぞくり。とした。昨日された事を体が思い出してしまう。
「拓哉さん…っ! 重いから!」
 俺は必死で拓哉さんを押し返すが、拓哉さんの体はピクリとも動かない。手のひらに引き締まった拓哉さんの肩を感じて息を飲んだ。
「悠真…俺はおまえの事が好きだ」
「俺も拓哉さんの事好きですから! だから離して!」
 とりあえずこの状況をどうにかしたくて、自分でも何を言ってるのかが分からなくなってきていた。
「………好きなんだったら、俺を抱きしめてくれてもいいだろう?」
 ええっ? そんなもんだったっけ?
 思考がおかしくなってた俺は、恐る恐る拓哉さんの背中に手を回すと、拓哉さんはビクリと体を揺らして、それから体を揺すって笑い始めた。
 そうだよ。普通好きだからって抱きつかない。またからかわれた。
「もう! 冗談はいいから、本当離してって!」
「悠真は可愛いな」
 ゆるく耳朶を噛まれた。
「やっ…!」
 ゾクリとする感覚に目を白黒させると、拓哉さんは少し体を起こして俺の顔を覗き込む。その顔は完璧に整った容姿を最大限に魅せるような切ない顔だった。
「悠真。本当にキスしてもいいか?」
「ダメ!」
「なぜだ?」
「それは…それは…好きな人でもないのにキスとか!」
「おまえ、さっき俺の事好きって言っただろう?」
「えええっ! あっ! 言ったかも…」
「じゃあ、いいじゃないか」
 拓哉さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
「待って! 待って! なんか違う!」
 好き? 好き。どっちの好き!?
 拓哉さんは溜息をついて自嘲的に笑いながら俺から離れた。
「違う…か」
「え?」
「いや、いい。悠真、今日は疲れただろう。もう帰って早く寝ろ」
「あ、うん」
 その日。
 拓哉さんは珍しく車で送るとは言ってくれなかった――……。
 

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