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第1章 世界にただ一人、取り残されて
崩壊の中で目覚めて
しおりを挟む……それから、どれだけ経っただろう?
気がついたら、沙織は薄暗闇の中にいた。
強張った身体を投げ出すように、沙織は地面に倒れ込んでいた。
頭がガンガン痛む。
ぼんやりと目を開けて、沙織は曖昧な記憶を探った。
(……あれ、ここ、どこだろう……。あたし、何をしてたんだっけ?)
確か、今日は久しぶりに街へ出ることになったのだ。
学生時代の友達とランチをするために、都内地下の一番深くを走る都営大江戸線に乗って……。
「――あっ、夕飯は?」
どきっとして、沙織は跳ね起きた。
小学校高学年と低学年のうるさい元気な二人兄弟が、家で待っている。
……いや、その前に、ランチの待ち合わせをすっぽかしてしまったかもしれない。
(早く連絡しなくちゃ……)
しかし、沙織がスマホを探す手は、ほんの数秒で止まった。
だって、目の前が、崩壊していたから。
♢ 〇 ♢
地下鉄のホームを覆う壁や天井はそこかしこがボロボロに崩れて、滅茶苦茶になったアスファルトや鉄筋が顔を覗かせていた。
冷えた地面は荒れて汚れ、粉塵が積もっている。
薄暗いものの、何とか視界が利くのは非常灯が照っているせいだ。
しばらくの間、スマホがポケットのどこにもないことも、肩にかけていたはずの鞄がどこかにいってしまったことも、沙織は考えられなかった。
「嘘……」
気がつけば、沙織は、都営大江戸線の乗換駅にぺたんと座り込んでいた。
どこからか、機械油臭い猛烈な風が吹いている。
大地震でもあったのだろうか。見渡す限り駅舎中が滅茶苦茶に壊れて、無残な灰色の瓦礫の山と化していた。
線路が走る壁の辺りから、水がジャブジャブ噴き出している。
周りには、誰もいなかった。
沙織は、一人きりだった。
♢ 〇 ♢
「誰かー、誰かいませんかー!」
何度か大きな声で叫んでみたが、返事はなかった。
大地震が起きたにしては、……どうもおかしい。
人間の気配が、ほんの少しも残っていないのだ。
沙織のような負傷者が倒れているわけでもなし。
……死者がいるわけでもなし。
血の痕もない。
「……もしかして、夢?」
誰もいないものだから、家にいる時のように沙織は考えていることを口に出して呟いた。
一応在宅ワークはしているものの、子供向けの通信教育の回答などばかりで時間の縛りもなく、感覚としてはほとんど専業主婦のようなものだった。
自然と、独り言が増えた。
その癖がいかにもコミュ障で恥ずかしかったのだけれど、今はありがたかった。
自分の声でも、意味のある言葉が耳から入ると少し冷静になった。
……けれど、どうやらこれは夢じゃなさそうだった。
「だって、こんなリアルな夢、見たことないし……」
ゆっくりと立ち上がると、どうやら怪我はなさそうだ。
固い床に寝転んでいたせいで身体中があちこち痛かったが、それだけだった。
「誰かぁーっ! 聞こえたら返事してくださーい‼」
もう一度、今度はさっきより大きく声を張り上げてみた。
しかし、沙織の声の反響がどこからか聞こえるだけだった。
仕方なく、沙織は歩き始めた。
当てなんかなかったが、ぐちゃぐちゃに壊れた線路に流れ落ちる下水の音と勢いは怖い。
「こういう時は、上、だよね……」
そうでなくとも、自分はあまり賢い人間ではない。
それだけはよくわかっている。
無知の知とかいうけれど、本当だろうか? 自分が馬鹿だと知っているって、ただ事実を知っているというだけのことなのに……。
そんなだから判断力なんかあるわけもなく、沙織はいつも十歳年上の夫に頼りきりで生きていた。
そう――沙織は運の悪い女だが、夫運だけはよかったのだ。
おそるおそる、沙織は上へ続く階段を目指して歩き始めた。
♢ 〇 ♢
エスカレーターは止まっていた。
階段も半ば崩壊していたが、何とか上っていけそうだった。
エレベーターもあったが、これだけあらゆる建造物が壊れているのだ。
万が一非常用電力か何かで動いたとしても、漏電でもしていたら怖い。
息を切らせながら、沙織は階段をいくつも折れては上った。
「あー、お水飲んでくればよかったかな……」
地下深くで漏れていたあの水が、今になって恋しかった。
でも、あれは絶対に飲用ではないし、それこそ通電でもしていたら事だ。
しょうがなかった、これでよかったと、喉の渇きを覚える度に沙織は自分に言い聞かせた。
後悔と自罰は、沙織の性格だった。
何をやっても後悔、後悔、また後悔。
環境を責め、まわりを責めても、……結局最後は自分を責める。
能力不足、判断ミス、努力不足、体力不足、気遣い不足、思いやり不足……。
最後に残るのは自責ばかりで、経過で他責にあやかろうとしたことは後々さらなる自罰になって自分を苦しめる。
(何言ってんのよ。自分が悪いんじゃない……)
そんなのばっかりの人生だった。
自分にちっとも自信のないこんな性格うんざりだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「……おーい、誰かいませんかぁ」
時折、どこかへ声を投げてみる。
だけど、いくら階段を上っても返事はなかった。
大混乱――いや、大災害が起きたのは間違いない。
でも、皆いったいどこへ消えてしまったのだろうか。
……子供達は無事だろうか。
そう思い当たると、沙織はいきなり不安になった。
怖い。
怖かった。
子供達に何かあったらどうしよう。
「……いや、馬鹿! まだ何もわからないでしょ。一人でパニックになってどうすんの! 今は、とにかくここを脱出しなくちゃ……」
自分を叱咤(しった)して、沙織はまた進み始めた。
「そうそう。あの子達、学校だもん。地下鉄より、よっぽど安全に決まってる……」
……いや、それはどうだろう。
今いるこの都営大江戸線は確か国内でも最も地下深くに掘られた鉄道で、地震だとかミサイル攻撃があったら避難する先になっていた気がする。
「……いやミサイルとか! 根拠もないのに悪い方に考えるの、今はやめようよ」
こういう時、マイナス思考がいつも以上に情けなくなる。
原因が何にせよ、とにかく大きな事件が起こったのだけは間違いない。
……でも、周りに人の痕跡がないのはいったいどういうわけなのだろう。
異変が起きてから、……かなりの時間が経っている?
たとえば、その時の衝撃で脳震盪にでもなって、沙織は何年もあのホームで意識を失っていたのだろうか?
……けれど、沙織の身体にはそう痩せたような様子はない。
喉の渇きだって、〈運動後〉という程度で、ずっと水を飲んでいないという感覚もない。
いったい、どうしてこうなってしまったのだろう……。
何が何だか、さっぱりわからなかった。
♢ 〇 ♢
途中休憩を何度も入れて、ようやく沙織は改札へ出た。
「おお、コンビニ発見……」
非常灯に照らされたその文明施設を見て、沙織はほっと息をついた。
その小さなコンビニ店内は無人だったが、沙織は商品棚に陳列された未開封のペットボトルを何本も見つけた。ぐびぐび飲んだ。
食糧もあった。いくつか腹持ちのよさを売り物にする非常食にもなるお菓子を口に入れて、沙織は地上へ続く階段をさらに上った。
……地上へ出てみて、沙織は愕然となった。
「うお……。マジ……?」
学生時代みたいな口調になって、沙織はコンクリートの地面にへなへなと腰を着いた。
地上の光景は――世界の光景は、地下鉄駅舎以上に凄まじかった。
鉄筋コンクリートでできた高層ビルも、道路を固く舗装していたアスファルトも、スーパーや銀行などの入った建物も、何もかもが大小に砕けていた。
ありとあらゆる構造物が内部に秘めていたはずの無数の鉄骨や電線を露わにし、風に粉塵を散らしている。天に向かって伸びた柱や壁が途上で壊れ、無念の声を上げているようだった。
ビルなどの高層建造物の残骸は崩れながらも天高く聳えて、地平線までは見えない。
……けれど、沙織にはよくわかった。
見渡す限りの地上世界が、完全に壊れてしまったのだと。
何もかもが崩壊し、倒壊し、灰色と茶色の入り混じった瓦礫屑となり――……そして、誰もいなくなった。
生き物は誰も、何も、一人も、一匹も。
まるで、世界に沙織一人だけが取り残されてしまったようだった。
---
読んでいただいてありがとうございました!
もし本作の続きが気になってくださった方がいらっしゃいましたら、引き続きぜひぜひ読んでみてください!
小説サイトだと章立ては一階層しかできないので、実際は大きく四章構成なのですが、そちらは記載せずに更新進めてまいります。
本当は「第〇話」という構成なのですが、それだとわかりにくいので、こちらでは「第〇章」に変えさせていただきます。
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