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第1章

第10話 お香を焚くしかなかった

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 リューテシアの泣き顔を初めて見てから年月が経ち、俺は成人になった。
 無事に前世で言うところの中学生になったことで、お祝いとして一人称を『僕』から『俺』にも変えた。

 すでに社交界デビューを果たし、母に晴れ姿を見せて、デビュタントするリューテシアのエスコート役も務めた。

 その時の婚約者殿はまさかの黒いドレスで登場し、明るい色味のドレスを着る女性が多い中、周囲を圧倒していた。

 胸には俺がプレゼントした黒薔薇を模したブローチを身につけ、「本物? まさか。贋作がんさくですわ」とお上品に笑っていた。
 その隣で俺が冷や汗を流していたのは気づいていただろうか。

 俺がプレゼントした本物の黒薔薇は今でも彼女の部屋にある机の中だ。
 なんでしおれも、枯れもしないんだよ。

 今更ながらに魔術の恐ろしさが身に染みた。

 俺はこの数年で部屋にあった魔術書を全て書庫に戻し、魔術には触れないようにしてきた。

 その代わりに体の成長も相まって剣術や武術を重視するようになった。
 父が以前新しく雇った剣術の先生というのが、おじいちゃんのくせにとんでもなく強い男で未だに弟と二人がかりでも太刀打ちできない。

 構えがなってないとか、踏み込みが甘いとか至極真っ当な指摘をされるものだから、従わざるをえなかった。

 おかげで手のひらの豆は何回も潰れて、まともに握手できなくなった時期もある。
 こんなに豆を潰したのは、小学生の頃の逆上がり練習以来……いや、それ以上だ。

 俺が躍起になって自主トレをするものだから、弟のトーマまで付き合って豆を潰す羽目になってしまった。
 おかげで、俺たちは仲良く妹のリファに薬草を塗り込まれ、絶叫した。

 酷い日はフォークやスプーンも握れやしない。

 もちろん婚約者殿には内緒だ。
 リューテシアは人一倍心配性だから、会うときは必ず手袋で隠すようにしている。

 あれから飼い猫との別れを受け入れられたようで、一緒に墓参りしても泣かなくなった。

 俺もこの世界の生活にすっかり慣れて、あの無機質な電子音は一度も聞こえてこない。
 破滅という二文字は常に頭の中にあるが、俺にハニートラップを仕掛けてくる女性は一人として現れなかった。

 思春期真っ只中だから、ここから開幕するのもしれないが……。

 相変わらず、父は領主としての仕事が忙しく家を空けることが多い。
 普段の勉強に加えて、嫡男としての教育も始まり、仲の良いメイドにはからかわれたりしている。

 そんな穏やかな日々が突然崩れた。

 安定していた母の容態が急変したのだ。
 父は仕事を放棄してすっ飛んできたし、俺たち兄妹も母の手を握って何度も声をかけた。

 すっかり痩せ細ってしまった母の呼吸がどんどん浅くなっていく。
 母は俺たちに「ずっと愛してる」という最期の言葉を伝えて、息を引き取った。

 死期を悟った母が密かに準備を進めていたらしく、早々に葬儀が執り行われた。

 元貴族令嬢の母の告別式には多くの人が訪れた。
 その中にはファンドミーユ子爵一家もいた。もちろんリューテシアも。

 式は滞りなく進み、父は一度も涙を見せずに役目を終えた。
 俺はその背中を見つめながら、両脇で泣くトーマとリファの頭を撫でることしかできなかった。

 葬儀が終わり、静まり返った屋敷の廊下を歩く俺の心もまた無音だった。

 何も感じないといえば嘘になる。だけど、実感が湧いてこなかった。

 前世でも家族や友人の葬式を経験したことのない俺はこの状態が普通なのか、異常なのか分からなかった。

 母といっても彼女はウィルフリッド君のお母様で、俺の本当の母親ではない。

 俺は泣けばいいのか?
 ウィルフリッド君の代わりに悲しんでいいのか?

 そんなガキみたいなことばかり考えていた。

「ウィル様!」

 背後からかけられた声に振り向くと、そこには肩で息をするリューテシアがいた。

 他の参列者はまだ外にいるはずだ。
 これから母を埋葬後に解散となって、俺たちは喪に服すはずなのに、なんで彼女がここにいるんだ。

「ちゃんと泣きましたか?」

「父が泣かないのに、俺が泣くのはおかしい」

「泣きたい時は泣くべきだ、と仰ってくれたのはウィル様です」

 リューテシアに手を引かれ、誘われるように私室へ入ると彼女は後ろ手に鍵を閉めた。

「頼りない胸で恐縮ですが」

 そう言って、俺の頭を押さえるリューテシア。
 ちょうど彼女の胸の高さまで押し込まれ、後頭部に両手が重ねられた。
 顔面がリューテシアの胸の中に沈み込むという不思議な体験だった。

 決して頼りなくなんてない。
 俺の身長が伸びたように、リューテシアもまた成長しているのだ。

「最近はわたしのことを避けていましたね。今日は離しませんよ」

「そんなこと……」

 膝をついた俺を抱き締めるリューテシアの手に力がこもる。
 顔はどんどん熱くなっていくのに、力は抜けていった。

「ウィル様はわたしと一緒に泣いてくれた強くて優しい方です。わたしはそんなあなたを尊敬しています」

「俺は……俺は――っ」

「今日は泣いていい日です。無理に強がる必要なんてありません」

「リュシーっ。俺は、魔術が使えるのに、母をっ! 母を救えなかった。そればかりか日に日に弱っていく姿に目を背け、感謝の言葉すら伝えていない!」

「……はい」

「リファのデビュタントまではって言ったのに!」

「……うん。うん……っ」

 目の奥からはとめどない涙があふれて、前が見えない。
 頭を撫でてくれているリューテシアの温もりが更に拍車をかけた。
 やがて、リューテシアの声も鼻声混じりになり、一緒に涙を流してくれた。

 しばらくその場から動けず、俺を探しに来た侍女の声で我に返った。

「こんな顔では戻れない」

「いいえ。今はその顔で戻るべきです。何も恥じることはありません。誰にも馬鹿にはさせません。わたしが隣にいますから」

 リューテシアは励まして、力強く俺の手を握ってくれた。
 二人並んで家族の元へ戻った俺は目元を泣き腫らしたまま、堂々と母を埋葬し、リューテシアとも別れた。

 その日の夜。俺は母の言葉を思い出していた。

 家族と聞いた最期の言葉は「愛している」だったが、その前にもう一言ずつ言葉をもらっている。

 俺には「魔術は本当に必要なとき以外は使わないでね」というものだった。

 これから先、花の色を変えることしかできない魔術を使う機会が訪れるとは考えにくい。でも、母との約束は絶対に守るつもりだ。

 そう思えば思う程に、俺がウィルフリッド・ブルブラックとしてお母様と関わった日々を思い出してまた涙が止まらなくなった。

 我慢できず、机の中を漁り、いつかリューテシアに無理矢理持たされたお香を取り出して火を点けた。

 部屋中を満たす、甘くてやさしい上品な香り。

 ここには居ないはずなのに、数時間前と同じようにリューテシアの胸に抱かれているような不思議な感覚だった。

 俺は彼女を一番近くに感じながら一夜を明かした。
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