Prelude(前奏曲)

彩城あやと

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プレリュード 第二章

プレリュード 第二章 ①

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「森野貴文(もりのたかふみ)くん。だったね。無理を言ってすまなかったね」
 ゆったりとしたソファーに身を埋めながら、不動産事業を営んでいる富永グループの総裁、富永司(とみなが つかさ)がそう言った。
 盲導犬であるラブラドールレトリーバーのセチアが、これが俺のご主人様? そう、たずねるような目で見上げ、尻尾をゆるゆる振っている。
 ドックトレーナーになった俺は、盲導犬のセチアと共に、盲導犬を希望した富永に呼ばれて、この屋敷とも言える大きな家に招かれていた。
 普通、盲導犬を希望されて、貸与する場合、まず手始めとして、目の不自由な人が訓練センターに宿泊しながら、約4週間、盲導犬との生活の仕方、歩行についてなどの訓練を行っていた。
 でもこの富永司は視覚障害者の息子が訓練センターでの宿泊を嫌がった為に、自宅での訓練を希望したのだ。
 盲導犬協会側としては、この富永家で指導するドックトレーナーは誰でも良かったようで、ただ富永家と俺の自宅がことのほか、近かった。それだけの理由で歩行訓練士の資格を持つ俺がこの指導に選ばれたように思う。
 富永の屋敷はでかくて、豪奢だったから、選ばれた俺はある意味俺は幸運なのかもしれない。
 富永は絶対的な威圧感を隠しもせずに口を開いた。
「盲導犬が息子を外へと向かわせる、きっかけとなればいい。そう思って、君の協会に申し込んだんだがね。肝心の息子が外泊を拒む、とは思っていなかったんだ。
 わざわざ呼び出して、自宅で訓練するなどと、親馬鹿だと笑うかもしれないが、それでもようやく授かった息子なんだ。どうにかしてやりたい。そう思う親心を汲んでもらいたい。息子はもう5年程、家を一歩も出ていなくてね。」
 富永は苦笑しながら、息子を紹介しよう。そう言って席を立った。
 天井のやたらと高い大きなリビングをセチアと二人後にして、毛足の長い絨毯が敷いてある長い廊下を通り抜け、最奥にある大きな扉の前まで来ると、富永は立ち止まった。
「ここが息子の部屋だ」
 コンコン。富永は扉に軽快な音を立ててノックしたが、中から返事はない。富永は俺を見て一瞬首を竦めたが「入るぞ」そう言って迷いもなしに扉を開けた。
 とたんに、廊下にピアノの旋律が溢れ出し、俺はリアルな音場空間に飲み込まれた。
 ピアノの旋律は、流れるように囁きながら消えたかと思うと、次の瞬間、奔流のように溢れ出していく。緩慢に上昇していくリズムに、俺はどこか懐かしさを覚えた。
 ……この音色。
 俺は誰かに胸を鷲掴みにされたように、息をすることすら忘れてしまいそうになった。
 富永に続いて部屋に一歩入り、だだっ広い室内を見ると、グランドピアノの前で黒いシャツを着た体躯のいい男が、ピアノを奏でている。
 それは、見覚えのある後ろ姿。
 ――まさか。彼は死んだはずだ。
 でもこの旋律は間違いなく彼のもので、奏でる後ろ姿も何度も何度も目に焼け付いている姿で――。
「湊、聞こえていないようなので、勝手に入ったぞ。ドックトレーナーの方がいらっしゃった」
 富永がピアノを弾いていた男に声をかけると、ピアノの音はわずかな残響音を残して鳴り止み、男はゆっくりと振り返った。
 太陽を浴びた事のないような、透き通った白い肌。色素の薄い少し長めの栗色の髪。焦点の合った盲目には見えない瞳。
 湊。
 5年の月日を経て、面影は少し変わってはいるものの、そこにいるのは優れた風貌のままの……湊の姿だった。
 癌で亡くなったと聞かされた湊が、生きていた。
 湊!!
 喜び勇んで走り出しそうになる足を止めた。
 湊は癌で亡くなったんじゃない。
 嘘を、付かれた。
 なんで……嘘まで付いたんだ……。
 セチアが足元で、クウ。と心配そうに鳴いた。俺の顔は今にも倒れそうなほど、真っ青になっていたと思う。
 死んだと思っていた湊が目の前に居て、俺がここに立っていることに気がついていない。
 目の見えない湊を見ると、昔と変わらず怜悧な風貌のまま、涼やかな表情で些細な音を、声を、拾おうとしている。
「森野くん、これが息子の湊だ。湊、こちらがドッグトレーナーの森野くんだ。そしてこれが盲導犬のセチア」
 挨拶を…しないと。でも湊が生きてたことが、ものすごいショックで。言葉が出てこない。このまま部屋を飛び出してしまいたい。ここに居るのが俺だと知られたくない。
 セチアがクウン。と心配そうに鼻を俺の足に押し当てた。セチアのぬくもりが伝わる。
 ……俺はドッグトレーナーだ。仕事に誇りを持ってる。訓練士としての仕事全うしないと。
 俺は気持ちを切り替えて、ハーネスをグッと握りしめ、自分が何をしに来たのか自分に言い聞かせて、震える唇を開いた。
「歩行訓練士の森野です。そしてこの盲導犬がセチア」
 俺の声を聞いた湊の目が大きく見開かれて、顔がみるみるうちに強張っていく。
 湊は俺がここに来る事を知らなかったみたいだ。 
 でも湊はすっと表情を変え、冷たいとも言える怜悧な表情を浮かべた。そして湊はピアノに向き直ると、鍵盤に指を滑らせ始める。
「……悪いが帰ってくれ」
 声こそ微かにかすれていたが、湊は、俺を受け入れる気配すらみせない。
『別れよう』
 それは湊の決意。
 嘘まで付いて俺を近寄らせなかった拒絶。
 言葉をなくした俺に代わって、富永が湊をたしなめた。
「湊、待ちなさい。これまでおまえの自由にさせてきた。だがもう潮時だ」
 湊の指は、ピアノを奏でる優美な動きを止めない。
「盲導犬を与えられても、父さんの跡を継ぐつもりはないと、何度も伝えたはずです。父さんには兄さんがいるでしょう?」
「そう言った話をしているのではない。それに潤(じゅん)は駄目だ。私の血を継がなかっただけに、あの放蕩ぶりには、目が余る」
「しかし、貴方の息子であることには変わりありません」
「湊、いい加減にしなさい」
 富永が有無を言わせない口調に変わると、ひくり。湊の肩が揺れた。湊と父親の間には絶対的な上下関係を思わせるものを感じる。   
 口を挟むことなんて出来そうにもない空気の中で俺は息を飲んだ。
 湊がこの富永家の嫡男だったなんて、思いもよらなかった。
 微妙な空気に、どうしたの? どうしたの? セチアが二人を交互に見つめると、富永はかがみ込んで、セチアの頭を軽く撫ぜ俺を振り仰ぐ。
「森野くん、四週間の訓練期間、息子が世話をかけるが、よろしく頼む」
 湊はそれを望んでいない。俺も湊の歩行訓練に付き合える自信なんてない。
 でも富永司はどうあっても、盲導犬の共同訓練を進めたいと考えてるようで、「この話は終わった」とばかりに部屋を出てしまう。
 残された部屋で、湊は静かにセレナードを奏でだした。
 それは昔の…幸せな淡い記憶を呼び起こさせる。胸がちりり、と痛んだ。
 湊に拒絶されてまで、盲導犬の訓練を行うなんて俺には無理だ。この話は断ろう。そう思った時に湊がピアノを奏でたまま口を開いた。
「森野、何故、ドックトレーナーになって俺の前に現れた?」
 ドッグトレーナーになったのは、湊が死んだと聞かされて、それでも湊を近くに感じたくて目指した。
 そしてこうして目の前に立っているのは。
「偶然だ。俺もここに湊がいるなんて知らなかった。俺が嫌ならドックトレーナーを変えてもらってくれ。希望は聞いてもらえる」
 俺はセチアに「行こう」そう促し、踵を返した。
「待て」
 ピアノの音が途絶えると、湊が音もなく立ち上がり「森野」と声をかけた。
 湊に名前を呼ばれるだけで、ドキリとした。
 湊、湊、湊。死んだと思って思い出が美化されてしまってる。嘘を付かれただけなのに。そのことが妙に切ない。
 返事が出来ないでいるともう一度名前を呼ばれた。
 俺が小さく返事をすると、湊は俺の声を頼りに、慣れ親しんでいるのか部屋の中を優雅な仕草で歩いて、俺の前で立ち止まった。
 湊は俺よりも体格がいい、背も10センチほど高く、視線を合わそうとすると俺が見上げる形になる。
 時間が経って少し変わってしまったけど、湊は昔と変わらない冷たくも見える精悍な顔で、俺を見下ろす。
「森野は4週間、何もしなくていい。ここに滞在して欲しい」
「俺には出来ない」
 出来る訳がない。
「何もしなくていいと言うのは、俺の勝手だとでも?」
「……ああ、盲導犬を望んで訓練を待ってる人もいる。そんな勝手に付き合えない」
「俺は盲導犬を必要としていないんだ。だから訓練も必要ない」
「尚更、俺が滞在する必要なんてないだろう?」
 湊は固く押し黙った。
「形の上で父親に逆らわない。そう言うことか?」
 湊は何も答えない。
 断るのは容易い事だと思う。一言「嫌だ」と言えばいい。
 でも……湊の頼みを断れない。たぶん湊とはもう一生会うこともなくなる。だからここで二度と会わない湊の願いを断れば一生後悔する。そんな気がした。たとえ、それがドッグトレーナーとして間違っていたとしても。
「……分かった」
 4週間だけここに居ればいい。
 湊と父親との確執のために……。
 俺は軽くため息を付くと、湊がかすかに微笑んだような気がした。
 湊から漂う空気みたいなものは、5年経っても変わらない。そんな感覚に囚われながら、俺はセチアのハーネスを外した。
 盲導犬はハーネスをつけている時、仕事中なんだというしつけを行っているから、自由になったセチアは、あそばないの? というように湊と俺とのまわりをグルグルとまわり出した。
 湊はそんなセチアの頭をぐるりと撫でると、またピアノを奏で出した。音は優美に、緩やかに、湊の指先から生まれてく。
 懐かしい湊のピアノの旋律。
 もう二度と聞くことのないと思っていた音が、躍動的に生まれて俺の中に染み込んでいくようだった。
 俺は、どさりと大きなソファーに体を沈めて、湊に聞こえないようにため息を付いた。
 湊が何もしないでいいと言うなら、何もしない。と、いうより出来るだけ、湊と関わりを持ちたくない。こうしてピアノも聴きたくない。
 そう思いながらも湊のピアノの音は俺の中で広がっていく。
 俺は長い、長い曲に、目を閉じた。
 逃げるように。意識を閉ざす。
 安らかな眠り。その中なら湊はきっといない………。


「……森野、寝てしまったのか……?」 
 夢の淵で、湊の小さな、小さな、つぶやきが耳もとで聞こえた。すうう。とした自分の寝息も聞こえる。
 毛先に湊の指先が触れて、ゆるりと梳かれた。
「……どうして、俺の前に現れたんだ……」
 ……湊こそなんで、癌で死んだと、俺に嘘をついたんだ……
 夢の淵に引っかかったまま。そう言いかけて。
 やめた。
 過去は変わらない。蒸し返しても、きっと傷が深まるだけ。嘘を付かれた事実は変わらない。
 だったら、何も聞かないほうがいい。これ以上傷付きたくない。
「偶然だ」
「森野……起きていたのか……」
 湊の指先が頬をするりと撫ぜたので、俺はそれを振り払った。目の見えない湊が俺の表情を探っただけだと分かっていても胸は痛む。
 これ以上、湊に振り回されるのはごめんだ。
「ハッキリ言っておく。ドックトレーナーを目指したのは、確かに湊の事がきっかけだ。でも今は違う。この仕事に誇りを持っている。だから、盲導犬を必要としてないおまえが、親父との確執で俺にここに居ろ。そう言ったこと、軽蔑している」
 湊は無表情で、すっと音もなく優雅に立ち上がった。
 この顔はポーカーフェース。間違いなくプライドの高い湊は怒っている。
「俺は森野がどう感じようとかまわない。4週間、ここにいてくれれば、な」
 そして、湊が慣れた足取りで部屋を出ていくと、セチアがむくりと起き上って、おいかけなくていいの? そんな顔をして俺を見上げた。
 俺の足は一本前に踏み出されていた。
 湊を怒らせた。そう思うと無意識のうちに足が勝手に前へと飛び出していたらしい。
「あんなやつ、もう……関係ないんだ」
 セチアは、そうなの? そんなふうに小首を傾げた。
 こじ開けられた傷が、湊の残り香で痛む。
 昔の事だ。もう忘れたい。4週間、湊の願いを聞いて、あとは何があってももう二度と会わない。じゃないと、自分が壊れてしまう。そう思って、俺はセチアを抱きしめた。
 「癌で死んだ」そんな嘘を付いてまで、湊は俺を拒絶したかったなんて…そんなひど過ぎる現実なんて知らなきゃよかった…。
 でも。
「生きてて良かった」





 その後、俺は執事の新堂という男に案内されてゲストルームへと入った。
 俺は湊に滞在中、何もしないでいい。と言われていた。湊に訓練する必要がなければ、湊のそばには近寄りたいとも思わない。
 俺は夕食の時間までゲストルームで何をするわけでもなくただ時間を潰した。
 でも夕食時にダイニングに呼ばれると、湊と顔を合わせることになる。
 今更どんな顔をして接しろと言うんだろう。
 でも湊は俺がダイニングルームに入っても顔色ひとつ変えることはなかった。
 もう関心すらないということか。
 俺の席は湊の隣に用意させたようで、空席になっている。俺がその席に座ると向かいの席には、湊よりも若く見える男が座っていた。
「ドックトレーナーの森野貴文くんだっけ? 俺は湊の兄の潤(じゅん)。よろしくな」
「…よろしくお願いします」
 軽い感じで話かけてくる潤はこの富永家で、一風浮いているように見える。
 湊も湊の父親も精悍な顔をして、凛としたような雰囲気を持っていたのに、潤は見た目がチャラい。赤みがかった茶色い髪は無造作にセットされ、ピアスや、ブレス、指輪や時計などの過剰な装飾品が目立ち、優男で男前の顔が遊び人を連想させてしまう。
 でも意外なことに潤は綺麗な箸運びで食事を進めていた。こう言ったことは育ち。そういうことなんだろうか。
 潤は俺にやたらと話かけ、隣に湊がいることを意識したくない俺も積極に話込んだ。
 潤は頭の回転も早く、会話が軽快で楽しい。気が合うそう感じると潤も同じだったようで俺が4週間、宿泊して共同訓練を行うことに喜びを隠さなかった。
 潤が笑うと周囲に花が咲いたように華やかになる。陽気で気さくな潤は俺のことは「貴文」と呼び捨てにして、食後はバックギャモンをしようと誘われた。
 何もしなくていい。湊にそう言われてた俺は、ヒマを持て余していたので、気軽に「いいよ」と返事をすると、潤は同じ暇人か。
そう思うくらい、無邪気に笑った。
 バックギャモンは潤の部屋ですることになったけど、セチアを部屋に置いてきた俺は潤に断りを入れて、一度、セチアの様子を見に自分のゲストルームに戻った。
 セチアも潤の部屋に連れて行くかどうか悩んだが、セチアは部屋に置いていくことに決めていた。
 潤が「犬は苦手だ」と言ったからだ。
 セチアは連れてって。
 そう思っているだろうな。ゲージの中で、あそんで。あそんで。そう尻尾を振るセチアの頭を撫ぜていると、部屋のドアがノックされる。
「はい」
 潤が迎えに来たのかと、扉を開けると、そこには湊が立っていた。
 今、俺がもっとも会いたくない人間のひとりだ。心が…かき乱される。
「……なんのようだ?」
 不愛想に俺がそう言うと、湊は神妙な面持ちで見下ろした。
「少し話がある」
「……悪いけど急いでるから」
 別に急いでいなかった。でも湊を目の前にすると心が乱れる。
 昔好きだった気持ち。急に別れを告げられたさみしさ。癌で死んだ。と悲しく綺麗に終わらせた残酷さ。
 俺が湊を押しのけ、一本前へ踏み出そうすると、湊はさっと顔色を変え、部屋に滑り込む。
 ドン。背中に衝撃が走り、湊が俺を壁に打ち付けたんだと知った。
「痛っ……! 何すんだ!?」
「潤には近づくな」
「は?」
「潤に近づくな。と言ったんだ。あいつの本性をおまえは知らない」
「何を言ってるんだ? おまえの兄貴だろう?」
「おまえはこの家の歪みを知らない。この後潤の部屋に行くと言っていただろう? さっさと断るんだ」
「なんでそんなこと、湊に決められなきゃならない?」
「森野!」
 湊が掴んだ肩に湊の指先が食い込んだ。懐かしい湊のぬくもりが、指先から伝わる。
「痛い…離せ!」
「いいから、大人しく俺の言うことを聞け! 潤のそばには近寄らない。そう約束するまで、離さない」
 離さない。
 昔何度も言われた言葉。
「おまえが何でも決めようとするな!」
 俺は湊を突き飛ばそうと両手を伸ばすと、湊は壁と間に俺の体を動けないように挟み込んだ。
 俺より体格のいい湊は、軽く俺を押さえつけ「どけよ!」と暴れても振うことが出来ない。
「静かにしろ」 
 湊は俺の両腕を掴んで壁へと体を押し当てた。
 湊の甘い吐息が、鼻先に、唇に、かかる。
 昔と変わらないぞくりとするような湊の甘い香り。湊のぬくもり。触れられている部分が熱い。
「ちくしょう……! 離せ! 俺に触るな! 潤がなんだって言うんだ! 遊びに行くくらいいいだろう!?」
 俺が剣のある声を出すと、湊は目を見開いた。
「森野は潤のことをどう思っているんだ?」
「はぁ!?」
 ゲージの中でセチアが、わわわん! と吠えた。
「ビークワイエット!」
 吠えるな。
 そうコマンド(命令)したのは湊だった。
 厳しくしつけられたセチアが、押し黙る。盲導犬訓練士は、英語のコマンド(声符)で犬を訓練する。でも。
「なんで湊が、盲導犬のコマンドを知っているんだ」
「音には敏感でね。うるさいのは好きじゃない」
 知ったように、セチアを操りやがって……!
「セチア、バラ…ん、んう……!」」
 俺がセチアに吠えろ。そう命令する前に、湊がすばやく俺の後頭部を掴み、俺の唇を湊の唇が塞いだ。
「んんっ、ん、う……っ」
 それはキスされたというより、口で口を塞いだ。という感じで、壁に押し付けられた俺がどんなにもがいても湊を振りほどくことが出来ない。
「ふ……っ、ん」
 シャツ越しに湊の心音が伝わる。早鐘が直接体に響いて……その音が自分のものなか、湊のものなのか分からなくなる。
 いっそ湊に噛みついてやろう。そう思って、口を開きかけると、湊に軽く唇を吸われた。冷たい顔をしてるくせにやたらと熱い唇が、塞ぐという行為から、キスに変わろうとしている。
 嫌だ。昔と変わらない湊の唇の熱さが嫌だ。
 固く唇を塞ぐと、部屋の扉がノックされて、返事も待たずに扉が開いた。
「貴文、遅いから迎えに来た……ぞ、と……」
「む……、ん、んん……!」
 扉を開けたのは潤で、壁に挟まれて湊にキスされているように見える俺を、驚いたように固まったまま凝視している。
 俺は湊の背中をドンドンと叩いて、解放されることを願ったのに、湊はぴくりともせず、むしろ抱きこむようにして唇を重ねる。
「んん、む、う……!」
「あ……えっと……お邪魔してしまった感じか?」
 潤が扉の前でそう言うと湊の唇が離れ、息苦しさに息を吸い込むと、湊の大きな手が俺の口を塞いだ。
「潤が見たい。そう言うなら見せてやってもいいが?」
「ん、んんん――っ!」
 冗談じゃない。
 俺の口を塞いでる湊の指をガブリと噛んでやると、湊は僅かに身じろいだだけで、潤から目を離すことがない。むしろ思いっきり噛んでしまった俺のほうが動揺してしまう。
「う~ん。いや…俺、帰るわ。貴文またな」
「んん……っ! んう――っ!」
 見られて困ってる訳じゃない! なんとかしてくれ!!
 俺の叫びは通じずに、潤はバイバイと手を振って扉をパタンと閉じる。
 でも湊は俺の口を塞いだ手を離そうとはしない。俺の歯は湊の指に食い込ませたまま睨みつけた。
「なんだ? ピアノしか弾けない俺の指を食いちぎるきか?」
 俺がいくら睨んでも目の見えない湊には、音と触覚でしか怒りを伝えることが出来ない。勇気を奮い立たせて、湊の指を更に強く噛む。湊は眉をひそめてその手を離すかと思ったら、引き締まった太ももを、俺の両脚の間に滑り込ませてきた。
「ぐ……、ん!」
 湊の太ももが、強く男の急所を抑え込む。もうここを抑え込まれると、男は身動きひとつ取ることが出来ない。
「大人しくしろ」
 ギッと睨むと、湊は綺麗に整った眉を片方上げて、さらに強く押さえ込んだ。
 叫ぶことも出来なければ、睨み上げて湊に怒りを伝えることも出来ない。もがくと急所を強く抑え込まれた。
「む、んん……っ、……ん、ぅ」
 本能的な怯えに首を振ると、口を塞いでいた湊の手が離れて、俺のもう片方の手を勢いよく壁に縫い付けた。
「離せ!!」
「震えてるのか?」
「……殺す」
「どうやって?」
 耳元で湊の少し掠れたような声が響いた。
「……! いい加減にしろ! 離せ…! セチア! バラック!」
 吠えろ。そうコマンドを与えられたセチアは、待ってましたとばかりに吠え立てる。
 湊はその声に眉をひそめて、俺の拘束をするりと解くと俺の体から体を離した。
 俺は湊を殴ってやろうと拳を振り上げて、拳が湊の顔面に当たる直前で……止めた。
 目の見えない湊は、拳を避けることも出来なければ、殴られることを覚悟して、歯を食いしばることも出来ない。
 ……無防備な人間を殴れない。
 くそっ!
「出てけ! 出てけよ!」
「話をさせろ。いいか、潤には絶対に近づくんじゃない。分かったな」
「危険なのはおまえだ! 二度と俺に近づくな!」
「四週間、森野はここに居る。そう言っただろ? それなら、嫌でも俺のそばにいるしかないだろう。まさか男に二言はある。そう言わないよな?」
「ぐ………っ!」
「じゃあな」
 湊は喉を鳴らして笑い、部屋を後にした。
 セチアはまだ吠え立てたままだ。
「セチア、ビークワイエット!」
 セチアはピタリと鳴き止んだ。
 俺はセチアのそばに言って、キチンと命令に服従出来たことに、ぐりぐりと首を撫ぜて褒めてやると、セチアは嬉しそうに目を細めた。
「セチア。利口な不服従。それをもう少し学んでいこうか」
 湊に「黙れ」そうコマンドされた時に、ここは鳴き続けるべきだ。とセチアは判断出来なかった。
 セチアは、わん! と尻尾をふりふり、大きな返事をしたけど、その場でしつけが出来なかったから、きっと何の事だか理解していない。
「ふ――……」
 もう潤の部屋に行く気はなくなった俺は、どさりと大きなソファーに身を埋めると、部屋に残るかすかな湊の香りを、嗅いだような気がした。
 

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