歯痛と自殺

芥流水

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歯痛と自殺

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 男は時折、生とは何か、死とは何かと考えることがあった。悟りを開こうというのではない。ただ、自分の生に妙に実感が湧かないのであった。

 男は平凡であるが、何不自由なく暮らしていた。日本中何処にでもいるような両親のもとで育ち、小学校、中学校、高等学校と、極めて順調に進んでいた。大学は第一志望にこそ受からなかったものの、彼は自分の成績との妥協が成り立つ学校に進学することができた。その後、就職活動も不都合無く成功し、中の上と言った会社に勤め、心労こそあるものの、それなりの立場に就くこともできた。

 人が彼の人生を評するならば、まるで模範のような人生と呼ぶだろう。悪事をなすことなく、それなりの成功を収め、人生の街道を地道に、踏み外すことなく進んでいる男であった。

 ただ、男の人生で平凡でない所を上げるとするならば、妻子の不在が挙げられるだろう。男は既に三十路の後半に差し掛かっていた。人生に伴侶を求めるのであれば、そろそろ焦る頃合いである。

 男もこの例に漏れず、人生を共に歩む人間を探していた。それに出会いが全く無かったわけではない。過去にはそう言った事を真剣に考えた相手も居た。しかし、結局そうはならなかった。

 その原因を男に見つけることは容易である。彼は恋愛に熱中するということが無かった。そこが相手の女を傷つけたのである。今となってはそのように思い返すこともできるが、当時の彼にはその女心の機微が一切分からなかった。自分は真剣に交際していたつもりである。しかし、相手の女はその様に思っていなかった。昔の男は一方的に振られたと感じていた。女を恨みさえした。矢張り若かったのだなと今の男は思う。昔の自分には自分しか見えておらず、女にも女しか見えていなかった。男は自分も愛していたし、女は愛して欲しかったのだ。

 男は昔のことを考えたのは、右頬が傷んだからであった。昔、女に頬を張られた時にも口を切った為か、ひどく傷んだものである。

 男は頬の痛みの為に歯医者にいた。その待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。待合室にはいろいろな雑誌や漫画が置かれており、男のカバンの中にも文庫本が内包されていた。しかし、男は読む気がせずに、唯、ボウ……と窓から外を眺めていた。この病院では窓に斜光シートが張られており、中から外は見えるが、外から中は見えないようになっていた。

 窓からは通りを挟んで高いビルが見えた。何かの会社が入っているのだろう。スーツを着た人間がちらほらと出入りしている。

 ふと目線を上げた男はそのビルの上に人が一人立っているのに気が付いた。距離があるせいか、よく見えない。ただ、髪は長く風にたなびいている。男は自分の視力の低さを残念に思った。

 しかし、彼は直後に自分の目に感謝することになった。ビルの上に立っていた人物は、ふらりとよろめくようになると、ビルの外壁に沿って、重力に引かれるままに地面に向かって真っ逆様に落ちていった。男は思わず「あっ!」と叫び、目の前に起こった出来事に対して驚嘆の声を上げると共に、自分の目を疑った。幻覚ではないか……と。

 窓の外をもう一度確認すると、地面には人が倒れている。落ちた音が聞こえたのか、倒れている人間から少し距離を開けて、集まっている人も三々五々見える。

 男は、思わず歯医者の扉を開け、外に出た。信号機は目の前にある。目の前で人が死んでいるというのに、信号機は守るなんて奇妙なことだ……と思いつつ、男は飛び降り死体のもとに急いだ。



 年端もいかぬ少女であった。セーラー服の上にコートを羽織っている。そのせいで歯医者の窓からは学生と判別がつかなかったのだ。頭から落ちたらしく、頭蓋骨は半分ほどひしゃげ、色々な液体が辺りに散らばっている。顔は判別できず、首のみならず関節でない場所も含め、全身があちこちの方向に曲がっている。野次馬に来た者達の中には、あまりの凄惨さに思わず顔を背けている者もいる。

 少女は靴を履いていなかった。ひょっとすると屋上にあって、遺書を下に挟んでいるのかもしれない。男はそう思い、少女が飛び降りたであろう場所を見上げた。何もなかった。ただビルがのんびりと建っているだけであった。このビルは自分から少女が飛び降りて自殺したことも知らないのだろうなと思うと少し可笑しい気持ちになった。

 再び少女の死体を見る。血が固まってきたのか、流れなくなっている。体もどんどんと冷たくなっているのだろう。もうしばらすると、警察なり救急車なりが来て、少女を運んで行く。血も拭き取られ、明日にはこの場所に死体があった痕跡はまるっきりなくなっているだろう事は想像に難くない。そして、一月もたてば、少女がここで死んだことを覚えている人間も少なくなるだろう。一年もすればすっかり忘れ去られるに違いない。男は、その未来に少しだけ寂しい気持ちになった。俺が死んだ後もこうなるのだろうなと思った。

 男がなおもじっと少女を見つめていたのは、そこに自分を見つけていたからだ。少女は、男であった。正確に言うなら未来の男であった。男は、結局警察がブルーシートで死体を囲い、人払いを始めるまで少女の死体を見つめていた。

 漸くその場から動けるようになった男は歯医者での用事を思い出し、歩き始めた。思い出したかのように痛み出した頬をさすり、治療は痛むのだろうなと考えながら。
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