1 / 1
歯痛と自殺
しおりを挟む
男は時折、生とは何か、死とは何かと考えることがあった。悟りを開こうというのではない。ただ、自分の生に妙に実感が湧かないのであった。
男は平凡であるが、何不自由なく暮らしていた。日本中何処にでもいるような両親のもとで育ち、小学校、中学校、高等学校と、極めて順調に進んでいた。大学は第一志望にこそ受からなかったものの、彼は自分の成績との妥協が成り立つ学校に進学することができた。その後、就職活動も不都合無く成功し、中の上と言った会社に勤め、心労こそあるものの、それなりの立場に就くこともできた。
人が彼の人生を評するならば、まるで模範のような人生と呼ぶだろう。悪事をなすことなく、それなりの成功を収め、人生の街道を地道に、踏み外すことなく進んでいる男であった。
ただ、男の人生で平凡でない所を上げるとするならば、妻子の不在が挙げられるだろう。男は既に三十路の後半に差し掛かっていた。人生に伴侶を求めるのであれば、そろそろ焦る頃合いである。
男もこの例に漏れず、人生を共に歩む人間を探していた。それに出会いが全く無かったわけではない。過去にはそう言った事を真剣に考えた相手も居た。しかし、結局そうはならなかった。
その原因を男に見つけることは容易である。彼は恋愛に熱中するということが無かった。そこが相手の女を傷つけたのである。今となってはそのように思い返すこともできるが、当時の彼にはその女心の機微が一切分からなかった。自分は真剣に交際していたつもりである。しかし、相手の女はその様に思っていなかった。昔の男は一方的に振られたと感じていた。女を恨みさえした。矢張り若かったのだなと今の男は思う。昔の自分には自分しか見えておらず、女にも女しか見えていなかった。男は自分も愛していたし、女は愛して欲しかったのだ。
男は昔のことを考えたのは、右頬が傷んだからであった。昔、女に頬を張られた時にも口を切った為か、ひどく傷んだものである。
男は頬の痛みの為に歯医者にいた。その待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。待合室にはいろいろな雑誌や漫画が置かれており、男のカバンの中にも文庫本が内包されていた。しかし、男は読む気がせずに、唯、ボウ……と窓から外を眺めていた。この病院では窓に斜光シートが張られており、中から外は見えるが、外から中は見えないようになっていた。
窓からは通りを挟んで高いビルが見えた。何かの会社が入っているのだろう。スーツを着た人間がちらほらと出入りしている。
ふと目線を上げた男はそのビルの上に人が一人立っているのに気が付いた。距離があるせいか、よく見えない。ただ、髪は長く風にたなびいている。男は自分の視力の低さを残念に思った。
しかし、彼は直後に自分の目に感謝することになった。ビルの上に立っていた人物は、ふらりとよろめくようになると、ビルの外壁に沿って、重力に引かれるままに地面に向かって真っ逆様に落ちていった。男は思わず「あっ!」と叫び、目の前に起こった出来事に対して驚嘆の声を上げると共に、自分の目を疑った。幻覚ではないか……と。
窓の外をもう一度確認すると、地面には人が倒れている。落ちた音が聞こえたのか、倒れている人間から少し距離を開けて、集まっている人も三々五々見える。
男は、思わず歯医者の扉を開け、外に出た。信号機は目の前にある。目の前で人が死んでいるというのに、信号機は守るなんて奇妙なことだ……と思いつつ、男は飛び降り死体のもとに急いだ。
年端もいかぬ少女であった。セーラー服の上にコートを羽織っている。そのせいで歯医者の窓からは学生と判別がつかなかったのだ。頭から落ちたらしく、頭蓋骨は半分ほどひしゃげ、色々な液体が辺りに散らばっている。顔は判別できず、首のみならず関節でない場所も含め、全身があちこちの方向に曲がっている。野次馬に来た者達の中には、あまりの凄惨さに思わず顔を背けている者もいる。
少女は靴を履いていなかった。ひょっとすると屋上にあって、遺書を下に挟んでいるのかもしれない。男はそう思い、少女が飛び降りたであろう場所を見上げた。何もなかった。ただビルがのんびりと建っているだけであった。このビルは自分から少女が飛び降りて自殺したことも知らないのだろうなと思うと少し可笑しい気持ちになった。
再び少女の死体を見る。血が固まってきたのか、流れなくなっている。体もどんどんと冷たくなっているのだろう。もうしばらすると、警察なり救急車なりが来て、少女を運んで行く。血も拭き取られ、明日にはこの場所に死体があった痕跡はまるっきりなくなっているだろう事は想像に難くない。そして、一月もたてば、少女がここで死んだことを覚えている人間も少なくなるだろう。一年もすればすっかり忘れ去られるに違いない。男は、その未来に少しだけ寂しい気持ちになった。俺が死んだ後もこうなるのだろうなと思った。
男がなおもじっと少女を見つめていたのは、そこに自分を見つけていたからだ。少女は、男であった。正確に言うなら未来の男であった。男は、結局警察がブルーシートで死体を囲い、人払いを始めるまで少女の死体を見つめていた。
漸くその場から動けるようになった男は歯医者での用事を思い出し、歩き始めた。思い出したかのように痛み出した頬をさすり、治療は痛むのだろうなと考えながら。
男は平凡であるが、何不自由なく暮らしていた。日本中何処にでもいるような両親のもとで育ち、小学校、中学校、高等学校と、極めて順調に進んでいた。大学は第一志望にこそ受からなかったものの、彼は自分の成績との妥協が成り立つ学校に進学することができた。その後、就職活動も不都合無く成功し、中の上と言った会社に勤め、心労こそあるものの、それなりの立場に就くこともできた。
人が彼の人生を評するならば、まるで模範のような人生と呼ぶだろう。悪事をなすことなく、それなりの成功を収め、人生の街道を地道に、踏み外すことなく進んでいる男であった。
ただ、男の人生で平凡でない所を上げるとするならば、妻子の不在が挙げられるだろう。男は既に三十路の後半に差し掛かっていた。人生に伴侶を求めるのであれば、そろそろ焦る頃合いである。
男もこの例に漏れず、人生を共に歩む人間を探していた。それに出会いが全く無かったわけではない。過去にはそう言った事を真剣に考えた相手も居た。しかし、結局そうはならなかった。
その原因を男に見つけることは容易である。彼は恋愛に熱中するということが無かった。そこが相手の女を傷つけたのである。今となってはそのように思い返すこともできるが、当時の彼にはその女心の機微が一切分からなかった。自分は真剣に交際していたつもりである。しかし、相手の女はその様に思っていなかった。昔の男は一方的に振られたと感じていた。女を恨みさえした。矢張り若かったのだなと今の男は思う。昔の自分には自分しか見えておらず、女にも女しか見えていなかった。男は自分も愛していたし、女は愛して欲しかったのだ。
男は昔のことを考えたのは、右頬が傷んだからであった。昔、女に頬を張られた時にも口を切った為か、ひどく傷んだものである。
男は頬の痛みの為に歯医者にいた。その待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。待合室にはいろいろな雑誌や漫画が置かれており、男のカバンの中にも文庫本が内包されていた。しかし、男は読む気がせずに、唯、ボウ……と窓から外を眺めていた。この病院では窓に斜光シートが張られており、中から外は見えるが、外から中は見えないようになっていた。
窓からは通りを挟んで高いビルが見えた。何かの会社が入っているのだろう。スーツを着た人間がちらほらと出入りしている。
ふと目線を上げた男はそのビルの上に人が一人立っているのに気が付いた。距離があるせいか、よく見えない。ただ、髪は長く風にたなびいている。男は自分の視力の低さを残念に思った。
しかし、彼は直後に自分の目に感謝することになった。ビルの上に立っていた人物は、ふらりとよろめくようになると、ビルの外壁に沿って、重力に引かれるままに地面に向かって真っ逆様に落ちていった。男は思わず「あっ!」と叫び、目の前に起こった出来事に対して驚嘆の声を上げると共に、自分の目を疑った。幻覚ではないか……と。
窓の外をもう一度確認すると、地面には人が倒れている。落ちた音が聞こえたのか、倒れている人間から少し距離を開けて、集まっている人も三々五々見える。
男は、思わず歯医者の扉を開け、外に出た。信号機は目の前にある。目の前で人が死んでいるというのに、信号機は守るなんて奇妙なことだ……と思いつつ、男は飛び降り死体のもとに急いだ。
年端もいかぬ少女であった。セーラー服の上にコートを羽織っている。そのせいで歯医者の窓からは学生と判別がつかなかったのだ。頭から落ちたらしく、頭蓋骨は半分ほどひしゃげ、色々な液体が辺りに散らばっている。顔は判別できず、首のみならず関節でない場所も含め、全身があちこちの方向に曲がっている。野次馬に来た者達の中には、あまりの凄惨さに思わず顔を背けている者もいる。
少女は靴を履いていなかった。ひょっとすると屋上にあって、遺書を下に挟んでいるのかもしれない。男はそう思い、少女が飛び降りたであろう場所を見上げた。何もなかった。ただビルがのんびりと建っているだけであった。このビルは自分から少女が飛び降りて自殺したことも知らないのだろうなと思うと少し可笑しい気持ちになった。
再び少女の死体を見る。血が固まってきたのか、流れなくなっている。体もどんどんと冷たくなっているのだろう。もうしばらすると、警察なり救急車なりが来て、少女を運んで行く。血も拭き取られ、明日にはこの場所に死体があった痕跡はまるっきりなくなっているだろう事は想像に難くない。そして、一月もたてば、少女がここで死んだことを覚えている人間も少なくなるだろう。一年もすればすっかり忘れ去られるに違いない。男は、その未来に少しだけ寂しい気持ちになった。俺が死んだ後もこうなるのだろうなと思った。
男がなおもじっと少女を見つめていたのは、そこに自分を見つけていたからだ。少女は、男であった。正確に言うなら未来の男であった。男は、結局警察がブルーシートで死体を囲い、人払いを始めるまで少女の死体を見つめていた。
漸くその場から動けるようになった男は歯医者での用事を思い出し、歩き始めた。思い出したかのように痛み出した頬をさすり、治療は痛むのだろうなと考えながら。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

結婚式後夜
百門一新
現代文学
僕は彼女が、可愛くて愛おしくて仕方がない。/結婚式の後、一次会、二次会と続き……最後は二人だけになってしまったものの、朝倉は親友の多田に付き合い四軒目の店に入る。「俺らのマドンナが結婚してしまった」と悔しがる多田に、朝倉は呆れていたが、友人達がこうして付き合ってくれたのは、酒を飲むためだけではなくて――僕は「俺らのマドンナが結婚してしまった」と悔しがる多田に小さく苦笑して、「素晴らしい結婚式だった」と思い返して……。
そんな僕の、結婚式後夜の話だ。
※「小説家になろう」「カクヨム」等にも掲載しています。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
アップルジュース
佐野柊斗
現代文学
本気で欲しいと願ったものは、どんなものでも手に入ってしまう。夢も一緒。本気で叶えたいと思ったなら、その夢は実現してしまう。
僕がただひたすら、アップルジュースを追い求める作品です。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。


思い出に花を、君に唄を
コップ
現代文学
いつもの日常を普通に過ごしていた。
トラブルはあるものの、そこまで思うことは無い毎日。
それでも、奇妙な巡り合わせが全てを変えてしまう。
失ってからしか気づけないモノは多い。
いくら足掻いても、一度失った物は元には戻らない。
失った者は、それでも前を向かなければならない。
どれだけの後悔や悲しみを抱えていても、人生は続くのだから。
そんな迷走を続ける会社員の日常譚。
毎週水曜日・金曜日に更新予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる