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戦間期(1932〜1941)

『大和』の産声四 新たなる惨事

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 昭和九年末、欧州より、日本に帰って来た男がいる。彼は、平賀譲、藤本喜久雄の何方からも支持を受け、更には次世代の日本造船会を背負って立つ男と目された、人物である。彼は名前を牧野茂といった。
「藤本さん……」
 彼は、友鶴事件について耳にしていたので、帰国して直ぐさま、藤本少将の元に向かった。しかし、彼を出迎えた者は、かつての栄光が見る影もないほどに、憔悴していた。牧野大佐は、『友鶴』の設計者である。その為、自責の念に堪えられなかった。
「藤本さん、『友鶴』の件ですが……申し訳ありません」
 牧野大佐の言葉に、藤本少将は、ゆっくりと首を振る。
「まぁ、その話は落ち着いてから、ゆっくりしようや」
 牧野大佐は、不吉な物を感じないでもなかったが、そう言われてしまえば、引き下がるほか無かった。

 臨時艦艇性能調査委員会に迎え入れられた平賀は、問題有りとされた数々の軍艦艇を、容赦なく手を加えていった。そこには、藤本少将の設計した物だから、というのも多分に働いていた。尚、この時の復元値は、経験値である。
 一度、牧野大佐も平賀に『友鶴』に与えられた改善方針は、過分にすぎないかと平賀に尋ねたことがある。しかし、平賀はこう答えるに止まった。
「乗員の士気を考慮し、水準より相当上回る数値にすることが必要と考えられたからだ」

 事件は、昭和一〇年にも起こった。
 この年の八月一二日、特型駆逐艦の『叢雲』の艦首の鋼板に、皺が発生した。一四日の朝、艦政本部からは、牧野大佐がこれに出向いた。
 この艦は、昭和四年に就役したばかりであり、まだ数年しか経っていない。被害が発生した様子を聴取しても、時化はあった物の、決して強いとは言えない物であった。
 牧野大佐は、強度不足が原因ではないかと、考えた。

 横須賀に入渠した『叢雲』を調査した結果、重量軽減のため、版厚が極めて薄くなっていた事が原因であると、推定された。
 本来であれば、本格的な修理が必要なのであるが、それでは今度の大演習に間に合わなくなってしまう。その為、詳細な計算をせず、勘によりガーダーを増設して、補強を行うという、苦肉の策が取られた。
 牧野大佐自身は、特型駆逐艦は完全に補強工事をした後にでないと、演習に参加してはいけない、と意見具申したが、軍令部を始めとする各機関による、反対意見に押し切られ、応急工事をせずに、演習に参加することとなった。

 大演習は予定通り行われることとなった。この時は、一部の者が不安を抱えていたが、殆どの人間が、この後に起こる大惨事を予見できなかった。
 最初の事件は、九月二六日に起きた。演習の最終項目となる、対抗決戦を目前としたこの日、それまで停滞していた台風が、にわかに動き出し、艦隊を襲った。
 最初に被害を受けたのは『初雪』であった。この艦は、襲い来る波に翻弄されながらも、何とか航海を続けていた。しかし、艦首に真面に波を受け、第一煙突付近に、亀裂が発生した。『初雪』の受難は終わらない。その半時間後、三角波に見舞われたこの艦は、艦首が無くなるという、大被害に見舞われた。
 『初雪』は、この後『羽黒』に曳航され、港に帰ることとなった。
 被害に遭った艦は、『初雪』だけではない。『夕霧』も艦首を失い、『睦月』『朝風』『朧』『望月』は艦橋が潰されていた。
 被害は駆逐艦に止まらない。空母『龍驤』『鳳翔』、重巡『妙高』軽巡『最上』潜母『大鯨』も損害を負っていた。しかし、演習前に、応急工事を行った艦は、何も無事であった。

 大きな損傷を受けた艦を除き、演習は予定通りに進んで行った。そして、全項目が終了した後、第四艦隊事件と名付けられた、この事故の査問会が開かれた。
安定性スタビリティが解決したと思ったら、今度は強度ストレングスか」
 海軍の技術士官は、誰となくそう言い合っていた。
 強度不足への対策は、艦政本部第四部計画主任、福田啓二少将が中心となって行った。しかし、問題は山積していた。
 元々、設計時の重量を超過している艦に補強工事を施そうとすると、重量が更に増えるという事が、最大の問題点であった。自然、兵装を取り除くしかないとされた。
 しかし、ここで、平賀が吼えた。第四部の部員会議である。
「兵装を減らさずに対策は出来る」
 ただでさえ、事故で兵員の士気は下がっている。ここで、兵装が減れば、それは限りなく下がるであろう。平賀は、それを恐れていた。
 勿論、彼も無為無策で言ったのではない。特型には、乾舷に余裕があると見込んでの、この決断であった。

 この会議で平賀が目の敵にしたのは、電気溶接である。彼の保守的な思想の元には、電気溶接は危険な物と映っていた。現に、この事件で大破した『夕霧』や『最上』は電気溶接を多分に使っており、『大鯨』については、殆どの行程が溶接となっていた。
「艦体が折れたのは、電気溶接を無闇に使用したからだ」
 しかし、リベット工法の艦もその体が折れているのである。どちらにせよ、艦体に想定以上の負荷がかかれば、しわが出来、引きちぎられるのだ。リベットは寧ろ、その穴に沿って亀裂が走ることもある。
 ここでの、平賀の対応は度を越した物であった。それは、自然と反発を招く。
「しかし、『初雪』や睦月型も損害を負っていましたな」
 そう言ったのは、福田少将だった。
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