葉城探偵事務所

彩城あやと

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葉城探偵事務所 願いを叶えましょう ③

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おんおんおんおん。
 少女の右手が啼いている。手の甲にぽっかりと浮かぶ男が口を窄ませ啼いている。
 ひくひくと引き攣るように、少女の手がしなってる。
「いたい。いたい。」
 少女は仰け反るようにして、右手を差し出し、泣いてる。
 亨さんが少女のそばに立ち、その右手を掲げ、すっと息を吸い込み、玲瓏と低く響く声を出した。ぶわり。風もないのに空気が動いた。
「消えろ。」
 おんおん・・・。啼いてた声がピタリと止まり、少女はくたり、と倒れる。
 少女の右手に浮かんだ男の顔は消えていた。
 楓さんが鋭い声で叫ぶ。
「『それ』はまだ、祓えていない!」
 部屋がぐらり。揺れた。ぐらぐら。足元が揺れると、ずずずずっと影が動いた。
 ずずずずっ。
 テーブルのも。ソファの影も。俺たちの影も。部屋中にある影が少女に集まっていく。
 音はない。ただ部屋中にある影がすべて、なくなっていく。
 影のない世界。この世には存在しない景色。異世界。
 影はずるずると少女の右手に集まり、浮かび上がる男はおんおんと悦んだ。
 少女は気を失っているのか、ソファーに伏せたまま。時折ヒクリ。と揺れる。
 少女の右手は、影がまとわり、濃く、深い闇色をしている。黒い闇色が少女の右手を包み男の顔がぐにゃりと歪み、笑った。
 部屋中の影がすべて少女の右手に集まると、闇がぽとり。黒い液体みたいに床に落ちる。
 ぽとり。ぽとり。ぽとり。
 やがて黒い液体は少女の手から流れ落ち、床と少女の手を結ぶ。男の顔が輪郭を成していく。
 亨さんがすうっと息を吸い込み、その中心に手をかざす。それを見た楓さんが、くすくすと笑った。
「そっちじゃない。それはフェイク。本体はーー少女の頭上。」
 楓さんの言葉が終わると同時に、亨さんは少女の頭上に右手を掲げ、低くこう言った。
「消えろ。」
 ぱっ!
 闇が部屋に広がった。ーーああ。違う。影だ。影が部屋に戻った。
 少女の手には、もう闇はなく。男の顔もなかった。
「いなくなったね。」
 楓さんがくすくす笑うと、亨さんが掲げてた右手をゆっくりと下げて、その手でメガネを押し上げた。
 楓さんが視て亨さんが祓った。
 少女はむくりと起き上がり、まさに憑き物が落ちた。そんな顔をしてた。年齢すらよく分からなかった少女の顔はあどけなく、まだ十代後半じゃないかと思える。
「あの・・・私・・・。」
「どうされました?」
「いえ・・・すみません。なんだか、夢を見てたみたいな感じで、どう言ったらいいか分からないんですけど・・・。私厚かましいお願いをしたみたいで・・・。」
「それは雇用の件、ですか?」
「はい。」
「貴方は取り憑かれていたのでしょう。気に病む必要はありません。ただ今後のアドバイスとして申し上げれば、雇用を望む際、自分の名前を告げ、求人をしているのか確認する必要があります。そして面接の際には、履歴書を忘れずに。貴方がどこの誰かすら分からない。それでは雇用できかねますから。」
「あ・・・。ごめんなさい。」
「いえ、それとまだ『視える』ようであれば、医療機関に行くことをお勧めします。」
「え?でもさっきの幽霊を皆さん視ましたよね?幽霊っていますよね?」
「『幽霊が視える』それは統合失調症や脳の腫瘍が原因として挙げられるのはさきほども申し上げました。科学的に病名がつくのであれば、治療が必要になります。ただすべてが科学では解き明かせないことも事実、その時はこの葉城探偵事務所にご相談下さい。」
「えっと・・・?」
「そうですね。科学というのは理論と実験の集大成だと私は考えています。そして現代の科学が万能ではないことは、歴史を見れば明らかです。科学に限らず医学などの分野でもそうですが、今まで信じていた理論が覆るということはいくらでもあります。現代の科学による理解で『視える』という行為を否定してしまうと、逆に科学という立ち位置を否定することになってしまいます。この世に在らざるモノ、それはしごく身近な存在です。」
「だから困った時に、この事務所に来ればいんですね?」
「はい。その怪奇を調査し、解決致しましょう。」
「葉城探偵事務所。別名、幽霊探偵事務所・・・。分かりました。まずは自分に出来ることから始めて、それでも無理な時にはここにお邪魔します。」
 おかしかった少女が凛とした顔で微笑み、芯の強そうな女の子に見える。
 亨さんがそんな少女を見て微笑むと、少女が頬を赤く染めた。・・・亨さんはゲイだよ。俺はそう言ってやりたくなる。でもヤキモチなんて焼いてる場合じゃない。
 亨さんはこの子からも、相談料をふんだくるつもりかもしれない。そう思ったのに、亨さんはそんな請求しなかった。ただ、こんな言葉だけを伝えてた。
「見たところ貴方は未成年ですね?このような依頼に訪れる時には、保護者の方とお越し下さい。幽霊よりも、生きてる人間の方が怖い、貴方はまだそれを知らないようです。」
 少女は亨さんのその言葉にぺこりと頭を下げお礼を言うと、うららさと一緒に応接室のドアを開けて、帰って行った。
 そして影を取り戻したいつもの応接室に残ったのは、亨さんと楓さんと俺の三人。ああ、木箱が手を振ってる。私を忘れるなってことか。
 俺はちょっとした疑問を二人にぶつけてみた。
「ねえ。亨さん、楓さん。さっきあの女の子がおかしかった時、二人で合図を送り合っていなかった?」
 亨さんは何も答えず、代わりに楓さんがそんな亨さんと俺を見て、くすくす笑った。
「確かに亨はあの女が晴樹を傷つけないかと、心配していたね。」
「え?」
 亨さんはまったく俺を見ていなかったけど・・・。
「晴樹がハサミで切り刻まれるなら、自分が切り刻まれたほうがいい。そう考えたんだろう。だが亨の体は、俺のものだ。・・・亨のやり方で、少女をこの事務所から追い払う。その筋書きに俺は乗ってあげたんだよ。」
「筋書き・・・?」
「あの子は先天的なものか、後天的なものか。亨は女がサイコパスじゃないかと疑ったみたいだね。」
「サイコパスって?」
「亨が説明してあげれば?」
 楓さんがくだらなさそうに髪を掻き上げると、亨さんがため息を付いて口を開いた。
「サイコパス。それは精神病と識別されています。精神病質の原因として考えられているのは前頭葉の障害であるとされ、健常者の脳波とはまるで違う脳波を見せます。罪悪感も後悔の念もなく、社会の規範を犯し、犯罪も厭いません。ただ、少女の場合は『視える』と言いながら、うららさんを幽霊だと認識されていませんでした。だから、異常者なのか、心霊異常者なのか判別する必要がありました。そこで楓を利用した。…それだけです。」
「亨さんと楓さんが二人いないと、今回の件は解決しなかった。そういうこと?」
「・・・それは違います。他に方法はいくつかありましたので。」
 楓さんが髪を掻き上げてソファーに身を沈めくつろいだように言った。
「亨は俺が居なかったら、少女を煽って、晴樹から目をそらさせ、指の一つや二つ、落とすつもりだった?」
「それは貴方の解決方法でしょう。私と貴方は違う。」
 亨さんが冷たい声でそう言うと楓さんはくすり。と笑って、自分の手を光にかざしてた。
 亨さんと楓さん、合図だけで、そんな危険な状態の少女の怪異を即座に解決してしまった。・・・まさに金剛仁王像じゃないか。阿形、吽形。『あ。うん』の呼吸。
 俺が感心しながらも、恐怖でぶるっと震えると、楓さんがそれに気が付いて、ソファーから立ち上がり、目の前に立った。
 そして俺の頬を両手でそうっと囲む。魅惑的な瞳が俺を見据えた。
「もう。何も心配いらない。」
「ちょ・・・! 楓さ・・・。・・・・・・っ!」
 両手で囲まれ、楓さんを見ると、それは見つめ合う形になってしまう。さらり。楓さんの前髪が俺の額に落ちた。
 うっ! キスされる・・・っ!
 一歩仰け反った時だ。亨さんの低い玲瓏たる声が俺の背中を刺した。
「私には仕事がありますので、ここで失礼します。」
「は!?」
 なんなのそれ!?
 いつも俺が不安になると、一番に気が付いて、そばにいてくれる亨さんが、独占欲の塊で、楓さんに敵意むき出しの亨さんが、この状態でも放置してくの!?
「え!? ちょ、ちょっと待って!亨さん!? ・・・楓さん離して!」
 楓さんの手を振りほどこうとしたけど、力で楓さんに敵うはずもない。楓さんがくすくすと笑いながら両手で挟み込んだ俺の頬をむちゅっと潰したまま、亨さんはドアの向こうに消えた。
 そして応接室に残されたのは楓さんと俺の二人きり。・・・ああ、木箱から陽気に手を振ってるヤツもいる。・・・もう! 『手』!・・・自己主張はいらないよ!
「楓さん! 離して! と、亨さんを、亨さんを追いかけないと……!」
「そんなの俺には関係ないね。亨は勝手に出て行った。俺が晴樹を抱く、それでも構わないと思ったんだろう。亨は晴樹を捨てた。だから、俺が拾う。」
「俺は落し物なんかじゃない! ああっ! もう! 楓さんちょっと待ってて! 俺、亨さんの所に行って話してくる!」
「またそうやって逃げようとしている。・・・俺が待つと思う?」
 いや、思わないけど・・・。
 俺が顔をしかめて楓さんを見上げると、楓さんが影を落として微かに笑った。
「いいよ。晴樹からキスしてくれたら、それなら少しだけ、行かせてあげてもいい。」
 すっと楓さんの指先が俺の唇をなぞった。・・・楓さんはそんな事、俺に出来ないと思って言ってるんだ。
 でも俺は迷ってる場合じゃない。
 この願いの逃げ道、それはなんとなく思いついてる。いけるかどうか不安だけど・・・。でもなんとかなるはずだ。
 それよりも亨さんだ。一刻も早く亨さんを追いかけないと。何か言いたくてもあの人は我慢して言わないところがある。きっと一人で不安になってる。
『楓さんとひとつになって欲しい。』そう願った理由。ちゃんと伝えないと…。
 だから俺は迷わず背伸びして、楓さんの唇に自分の唇をくっつけた。
「晴樹・・・。」
 楓さんはゾッとするような色香を纏わせて、俺を見下ろした。
「や、約束だ。亨さんの所に行ってくる!」
 俺が力を込めて楓さんを振りほどこうとしたら、するり。その腕は簡単に解けた。
「・・・待ってるよ。」
 楓さんは綺麗に整った片方の眉を上げて、いつものように口元に微笑を浮かべず、囁くような声をだし、するりと俺の頬を撫でると、窓の外を見た。
「・・・雨だ。」
 窓の外を見ると雨が降ってた。冷ややかな雨がしっとりとアスファルトを濡らして、外の世界を烟らせてる。
  






 ガチャリ。
 応接室のドアを開けて、事務室に入ると、そこには亨さんがデスクに座って書類をめくってた。
 向かいのデスクでは隆盛くんと溝口さんが3DSで遊んでる。・・・なんなんだこの事務所。みんな仕事しないのかなあ。
 バタバタと足音を立てて亨さんのそばに駆け寄ると、みんなが一体どうしたのかと、振り返って見てたけど、今はそんなの関係ない。
「亨さん! 話がある!」
 俺がそう言っても、亨さんは書類から目を離さずに、冷たい返事しかしなかった。
「どうされました?」
 それは感情のない声。
 冷たく響く書類をめくる音がぱらりぱらりと響いてる。
 亨さんは俺を見ていなかった。
 俺は亨さんにとって興味のない人間になったみたいで心細くなる。
 亨さんは感情が薄いから、興味のない時なんてすごく分かりやすい。
 俺が『楓さんとひとつになればいい』そう願って、それを口にしてから、亨さんは冷たくなったように思う。
 亨さんは楓さんの『統合』についてこれまでも思い悩んでた。それなのに俺が『ひとつになればいい』なんて願ったから、酷く傷ついたのかもしれない。きっともう『統合』については何年も悩んでたはずだ。この間は自分を壊す勢いで、楓さんを『統合』しようとして、やっと自分なりの答えを見つけたところなのに、俺の願いを聞いてまた悩んでしまったのかもしれない。
「と、亨さん・・・。」
「はい。」
 ぱらり。書類をめくる手は止まらない。
 言葉が続かなくなった。
 こわい。亨さんが完全に俺に対して興味をなくしてしまってる。その態度が言動がこわい。
 なんて言えばいんだろう。
 長い沈黙。亨さんは何も言わない。俺も見ない。見てるのは目の前にある仕事だけ。俺を見ていない。
 俺は軽く息を吸って、口を開いた。
「話を・・・話を聞いて欲しいんだ。」
 カタン。
 亨さんが椅子から立ち上がった。
「・・・場所を変えましよう。」
「ん・・・。」
 俺は亨さんを見れなくなってた。
 どうやら俺は願ってはいけない願いを願ってしまったみたいだ。
 どうしよう…。
 亨さんは俺と距離を保ったまま、事務室のドアを開けて、ゆっくりと仮眠室へと移動して行く。
 俺はその後ろを、とぼとぼとついてくしかなかった。



 仮眠室へ入ると、窓から冷たい雨が吹き込んでいた。
 亨さんがその窓を閉めて、ブラインドを下ろす。亨さんの前髪は少し吹き込んだ雨にあたって濡れてた。
 いつもなら、その水滴をそっと手で払ってあげられた。
 でも今のこの距離では無理だ。触れることすら難しい。
数歩、歩み寄ればいい。それだけなのに、この距離がひどく遠く感じてしまう。
 何か話さないと、そう思うのに、何をどう口にしたらいいのか分からない。
 呼び出した俺が、何も話せないでいると、亨さんがカチャリとメガネをかけ直し、口を開いた。
「・・・なんの話ですか?」
 声が冷たかった。
「あ・・・・・・。」
 どうしよう。なんて言えばいんだろう。
 …こわい。何を言っても、嫌われそうでこわい。
 亨さんが俺を見なくなって、応接室に楓さんと二人、残した理由。
それは俺なんかもう、どうでもいいってこと。
 俺は言葉を失った。
『楓さんとひとつになればいい』と俺が願った理由なんて、亨さんにとってどうでもいい事なのかもしれない。
「ご、ごめん。何でもない・・・。俺、今日はもう帰る。」
「・・・二つ目の願い。どうされるんですか?」
 二つ目の願い・・・。楓さんに抱かれろって事。楓さんが応接室で待ってる。
「・・・・・・知らない・・・。」
 俺は踵を返して、ドアに手をかけた。
「晴樹さん・・・?私に何か話があるんでしょう?」
「・・・・・・もう忘れた。それぐらい軽い内容だったから。また思い出したら、その時、話す。」
 嘘だ。もうこの件については触れたくない。
このまま何にもしないで、時間を置けば…亨さんは、前のように俺を見てくれるようになるかもしれない。そう思ったんだ。
亨さんは興味なさげに頷いた。
「・・・では、そのようにいたしましょう。」
「ん。ごめん。」
 俺はドアノブを回した。
「・・・晴樹さん。」
「ん?」
「おそらく・・・。あの木箱の願いから、誰も逃げられません。」
「・・・・・・そう。」
 今、逃げても変わらない。亨さんはそう言いたいんだろう。でもおそらく俺の考えで木箱の願いは回避出来る。・・・でも、もうどうでもいい。
 手をひねると、古くて立て付けの悪いドアが、ガチャリ。大きな音を立てて開いた。
 俺はもう何も考えたくなかった。ただ、ここから出て行きたい。逃げ出したい。それしか考えられなかった。
くだらない願いを望んだ自分を悔む。
 ・・・亨さんに嫌われてしまった。時間を置いても、亨さんを傷つけた事実は変わらない。胸が痛い。だけど亨さんの前で泣けない。そんなみっともない真似、出来ない。
 じわり。涙が出そうになった。
嫌だ。泣きたくない。早くここから、亨さんから離れたい。
「外は雨です。」
 亨さんの静かな声が後ろから聞こえた。…見れない。後ろを振り向けない。
「・・・だから?」
「濡れてしまいます。」
「大丈夫、気にしないから。」
「せめて雨がやむまで、ここで待っていればどうですか?」
 亨さんは今も、俺を見ないんだろう。
楓さんに触られても俺の事放置してたんだ。そんな亨さんのそばで、雨がやむまでいられるはずがない。
 今すぐにでも触れたいのに、俺を見ない亨さんに触れるのがこわい。そばにいて触れられないなら、俺を見てくれないなら……。
 亨さんのいない世界に行きたい。
「いつ、やむか分からないから…。だから、今帰る!」
 俺は立て付けの悪いドアに体当たりするように、開けて外に飛び出した。
「晴樹さん!?」
 驚くような亨さんの声が聞こえたけど、もう目から涙がこぼれ落ちそうで、俺は全速力で廊下を走った。
 外は雨。濡れてしまえば、通行人だって…気づかない。
「う……っ。」
 走りながら嗚咽が漏れた。まだだ。まだ泣けない。
 ビルを飛び出すと、歩道にはパラパラと色とりどりの傘が咲いていた。
 その隙間をぬって走る。雨はしとしと降っていて、俺を濡らすほどでもない。
俺は走った。
 このまま、もっとこのまま遠くへ。


 走ってたどり着いたのは、小さな公園だった。遊具で踏みしめられた場所以外は、草が茂っている。しとしと。雨が公園を包んでいる。
 俺はそこのベンチに座った。背に、伸びた草つゆが触れる。空を仰ぐと雨が俺を迎えてくれた。
 走ると心は、からっぽになってた。
 もうどうでもよかった。何も考えたくなかった。逃げてるんだろうなあ。そう思ったけど、それで、よかった。
 走りながらは色々考えてた。この先亨さんとどう接すればいいのかとか、マンションに一緒に住んでるけど、そこでもう俺を見ない亨さんと生活していけるのかなっとか、亨さんが俺を抱くときも見てくれないのかなって…。そんなこと俺に…耐えられるんだろうか。って。
 ぽつん。さらさらと降る雨が、頬を伝って手の甲に落ちた。
 手の甲も濡れていて、水滴が集まって、つるんと滑っていく。
 ぽつんぽつん。手の甲に暖かい水滴が当たる。視界が滲んでいて、それが雨なのかどうか、俺には見えない。
 俺をずっと見ない亨さん。この先、そんな亨さん見て生きていけんのかな。
 俺はぎゅっと目を閉じて、悲しい気持ちも一緒に閉じてしまえばいい。そう思った。
 雨がさらさら体を濡らしてく。たまに草木から落ちる雨の水滴の音が聞こえた。
 ぱつ、ぱつ、ぱつ、ぱつ。
 雨の弾く音がして、体に雨が降ってこなくなった。
 かわりに低く玲瓏とした声が降って来る。
「貴方はどこへ帰る気だったんですか?」
 足元を見ると、黒い革靴から伸びたダークスーツが見えた。上を見上げる勇気が俺にはない。
「…帰る場所?」
 そんな場所、思いつかない。ひとりにして欲しい気持ちと、ひとりにしないで欲しいという気持ちが、混ぜこぜになって、手が震えた。
「さあ、濡れます。帰りましょう。」
 どこへ?
 俺は首を横に振った。事務所に帰ったって、亨さんはきっと俺を見ない。そして楓さんと木箱は、欲望を叶えるために待ってる。
 そんな場所。いらない。
「泣かないで下さい。」
「…泣いてない。雨だよ。」
「これは貴方の涙です。」
 亨さんのあたたかい手が頬に触れて、俺の濡れてしまった頬を拭った。
 見上げると、悲壮な顔で俺を、見ていた。
「あ……。」
 亨さんと目が合ってる。
「どうされました?」
「亨さん……俺のこと、嫌いになったのか、と…。」
 俺がそう言うと亨さんは驚いたような顔で俺をマジマジと見た。
「いいえ、どうしてそう思われるのですか?」
 緊張の糸がぷつんと解けると、笑ってしまった。俺、何やってたんだろ…。
「あ…。ごめ…」
 亨さんの暖かい手がそっと頬に触れた。その心地よい感覚にため息が出る。
「すみません。晴樹さんが泣いているのは・・・私のせいですか?」
「・・・そうじゃない、けど・・・。」
 亨さんに腕を掴まれて、体がふわっと浮いたかと思うと、亨さんの腕の中に俺はすっぽり収まっていた。暖かいぬくもりに包まれる。
 傘がぽつんと足元に転がる。
 深く息を吸うと亨さんの香り。暖かさ。言いようのない安心感に包まれる。ゆっくりと身を委ねると、亨さんは俺の髪を梳いて、時々その髪にキスを落した。
 しとしと。雨の音が聞こえる。ひんやりとした冷気が下から登ってきてたけど、 亨さんの腕の中は、暖かく居心地がいい。
「・・・すみません。どうやら私が貴方を傷付けたようですね。」
「・・・・・・違うよ。ただ・・・亨さんが怒ってるのかと思って…。」
 そう言うと、亨さんが俺をぎゅっと抱きしめた。
「すみません・・・。楓が、貴方が楓にも恋をしてる。そう聞いて・・・私は・・・私の世界は色を失っていたようです。貴方は私のものでないのは知っています。しかし・・・貴方が他の男を好きになるなんて…私には許せるはずもなく、何も・・・見えていませんでした。」
 亨さんの腕が微かに震えてる。
「俺が楓さんに恋?どうしてそう思ったの?俺が好きなのは亨さんだけだよ。」
「しかし楓が、同じ魂なら惹かれてもおかしくないと、言っていました。」
「楓さんは俺じゃない。俺の気持ちを勝手に決めつけられたら嫌だよ。俺は今、みんなを亨さんの一部として見てるだからみんな好きだよ。でもね。俺が愛してるのは、目の前にいる『亨さん』だけ。」
「晴樹さん……。」
 亨さん、不安だったんだ。俺は亨さんの胸に頬を擦りつけ、ほうっと息を吐いた。
 亨さんの香りにすっぽり包まれ、頭のてっぺんにキスが降ってくる。俺はうっとりと目を細めた。
「…亨さん。」
「はい。」
「大好きだよ。」
「存じ上げています。」
「なにそれ。亨さんって、自信家だね。」
「それは貴方が私に、自信を与えて下さるからです。こうして、私の全てを受け止めてくれる。そんな人間、今までに出会ったことなんて、ありませんでした。」
「じゃあ、もっと早く会ってたら良かったね。ああ。でも俺、謝らなきゃ。」
「どうされました?」
「俺の願い事。亨さんメガネかけたまんま生活してんの見てて、すごい不便そうだったから・・・。だから・・・。」
「・・・。だから楓とひとつになればいい。そう願ったんですね。」
「うん・・・。ごめん。俺、亨さんの気持ちを優先させるべきだった。本当にごめん。」
「いいえ。貴方は願い事を、私のために使って下さったんですから、謝る必要はありません。」
 亨さんが俺を抱きしめたまま、肩口でそう言ったので、声がくぐもって聞こえる。…またなんか我慢してる。
「無理…してない?」
「いいえ。ただ……。」
「ただ?」
「いえ、このまま時が止まってしまえばいいと思いました。……さあ、帰りましょう。濡れてしまいます。」
「ん。」
 ころり。転がった傘を拾って俺たちは、しとしと。雨が降る公園を二人並んで後にした。

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