上 下
8 / 17
戦間期(1932〜1941)

『大和』建造三 起工式

しおりを挟む
 溶接の利点とは、防御力である。
 A140の設計者である牧野大佐はその防御に非常な腐心を働かせていた。
 仮にこれの建造にリベットが使われた時にはどうなるか、それは昭和一二年九月に亀ヶ首射撃場で試験されていた。
  そこには、一門の砲があった。大正期に制作された四八サンチ砲である。これには砲と弾に加工を施し、一六インチ五〇口径砲と同等の威力が発揮されるようになっていた。それが睨む先には、鋼鉄の塊があった。実物大に再現されたA140の弦側装甲である。
「てっ!」
 掛け声と共に、轟音。砲弾が放たれる。
 鈍い音がして、鉄塊に命中したことが分かる。海軍の期待通り、弾丸は鋼を貫くことは出来なかった。しかし、内側に押し込んでいたのである。これは実戦で行われれば、浸水に繋がりかねない大事件である。
 即座に原因究明がなされ、それは甲鉄支持に使われていたリベットが剪断されていた事である事が判明した。
 牧野大佐は愕然とした。敵戦艦と互角以上に撃ちあえると思っていたが、思わない所に弱点があったのである。
 艦本では、漏水対策を施し、応急処置に終始しようとしたが、それは阻止された。福田少将である。
「電気溶接は、どうか」
 この時期、海軍は過渡期に入っていた。リベットから、溶接への。
 A140は新時代の戦艦である。それが、リベットを使ったが為に沈んでしまっては、いけない。福田少将はそう考えていた。
 溶接推進派がこれを強烈に支持。かくして、A140に使われるリベット量は大幅に減少する事となり、電気溶接がそれに取って代わるのであった。

 この戦艦は、集中防御を採用しており、水線長の半分以上が主要防御区画に含まれているのであるが、それ以外の部分も全くの装甲なしとはいかなかった。
 特に設計者の牧野大佐がこれに熱心であった。というのも、彼は前後部の非装甲部位に攻撃が集中した場合に、この艦が沈む事を恐れていたのである。
 牧野大佐は非装甲部位には、縦横に隔壁で仕切り、浸水を極限する策を用いた。それだけではない。電気溶接に よって、重量が制限される様になると、ここにも、装甲を加えた方が良いのではないかと考えた。そこで、条約型巡洋艦の砲撃にも耐えられる様に、ここを再設計する事となった。これには、必要以上にトップヘビーになる事を防ぐ意味合いもあった。

 牧野大佐がこういう、思い切った設計の変更に踏み切った原因は他にもある。
 駆逐艦『朝潮』。昭和一二年に就役したこの艦は、元々四〇〇〇浬の航続距離の予定であった。所が、蓋を開けて見ると、それが五〇〇〇浬を超えていたのである。
 用兵側にとっては喜ばしい話かも知れないが、造船側にとってはそうではない。明らかな重油の積みすぎであり、その分を船体を軽くするとか、装甲を厚くするとかに使えた筈なのだ。そう考えると、手放しでは喜べない。
 牧野大佐はもしやと思い、A140の設計図を見直してみた。すると、これでも航続力の超過が起こっているではないか。
 現場では、一グラムの誤差さえ許していないのだ。これで、重油が必要以上に積み込まれているとなれば、その現場の努力を無駄にしかねない。
 これは大変な事だ。牧野大佐はそう思い、直ぐに設計の見直しを行った。
 結果として、搭載予定の重油量の実に八パーセントが余計な出費である事が分かった。

 A140軽量化への取り組みは、他にも見られた。
 通常は、甲鉄を甲板に付ける時に、パッキングウッドという物を使い、隙間ができた場合には、これで調整を行っていた。
 しかし、この戦艦では、それが使われない事となった。A140程大きな艦となると、木材とはいえ、その重さは大きな物となる。
 しかし、人間の仕事である。誤差はどうしても生じてしまう。そのままにはしておかない。海水が流入して、錆びの原因となってしまうからだ。
 そこで、隙間ができてしまった場合には、油性の充填材を注入するという手段が取られた。

 A140の起工式は、昭和一二年九月一五日に行われた。この時には既に、ドックの底には艦の背骨とも言うべき竜骨キールが置かれており、更には垂直竜骨も据えられていた。
 起工式の当日、朝七時に作業が開始された。しかし、この日は異様な空気があった。
 その原因はA140が建造されるドックにあった。ドック中央には、呉鎮守府司令長官加藤隆義中将を始めとする鎮守府の高官、呉工廠長豊田貞次郎中将を始めとする責任者らの姿があった。
 起工式そのものは、他の艦と変わらないものであった。しかし、ここに作られようとするのは、四六サンチの主砲を持つ戦艦という、途方も無い物であった。

 一〇月一日、西島少佐は遂に船殻主任に任ぜられた。これは以前から決定していた人事であり、西島少佐もこれの準備に余念がなかった。その為、これにより何か不都合が生じることは無かった。
 A140の建造は、愈々本格的に進んで行く事となるのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

永艦の戦い

みたろ
歴史・時代
時に1936年。日本はロンドン海軍軍縮条約の失効を2年後を控え、対英米海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗するために50cm砲の戦艦と45cm砲のW超巨大戦艦を作ろうとした。その設計を担当した話である。 (フィクションです。)

戦争はただ冷酷に

航空戦艦信濃
歴史・時代
 1900年代、日露戦争の英雄達によって帝国陸海軍の教育は大きな変革を遂げた。戦術だけでなく戦略的な視点で、すべては偉大なる皇国の為に、徹底的に敵を叩き潰すための教育が行われた。その為なら、武士道を捨てることだって厭わない…  1931年、満州の荒野からこの教育の成果が世界に示される。

蒼雷の艦隊

和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。 よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。 一九四二年、三月二日。 スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。 雷艦長、その名は「工藤俊作」。 身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。 これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。 これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

空母鳳炎奮戦記

ypaaaaaaa
歴史・時代
1942年、世界初の装甲空母である鳳炎はトラック泊地に停泊していた。すでに戦時下であり、鳳炎は南洋艦隊の要とされていた。この物語はそんな鳳炎の4年に及ぶ奮戦記である。 というわけで、今回は山本双六さんの帝国の海に登場する装甲空母鳳炎の物語です!二次創作のようなものになると思うので原作と違うところも出てくると思います。(極力、なくしたいですが…。)ともかく、皆さまが楽しめたら幸いです!

我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。 一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。 二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。 四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。 五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。 そして、1907年7月30日のことである。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

処理中です...