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第三章 中学生編
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―――8月8日。
「さて、こんなものかな?」
私は自室の鏡の前で自分の姿を今一度確認する。
長くなった髪を降ろして、ある程度邪魔にならない様に編みこんでいる。
紺色のパーティドレス。Aラインのスカートがいい感じに魅せてくれて、肌をなるべく出したくないと私が要望した通りに白のレースで出来たストールを用意してくれたからそれを肩から羽織っている。
あ、そうだ。ネックレス。樹先輩に貰ったネックレスが必要だ。正しくは指輪だけど指にはめるつもりは欠片もない。
本当ならこのネックレスだってつけたくない。
何ゆえに大事な友達であるユメを陥れようとしている相手、しかも自分に喧嘩を売って来た相手のくれた物を身に着けなければならないのか。
かと言って、これをつけないと会話も出来ない上に下手するとまた新しい指輪を用意されてしまう。それはちょっとごめんだし。
先日、久しぶりに華菜ちゃんと再会して、二人で仲良くお茶を飲んだ。
華菜ちゃんは元々乙女ゲーム本編で情報屋を担当していただけの事はあり、私の今の状況を既に知ってて、情報をくれた。
綾小路家のこと。それから高瀬不動産のこと。この情報は本当にありがたかった。
特に綾小路家のことは本当に助かった。だって知らなければ私は桃の身の安全を保障する事が出来なかったから。
華菜ちゃんに話を聞いて私は直ぐに金山さんに連絡をして、桃を家へ呼んだ。実家に帰ったら絶対危険だろうと思ったから。案の定、桃はホテルで身を隠すように過ごしていた。聖女の三年生は夏休み帰省を強制されるからね。
家にはお兄ちゃん達がいるし、金山さんと真珠さんって超人もいるし、友達である私や優兎くんもいるから安心だろうし。
しかし、あの綾小路菊が樹先輩に惚れてたなんて。それで恨まれるってどうなの?なんだったら貰ってってくれても構わないのに。もう…。
何はともあれ、樹先輩に聞く事聞いて、ユメの無実な罪を撤回しなければならない。不思議な事に今は男に会いに行く恐怖より、友達を貶められた怒りが先に立っていた。
机の上に置いておいたドレスと同じ色と同じ素材で出来たハンドバックを手に持ち部屋を出る。
すると、そこには真珠さんが綺麗な黒髪を横に流すように一つに結び、黒のスーツをバッチリと着込んでファイル片手に立っていた。
「お、お嬢様…とても、お似合いですっ。くぅっ…」
興奮状態の真珠さん。折角の美しさが台無しですよー。
と思いつつもちゃんと確認もして貰うのも大事。うん。
「おかしいとこないかな?」
くるっと回転して見せると、
「大丈夫でございますっ!美し過ぎるっ!これが、女神なんですねっ!…ふぅっ」
大丈夫と肯定して、何か褒め称えられて、真珠さんは顔を真っ赤にして幸せそうに倒れた。
ん。これ、どうしてくれようかっ。
あの店を辞めて、私の秘書になってくれた真珠さんは、こうしてたまに幸せそうに気を失う。それに慣れつつある自分がなんか嫌なんだけど。
「鈴?準備出来たの?」
隣の部屋からスーツ姿の棗お兄ちゃんが出て来て私は一瞬息を飲んだ。
やばい。イケメンのスーツ姿。超似合う。破壊力抜群だね。足も長いし、白いシャツが眩しい。ジャケットを肩にかけて腕のボタンを止めている。
意識が飛びそうな程カッコいいけど今は自分もそれなりに盛装しているので、お兄ちゃんに確かめてみる事にする。
「棗お兄ちゃん、おかしくない?」
真珠さんにも確認して貰ったけど、棗お兄ちゃんにも一応確認を取る。
くるっと棗お兄ちゃんの前で回って見せると、
「うん。大丈夫。ちゃんと綺麗で可愛い鈴だよ」
ニッコリ笑って褒めてくれた。うん。棗お兄ちゃんも大丈夫だって言うならきっと大丈夫。おかしな所は無い筈。
「あれ?鈴。そのネックレス…」
「これ?」
私は軽く指に引っ掛けて持ち上げる。すると棗お兄ちゃんは眉間に皺を寄せた。棗お兄ちゃんのこんな顔も珍しいよね。怒るってのとはまた少し違うと言うか、何か複雑そう。
「付けて行くの?」
「うん」
「どうして?」
「え?どうしてって。そんなの決まってるよー。ユメの事も白鳥に喧嘩売った事も全て知った上で自分の父親を止められないような屑ならこれ叩きつけて返そうと思って。えへっ☆」
態とぶりっ子して言ってみる。けれど、その返答にいたく満足したのか棗お兄ちゃんは満面の笑みで頷いた。
「そっか。もし、知らないようでも叩きつけてきたらいいよ」
うんうんと頷きながら頭を撫でてくれる。棗お兄ちゃん、優しい。その手に自分から額を押し付けてぐりぐりと逆に懐いてみる。
「………可愛いっ…」
棗お兄ちゃんが小さく何か呟いた。何だろうとは思いつつも癒し系の棗お兄ちゃんから離れがたくて擦り付く。
…あー…棗お兄ちゃん。癒しー…っといけない。あんまり棗お兄ちゃんに甘えててもいけないんだよね。今日は私が先に会場に行くんだから。
パーティ会場でなるべく早めに挨拶回りを済ませて、樹先輩に直談判しなきゃいけない。
「じゃあ、棗お兄ちゃん。先に行ってるね。真珠さん、行こう」
「はいっ、お嬢様っ」
何時の間にか復活していた真珠さんと一緒に階段を降りて、真っ直ぐ玄関へ向かう。
玄関でヒールを履いていると、後ろからママに呼び止められた。
「なぁに?ママ」
首を傾げると、いつになく真剣な表情でママは私を見た。
「……美鈴。危なくなったら直ぐ逃げてきなさい。良いわね?」
ママが念を押すように私に訴える。どういう意味か解らないけれど、ママがここまで真剣な顔をして言うのは珍しい。なら、それに問う事はしない。きっと本当に気を付けなければならない何かがあるのだ。
気を入れ直さなければ。覚悟を決め直さなければ。
私はママと向かい合ってしっかりと頷いた。
「私達も後から行くけど、やる事をしっかりやったら帰って来ていいから」
「ん。分かったっ。じゃあ、行って来ますっ」
行ってらっしゃいとママに見送られ、真珠さんが回してくれた車に乗り込む。
流石金山さんの血族なだけあり、とてもスムーズな運転で、ほとんど信号で止まるようなこともなくパーティの会場のあるホテルへと辿り着いた。
ホテルの人に車を止めて来て貰うように真珠さんが指示を出して、私達は二人で受付へ行く。
パーティへ来たと告げると、直ぐに案内の人が回されて、エレベーターから最上階へと案内される。
会場へ辿り着くと、正式な受付がありそこへ招待状を差し出す。すると、中へどうぞと促され、私達は中へと入った。
豪華なシャンデリアと自分の顔が映って見えそうな位に磨かれた床。両サイドにはバイキング形式の料理が並べられており、専属のシェフがゲストの皿へと取り分けていた。
「まずは挨拶回りから、かな。主催は猪塚先輩の所の鹿森(かもり)社長。猪塚グループ創設当初から猪塚を支えている猪塚グループの最強の盾、で合ってる?」
「はい。猪塚グループの四分の一の企業は鹿森社長が管理しています。他の企業も鹿森社長の手腕を買い傘下に入りたがっているものの、鹿森社長は猪塚会長を尊敬しており、害する事は一切なさらないとか」
「成程。…うん。賢そうな人なんだね。色んな意味で」
「はい」
「なら、まずは普通なら主催者に挨拶する所だけど、猪塚先輩のご両親に挨拶に行った方が良さそうね」
私は足を会場中央にいるであろう猪塚先輩のご両親へと向かった。
パーティ会場ってのは男も結構多い。結構って言うか大半……?だ、ダメダメっ!意識したら駄目っ!男の人とある程度の距離を取りつつ、けれど堂々と歩かなければいけなくて。これがまた結構精神を使う。
うぬー。MPゲージがあったらガリゴリに減ってるだろうなー。怒りゲージが高いから維持してるけど、このモードが切れたら一気に数値は0になりそう…。
なんて、バリバリにゲーム用語で説明した所でこの状況を変える事が出来る訳じゃない。結論としてはさっさと挨拶を済ませて樹先輩に会うしかない。
ざっと会場を見る限りだと樹先輩はまだ来ていない。来ない可能性はなさそうだけどな。だって猪塚先輩の所だし。ここでちゃんと顔の繋ぎを作っておかないと、後々大変だろうしね。
会場中央に辿り着きやっとお目当ての人物を見つけて、私はそちらへ足を向けた。
「失礼致します。猪塚会長でいらっしゃいますでしょうか?」
冷静に微笑んで、優雅を心がけて一礼する。
「そうだが…君は?」
「失礼しました。私は白鳥美鈴と申します。本日はパーティにご招待頂きまして有難うございます」
再び微笑む。すると猪塚会長が驚きに目を見開く。
「白鳥美鈴…。白鳥総帥だったか。いや、こちらこそ失礼した。初めて貴女の姿を見た時も可愛いご令嬢だと思っていたが、いやはや、まさかここまでお美しく成長されていらっしゃるとは」
「まぁ。ふふっ、猪塚会長は女性を喜ばすのがとてもお上手なのですね」
「いやいや。世辞などではないですよ」
「有難うございます。でも私には会長の奥様の方がよほど美しく思いますよ」
会長から視線を逸らし、その隣で凛と佇む着物を着こなした美人に微笑む。
すると、その女性は顔を真っ赤にして顔を逸らした。何故?
いや、それよりも………さっきから背後から恐ろしい気配を感じるんです。
殺気とかではないんですよ?そーゆーのじゃなくて。
ダラダラと背中に冷汗が流れる。それを顔に出さないようにするのに一苦労だ。うぅ…。
「会長は幸せ者ですね。美しい奥様に支えてくれるご子息。それに頼れる部下がいらっしゃいますものね」
頬に手を当てて、今はまだいない樹先輩に対する嫌がらせの様に言う。
そして、今の発言をした所為で、気配は近づいてくる。もう、ここまで来たら誰だか解る~…。解りたくないけど解るよー…。
「あぁ、ようやく来たか。要」
ですよねーっ!
会長が私を通り越した後ろに向かって声をかけていたから私のこの気配察知能力は正常だったんだと必要のない自信がついてしまった。
「…もしかしなくても…白鳥さん…?」
私はしっかりと距離を取ってから、出来るだけ猪塚先輩のお母さんの横に近づいてから振り返る。
すると、猪塚先輩の瞳はカッと見開かれ、ついでその瞳は嬉しそうに輝き、そして何故か両腕を広げた。え?なんで?
「会いたかったよっ!白鳥さんっ!!さぁ、飛び込んできてくれっ!!」
「いや、無理ですからっ!」
「大丈夫っ!遠慮しなくてもいいよっ!どんなに君が勢いよく飛び込んできても僕は決して倒れないっ!」
「そう言う問題じゃないですっ!」
「じゃあ、僕が行くよっ!!」
「そう言う問題でもないんですぅっ!!」
もとのヤンキークールキャラ何処行ったっ!?
今になって彼に日本語をきちんと教えたのを後悔しそうになる。
「え、えっとっ、私、主催者の鹿森様にも挨拶に行かなければならないので、これで失礼致します。あ、奥様、今度ご一緒にお茶でもしましょうねっ、ではっ」
飛び込んできた猪塚先輩を紙一重でかわし、猪塚先輩の腕の中に先輩のお母さんがいる事を確認して、素早く次の挨拶先である鹿森社長の下へと急いだ。
そこからの挨拶は巻きに巻いた。だって少し話す度に猪塚先輩が後ろに立って抱き着こうとするんだものっ!
真珠さんがどうにか止めようとしてくれてるんだけど、それを簡単に振り払うんだから。猪塚先輩、体が大きくなった分だけ能力がアップしてる。
怖いよー、やだよー…抱き着かれたら叫んじゃうよー…。
じりっと背後にまた気配がする。まだ追いかけてくるのー?
初めて会った時から思ってたけど、猪塚先輩執念深い。
そろそろ、挨拶回りも終わりに近づいて来てるから、何か食べに行くていで逃げ出そうかな。
目の前の小企業の社長さんに挨拶をして逃げようとした、その時。
「美鈴ちゃん」
私を呼ぶ、神様のような声が聞こえた。
そちらへ視線をやると、そこには最近セーラー服に見慣れてしまいすっかり男の子だと言う事実を忘れそうになっていた優兎くんがいた。
優兎くん。貴方もスーツがとても似合う男性になりましたねっ!おばさん涙が出そうですっ!そして、私を猪塚先輩から助けてくださいっ!
そう言えば優兎くん髪伸ばしてたな。わざとだろうけどね。女の子の中に混じりやすいように。でも、不思議とその髪を後ろに流して一つに結ぶと全然女の子に見えない。立派な男…、う…、だ、駄目だ。優兎くんは家族。家族だから。意識したら今まで平気だった優兎くんまで避けなきゃいけなくなっちゃう。
「…美鈴ちゃん?どうしたの?…って、あぁ、成程。猪塚先輩の所為だね」
優兎くんがスッと私の後ろに立って、背後から迫る猪塚先輩と対峙した。
うん。今がチャンスかな。小企業の社長さんにしっかりと挨拶を交わし、その場を離れる。
避難の意味も込めて、バイキングの方へ足を延ばす。女性のシェフがいる方に行こう。
…うーん。ついでだから何かお腹に入れよう。何がいいかな?お肉…はパス。うぅ…前世はお肉大好きだったのに、小学校の時優兎くんを助けて風邪引いて以来肉料理を受け入れられなくなってしまった。いや、食べれるのよ?食べれるけど、量が入らない。
だからこの間のカツサンドは辛かった。美味しいは美味しいんだけどね。うん。あのサンドイッチでかかったから。逆にお魚料理はかなり好きになった。お刺身ってこんなに美味しいんだと衝撃を受けたよ。
でも、ここでお刺身を食べるのもちょっとね。デザート系にしよう。えーっと…あ、あれ可愛い。一口サイズのケーキが沢山並んでいる。
「ねぇ、真珠さん」
「はい。なんでしょう、お嬢様」
「ケーキ、食べてもいいかな?少しくらいなら、いいよね?」
念の為に許可は取っておく。
「勿論ですよ。どちらをお召しになりますか?」
「えっと、えっとね、あのブルーベリーのとマスカットの奴がいい」
わくわくして言うと、真っ赤な顔をした真珠さんが取って参りますっ!と走って行った。真珠さん走ると人にぶつかる…訳ないか。真珠さんだもんね。
真珠さんが戻って来るまでの間どうしようかと手持無沙汰を満喫していると、背後から声をかけられた。どうして皆後ろから声をかけるんだろう?
振り返ると、そこには桃がいた。
「桃?なんでここに?今日は旭達とゲームするって喜んでなかったっけ?」
「えぇ。そのつもりだったのですが。私にも招待状が届いてしまいまして。…綾小路本家から態々銅本を通して私に届けてくるからにはきっと何かあると」
「…成程。それは怪しいね」
桃は艶やかな黒髪をモダンにアップし簪で止めている。その簪も清楚で桃にとても似合っている。着ている真っ赤な着物と相まって誰もが見惚れるほどの大和撫子に仕上がっていた。
「出来る事なら私も旭様達とゲームをしたかったですわ。まだ一度も勝てていませんものっ」
「ふふっ。旭は私やお兄ちゃん達に鍛えられてるからね」
むくれる桃が何だか可愛くてつい笑みが浮かぶ。すると桃もふっと笑みを浮かべ私の手をそっと握った。
「王子に綾小路から連れ出して頂いてから、私毎日が夢の様に楽しいんですの。…本当に感謝しか、ありませんわ」
「何言ってるの、桃。まだ、桃の目的、果たしてないでしょう?」
「えぇ。そうですわね」
にこにこと二人して手を握って微笑み合っていると、そこでようやく猪塚先輩を遠ざけた優兎くんが戻って来た。
「本っ当にしつこいよね、猪塚先輩って」
「そうなんだよ。解ってくれる?優兎くん」
「今改めて感じて来たよ。それより、はい、美鈴ちゃん、桃ちゃん」
手渡されたのはケーキが乗ったお皿。どうやら真珠さんに頼んだものを優兎くんが受け取って持って来てくれたらしい。
「わっ、ありがとう、優兎くんっ」
「ありがとうございます」
二人で受け取って、私は早速フォークで一口大のケーキを更に半分にして口に含む。
んまーっ!!
心の中だったらどんだけ叫んでもバレないよねっ。鴇お兄ちゃんにならバレそうだけど今はいないしねっ!!
うまうまとケーキを口に含む私を優兎くんがじっと見ている。
んん?どうかしたのかな?
食べたいのかな?だったら…。
私は半分にしたケーキの残りをフォークで刺して優兎くんの前に差し出した。
「はい、優兎くん。あーん」
「ちょっ、美鈴ちゃんっ!?」
狼狽する優兎くんに、あれ何か間違ったか?と思いつつもここで自分で食べるのも何か違うと思い首を傾げた。
「……はぁ。もう、兄達に怒られるよ?」
そう呆れながらもケーキをパクッと口に含んだ。ちゃんと咀嚼して飲みこむと、軽く咳払い。
「僕が美鈴ちゃんを見ていた理由は別にケーキが欲しいとかじゃないから。…美鈴ちゃん。桃ちゃんに来たこの招待状、どう思う?」
「まぁ、安直に考えるなら、桃はまだ綾小路家の跡取り。菊が戻されたとは言え、桃の方が彼らにとっては使い勝手の良い駒。だから綾小路家の負債を払えるような男とくっつけるべく、相手になれるような男がいそうなパーティに出席させ顔を覚えさせて、あわよくばその日の内に既成事実を作ってしまおうって感じかしら?」
「…美鈴ちゃん。そこまでハッキリ言わなくてもいいよ…」
「…ねぇ、優兎くん?私ね、真珠さんに頼んで、火事の事とか色々調べたんだけど…、なんでかな?パズルのピースが足りないのか、繋がらないのよ」
「繋がらない?」
「うん。私達はどうにも大きな何かに翻弄されてる気がするの。すっごく馬鹿にされてる気がする」
「美鈴ちゃん?」
「…それがね、滅茶苦茶腹が立つのっ」
明らかな苛立ちを露わにすると、会場の入り口の方がやけにざわついた。
何事?耳だけ意識をそちらへ向けると、答えはあっさりと出て来た。
「樹財閥のご子息が会場入りしたそうよ?」
「あら?なら早速見に行きましょうっ」
「財閥界の王子様を見なきゃ帰るに帰れないわ」
…樹先輩、財閥界の王子とか言われてんの?うっわー、うっけるーっ!―――(後に私が財閥界の姫と呼ばれているのを知って頭を抱える事になるけど、その事を私はまだ知らない)―――
………ん?ちょっと待てよ?良く考えると乙女ゲーム本編でもメインヒーローなんだから王子様扱いって当然じゃん。
私の方がおかしいんでは?
隣の優兎くんを見て自分の考えが正しいのかおかしいのか確かめようとしたら、優兎くんが顔をしかめていたから私の反応はどうやら間違いじゃなかったらしい。うん。良かった。
さて、どうしようかな。
樹先輩も挨拶回りあるだろうし、少しここでケーキを食べつつ、あちらが落ち着いてから襲撃をかける事にしよう。
優兎くんと桃と話しをしながら少し時間が過ぎるのを待つ。
すると再び入口がざわつく。きゃーきゃーと黄色の声も響き渡っている。男性の息を飲む声も聞こえてくる。
誰が来たんだろう?そっと伺ってみると、誠パパにママ、お兄ちゃん達が到着したらしかった。こりゃ騒ぎますわ。
お兄ちゃん達が到着する予定時刻は知っていたから、そろそろかなと私はお皿を真珠さんに渡して、樹先輩のいる方へと足を向けた。
お兄ちゃん達にお客さんの意識はとられているだろうから、多分問題なく近づけるだろう。
男性を避けて、女性の側を通る様にして挨拶回りを終えた途端にご令嬢たちに群がられている樹先輩の下へ来た。
「樹様」
口々に話しかけている女性達に混じって、私がその名を呼ぶと彼は一発で気付きこちらを見てフリーズした。
何故こういう時に限って声が届くのだろう…。結構距離を置いたはずなのに。ご令嬢の垣根を越えて行く気はなかったから、態々そこから少し距離を持たせたのに。
「……まさか、美鈴、か?」
まさかって何だ、まさかって。この野郎。
私は怒りを含めてにっこりと笑うと、何かを察した先輩がご令嬢たちを掻き分けて私の前に立った。
嘘ーっ?こんなに背伸びたのっ!?
双子のお兄ちゃん達に追い付きはしないもののかなりの高身長になっていた。あー…けどそんなイケメン王子。ゲームのスチルと同じような格好のスーツを纏ってばっちり決めてるのに。
「本当に、美鈴か?」
悪い笑みを浮かべられると、別人に思えてしまう。
「えぇ、お久しぶりですね、樹先輩。あ、そこから近づかないで頂けますか?でないと私叫んじゃいます」
と言いながら近づいてくる樹先輩から距離をとる。
「ははっ、あぁ、間違いなく美鈴だな。で?どうした?お前がパーティに出てるのも珍しければ、俺に話しかけるのも珍しいじゃないか」
「ふふっ。私が好きで話しかけてる訳ないでしょう?樹先輩、ちょっと面貸せ…ごほんっ、お面をお貸しくださいませんこと?」
私は出来るだけ丁寧にお願いした。…が。
「お前、それ、言い直されてないぞ」
呆れたような、諦めたような表情で溜息をつく樹先輩に良いから黙ってついて来いと私は先頭をきって歩きだした。
真珠さんに頼み予め借りていた会場であるホテルの一室。そこへ私と樹先輩、桃と優兎くんが中へ入り、私は三人にソファに座る様に促す。四角い高級感溢れるテーブルに一人用のソファが部屋の奥と手前で二脚ずつ並べて置かれている。
奥の方のソファに何の抵抗も遠慮もなく樹先輩が座り、桃はその反対側に立ち、樹先輩と向かい合う事のない方のソファへと座った。
それを確認して私は電話をとり、フロントへ何か軽く食べるものを適当に数種類、それから飲み物を頼み樹先輩の前に腰を下ろした。注文したものはきっと真珠さんが受け取ってくれるだろう。最悪樹先輩の銀川さんが受け取ってくれるから問題はない。
「それで?何を聞きたいんだ?」
髪を掻き上げながら言う先輩に私は素直にイラッとした。相変わらずこの人の俺様な態度は変わっていないようだ。
一度イライラが戻ってくると、増々腹立たしくなってくる。
「おい、美鈴。用があるなら早く言え」
気付けば手を振り上げていた。
―――バァンッ。
机を力の限り拳で叩きつけていた。
それに驚いていたのは、ただ一人樹先輩だけだ。何故なら、背後に私と桃を守る様に立っている優兎くんも、隣で冷静な顔をして樹先輩を見続けている桃も私が怒った姿を見た事があるし、怒ってる理由も知ってるから。
「用があるなら早く言え?ですか。相変わらずですね、先輩。用ならありますよ。あるに決まってるでしょう?でもこちらにだって聞く順序という物があるんです。何せ正面きって喧嘩を吹っ掛けて来たライバル財閥のご子息をこうして呼び出したんですから」
「喧嘩…?一体何の話だ?」
「とぼけてるんですか?それとも本当に何も知らない箱入りなんですか?前者なら私は今直ぐに今まで頂いたこの指輪を貴方の顔面に投げつけて帰らせて頂きますが」
「待て。本当に解らない。一体何の話をしているんだ?」
じっと樹先輩の本意を探る様にその瞳を見詰めると、樹先輩も真っ直ぐに迷いなく私の目を見て来た。…どうやら本当に知らないようだ。
ふぅっと怒りを落ち着ける為に、細く息を吐く。と同時にドアがノックされて私の代わりに優兎くんがドアの方へ歩いていってくれた。二言三言会話して、ワゴンを押しながら戻ってくる。
机の上に果物の皿盛りと軽食のサンドイッチやスコーンが置かれ、私達三人分の紅茶を優兎くんが全て用意してくれる。
そして、私に封筒を手渡してくれた。どうやら真珠さんが持って来てくれたみたいだ。
ありがたく受け取り、私はそれを樹先輩の方に放り投げた。樹先輩は一度私の方を見たが、私が視線で開けて中を見ろと訴えると直ぐにその封筒を開けて中から書類を取り出した。
まだ学生と言えど跡取りだ。書類を見るのは慣れているだろう。そこにあった書類全てあっという間目を通す。
「………何だ、これは…」
ぐっと眉間に皺が寄る。やっぱり知らなかったか。
「見ての通り、白鳥財閥に対する挑戦状よ。それ以外何があるって言うの?」
「待て。待ってくれ。俺はこんなの知らない。父上が勝手にやったことだ」
そう言いつつ樹先輩は書類をもう一度見直していた。何か思い当たる節があるのかもしれない。だったら少し考えを纏める時間をあげよう。
小さなサンドイッチを手に取り食べる。うん、美味しい。
もう一つ食べようか悩んでいると、突然携帯の着信音が鳴り響いた。
このメロディは聞き慣れてる。優兎くんの携帯だ。
「ちょっと、ごめんね」
手早く操作して、唐突に優兎くんの表情が怒りの色へと変わっていく。
「…美鈴ちゃん、ごめん、僕先に帰る」
「え?」
「真珠さんに中へ入る様にお願いしていくから。安心して」
「う、うん。それは構わないけど、どうしたの?何かあった?」
「夢子ちゃんから呼び出しがあったの」
「ユメからっ!?」
「うん。何もなければ問題ないけど。でも何かあったら大変でしょ?」
「そうだね。うん。お願いしてもいい?優兎くん」
「勿論だよ、美鈴ちゃん。夢子ちゃんは僕の友達でもあるんだから。悪いんだけど、桃ちゃんも一緒に連れて行っていい?夢子ちゃんのメールには桃ちゃんもって書いてあったから」
「うん。いいよ。良いに決まってるよ。ユメの事、お願いね。二人共」
優兎くんに頷いてから隣の桃にも視線で訴えるとしっかりと頷いてくれた。
部屋を出て行く二人を見送り、私は真正面に向き直る。
「理解出来ない所が何か所かある。聞いてもいいか?」
「私の分かる範囲なら。ただし、私も解らない所があるの。情報の照らし合わせと行きましょう。樹先輩」
「あぁ。これを読む限りだと、高瀬不動産が土地を貸していた施設の火事って事になるんだろうが…」
「そうですね…。ですが、先輩。先輩が何処まで知っているか解りませんが、その不動産はまだ施設の土地を買い取ってはいなかったんですよ」
「どう言う事だ?」
「その施設に来ていた立ち退き指示は、今年の三月まで。なのに、その火事のあった日はまだ期日前。更に言うなれば、まだ売却の書類を渡していません。それは確実です。だってその書類は私が持っていたんですから」
「……成程」
「ねぇ、樹先輩。そこに放火犯は一之瀬夢子だって書いてあるでしょう?
「ん?…あぁ確かに書いてるな」
「でも、そんな事はあり得ないんです」
「何故だ?」
「そんなの、自分の育ての親と兄妹を殺したいと思いますか?」
「……その言い方からすると、一之瀬夢子って奴はこの火事にあった施設の出身者か?」
「そうです。それにその施設が火事にあった日。私とユメは施設の中にいました。逃げ遅れたら死ぬ所だったんですよ?ユメが犯人だとして、自らをそんな状況に追い込みますか?」
「ないな。やるとしたら余程の酔狂な人間だ。完全に擦り付けだな。だから、白鳥家への挑戦状、か?」
「そうです。今その施設で暮らしていた人間は皆私の買った家で暮らしてます。だから、これ幸いと私に喧嘩を売ったんでしょう」
「父上がそんな浅はかな行動をするか?何か他にも訳がありそうだ…」
「私もそこを詳しく知りたいんです。放火犯を見つけない事にはユメの嫌疑ははれない。ねぇ、樹先輩?先輩なら知ってる事があるでしょう?教えてください。その書類の最後には樹財閥総帥の印があります。貴方の父親がこの放火犯の肩を持つ理由が何かある筈なんです。それを私に教えてください」
教えてくださいともう一度樹先輩の目を見据えて言う。頼む態度じゃないけれど、でも私はこの人に頭を下げたくはない。私はこの人と対等でいなければいけない唯一の人間だから。
「高瀬不動産。…高瀬の息子、か。高瀬……待てよ?この間、父上が呼び出した人間は……?だとしたら、あれは高瀬の所の息子か……」
ブツブツと何か呟いているが声が小さすぎて聞き取れない。って言うかその呟いてる内容を私に聞かせなさいよっ。じゃないと全く前に進んでないじゃないっ。今の所情報をまとめただけだってのっ!
「樹先輩?」
目を吊り上げて睨み付ける。すると樹先輩はふぅと一息ついて、カップを持ちすっかり冷めた紅茶で喉を潤した。
ピクッ。
あれ?今…樹先輩が片眉を動かしたような…?
気のせいかな…?
スッとカップを戻す姿はいつも通りだし…。
私はじっと樹先輩を見詰めた。すると同じく視線がこちらへ注がれた。とりあえず次の言葉をじっと待つ。
「美鈴。お前、携帯を持て」
「…………………は?」
突然何のお話で?
想定してない方からの攻撃で一瞬頭が停止してしまう。
大体携帯なんて持つ気更々ないんだけど。
「父上と高瀬を調べてみない事には正直何とも答えようがない。だがその二人が情報を握っているのは確実だ。だから、解り次第教えてやる。とは言えお前は携帯を持っていないだろう。連絡のしようがない」
「だったらお兄ちゃんの携帯に連絡してください。お兄ちゃんも全部知ってるから」
ハッキリと携帯を持つ気はないと意思表示。
樹先輩と視線がぶつかる。けど私に退く気はない。ぐっと睨み付ける。
でも先輩にはそれが予想通りの反応だったのか、立ち上がり私の方へ手を伸ばしてきた。テーブル越しだから、ソファごと思いっきり後ろへ退いてその手から逃げる。
急いで立ち上がり、奥の窓の方へ駆け距離をとる。
そ、そう言えば、すっかり事件の事に気を取られてたけど、樹先輩と二人きりだっ!?
真珠さんを呼ぶって優兎くんが言ってくれたのに、来てないっ!
キョロキョロと視線を巡らすと、樹先輩は楽しそうに笑った。
「お前の所の秘書なら、今頃銀川が相手してくれてる」
「樹先輩、完全に悪役の顔になってますっ!!」
「くくっ…そうか?」
樹先輩は楽しそうに笑って、一歩一歩と私の側に迫ってくる。
「嫌っ!!」
小学生の時もこんなことあった。どうして私は学ばないのーっ!?
とりあえず寝室の方へ逃げたら駄目だっ!行くなら廊下の方っ!
ちらっとそっちを見て、逃走経路を考える。
なのに、それを先読んだ樹先輩が、態と廊下へ出る道を塞ぐように私の方へ歩いてくる。
「てっきり俺と二人きりになれる程、男が平気になったと思ったんだがな」
「怒りで我を忘れてただけですっ!やーっ!来ないでーっ!!」
兎に角逃げなきゃの一心で樹先輩の方へ手近にあった椅子を持ち上げ投げる。
ドスンッと音を立てて落ちるそれを樹先輩は面白そうに回避する。
その間に脇をすり抜けて廊下へ。そう思ったのに…。
「捕まえた」
腰に腕を回され、そのまま引き寄せられる。
「嫌っ!!離してっ!!」
がくがくと膝が震え、少しずつ恐怖が体を侵食していく。
「まさか、こんな綺麗になって戻ってくるとは正直予想してなかった…美鈴」
ぎゅっと体を抱き込まれる。
―――怖いッ。怖いぃッ。
指の先まで冷たくなってってるのが解る。感覚がなくなり、視界が歪み始める。
嫌だって言ってるのに、何で離してくれないのっ。
「指輪…。俺に会うから付けて来てくれたんだろう?やっぱりお前はいいな。…凄く可愛い」
樹先輩の両手が私の頬を包み、親指が私の目尻を撫でる様に触れると、そこへ唇が落とされる。
「はなし、て…、おねが、い…、せん、ぱい…」
私のお願いに先輩は首を振って、そのまま頬にもキスを落とされる。
『泣いてもいいよ。どれだけ泣いても、俺は止めないから。知ってる?西園寺さん。こういう時の女の涙ってね。男を煽るだけなんだよ』
前世の記憶が頭を過る。
―――逃げなきゃ…逃げなきゃっ。
足に力込めて、樹先輩を殴ってでもっ。
そう思ってたのに、私の体は直ぐに動いてくれず、むしろ私の行動に気付いた樹先輩が私の体を抱きしめ少し体を抱き上げる。
ギリギリのところで宙に浮かされた体は、足の先が地面につくかつかないかで。
「逃げるな。大丈夫。怖い事なんて何もしてないだろ?ただ抱きしめてるだけだ」
その抱きしめてるって行為が怖いのっ。
力が入らない腕で、せめてもの抵抗で。私は樹先輩の胸を押すけれど、全く歯が立たない。抵抗にすらなってない。
それ所か、抱き締めていた腕が片手だけに変わり、腰に回った腕で更に樹先輩と密着させられて、抵抗していた手の片方をとり手の平にちゅっと音を立てたキスをされる。
「キスだって、ただ俺の唇がお前の肌に触れてるだけだ。痛くしてない。怖くない。大丈夫」
本格的にガタガタと震える体を抑える様に腕に力を込められ、肩にかかっていたストールが外された。樹先輩の手が胸にそっと胸に触れる。手の平に触れていた唇が、頬に、額に。そして首筋に触れチリッと痛みが走った瞬間―――恐怖が頂点まで達した。
「いやああああああっ!!」
「―――ッ!?」
暴れた。
とにかくこの体に巻き付く腕から逃げたかった。
これ以上前世の記憶が脳内に過り、意識が闇に閉ざされる前に。
「お、おいっ、美鈴っ?」
焦った樹先輩の声が聞こえてきたけど、そんなのもう私の耳には入らない。
『可愛いなぁ。…逃げるなよ』
―――段々と前世の記憶が。
『ははっ。今更暴れた所で無駄だっつーの』
―――私を襲ってきた沢山の男の声が。
『やっと見つけたよ…。さぁ、君の全てを俺にみせて…』
―――記憶の奥底から甦り過り始める。
(もう、いや…。助けて…誰か、誰か…。お母さんっ)
きっと意識を手放した方が私は楽になれる。そう、思い始めた―――その時。
―――バンッ。
突然ドアが開いて、誰かが走り寄る音が聞こえる。
「美鈴っ」
私の名前を呼ぶ優しい声。
救いが来た。
助けが来た。
私はその声の主に必死に手を伸ばす。
「葵、お兄ちゃんっ…、こわい、こわいよぉっ…」
葵お兄ちゃんが私の手を握り、樹先輩の手から救い出してくれる。
そして、私を抱き上げたまま、樹先輩の脇腹に渾身の回し蹴りを繰り出した。
「うぐっ!!」
呻き声が聞こえ、ガタンッと何かにぶつかる音が響く
「龍也。何度言ったら解る。美鈴は男が怖いと僕は何度も何度も言った筈だ。君は何度僕の大事な妹泣かせたら気が済むのかな?流石に次に何かしたら僕、君を殺すかもしれないよ?無駄に回る脳みそ持ってる癖してこんな簡単な事も解らないのか?」
「……わ、る、かった…。もう、しない、から、おちつけ」
ガタッと立ち上がる音と、息も絶え絶えな樹先輩の声が聞こえる。
見るのが怖くて葵お兄ちゃんの胸に顔を擦りつけていたけれど。それでも気になって、こっそりと樹先輩の方を見ると蹴られた脇腹を抑えつつ、よろよろとソファに座る姿があった。
「おまえ、手加減しろよ…」
「する訳ないだろ。する必要もない。鈴ちゃんを傷つけようとする人間に手加減するほど僕は出来た人間じゃない。それに君は咄嗟に防御しただろ。骨が折れてないだけ良いと思いなよ」
「………あー…悪かったって」
じっと樹先輩の視線が私を突き刺す。
ぎゅっと葵お兄ちゃんに抱き着く。樹先輩の視線から逃げたい。逃げたくて仕方ない。
「……悪かった。美鈴。…それに、助かった。葵」
……助かった?
私への謝罪の言葉は聞き入れる気がなかったからあっさりと耳をすり抜けたけど、葵お兄ちゃんに向かって言った言葉が耳に残った。
助かったってどういう意味だろう?
葵お兄ちゃんを見ると、何言ってんだコイツって目をして樹先輩を睨んでいる。
その時、ふわりと今までするはずのなかった甘い香りがした。…これは、薔薇の香り?
何かが記憶の蓋を揺さぶる。
前世の記憶の何かだ。待って。落ち着いて考えよう。
ゴシゴシと目を擦り、涙を拭う。
「鈴ちゃん。駄目だよ、そんなに擦ったら。赤くなっちゃう」
葵お兄ちゃんが私を片腕だけで支えつつポケットからハンカチを取り出し涙を拭ってくれた。
片腕で抱き上げられるって葵お兄ちゃん、どんだけ力があるの…?
そう言えばさっき樹先輩も片腕で私を持ち上げてた。…もしかして私が軽いのか?…いや、そんな事はない、よね?ないはず…ないと思いたいな…。
葵お兄ちゃんに涙を拭って貰った。きっとうっすらとしかしていなかった化粧も落ちちゃったよね…。けどこればっかりはどうしようもない。今は私のボロボロの顔よりも…。私は葵お兄ちゃんの腕から降りて樹先輩に近寄った。
「…美鈴?」
まさか自分に近寄ってくるとは思わなかったんだろう。樹先輩が目を丸めている。
勿論、私だって本当なら近寄りたくない。でも、この薔薇の香りを確かめるには仕方ない。
安全の為、葵お兄ちゃんとしっかりと手を繋ぐ。何かあった時、葵お兄ちゃんに引き寄せて貰えるように。
樹先輩に前に立ち、ギリギリの位置ですんすんと匂いを嗅ぐ。あまり近寄っても怖いだけだから腰を折り少しだけ近づくようにして。
「…おい?」
何をしているのか分からない樹先輩は怪訝そうに私を見た。樹先輩から微かにするこの香り。
「……やっぱり、樹先輩から薔薇の香りがする。先輩、何か香水でもつけてます?」
「まぁ、つけてはいるが、薔薇の香りのは使ってない。それならお前の香水の香りが移ったんじゃないのか?」
「いいえ。私も薔薇の香りのは使ってません」
体を起こしてきょろきょろと辺りを見渡す。薔薇の香りがするようなものは特に置かれていない。勿論薔薇の生けられた花瓶もない。だったらシャワールームとか?でも誰も使ってないよね?
薔薇の香り…。多分これがヒント何だと思うんだけど…。
ふと、テーブルに置かれた紅茶が目に入った。それを手に取り再び匂いを嗅いでみる。そこからは強烈な薔薇の香りがした。
「これだ…」
私は先輩の紅茶のカップを置いて今度は自分のカップを手に取り匂いを嗅ぐ。そこからは薔薇の香りは一切しなかった。普通のアッサムティーの香り。
「先輩、その紅茶に媚薬が仕込まれてましたね?」
言うと、樹先輩は片眉をピクリと動かした。どうやら間違いないらしい。
「媚薬?鈴ちゃん、それどう言う事?」
「あのね、葵お兄ちゃん。こっちが私の紅茶。そっちが先輩の紅茶。ちょっと匂いを嗅いでみて」
カップを置いて指さし説明する。葵お兄ちゃんは私と手を繋いだまま、私の横に立つと最初は私のカップ、そして次に樹先輩のカップを手に取り香りを確かめて顔を顰めた。
「まるで薔薇のジャムでもいれたみたいな香りだね。噎せそう」
「うん。でしょ?でも良く見て。ジャムを溶かした色じゃないでしょう?」
「そう、だね。うん。美鈴のと同じ色だ」
葵お兄ちゃんが頷いてくれる。それに続ける様に樹先輩が口を開いた。
「これは花島が同じティーポットから注いだ紅茶だ」
「そうなの?鈴ちゃん」
「うん。確かに優兎くんが入れてくれた紅茶だよ」
「だから、俺はローズティーだと思って気にせず飲んだんだ」
確かに薔薇の紅茶ってあるもんね。これって私も飲んでいたら気付いたんだろうか?
…気づいたとしても、先輩の力に抗えるとも思えないし、無駄か。
「…成程。それで龍也は僕に向かって助かったって言った訳か」
「そう言う事だ…。にしても、痛ぇ…」
「うん。良かったね」
苦しんでいる樹先輩をさらっと流す葵お兄ちゃんがカッコいい。素敵。しかも無視して話を進めると言う虐め。やだ、素敵。
「それで、鈴ちゃん。これに媚薬が入ってたとして、どうやってそれを仕込んだのかな?樹と二人きりだったんでしょ?それともその間に誰か来た?」
「ううん。来てないよ。本当に二人きりだった。そんな時に仕込むことなんて普通出来ないよね。スパイや隠密?忍者とか?そんなのいる訳…」
あー……いたね。
少し靄のかかっていたフィルターが剥がれました。
うん。いたよ。忍者がいた。攻略対象に忍者がいたんだよ。
『近江虎太郎』
彼は忍者の末裔で、キャラの立ち絵は制服姿で顔を覆面で隠しているというシュールなキャラだ。
そんな彼が忍術を使うと薔薇の香りが残るのだ。
乙女ゲーム設定とは言え、おかしいでしょう、これ。だって、隠密の人間が自分の足取りを残して消えるって馬鹿じゃん。
あともう一つ。このキャラと出会うと出てくるライバルがいる。それは桃だ。要するに彼は綾小路家の専属忍者であり、綾小路家の命令は絶対なのだ。
そこから導き出される答えは一つ。
「鈴ちゃん?」
急に考え込んだ私の顔を葵お兄ちゃんが覗き込む。心配そうに瞳が大丈夫?と聞いてくる。それに頷いて答えると、私は改めて樹先輩を見た。
「樹先輩。近江家を知っていますか?」
「知っているも何も、そこは綾小路家の……あぁ、成程。そう言う事か。くそっ。やってくれるっ」
一気に理解した樹先輩が悔しそうにソファの手凭れに拳を叩き落とした。
「ちょっと待って。鈴ちゃん。どう言う事なの?」
「ほら、家にお泊りにきてる桃。彼女の家の事情はもう教えたよね?」
「うん」
「彼女の家は昔からお抱えの隠密がいるの。忍者の末裔がね」
忍者と言う信じられない話も樹先輩の状況を見て納得したのか、あぁと葵お兄ちゃんが呟き、それから憐れみの視線を樹先輩に見せた。
私もつられて樹先輩を見ると、それはそれは黒い笑みを浮かべていた。
「ただでさえ、俺は美鈴の中で低ランクにいるってのに、更にそれをどん底に落としてくれたって訳か…?ふふ…ふふふふふ…」
えーっと、これはどうしたらいいのかな?
膝の上に肘を乗せ、指を組んで怪しい笑みを浮かべてる樹先輩。
助けを求めて、葵お兄ちゃん見ると、うん?とそれは綺麗な笑みを浮かべてくれた。あ、全く気にしてない。樹先輩の事、葵お兄ちゃんはどうでもいいらしい。
「美鈴」
先輩に名前を呼ばれて私は慌てて葵お兄ちゃんの影に隠れる。その影からそっと顔を出して樹先輩を見ると、苦笑を浮かべ彼はゆっくりと立ち上がった。
「悪かった。怖かっただろ」
「はい」
私はハッキリと同意した。だってここで嘘を言ってもしょうがないもん。
「媚薬は理性を取りはらう薬。だからあれは媚薬を使われてたとは言えど俺の本音だ。…嫌われても仕方ない。けど…」
樹先輩がぐっと拳を握る。…全く何を考えているんだか。私の顔には苦笑が浮かんでいた。
「…大丈夫です。私は最初から会った時から樹先輩が嫌いですっ」
「おま…ハッキリ言うな」
眉を下げて情けない顔をする先輩に私はふいっと顔を逸らす。
「最初から嫌いですから、今までと何も変わりません。今まで通り近寄られたら逃げますし、話かけられたら刺々しく返します」
そう。何も変わらない。今までだって嫌いだったんだから。そこから態々態度を変える必要はないだろう。
「……そう、か。今まで通りに、か。ありがとう、美鈴」
王子様のように微笑む樹先輩。でも私は決して絆されません。怖いから。
葵お兄ちゃんに抱き着き、完全に後ろへと隠れる。
「美鈴。俺もここまで馬鹿にされて黙ってるほどプライドは低くない」
「…知ってます。樹先輩はプライドの塊」
「そうだ。だから何か解り次第すぐにお前に連絡する。そんなに待たせはしない。楽しみに待ってろ」
「…はい」
情報は欲しいから。私はしっかり頷く。
「よし。あぁ、それから、美鈴」
?、まだ何かあるのかな?
こそっとまた葵お兄ちゃんの影から樹先輩を見ると、樹先輩は口の端だけで笑った。
「お前、結構着やせするタイプだったんだな。思ったより大きくて驚いた」
着やせ?大きい?何の事?………ハッ!?もしかして、胸の事言ってるっ!?
私は靴を脱いで樹先輩の顔面目掛けて投げた。
あっさり避けるだろうと予期して、もう一つ投げるとその額にクリーンヒットしたから私としては満足。
ヒールは凶器。でも当たったのは爪先の方だったから大丈夫でしょ。セクハラ男にはこれでも優しい方だと思う。
部屋を出て行く私の後を追い掛けてくる葵お兄ちゃんはとても清々しい顔をしていた。
パーティを中座して帰宅した。あの恰好でパーティ会場に居続けるのはちょいと無理があったから。玄関をくぐり、家の中へ入り真っ直ぐリビングへ向かう。
リビングで待っていたのは優兎くんと桃だった。
私のズタボロな姿を見るなり二人の顔色はみるみる青くなる。
事の成り行きを話せる限り話すと、今度は青い顔からスッと表情を消して、優兎くんは腕を組んで何かを考え込み、桃は天井を睨み付けた。
「…虎太郎…?貴方の事だから、聞いているわよね?…私、貴方の事、嫌いじゃなかったの。いつも辛い時に側にいてくれた大事な家族だと思っていたわ。でも…王子をこんな目に合わせるのなら話は別よ。…許さないわ。もう、絶対に」
バキッと桃の手に握られていた扇子が折れた。中央から真っ二つに。桃、貴女いつの間にそんな力を…?『病弱、薄幸の大和撫子』ってキャラの説明にはあった気がするよ?…あれー?
「ねぇ、虎太郎?私今心底安堵しているわ。虎太郎との子を産むことにならなくて良かった、って。お父様に逆らえないような屑な男となんて絶対に嫌」
ガタガタと屋根の方で音が聞こえる。
「銅本っ!」
「はいっ、お嬢様」
「あの馬鹿、どっかに連れて行って」
「畏まりました」
突如現れ突如消える銅本さん。ぶっちゃけ銅本さんとか真珠さんとか、そっちの方がずっと忍者っぽんだよね。
まぁ、何はともあれ家の中から不審者も消えたし、樹先輩も色々探ってくれるって言ってくれたし。
今日はこのまま、寝よう。
…寝れるかな…。こういう事があった時って必ず前世の夢を見るから。大抵完徹しちゃう…。
駄目だって言われるの覚悟で枕持って棗お兄ちゃんの部屋に行ってみようかな?
お風呂に入ってる間に、家族皆が帰って来た。桃と優兎くんはもう部屋に戻ってる。パジャマ代わりのタオル生地のパーカーとセットのショートパンツを履いてリビングへ行って皆と話す。
そして、皆が各々行動を始めた時、こっそり棗お兄ちゃんに一緒に寝ちゃダメかとお伺いを立ててみる。
正直断られると思ったんだけど。ほら、もう年齢が年齢だし。でも棗お兄ちゃんは笑顔で頷いてくれた。うぅ、棗お兄ちゃん、ほんと優しい。
部屋から枕を持って、棗お兄ちゃんの部屋へ突撃した。
棗お兄ちゃんがお風呂に入っている間にベッドへもぐりこみ、あっという間に眠りに落ちてしまった。多分、直ぐに棗お兄ちゃんも一緒に寝たんだろうけど、ぼんやりとした記憶しかない。あ、でも棗お兄ちゃんが抱きしめてくれたのは覚えてるよ。だって暖かかったから。ついその胸に擦り寄っちゃったし。何よりの証拠に久しぶりに盛大な寝癖がついた。
―――8月9日。
棗お兄ちゃんに起こされて目を覚ました時間を見て驚愕した。8時過ぎまで寝てたの初めて…。そして、某戦闘アニメキャラばりに逆立った前髪。葵お兄ちゃんの所に走ったのは言うまでもない。
その日の夜。
樹先輩からメールが葵お兄ちゃん宛てに入った。
リビングで夕飯食べた後でまったりしていた最中だったから、タイミングとしてはバッチリで。葵お兄ちゃんが座るソファの後ろに回り携帯を一緒に覗き込む。
『美鈴に伝えろ。綾小路家を中心に怪しい所を銀川に探らせた。そしたら面白い結果が出て来たぞ。申護持の施設に火を点けたのはどうやら高瀬久治。綾小路菊のもと婚約者だ。そしてもっと驚くべきことに、その火を点ける様に指示を出したのは、父上だ。なんでそんな事指示したのかはまだ良く解らないが。これも分かり次第また連絡する』
文章を読んで、驚きのあまりソファから身を乗り出してしまい、頭から葵お兄ちゃんの膝の上に落ちてしまった。子供が良くやるよね。お父さんの後ろからお父さんの読んでいる新聞覗き込もうとして重心が頭にあるから頭ごと落下。お父さんの肩をを滑って頭から落ちると言うあれ。今の私はまさしくそれ。
「樹財閥の総帥が放火の指示?あまり面白い話じゃないんだけど」
膝の上に落下した私を難なく抱えなおしながら言う葵お兄ちゃんに私は頷く。ドジな私を嫌がることなくこうしてちゃんと膝の上に座らせてくれる葵お兄ちゃん。優しいけど、どうせなら笑って突っ込みが欲しいです。恥ずかしくて死にそう。スカートじゃなくて良かった…。
「そもそも、鈴ちゃんがいるのに放火ってあり得ない。鈴ちゃんに火傷の痕一つでもあったら僕、樹家を放火してたな」
「お、お兄ちゃん。そんなキラキラした笑顔で怖い事言わないで」
「仕方ないよ。本当の事だもの」
頭を優しく撫でられる。本当の事かー。だったら仕方ないのかなー……って、駄目でしょ。つい絆されそうになっちゃった。
「駄目だよ。本当の事でも。葵お兄ちゃんが犯罪者になったら、私泣くよ?」
すっかり乙女ゲームの攻略対象キャラに相応しい姿に成長した葵お兄ちゃんの肩口にぐりぐりと額を押し付ける。
「鈴ちゃん……。どうしよう、可愛すぎて僕今なら龍也の我儘を笑顔で許せる気がする…」
ぼそりと何か呟いてたけど、私の耳には届かなかった。
何故なら、私の視線と意識は葵お兄ちゃんの手から受け取った携帯のメールに集中していたから。
樹財閥の総帥がたかが貧乏な一施設をリスクを犯してまで放火させた意味は何?
あの施設の誰かが樹財閥総帥に関係があると考えていいよね。でも、誰が?
普通に考えるならあの施設にいる子供たちの誰かが総帥の血縁者で、その証拠隠滅の為に、って所何だろうけど。それだったらその子を引き取ってこっそりと証拠隠滅した方が早いよね?
だとしたら目的は別にある。火事を起こしたら施設の人間はどうなる?今回は別の住処を私が用意していたからどうにかなった。でも用意していなかったら?皆散り散りになって養子に行ったり別の施設に入る事になる。
…じゃあ、その時明子さんはどうなる?一人で暮らす事になるか、もしくは実家に帰るのか。あれ?そう言えば明子さんって指輪してたよね?結婚してるんだ?
旦那さん見た事なかったな。本名が申護持明子なんだから旧姓もある筈だよね?…もしかして、明子さん?樹財閥総帥と関係あるのって明子さんなんだろうか?
「ねぇ、葵お兄ちゃん」
「ん?どうしたの?」
「メールに返信、してもいい?」
「勿論、いいよ。龍也にお礼でもいうの?だったらなるべく辛辣にね?」
「うん?お礼も言うけど、そうじゃなくて、って、…ん?辛辣に?」
ニコニコ。
葵お兄ちゃんが良い笑顔をしている。うん。何も言わないでおこう。
私はテシテシと文章を打つ。
申護持と聞いても分からないだろうから『情報有難うございました。明子って名前で聞き覚えがありませんか?総帥の身近に』と端的にメールを打って送信する。
すると、数分待たずに返信が返って来た。
『確か、父上と幼馴染だった神薙の筆頭跡取りの女性が明子と言う名だった。ある日突然家を飛び出して行方を暗ましたと聞いているが』
…いるがで文章を切らないで欲しい…。その先が気になってしょうがない。
テシテシと続きを促すメールを送る。
『そこから先は聞いても答えてくれなかった。ついでに調べてもそれらしき情報は父上が全て封じてるらしいのか分からない』
……使えない。にしても、幼馴染、か。
行方不明になった…って事は、多分駆け落ちしたのかな?直後に苗字を変えられたりしたら、そりゃ分からないよね。
樹財閥総帥がその逃走を手伝ってたりしたら、増々分かり辛くなる。んー…でも、逃走を手伝ったのに今更呼び寄せるとかあり得る?
首を捻っていると、持っていた携帯がまた着信を知らせた。
何か、追加情報でも?
そう思ってメール画面を開くと、『首につけたキスマーク消えたか?』と書いていた。なんちゅー分かりやすいセクハラを…。
イラッとして葵お兄ちゃんに携帯を返す。
不思議に思った葵お兄ちゃんが携帯を操作して内容を読み込み、眉間に皺を寄せた。
「……鈴ちゃん。ちょっと、ごめんね」
「え?葵お兄ちゃん?」
グキッ。
いきなり横を向かされました。痛いです。首から変な音がなりましてん。口調も変わる痛さ…。
「…痕、少し残ってるね…。可哀想に」
マジかー。あの時吸い付かれたと同時に葵お兄ちゃんが助けに来てくれたから大丈夫かと思ってたけど、樹先輩ちゃっかりと残してたのか。
…強姦された訳じゃないから、マシと言えばマシ?
ふとあの時の事を思い出し体が震える。
「鈴ちゃん。ごめんね、怖い事思い出させたね。大丈夫だよ。僕がちゃんと龍也に拳叩き込んでおいてあげるから」
「うん…」
ぎゅっと抱きしめられる。
その時、唐突に激しい音を立ててリビングのドアが開いた。
「王子っ!私悔しいですわっ!」
そう言って桃が駆け込んで来る。
葵お兄ちゃんの膝から降りて桃の側へ行くと桃が抱き着いてくる。
「ど、どうしたの?」
「どうしたのもこうしたのもありませんわっ!旭様達に全く勝てないのですっ!毎日毎日挑んでいるのにっ!」
あー…ゲームの話ね。
どうでもいい話を聞いて、私の体を支配していた震えも恐怖も消え、一気に脱力感が。
「あのパズルゲームか~。結構難易度高いよね。簡単そうに見えてさ」
「そうなんですのっ」
「棗お兄ちゃんを味方に連れて行ったらいいのに」
「嫌ですわっ!だって棗様も殿方ですっ!私は旭様達殿方にずっと負けてますのよっ!」
なんだそりゃ。桃の理論が面白い。
良い所のご令嬢が黒髪を左右に揺らしながら熱くゲームを語る。
この状況を笑わずにいつ笑えと。
自然に浮かぶ笑みに私は頷いた。
「なら、リベンジに行こうか。えーっと誰の部屋だっけ?」
「今日は旭様のお部屋ですわ」
「じゃあ行こう」
くるっと振り返り、私は葵お兄ちゃんをみる。
「葵お兄ちゃんも行こうよ。棗お兄ちゃんも誘って皆でやろう?」
棗お兄ちゃんは夕食後部屋に戻って勉強をしているはずだ。
「いいけど、最終的には棗と鈴ちゃんの一騎打ちになるんじゃない?」
笑いながら立ち上がる。
「そんなことないよー。私だって随分久しぶりにやるんだし」
「そう?なら僕は秘密兵器を連れて行こうかな。鈴ちゃん、綾小路さんと先に行ってて」
秘密兵器とはなんぞや?
葵お兄ちゃんのこの笑みを見る限りだと絶対教えてくれないな。
ここは素直に頷き桃と一緒に旭の部屋を訪ねた。
大型のテレビの前に弟達と優兎くんがいて、旭と優兎くんが対決していた。
優兎くんが劣勢である。そしてそのまま優兎くんは落ちてくるふよふよした物体に画面を占拠され負けた。
三回勝負中3対2で優兎くんの負けみたい。
「優兎くん、惜しかったね」
「そうでもないよ。だって旭達日に日に強くなってるんだから」
「へっへー。当然でしょ。毎日やってるもんっ」
優兎くんに褒められて旭は嬉しそうに胸を張る。そんな旭をじと目で睨み付ける。
「へぇ、毎日?…旭、夏休みの宿題ちゃんとやってる?」
ギクッと弟達の肩が跳ねあがった。
わお。分かりやすい。本当に私達の弟なのかと思う程四人は素直だ。
「ちゃんと宿題やらないと、明日のおやつは抜きだよ?旭、蓮、蘭、燐?」
「ええーっ!?」
「ええー、じゃないの。それとも、ママに知らせようか?」
私には言い返してきたのにママの名前を出した途端、四人は青い顔をして明日中に終わらせますとはっきり断言した。
それに良い子ねと頭を撫でて、私はコントローラーを握った。
「それじゃ、今日は遊ぼうっ。優兎くん、相手してくれる?」
「えっ!?僕が美鈴ちゃんに勝てる訳ないじゃない。旭にも負けてるんだから。旭が相手しなよ」
持っていたコントローラーを優兎くんは旭に渡した。
私の隣にワクワクと桃が座り、旭の横には優兎くんが。そしてベッドの上に三つ子が座り観戦の態勢をとった。
ゲームスタート。
ボタンを押してゲームを開始。
そして、…私の圧勝に終わった。
「ふっ、旭。まだまだ修行が足りないわね」
「う、嘘だー…まだ敵わないなんて…」
「す、凄いですわっ!流石王子っ!」
ふっふっふ。まだまだ腕は落ちていなかったみたい。
顔では笑みを浮かべつつ、心の中で威張っていると、ドアが開き棗お兄ちゃんが入って来た。
「あぁ、本当に久しぶりのゲームしてたんだね。旭が産まれるまでは良く一緒に遊んでたけど」
「棗お兄ちゃん、勝負っ!」
「良いけど、僕も美鈴に勝つ自信はないよ?」
苦笑しながら私の隣に座り旭からコントローラーを受け取る。
早速勝負開始。結果は3対2で私の勝利。
「うぅー…また二回も負けた。棗お兄ちゃんに一度でいいから圧勝してみたい」
「えー?それは兄のプライドとして嫌だなぁ」
「…もしかして、俺達、棗兄ちゃんになら勝てるんじゃっ!?」
旭がぐっと身を乗り出してきた。その発言に棗お兄ちゃんはふっと口の端だけで笑い、
「やってみるか?」
と鴇お兄ちゃんにそっくりな口調で旭達を焚き付けた。
早速旭は私からコントローラーを奪い、棗お兄ちゃんに挑戦。
旭達はボロ負けした。完膚なきまでに叩き潰され、しくしくと四人纏まってベッドの上で泣いている。
「もしかして、王子が一番強いんですの?」
キラキラおめめで桃が迫ってくる。いや、そんな訳ないとは思うんだけど。
そう口を開こうとしたけれど、答えたのは私ではなかった。
「さー、それは、どうかな」
部屋のドアを開けて葵お兄ちゃんが今の惨状を見て笑いながら言った。
「なんだ、お前らほんっとに懐かしいゲームしてんのな」
そう言って顔出したのは鴇お兄ちゃん。部屋で仕事をしていたのかシャツとスラックス姿。ジャケットとネクタイは部屋に置いてきたんだろう。
「鴇お兄ちゃん、スラックスに皺付いちゃうよ。帰ったら直ぐに着替えないと」
「まぁ、そう言うな。急ぎの書類があったんだよ」
私の小言に苦笑して、中に入って来ると棗お兄ちゃんの代わりにコントローラーを持った。
「ほら、美鈴。やるぞ」
「えっ、あ、うんっ」
あれ?鴇お兄ちゃんってゲーム出来るの?よく考えたら私がいつもゲームしてたのは双子のお兄ちゃんとで。だって鴇お兄ちゃん、出会った時は既に私とゲームするような年齢じゃなかったんだもんね。
コントローラーを握り、ゲームスタート。
そして…惨敗しました。
「鴇お兄ちゃん、ズルいぃーっ!!」
夜だと言うのに私の声が家中に木霊する。
ずるいずるい、ずーるーいーっ!!
何やっても勝てないとか何なのー、もうっ!!
「ゲームで位勝たせてくれてもいいじゃないっ!!そもそも鴇お兄ちゃん、棗お兄ちゃんより弱い筈じゃなかったのーっ!?」
「年下相手に本気でやる訳ないだろ」
鴇お兄ちゃんのドヤ顔。ちょっと待ってっ!私だって年下だもんっ!!手加減してよっ!!いや、されたらされたで腹立つっ!!むーっ!!
床をバシバシと叩いて必死に訴える。私以外の皆はぽかんと口を開けて今の勝負を呆気にとられてみていた。
そんな中葵お兄ちゃんだけが不敵に笑い、
「どう?鈴ちゃん。秘密兵器、強かったでしょ?」
どやぁっと言われた。強すぎて腹立ちます。とは言えないから、んぐぐぐっと言葉を必死に呑み込む。
無言の講義を床にたたきつける。バシバシと。
「流石鴇兄。美鈴ちゃんを負かせるなんて…」
優兎くんをぎらりと睨み付ける。今まで負けた事なかったのにっ!棗お兄ちゃんとだって最後には必ず勝ってたのにっ!
「悔しいよぉ…。どんな事だったら、鴇お兄ちゃんに勝てるのぉー…」
「お前なぁ。俺にだって妹に負けたくないって面子があるんだよ。これでも」
「そんなの…」
「そんなの言うな。出来る妹を持つと兄としてのプライドを保つにはかなりの努力が必要なんだからな」
お兄ちゃん達がうんうんと頷き合っている。
「むーっ、むむーっ!」
鴇お兄ちゃんの言ってる事は解るし、多分私に対する戒めの意味も入ってるんだろうけど。それでも悔しい物は悔しいのだ。
「家事は覚えない癖にーっ!」
「あぁ、それは話が別だな」
別なんだ。あっさりと言い返されて、それはそれでキョトンとしてしまった自分がいる。
「いいだろう、別に。美鈴の飯が美味いんだから。俺が作れなくても」
撫でてくる手に一瞬絆されそうになるけど、負けないんだから。
その手を取ってぐいぐいと長袖シャツの袖を捲る。もうね、実力行使しかないと思うんだ。物理攻撃しかないと思うんだよねっ!
「あ、そうだ。美鈴ちゃん、話の腰折って悪いんだけど、はい、これ」
ぐるぐると喉を鳴らして威嚇する犬の様に鴇お兄ちゃんに噛みつこうとしていた私に向かって優兎くんが突然小さな箱を取り出して目の前に差し出した。
きっと優兎くんなりの鴇お兄ちゃんへの助け船だったんだろうな。まぁ、そんなの関係ないけどね。
がぷり。
鴇お兄ちゃんの腕を噛みながら私は優兎くんから箱を受け取る。
あぎあぎ。
「美鈴。地味に痛い」
「いひゃくしへるの(痛くしてるの)」
あぎあぎ。がぷがぷ。
受け取った箱を開こうと捕まえていた鴇お兄ちゃんの手を離すと、腕はすぐさま離れていった。
鴇お兄ちゃんの腕にはしっかりと私の歯形が付いている。物理的な仕返しだけど少し満足した。
今度こそ箱を開くとそこには指輪が入っていた。大きさから行くとピンキーリングかな?
「どうしたの?これ」
指輪を手に取り手の平へ乗せる。うん。可愛い。これって多分、あれだよね。商店街にあるハンバーガーチェーン店のポイント交換景品。透馬お兄ちゃんが卸してるって鴇お兄ちゃんから聞いた。これって何か見た事のある形してるよね。…あ、分かったっ。西遊記の緊箍児だ。
……ん?西遊記?西遊記ってあれだよね?猿が出てくる…。
「これね。海里くんがくれたんだけど。僕とあの三人、それから四聖の皆でお揃いらしいよ?」
そう言って、優兎くんが右手を見せてくれた。右手の小指はなんだっけ?意味は自己アピールだっけ?
ふと桃の手を見ると、桃には私と同じ色のピンキーリングが付いていた。お揃い…可愛いっ。ときめくっ。昔からお揃いってのに弱いんだよねっ。
ほら、前世の時って一緒にいる友達っていたにはいたけど、そこまで深く付き合ってこなかったし。それに友達になった子が惚れてた男性が皆揃いも揃って私に告白してくるから、直ぐに縁が切れちゃったし。
早速いそいそと小指に嵌める。わっ、わっ、可愛いっ。
どうしよう、嬉しいよーっ!!
確か海里くんって言ってたよねっ!皆の分のポイント交換なんて絶対安い買い物じゃないしっ。お礼しなきゃっ。
「ねっ、ねっ、鴇お兄ちゃんっ。携帯貸して」
「うん?良いけど何に使うんだ?」
「海里くんにお礼の電話しなきゃっ」
「そうか。……ほら」
携帯を受け取り、部屋に戻るとアドレス帳を開き、最近携帯持ったらしいって優兎くんが言って教えてくれた番号に電話をかけた。
電話は直ぐに繋がり、暫く海里くんと会話する。電話の最中、旭の部屋から笑い声が聞こえてきた。ゲーム続行中みたい。
……もうちょっとしたら鴇お兄ちゃんが様子見に来るかも。…と思った時、鴇お兄ちゃんが部屋に入って来たから、早めに電話を切り上げなきゃ。
お礼もしたし、ユメの事も伝えたし満足して電話を切ろうとしたら呼び留められた。
そして海里くんは盛大な爆弾を落としてくれたのである。
『大好きですよ、鈴先輩。……それじゃあ、切りますね。お休みなさい。願わくばボクの夢を見てくれますように―――チュッ』
「~~~~~ッ!!」
キスのおまけつき。
私は声にならない雄たけびを上げてしまった。
うええええっ!?
何でっ!?何で今ぁっ!?
羞恥心で電話を鴇お兄ちゃんに電話を返し、顔を両手で隠す。
「美鈴?」
そうですよねっ、不審に思いますよねっ!解ってますっ!でもちょっとだけ時間下さいっ!じゃないとこの真っ赤な顔をさらす事になり、更に赤くなっちゃうんですっ!
うわあああんっ、海里くんの馬鹿ぁっ!!
何なのよ、もうっ!告白は高校卒業間際だって言ってるじゃないっ!
「美鈴、どうした?」
あぁっ、そうだった、まだ鴇お兄ちゃんが目の前にいるんだったっ!
「な、なんでもないのぉー…」
必死に顔を隠し、覗き込まれても嫌だからベッドにダイブ。
うつ伏せになってさえいれば覗き込まれまい。
「…はぁ。あのなぁ、美鈴」
近付く足音が聞こえ、のしっと背中に圧を感じた。
なんなの?
ふと顔だけで振り返ると、うつぶせになる私の背中の上に鴇お兄ちゃんの頭があった。
ベッドに腰かけそのまま後ろに倒れる形で私を枕にしてるらしい。…うん、重い。
「鴇お兄ちゃん、重い…」
「そりゃ中身が詰まってるからな」
「え、何その自慢。もう一回噛り付いて良い?」
「やめろ。あれはマジで地味に痛い」
カチカチと歯をわざとらしく鳴らして威嚇する。私は虫歯ゼロの健康体です。前世も今も虫歯はないっ!
「で?一体、電話先の相手に何言われたんだ?」
「へ?」
一瞬忘れかけていた事を思い出し、もう一度ベッドに突っ伏した。
「何となく想像はつくけどな。告白でもされたか?」
ビクゥッ!!
鴇お兄ちゃん、いきなり確信を突かないで下さいっ!超心臓に悪いっ!いっつもいっつも確信アタック辛いっ!
「お前は分かりやすいなぁ。…で?返事はどうするんだ?」
「返事…?」
何の返事?
伏せた顔を戻して、鴇お兄ちゃんの方を振り向くと背中から圧が消えて、体を起こした鴇お兄ちゃんが私を見て苦笑した。
「告白されたんだろ?だったら付き合うかどうかの返事が必要だろ」
「うぇっ!?」
考えても見なかったよ、そんな事。
きっと顔に出てたんだろうね。鴇お兄ちゃんが増々呆れ顔になった。
「そんな事全く考えてなかった、って顔だな」
「うぅ…。だって二人共好きだとしか言わなかったし。付き合ってくれとは言われなかった…し…」
弟って言うか、もう精神年齢が離れすぎて息子に近いんだもん…。私だってどっちかと言えば親戚のおばさんのようにしか接してこなかったし…。
うぅ…。私が小さく唸ってると、鴇お兄ちゃんがふっとニヒルに笑った。
「…なるほど。二人から告白された訳だ」
ハッ!?私今言わなくて良い事言ったんじゃないっ!?
「付き合ってくれとは言われなかった、か。確かにそれならただ人として好きだって言われてる可能性もあるな」
………人として?異性としてではなく?
「異性としてではないのにキス、とかする?」
敬愛のキスってあるもの?
前世でも今世でも付き合った人なんていたことなかったから解らない。
「そりゃするだろ」
チュッ。
近づいてきた鴇お兄ちゃんが私の髪を一房取りそこへキスを落とした。
「ほらな」
「で、でも口にもする?」
「する奴もいると思うけど?」
そ、そうなのかな?
口って好きな人とするものだと思ってたけど、違うの?
あぁ、でも変質者はやたら口にちゅーしたがる…ってそれと一緒にするのも何か違うっ。
ぐるぐると思考が渦を巻いてきた。
「お前だって旭や三つ子に、友達にだってしてるだろ?」
「それは、そうだけど…」
「付き合ってくれって言われてる訳じゃないんだ。そこまで深く考える必要はないだろ」
「そういうもの?」
「あぁ。ただ、念の為にそいつらと二人きりにはなるな。今の友達関係を壊したくないならな」
そういうものなのか。男の人ってそうなんだ。
鴇お兄ちゃんが言うなら間違いないよね。うん。とりあえず二人の告白は今はちょっと頭の隅においやっておこう。他にも考えなきゃいけない事は一杯あるもんねっ。
コクコクと頷く。
「…これでちょっとは牽制出来てるだろ…」
「うん?鴇お兄ちゃん何か言った?」
何かため息交じりに聞こえたような…?
気のせいかな?
鴇お兄ちゃんをじっと凝視すると鴇お兄ちゃんはふっと柔らかく微笑んだ。
「所で、美鈴。頼みがあるんだが」
「なぁに?鴇お兄ちゃん」
「腹減った。何か軽く抓める物作ってくれ」
へ?
思わずキョトンとしてそれから体を起こして鴇お兄ちゃんが腕にしている時計を見る。
10時、かぁ…。
「あまり凭れない物がいいよね。何がいいかなぁ?」
ご飯残ってたし…お握りとかでもいいかな?あ、そう言えば糠漬けが良い頃合いかも。
良し。お握りに決定っ!
「葵お兄ちゃん達も食べるかな?」
「さぁな。聞いて来たらいい。俺は部屋で着替えてくる」
「ん、分かったっ。あ、ちゃんとシャツ出しといてよっ?この前みたいに仕舞い込んだり放置したら怒るからねっ」
「はいはい」
ポンポンと頭を叩かれて、私は少し嬉しくなる。
それから旭の部屋へ行くと、桃以外は皆そこにいて、夜食を食べるかどうか問うと全員から「食べる」と即答が返って来た。
そのままキッチンへ移動して、夜中にお握りパーティが開かれた。
皆楽しそうに美味しそうに食べてくれて私は大満足。
お風呂に入り、今日は自分の部屋のベッドへ潜り込み、私なりにゆっくりと眠りについた…筈だった。
―――なのに、私が目を覚ました時にまず視界に映した天井が見知らぬものなのは何故なのだろうか…。
「さて、こんなものかな?」
私は自室の鏡の前で自分の姿を今一度確認する。
長くなった髪を降ろして、ある程度邪魔にならない様に編みこんでいる。
紺色のパーティドレス。Aラインのスカートがいい感じに魅せてくれて、肌をなるべく出したくないと私が要望した通りに白のレースで出来たストールを用意してくれたからそれを肩から羽織っている。
あ、そうだ。ネックレス。樹先輩に貰ったネックレスが必要だ。正しくは指輪だけど指にはめるつもりは欠片もない。
本当ならこのネックレスだってつけたくない。
何ゆえに大事な友達であるユメを陥れようとしている相手、しかも自分に喧嘩を売って来た相手のくれた物を身に着けなければならないのか。
かと言って、これをつけないと会話も出来ない上に下手するとまた新しい指輪を用意されてしまう。それはちょっとごめんだし。
先日、久しぶりに華菜ちゃんと再会して、二人で仲良くお茶を飲んだ。
華菜ちゃんは元々乙女ゲーム本編で情報屋を担当していただけの事はあり、私の今の状況を既に知ってて、情報をくれた。
綾小路家のこと。それから高瀬不動産のこと。この情報は本当にありがたかった。
特に綾小路家のことは本当に助かった。だって知らなければ私は桃の身の安全を保障する事が出来なかったから。
華菜ちゃんに話を聞いて私は直ぐに金山さんに連絡をして、桃を家へ呼んだ。実家に帰ったら絶対危険だろうと思ったから。案の定、桃はホテルで身を隠すように過ごしていた。聖女の三年生は夏休み帰省を強制されるからね。
家にはお兄ちゃん達がいるし、金山さんと真珠さんって超人もいるし、友達である私や優兎くんもいるから安心だろうし。
しかし、あの綾小路菊が樹先輩に惚れてたなんて。それで恨まれるってどうなの?なんだったら貰ってってくれても構わないのに。もう…。
何はともあれ、樹先輩に聞く事聞いて、ユメの無実な罪を撤回しなければならない。不思議な事に今は男に会いに行く恐怖より、友達を貶められた怒りが先に立っていた。
机の上に置いておいたドレスと同じ色と同じ素材で出来たハンドバックを手に持ち部屋を出る。
すると、そこには真珠さんが綺麗な黒髪を横に流すように一つに結び、黒のスーツをバッチリと着込んでファイル片手に立っていた。
「お、お嬢様…とても、お似合いですっ。くぅっ…」
興奮状態の真珠さん。折角の美しさが台無しですよー。
と思いつつもちゃんと確認もして貰うのも大事。うん。
「おかしいとこないかな?」
くるっと回転して見せると、
「大丈夫でございますっ!美し過ぎるっ!これが、女神なんですねっ!…ふぅっ」
大丈夫と肯定して、何か褒め称えられて、真珠さんは顔を真っ赤にして幸せそうに倒れた。
ん。これ、どうしてくれようかっ。
あの店を辞めて、私の秘書になってくれた真珠さんは、こうしてたまに幸せそうに気を失う。それに慣れつつある自分がなんか嫌なんだけど。
「鈴?準備出来たの?」
隣の部屋からスーツ姿の棗お兄ちゃんが出て来て私は一瞬息を飲んだ。
やばい。イケメンのスーツ姿。超似合う。破壊力抜群だね。足も長いし、白いシャツが眩しい。ジャケットを肩にかけて腕のボタンを止めている。
意識が飛びそうな程カッコいいけど今は自分もそれなりに盛装しているので、お兄ちゃんに確かめてみる事にする。
「棗お兄ちゃん、おかしくない?」
真珠さんにも確認して貰ったけど、棗お兄ちゃんにも一応確認を取る。
くるっと棗お兄ちゃんの前で回って見せると、
「うん。大丈夫。ちゃんと綺麗で可愛い鈴だよ」
ニッコリ笑って褒めてくれた。うん。棗お兄ちゃんも大丈夫だって言うならきっと大丈夫。おかしな所は無い筈。
「あれ?鈴。そのネックレス…」
「これ?」
私は軽く指に引っ掛けて持ち上げる。すると棗お兄ちゃんは眉間に皺を寄せた。棗お兄ちゃんのこんな顔も珍しいよね。怒るってのとはまた少し違うと言うか、何か複雑そう。
「付けて行くの?」
「うん」
「どうして?」
「え?どうしてって。そんなの決まってるよー。ユメの事も白鳥に喧嘩売った事も全て知った上で自分の父親を止められないような屑ならこれ叩きつけて返そうと思って。えへっ☆」
態とぶりっ子して言ってみる。けれど、その返答にいたく満足したのか棗お兄ちゃんは満面の笑みで頷いた。
「そっか。もし、知らないようでも叩きつけてきたらいいよ」
うんうんと頷きながら頭を撫でてくれる。棗お兄ちゃん、優しい。その手に自分から額を押し付けてぐりぐりと逆に懐いてみる。
「………可愛いっ…」
棗お兄ちゃんが小さく何か呟いた。何だろうとは思いつつも癒し系の棗お兄ちゃんから離れがたくて擦り付く。
…あー…棗お兄ちゃん。癒しー…っといけない。あんまり棗お兄ちゃんに甘えててもいけないんだよね。今日は私が先に会場に行くんだから。
パーティ会場でなるべく早めに挨拶回りを済ませて、樹先輩に直談判しなきゃいけない。
「じゃあ、棗お兄ちゃん。先に行ってるね。真珠さん、行こう」
「はいっ、お嬢様っ」
何時の間にか復活していた真珠さんと一緒に階段を降りて、真っ直ぐ玄関へ向かう。
玄関でヒールを履いていると、後ろからママに呼び止められた。
「なぁに?ママ」
首を傾げると、いつになく真剣な表情でママは私を見た。
「……美鈴。危なくなったら直ぐ逃げてきなさい。良いわね?」
ママが念を押すように私に訴える。どういう意味か解らないけれど、ママがここまで真剣な顔をして言うのは珍しい。なら、それに問う事はしない。きっと本当に気を付けなければならない何かがあるのだ。
気を入れ直さなければ。覚悟を決め直さなければ。
私はママと向かい合ってしっかりと頷いた。
「私達も後から行くけど、やる事をしっかりやったら帰って来ていいから」
「ん。分かったっ。じゃあ、行って来ますっ」
行ってらっしゃいとママに見送られ、真珠さんが回してくれた車に乗り込む。
流石金山さんの血族なだけあり、とてもスムーズな運転で、ほとんど信号で止まるようなこともなくパーティの会場のあるホテルへと辿り着いた。
ホテルの人に車を止めて来て貰うように真珠さんが指示を出して、私達は二人で受付へ行く。
パーティへ来たと告げると、直ぐに案内の人が回されて、エレベーターから最上階へと案内される。
会場へ辿り着くと、正式な受付がありそこへ招待状を差し出す。すると、中へどうぞと促され、私達は中へと入った。
豪華なシャンデリアと自分の顔が映って見えそうな位に磨かれた床。両サイドにはバイキング形式の料理が並べられており、専属のシェフがゲストの皿へと取り分けていた。
「まずは挨拶回りから、かな。主催は猪塚先輩の所の鹿森(かもり)社長。猪塚グループ創設当初から猪塚を支えている猪塚グループの最強の盾、で合ってる?」
「はい。猪塚グループの四分の一の企業は鹿森社長が管理しています。他の企業も鹿森社長の手腕を買い傘下に入りたがっているものの、鹿森社長は猪塚会長を尊敬しており、害する事は一切なさらないとか」
「成程。…うん。賢そうな人なんだね。色んな意味で」
「はい」
「なら、まずは普通なら主催者に挨拶する所だけど、猪塚先輩のご両親に挨拶に行った方が良さそうね」
私は足を会場中央にいるであろう猪塚先輩のご両親へと向かった。
パーティ会場ってのは男も結構多い。結構って言うか大半……?だ、ダメダメっ!意識したら駄目っ!男の人とある程度の距離を取りつつ、けれど堂々と歩かなければいけなくて。これがまた結構精神を使う。
うぬー。MPゲージがあったらガリゴリに減ってるだろうなー。怒りゲージが高いから維持してるけど、このモードが切れたら一気に数値は0になりそう…。
なんて、バリバリにゲーム用語で説明した所でこの状況を変える事が出来る訳じゃない。結論としてはさっさと挨拶を済ませて樹先輩に会うしかない。
ざっと会場を見る限りだと樹先輩はまだ来ていない。来ない可能性はなさそうだけどな。だって猪塚先輩の所だし。ここでちゃんと顔の繋ぎを作っておかないと、後々大変だろうしね。
会場中央に辿り着きやっとお目当ての人物を見つけて、私はそちらへ足を向けた。
「失礼致します。猪塚会長でいらっしゃいますでしょうか?」
冷静に微笑んで、優雅を心がけて一礼する。
「そうだが…君は?」
「失礼しました。私は白鳥美鈴と申します。本日はパーティにご招待頂きまして有難うございます」
再び微笑む。すると猪塚会長が驚きに目を見開く。
「白鳥美鈴…。白鳥総帥だったか。いや、こちらこそ失礼した。初めて貴女の姿を見た時も可愛いご令嬢だと思っていたが、いやはや、まさかここまでお美しく成長されていらっしゃるとは」
「まぁ。ふふっ、猪塚会長は女性を喜ばすのがとてもお上手なのですね」
「いやいや。世辞などではないですよ」
「有難うございます。でも私には会長の奥様の方がよほど美しく思いますよ」
会長から視線を逸らし、その隣で凛と佇む着物を着こなした美人に微笑む。
すると、その女性は顔を真っ赤にして顔を逸らした。何故?
いや、それよりも………さっきから背後から恐ろしい気配を感じるんです。
殺気とかではないんですよ?そーゆーのじゃなくて。
ダラダラと背中に冷汗が流れる。それを顔に出さないようにするのに一苦労だ。うぅ…。
「会長は幸せ者ですね。美しい奥様に支えてくれるご子息。それに頼れる部下がいらっしゃいますものね」
頬に手を当てて、今はまだいない樹先輩に対する嫌がらせの様に言う。
そして、今の発言をした所為で、気配は近づいてくる。もう、ここまで来たら誰だか解る~…。解りたくないけど解るよー…。
「あぁ、ようやく来たか。要」
ですよねーっ!
会長が私を通り越した後ろに向かって声をかけていたから私のこの気配察知能力は正常だったんだと必要のない自信がついてしまった。
「…もしかしなくても…白鳥さん…?」
私はしっかりと距離を取ってから、出来るだけ猪塚先輩のお母さんの横に近づいてから振り返る。
すると、猪塚先輩の瞳はカッと見開かれ、ついでその瞳は嬉しそうに輝き、そして何故か両腕を広げた。え?なんで?
「会いたかったよっ!白鳥さんっ!!さぁ、飛び込んできてくれっ!!」
「いや、無理ですからっ!」
「大丈夫っ!遠慮しなくてもいいよっ!どんなに君が勢いよく飛び込んできても僕は決して倒れないっ!」
「そう言う問題じゃないですっ!」
「じゃあ、僕が行くよっ!!」
「そう言う問題でもないんですぅっ!!」
もとのヤンキークールキャラ何処行ったっ!?
今になって彼に日本語をきちんと教えたのを後悔しそうになる。
「え、えっとっ、私、主催者の鹿森様にも挨拶に行かなければならないので、これで失礼致します。あ、奥様、今度ご一緒にお茶でもしましょうねっ、ではっ」
飛び込んできた猪塚先輩を紙一重でかわし、猪塚先輩の腕の中に先輩のお母さんがいる事を確認して、素早く次の挨拶先である鹿森社長の下へと急いだ。
そこからの挨拶は巻きに巻いた。だって少し話す度に猪塚先輩が後ろに立って抱き着こうとするんだものっ!
真珠さんがどうにか止めようとしてくれてるんだけど、それを簡単に振り払うんだから。猪塚先輩、体が大きくなった分だけ能力がアップしてる。
怖いよー、やだよー…抱き着かれたら叫んじゃうよー…。
じりっと背後にまた気配がする。まだ追いかけてくるのー?
初めて会った時から思ってたけど、猪塚先輩執念深い。
そろそろ、挨拶回りも終わりに近づいて来てるから、何か食べに行くていで逃げ出そうかな。
目の前の小企業の社長さんに挨拶をして逃げようとした、その時。
「美鈴ちゃん」
私を呼ぶ、神様のような声が聞こえた。
そちらへ視線をやると、そこには最近セーラー服に見慣れてしまいすっかり男の子だと言う事実を忘れそうになっていた優兎くんがいた。
優兎くん。貴方もスーツがとても似合う男性になりましたねっ!おばさん涙が出そうですっ!そして、私を猪塚先輩から助けてくださいっ!
そう言えば優兎くん髪伸ばしてたな。わざとだろうけどね。女の子の中に混じりやすいように。でも、不思議とその髪を後ろに流して一つに結ぶと全然女の子に見えない。立派な男…、う…、だ、駄目だ。優兎くんは家族。家族だから。意識したら今まで平気だった優兎くんまで避けなきゃいけなくなっちゃう。
「…美鈴ちゃん?どうしたの?…って、あぁ、成程。猪塚先輩の所為だね」
優兎くんがスッと私の後ろに立って、背後から迫る猪塚先輩と対峙した。
うん。今がチャンスかな。小企業の社長さんにしっかりと挨拶を交わし、その場を離れる。
避難の意味も込めて、バイキングの方へ足を延ばす。女性のシェフがいる方に行こう。
…うーん。ついでだから何かお腹に入れよう。何がいいかな?お肉…はパス。うぅ…前世はお肉大好きだったのに、小学校の時優兎くんを助けて風邪引いて以来肉料理を受け入れられなくなってしまった。いや、食べれるのよ?食べれるけど、量が入らない。
だからこの間のカツサンドは辛かった。美味しいは美味しいんだけどね。うん。あのサンドイッチでかかったから。逆にお魚料理はかなり好きになった。お刺身ってこんなに美味しいんだと衝撃を受けたよ。
でも、ここでお刺身を食べるのもちょっとね。デザート系にしよう。えーっと…あ、あれ可愛い。一口サイズのケーキが沢山並んでいる。
「ねぇ、真珠さん」
「はい。なんでしょう、お嬢様」
「ケーキ、食べてもいいかな?少しくらいなら、いいよね?」
念の為に許可は取っておく。
「勿論ですよ。どちらをお召しになりますか?」
「えっと、えっとね、あのブルーベリーのとマスカットの奴がいい」
わくわくして言うと、真っ赤な顔をした真珠さんが取って参りますっ!と走って行った。真珠さん走ると人にぶつかる…訳ないか。真珠さんだもんね。
真珠さんが戻って来るまでの間どうしようかと手持無沙汰を満喫していると、背後から声をかけられた。どうして皆後ろから声をかけるんだろう?
振り返ると、そこには桃がいた。
「桃?なんでここに?今日は旭達とゲームするって喜んでなかったっけ?」
「えぇ。そのつもりだったのですが。私にも招待状が届いてしまいまして。…綾小路本家から態々銅本を通して私に届けてくるからにはきっと何かあると」
「…成程。それは怪しいね」
桃は艶やかな黒髪をモダンにアップし簪で止めている。その簪も清楚で桃にとても似合っている。着ている真っ赤な着物と相まって誰もが見惚れるほどの大和撫子に仕上がっていた。
「出来る事なら私も旭様達とゲームをしたかったですわ。まだ一度も勝てていませんものっ」
「ふふっ。旭は私やお兄ちゃん達に鍛えられてるからね」
むくれる桃が何だか可愛くてつい笑みが浮かぶ。すると桃もふっと笑みを浮かべ私の手をそっと握った。
「王子に綾小路から連れ出して頂いてから、私毎日が夢の様に楽しいんですの。…本当に感謝しか、ありませんわ」
「何言ってるの、桃。まだ、桃の目的、果たしてないでしょう?」
「えぇ。そうですわね」
にこにこと二人して手を握って微笑み合っていると、そこでようやく猪塚先輩を遠ざけた優兎くんが戻って来た。
「本っ当にしつこいよね、猪塚先輩って」
「そうなんだよ。解ってくれる?優兎くん」
「今改めて感じて来たよ。それより、はい、美鈴ちゃん、桃ちゃん」
手渡されたのはケーキが乗ったお皿。どうやら真珠さんに頼んだものを優兎くんが受け取って持って来てくれたらしい。
「わっ、ありがとう、優兎くんっ」
「ありがとうございます」
二人で受け取って、私は早速フォークで一口大のケーキを更に半分にして口に含む。
んまーっ!!
心の中だったらどんだけ叫んでもバレないよねっ。鴇お兄ちゃんにならバレそうだけど今はいないしねっ!!
うまうまとケーキを口に含む私を優兎くんがじっと見ている。
んん?どうかしたのかな?
食べたいのかな?だったら…。
私は半分にしたケーキの残りをフォークで刺して優兎くんの前に差し出した。
「はい、優兎くん。あーん」
「ちょっ、美鈴ちゃんっ!?」
狼狽する優兎くんに、あれ何か間違ったか?と思いつつもここで自分で食べるのも何か違うと思い首を傾げた。
「……はぁ。もう、兄達に怒られるよ?」
そう呆れながらもケーキをパクッと口に含んだ。ちゃんと咀嚼して飲みこむと、軽く咳払い。
「僕が美鈴ちゃんを見ていた理由は別にケーキが欲しいとかじゃないから。…美鈴ちゃん。桃ちゃんに来たこの招待状、どう思う?」
「まぁ、安直に考えるなら、桃はまだ綾小路家の跡取り。菊が戻されたとは言え、桃の方が彼らにとっては使い勝手の良い駒。だから綾小路家の負債を払えるような男とくっつけるべく、相手になれるような男がいそうなパーティに出席させ顔を覚えさせて、あわよくばその日の内に既成事実を作ってしまおうって感じかしら?」
「…美鈴ちゃん。そこまでハッキリ言わなくてもいいよ…」
「…ねぇ、優兎くん?私ね、真珠さんに頼んで、火事の事とか色々調べたんだけど…、なんでかな?パズルのピースが足りないのか、繋がらないのよ」
「繋がらない?」
「うん。私達はどうにも大きな何かに翻弄されてる気がするの。すっごく馬鹿にされてる気がする」
「美鈴ちゃん?」
「…それがね、滅茶苦茶腹が立つのっ」
明らかな苛立ちを露わにすると、会場の入り口の方がやけにざわついた。
何事?耳だけ意識をそちらへ向けると、答えはあっさりと出て来た。
「樹財閥のご子息が会場入りしたそうよ?」
「あら?なら早速見に行きましょうっ」
「財閥界の王子様を見なきゃ帰るに帰れないわ」
…樹先輩、財閥界の王子とか言われてんの?うっわー、うっけるーっ!―――(後に私が財閥界の姫と呼ばれているのを知って頭を抱える事になるけど、その事を私はまだ知らない)―――
………ん?ちょっと待てよ?良く考えると乙女ゲーム本編でもメインヒーローなんだから王子様扱いって当然じゃん。
私の方がおかしいんでは?
隣の優兎くんを見て自分の考えが正しいのかおかしいのか確かめようとしたら、優兎くんが顔をしかめていたから私の反応はどうやら間違いじゃなかったらしい。うん。良かった。
さて、どうしようかな。
樹先輩も挨拶回りあるだろうし、少しここでケーキを食べつつ、あちらが落ち着いてから襲撃をかける事にしよう。
優兎くんと桃と話しをしながら少し時間が過ぎるのを待つ。
すると再び入口がざわつく。きゃーきゃーと黄色の声も響き渡っている。男性の息を飲む声も聞こえてくる。
誰が来たんだろう?そっと伺ってみると、誠パパにママ、お兄ちゃん達が到着したらしかった。こりゃ騒ぎますわ。
お兄ちゃん達が到着する予定時刻は知っていたから、そろそろかなと私はお皿を真珠さんに渡して、樹先輩のいる方へと足を向けた。
お兄ちゃん達にお客さんの意識はとられているだろうから、多分問題なく近づけるだろう。
男性を避けて、女性の側を通る様にして挨拶回りを終えた途端にご令嬢たちに群がられている樹先輩の下へ来た。
「樹様」
口々に話しかけている女性達に混じって、私がその名を呼ぶと彼は一発で気付きこちらを見てフリーズした。
何故こういう時に限って声が届くのだろう…。結構距離を置いたはずなのに。ご令嬢の垣根を越えて行く気はなかったから、態々そこから少し距離を持たせたのに。
「……まさか、美鈴、か?」
まさかって何だ、まさかって。この野郎。
私は怒りを含めてにっこりと笑うと、何かを察した先輩がご令嬢たちを掻き分けて私の前に立った。
嘘ーっ?こんなに背伸びたのっ!?
双子のお兄ちゃん達に追い付きはしないもののかなりの高身長になっていた。あー…けどそんなイケメン王子。ゲームのスチルと同じような格好のスーツを纏ってばっちり決めてるのに。
「本当に、美鈴か?」
悪い笑みを浮かべられると、別人に思えてしまう。
「えぇ、お久しぶりですね、樹先輩。あ、そこから近づかないで頂けますか?でないと私叫んじゃいます」
と言いながら近づいてくる樹先輩から距離をとる。
「ははっ、あぁ、間違いなく美鈴だな。で?どうした?お前がパーティに出てるのも珍しければ、俺に話しかけるのも珍しいじゃないか」
「ふふっ。私が好きで話しかけてる訳ないでしょう?樹先輩、ちょっと面貸せ…ごほんっ、お面をお貸しくださいませんこと?」
私は出来るだけ丁寧にお願いした。…が。
「お前、それ、言い直されてないぞ」
呆れたような、諦めたような表情で溜息をつく樹先輩に良いから黙ってついて来いと私は先頭をきって歩きだした。
真珠さんに頼み予め借りていた会場であるホテルの一室。そこへ私と樹先輩、桃と優兎くんが中へ入り、私は三人にソファに座る様に促す。四角い高級感溢れるテーブルに一人用のソファが部屋の奥と手前で二脚ずつ並べて置かれている。
奥の方のソファに何の抵抗も遠慮もなく樹先輩が座り、桃はその反対側に立ち、樹先輩と向かい合う事のない方のソファへと座った。
それを確認して私は電話をとり、フロントへ何か軽く食べるものを適当に数種類、それから飲み物を頼み樹先輩の前に腰を下ろした。注文したものはきっと真珠さんが受け取ってくれるだろう。最悪樹先輩の銀川さんが受け取ってくれるから問題はない。
「それで?何を聞きたいんだ?」
髪を掻き上げながら言う先輩に私は素直にイラッとした。相変わらずこの人の俺様な態度は変わっていないようだ。
一度イライラが戻ってくると、増々腹立たしくなってくる。
「おい、美鈴。用があるなら早く言え」
気付けば手を振り上げていた。
―――バァンッ。
机を力の限り拳で叩きつけていた。
それに驚いていたのは、ただ一人樹先輩だけだ。何故なら、背後に私と桃を守る様に立っている優兎くんも、隣で冷静な顔をして樹先輩を見続けている桃も私が怒った姿を見た事があるし、怒ってる理由も知ってるから。
「用があるなら早く言え?ですか。相変わらずですね、先輩。用ならありますよ。あるに決まってるでしょう?でもこちらにだって聞く順序という物があるんです。何せ正面きって喧嘩を吹っ掛けて来たライバル財閥のご子息をこうして呼び出したんですから」
「喧嘩…?一体何の話だ?」
「とぼけてるんですか?それとも本当に何も知らない箱入りなんですか?前者なら私は今直ぐに今まで頂いたこの指輪を貴方の顔面に投げつけて帰らせて頂きますが」
「待て。本当に解らない。一体何の話をしているんだ?」
じっと樹先輩の本意を探る様にその瞳を見詰めると、樹先輩も真っ直ぐに迷いなく私の目を見て来た。…どうやら本当に知らないようだ。
ふぅっと怒りを落ち着ける為に、細く息を吐く。と同時にドアがノックされて私の代わりに優兎くんがドアの方へ歩いていってくれた。二言三言会話して、ワゴンを押しながら戻ってくる。
机の上に果物の皿盛りと軽食のサンドイッチやスコーンが置かれ、私達三人分の紅茶を優兎くんが全て用意してくれる。
そして、私に封筒を手渡してくれた。どうやら真珠さんが持って来てくれたみたいだ。
ありがたく受け取り、私はそれを樹先輩の方に放り投げた。樹先輩は一度私の方を見たが、私が視線で開けて中を見ろと訴えると直ぐにその封筒を開けて中から書類を取り出した。
まだ学生と言えど跡取りだ。書類を見るのは慣れているだろう。そこにあった書類全てあっという間目を通す。
「………何だ、これは…」
ぐっと眉間に皺が寄る。やっぱり知らなかったか。
「見ての通り、白鳥財閥に対する挑戦状よ。それ以外何があるって言うの?」
「待て。待ってくれ。俺はこんなの知らない。父上が勝手にやったことだ」
そう言いつつ樹先輩は書類をもう一度見直していた。何か思い当たる節があるのかもしれない。だったら少し考えを纏める時間をあげよう。
小さなサンドイッチを手に取り食べる。うん、美味しい。
もう一つ食べようか悩んでいると、突然携帯の着信音が鳴り響いた。
このメロディは聞き慣れてる。優兎くんの携帯だ。
「ちょっと、ごめんね」
手早く操作して、唐突に優兎くんの表情が怒りの色へと変わっていく。
「…美鈴ちゃん、ごめん、僕先に帰る」
「え?」
「真珠さんに中へ入る様にお願いしていくから。安心して」
「う、うん。それは構わないけど、どうしたの?何かあった?」
「夢子ちゃんから呼び出しがあったの」
「ユメからっ!?」
「うん。何もなければ問題ないけど。でも何かあったら大変でしょ?」
「そうだね。うん。お願いしてもいい?優兎くん」
「勿論だよ、美鈴ちゃん。夢子ちゃんは僕の友達でもあるんだから。悪いんだけど、桃ちゃんも一緒に連れて行っていい?夢子ちゃんのメールには桃ちゃんもって書いてあったから」
「うん。いいよ。良いに決まってるよ。ユメの事、お願いね。二人共」
優兎くんに頷いてから隣の桃にも視線で訴えるとしっかりと頷いてくれた。
部屋を出て行く二人を見送り、私は真正面に向き直る。
「理解出来ない所が何か所かある。聞いてもいいか?」
「私の分かる範囲なら。ただし、私も解らない所があるの。情報の照らし合わせと行きましょう。樹先輩」
「あぁ。これを読む限りだと、高瀬不動産が土地を貸していた施設の火事って事になるんだろうが…」
「そうですね…。ですが、先輩。先輩が何処まで知っているか解りませんが、その不動産はまだ施設の土地を買い取ってはいなかったんですよ」
「どう言う事だ?」
「その施設に来ていた立ち退き指示は、今年の三月まで。なのに、その火事のあった日はまだ期日前。更に言うなれば、まだ売却の書類を渡していません。それは確実です。だってその書類は私が持っていたんですから」
「……成程」
「ねぇ、樹先輩。そこに放火犯は一之瀬夢子だって書いてあるでしょう?
「ん?…あぁ確かに書いてるな」
「でも、そんな事はあり得ないんです」
「何故だ?」
「そんなの、自分の育ての親と兄妹を殺したいと思いますか?」
「……その言い方からすると、一之瀬夢子って奴はこの火事にあった施設の出身者か?」
「そうです。それにその施設が火事にあった日。私とユメは施設の中にいました。逃げ遅れたら死ぬ所だったんですよ?ユメが犯人だとして、自らをそんな状況に追い込みますか?」
「ないな。やるとしたら余程の酔狂な人間だ。完全に擦り付けだな。だから、白鳥家への挑戦状、か?」
「そうです。今その施設で暮らしていた人間は皆私の買った家で暮らしてます。だから、これ幸いと私に喧嘩を売ったんでしょう」
「父上がそんな浅はかな行動をするか?何か他にも訳がありそうだ…」
「私もそこを詳しく知りたいんです。放火犯を見つけない事にはユメの嫌疑ははれない。ねぇ、樹先輩?先輩なら知ってる事があるでしょう?教えてください。その書類の最後には樹財閥総帥の印があります。貴方の父親がこの放火犯の肩を持つ理由が何かある筈なんです。それを私に教えてください」
教えてくださいともう一度樹先輩の目を見据えて言う。頼む態度じゃないけれど、でも私はこの人に頭を下げたくはない。私はこの人と対等でいなければいけない唯一の人間だから。
「高瀬不動産。…高瀬の息子、か。高瀬……待てよ?この間、父上が呼び出した人間は……?だとしたら、あれは高瀬の所の息子か……」
ブツブツと何か呟いているが声が小さすぎて聞き取れない。って言うかその呟いてる内容を私に聞かせなさいよっ。じゃないと全く前に進んでないじゃないっ。今の所情報をまとめただけだってのっ!
「樹先輩?」
目を吊り上げて睨み付ける。すると樹先輩はふぅと一息ついて、カップを持ちすっかり冷めた紅茶で喉を潤した。
ピクッ。
あれ?今…樹先輩が片眉を動かしたような…?
気のせいかな…?
スッとカップを戻す姿はいつも通りだし…。
私はじっと樹先輩を見詰めた。すると同じく視線がこちらへ注がれた。とりあえず次の言葉をじっと待つ。
「美鈴。お前、携帯を持て」
「…………………は?」
突然何のお話で?
想定してない方からの攻撃で一瞬頭が停止してしまう。
大体携帯なんて持つ気更々ないんだけど。
「父上と高瀬を調べてみない事には正直何とも答えようがない。だがその二人が情報を握っているのは確実だ。だから、解り次第教えてやる。とは言えお前は携帯を持っていないだろう。連絡のしようがない」
「だったらお兄ちゃんの携帯に連絡してください。お兄ちゃんも全部知ってるから」
ハッキリと携帯を持つ気はないと意思表示。
樹先輩と視線がぶつかる。けど私に退く気はない。ぐっと睨み付ける。
でも先輩にはそれが予想通りの反応だったのか、立ち上がり私の方へ手を伸ばしてきた。テーブル越しだから、ソファごと思いっきり後ろへ退いてその手から逃げる。
急いで立ち上がり、奥の窓の方へ駆け距離をとる。
そ、そう言えば、すっかり事件の事に気を取られてたけど、樹先輩と二人きりだっ!?
真珠さんを呼ぶって優兎くんが言ってくれたのに、来てないっ!
キョロキョロと視線を巡らすと、樹先輩は楽しそうに笑った。
「お前の所の秘書なら、今頃銀川が相手してくれてる」
「樹先輩、完全に悪役の顔になってますっ!!」
「くくっ…そうか?」
樹先輩は楽しそうに笑って、一歩一歩と私の側に迫ってくる。
「嫌っ!!」
小学生の時もこんなことあった。どうして私は学ばないのーっ!?
とりあえず寝室の方へ逃げたら駄目だっ!行くなら廊下の方っ!
ちらっとそっちを見て、逃走経路を考える。
なのに、それを先読んだ樹先輩が、態と廊下へ出る道を塞ぐように私の方へ歩いてくる。
「てっきり俺と二人きりになれる程、男が平気になったと思ったんだがな」
「怒りで我を忘れてただけですっ!やーっ!来ないでーっ!!」
兎に角逃げなきゃの一心で樹先輩の方へ手近にあった椅子を持ち上げ投げる。
ドスンッと音を立てて落ちるそれを樹先輩は面白そうに回避する。
その間に脇をすり抜けて廊下へ。そう思ったのに…。
「捕まえた」
腰に腕を回され、そのまま引き寄せられる。
「嫌っ!!離してっ!!」
がくがくと膝が震え、少しずつ恐怖が体を侵食していく。
「まさか、こんな綺麗になって戻ってくるとは正直予想してなかった…美鈴」
ぎゅっと体を抱き込まれる。
―――怖いッ。怖いぃッ。
指の先まで冷たくなってってるのが解る。感覚がなくなり、視界が歪み始める。
嫌だって言ってるのに、何で離してくれないのっ。
「指輪…。俺に会うから付けて来てくれたんだろう?やっぱりお前はいいな。…凄く可愛い」
樹先輩の両手が私の頬を包み、親指が私の目尻を撫でる様に触れると、そこへ唇が落とされる。
「はなし、て…、おねが、い…、せん、ぱい…」
私のお願いに先輩は首を振って、そのまま頬にもキスを落とされる。
『泣いてもいいよ。どれだけ泣いても、俺は止めないから。知ってる?西園寺さん。こういう時の女の涙ってね。男を煽るだけなんだよ』
前世の記憶が頭を過る。
―――逃げなきゃ…逃げなきゃっ。
足に力込めて、樹先輩を殴ってでもっ。
そう思ってたのに、私の体は直ぐに動いてくれず、むしろ私の行動に気付いた樹先輩が私の体を抱きしめ少し体を抱き上げる。
ギリギリのところで宙に浮かされた体は、足の先が地面につくかつかないかで。
「逃げるな。大丈夫。怖い事なんて何もしてないだろ?ただ抱きしめてるだけだ」
その抱きしめてるって行為が怖いのっ。
力が入らない腕で、せめてもの抵抗で。私は樹先輩の胸を押すけれど、全く歯が立たない。抵抗にすらなってない。
それ所か、抱き締めていた腕が片手だけに変わり、腰に回った腕で更に樹先輩と密着させられて、抵抗していた手の片方をとり手の平にちゅっと音を立てたキスをされる。
「キスだって、ただ俺の唇がお前の肌に触れてるだけだ。痛くしてない。怖くない。大丈夫」
本格的にガタガタと震える体を抑える様に腕に力を込められ、肩にかかっていたストールが外された。樹先輩の手が胸にそっと胸に触れる。手の平に触れていた唇が、頬に、額に。そして首筋に触れチリッと痛みが走った瞬間―――恐怖が頂点まで達した。
「いやああああああっ!!」
「―――ッ!?」
暴れた。
とにかくこの体に巻き付く腕から逃げたかった。
これ以上前世の記憶が脳内に過り、意識が闇に閉ざされる前に。
「お、おいっ、美鈴っ?」
焦った樹先輩の声が聞こえてきたけど、そんなのもう私の耳には入らない。
『可愛いなぁ。…逃げるなよ』
―――段々と前世の記憶が。
『ははっ。今更暴れた所で無駄だっつーの』
―――私を襲ってきた沢山の男の声が。
『やっと見つけたよ…。さぁ、君の全てを俺にみせて…』
―――記憶の奥底から甦り過り始める。
(もう、いや…。助けて…誰か、誰か…。お母さんっ)
きっと意識を手放した方が私は楽になれる。そう、思い始めた―――その時。
―――バンッ。
突然ドアが開いて、誰かが走り寄る音が聞こえる。
「美鈴っ」
私の名前を呼ぶ優しい声。
救いが来た。
助けが来た。
私はその声の主に必死に手を伸ばす。
「葵、お兄ちゃんっ…、こわい、こわいよぉっ…」
葵お兄ちゃんが私の手を握り、樹先輩の手から救い出してくれる。
そして、私を抱き上げたまま、樹先輩の脇腹に渾身の回し蹴りを繰り出した。
「うぐっ!!」
呻き声が聞こえ、ガタンッと何かにぶつかる音が響く
「龍也。何度言ったら解る。美鈴は男が怖いと僕は何度も何度も言った筈だ。君は何度僕の大事な妹泣かせたら気が済むのかな?流石に次に何かしたら僕、君を殺すかもしれないよ?無駄に回る脳みそ持ってる癖してこんな簡単な事も解らないのか?」
「……わ、る、かった…。もう、しない、から、おちつけ」
ガタッと立ち上がる音と、息も絶え絶えな樹先輩の声が聞こえる。
見るのが怖くて葵お兄ちゃんの胸に顔を擦りつけていたけれど。それでも気になって、こっそりと樹先輩の方を見ると蹴られた脇腹を抑えつつ、よろよろとソファに座る姿があった。
「おまえ、手加減しろよ…」
「する訳ないだろ。する必要もない。鈴ちゃんを傷つけようとする人間に手加減するほど僕は出来た人間じゃない。それに君は咄嗟に防御しただろ。骨が折れてないだけ良いと思いなよ」
「………あー…悪かったって」
じっと樹先輩の視線が私を突き刺す。
ぎゅっと葵お兄ちゃんに抱き着く。樹先輩の視線から逃げたい。逃げたくて仕方ない。
「……悪かった。美鈴。…それに、助かった。葵」
……助かった?
私への謝罪の言葉は聞き入れる気がなかったからあっさりと耳をすり抜けたけど、葵お兄ちゃんに向かって言った言葉が耳に残った。
助かったってどういう意味だろう?
葵お兄ちゃんを見ると、何言ってんだコイツって目をして樹先輩を睨んでいる。
その時、ふわりと今までするはずのなかった甘い香りがした。…これは、薔薇の香り?
何かが記憶の蓋を揺さぶる。
前世の記憶の何かだ。待って。落ち着いて考えよう。
ゴシゴシと目を擦り、涙を拭う。
「鈴ちゃん。駄目だよ、そんなに擦ったら。赤くなっちゃう」
葵お兄ちゃんが私を片腕だけで支えつつポケットからハンカチを取り出し涙を拭ってくれた。
片腕で抱き上げられるって葵お兄ちゃん、どんだけ力があるの…?
そう言えばさっき樹先輩も片腕で私を持ち上げてた。…もしかして私が軽いのか?…いや、そんな事はない、よね?ないはず…ないと思いたいな…。
葵お兄ちゃんに涙を拭って貰った。きっとうっすらとしかしていなかった化粧も落ちちゃったよね…。けどこればっかりはどうしようもない。今は私のボロボロの顔よりも…。私は葵お兄ちゃんの腕から降りて樹先輩に近寄った。
「…美鈴?」
まさか自分に近寄ってくるとは思わなかったんだろう。樹先輩が目を丸めている。
勿論、私だって本当なら近寄りたくない。でも、この薔薇の香りを確かめるには仕方ない。
安全の為、葵お兄ちゃんとしっかりと手を繋ぐ。何かあった時、葵お兄ちゃんに引き寄せて貰えるように。
樹先輩に前に立ち、ギリギリの位置ですんすんと匂いを嗅ぐ。あまり近寄っても怖いだけだから腰を折り少しだけ近づくようにして。
「…おい?」
何をしているのか分からない樹先輩は怪訝そうに私を見た。樹先輩から微かにするこの香り。
「……やっぱり、樹先輩から薔薇の香りがする。先輩、何か香水でもつけてます?」
「まぁ、つけてはいるが、薔薇の香りのは使ってない。それならお前の香水の香りが移ったんじゃないのか?」
「いいえ。私も薔薇の香りのは使ってません」
体を起こしてきょろきょろと辺りを見渡す。薔薇の香りがするようなものは特に置かれていない。勿論薔薇の生けられた花瓶もない。だったらシャワールームとか?でも誰も使ってないよね?
薔薇の香り…。多分これがヒント何だと思うんだけど…。
ふと、テーブルに置かれた紅茶が目に入った。それを手に取り再び匂いを嗅いでみる。そこからは強烈な薔薇の香りがした。
「これだ…」
私は先輩の紅茶のカップを置いて今度は自分のカップを手に取り匂いを嗅ぐ。そこからは薔薇の香りは一切しなかった。普通のアッサムティーの香り。
「先輩、その紅茶に媚薬が仕込まれてましたね?」
言うと、樹先輩は片眉をピクリと動かした。どうやら間違いないらしい。
「媚薬?鈴ちゃん、それどう言う事?」
「あのね、葵お兄ちゃん。こっちが私の紅茶。そっちが先輩の紅茶。ちょっと匂いを嗅いでみて」
カップを置いて指さし説明する。葵お兄ちゃんは私と手を繋いだまま、私の横に立つと最初は私のカップ、そして次に樹先輩のカップを手に取り香りを確かめて顔を顰めた。
「まるで薔薇のジャムでもいれたみたいな香りだね。噎せそう」
「うん。でしょ?でも良く見て。ジャムを溶かした色じゃないでしょう?」
「そう、だね。うん。美鈴のと同じ色だ」
葵お兄ちゃんが頷いてくれる。それに続ける様に樹先輩が口を開いた。
「これは花島が同じティーポットから注いだ紅茶だ」
「そうなの?鈴ちゃん」
「うん。確かに優兎くんが入れてくれた紅茶だよ」
「だから、俺はローズティーだと思って気にせず飲んだんだ」
確かに薔薇の紅茶ってあるもんね。これって私も飲んでいたら気付いたんだろうか?
…気づいたとしても、先輩の力に抗えるとも思えないし、無駄か。
「…成程。それで龍也は僕に向かって助かったって言った訳か」
「そう言う事だ…。にしても、痛ぇ…」
「うん。良かったね」
苦しんでいる樹先輩をさらっと流す葵お兄ちゃんがカッコいい。素敵。しかも無視して話を進めると言う虐め。やだ、素敵。
「それで、鈴ちゃん。これに媚薬が入ってたとして、どうやってそれを仕込んだのかな?樹と二人きりだったんでしょ?それともその間に誰か来た?」
「ううん。来てないよ。本当に二人きりだった。そんな時に仕込むことなんて普通出来ないよね。スパイや隠密?忍者とか?そんなのいる訳…」
あー……いたね。
少し靄のかかっていたフィルターが剥がれました。
うん。いたよ。忍者がいた。攻略対象に忍者がいたんだよ。
『近江虎太郎』
彼は忍者の末裔で、キャラの立ち絵は制服姿で顔を覆面で隠しているというシュールなキャラだ。
そんな彼が忍術を使うと薔薇の香りが残るのだ。
乙女ゲーム設定とは言え、おかしいでしょう、これ。だって、隠密の人間が自分の足取りを残して消えるって馬鹿じゃん。
あともう一つ。このキャラと出会うと出てくるライバルがいる。それは桃だ。要するに彼は綾小路家の専属忍者であり、綾小路家の命令は絶対なのだ。
そこから導き出される答えは一つ。
「鈴ちゃん?」
急に考え込んだ私の顔を葵お兄ちゃんが覗き込む。心配そうに瞳が大丈夫?と聞いてくる。それに頷いて答えると、私は改めて樹先輩を見た。
「樹先輩。近江家を知っていますか?」
「知っているも何も、そこは綾小路家の……あぁ、成程。そう言う事か。くそっ。やってくれるっ」
一気に理解した樹先輩が悔しそうにソファの手凭れに拳を叩き落とした。
「ちょっと待って。鈴ちゃん。どう言う事なの?」
「ほら、家にお泊りにきてる桃。彼女の家の事情はもう教えたよね?」
「うん」
「彼女の家は昔からお抱えの隠密がいるの。忍者の末裔がね」
忍者と言う信じられない話も樹先輩の状況を見て納得したのか、あぁと葵お兄ちゃんが呟き、それから憐れみの視線を樹先輩に見せた。
私もつられて樹先輩を見ると、それはそれは黒い笑みを浮かべていた。
「ただでさえ、俺は美鈴の中で低ランクにいるってのに、更にそれをどん底に落としてくれたって訳か…?ふふ…ふふふふふ…」
えーっと、これはどうしたらいいのかな?
膝の上に肘を乗せ、指を組んで怪しい笑みを浮かべてる樹先輩。
助けを求めて、葵お兄ちゃん見ると、うん?とそれは綺麗な笑みを浮かべてくれた。あ、全く気にしてない。樹先輩の事、葵お兄ちゃんはどうでもいいらしい。
「美鈴」
先輩に名前を呼ばれて私は慌てて葵お兄ちゃんの影に隠れる。その影からそっと顔を出して樹先輩を見ると、苦笑を浮かべ彼はゆっくりと立ち上がった。
「悪かった。怖かっただろ」
「はい」
私はハッキリと同意した。だってここで嘘を言ってもしょうがないもん。
「媚薬は理性を取りはらう薬。だからあれは媚薬を使われてたとは言えど俺の本音だ。…嫌われても仕方ない。けど…」
樹先輩がぐっと拳を握る。…全く何を考えているんだか。私の顔には苦笑が浮かんでいた。
「…大丈夫です。私は最初から会った時から樹先輩が嫌いですっ」
「おま…ハッキリ言うな」
眉を下げて情けない顔をする先輩に私はふいっと顔を逸らす。
「最初から嫌いですから、今までと何も変わりません。今まで通り近寄られたら逃げますし、話かけられたら刺々しく返します」
そう。何も変わらない。今までだって嫌いだったんだから。そこから態々態度を変える必要はないだろう。
「……そう、か。今まで通りに、か。ありがとう、美鈴」
王子様のように微笑む樹先輩。でも私は決して絆されません。怖いから。
葵お兄ちゃんに抱き着き、完全に後ろへと隠れる。
「美鈴。俺もここまで馬鹿にされて黙ってるほどプライドは低くない」
「…知ってます。樹先輩はプライドの塊」
「そうだ。だから何か解り次第すぐにお前に連絡する。そんなに待たせはしない。楽しみに待ってろ」
「…はい」
情報は欲しいから。私はしっかり頷く。
「よし。あぁ、それから、美鈴」
?、まだ何かあるのかな?
こそっとまた葵お兄ちゃんの影から樹先輩を見ると、樹先輩は口の端だけで笑った。
「お前、結構着やせするタイプだったんだな。思ったより大きくて驚いた」
着やせ?大きい?何の事?………ハッ!?もしかして、胸の事言ってるっ!?
私は靴を脱いで樹先輩の顔面目掛けて投げた。
あっさり避けるだろうと予期して、もう一つ投げるとその額にクリーンヒットしたから私としては満足。
ヒールは凶器。でも当たったのは爪先の方だったから大丈夫でしょ。セクハラ男にはこれでも優しい方だと思う。
部屋を出て行く私の後を追い掛けてくる葵お兄ちゃんはとても清々しい顔をしていた。
パーティを中座して帰宅した。あの恰好でパーティ会場に居続けるのはちょいと無理があったから。玄関をくぐり、家の中へ入り真っ直ぐリビングへ向かう。
リビングで待っていたのは優兎くんと桃だった。
私のズタボロな姿を見るなり二人の顔色はみるみる青くなる。
事の成り行きを話せる限り話すと、今度は青い顔からスッと表情を消して、優兎くんは腕を組んで何かを考え込み、桃は天井を睨み付けた。
「…虎太郎…?貴方の事だから、聞いているわよね?…私、貴方の事、嫌いじゃなかったの。いつも辛い時に側にいてくれた大事な家族だと思っていたわ。でも…王子をこんな目に合わせるのなら話は別よ。…許さないわ。もう、絶対に」
バキッと桃の手に握られていた扇子が折れた。中央から真っ二つに。桃、貴女いつの間にそんな力を…?『病弱、薄幸の大和撫子』ってキャラの説明にはあった気がするよ?…あれー?
「ねぇ、虎太郎?私今心底安堵しているわ。虎太郎との子を産むことにならなくて良かった、って。お父様に逆らえないような屑な男となんて絶対に嫌」
ガタガタと屋根の方で音が聞こえる。
「銅本っ!」
「はいっ、お嬢様」
「あの馬鹿、どっかに連れて行って」
「畏まりました」
突如現れ突如消える銅本さん。ぶっちゃけ銅本さんとか真珠さんとか、そっちの方がずっと忍者っぽんだよね。
まぁ、何はともあれ家の中から不審者も消えたし、樹先輩も色々探ってくれるって言ってくれたし。
今日はこのまま、寝よう。
…寝れるかな…。こういう事があった時って必ず前世の夢を見るから。大抵完徹しちゃう…。
駄目だって言われるの覚悟で枕持って棗お兄ちゃんの部屋に行ってみようかな?
お風呂に入ってる間に、家族皆が帰って来た。桃と優兎くんはもう部屋に戻ってる。パジャマ代わりのタオル生地のパーカーとセットのショートパンツを履いてリビングへ行って皆と話す。
そして、皆が各々行動を始めた時、こっそり棗お兄ちゃんに一緒に寝ちゃダメかとお伺いを立ててみる。
正直断られると思ったんだけど。ほら、もう年齢が年齢だし。でも棗お兄ちゃんは笑顔で頷いてくれた。うぅ、棗お兄ちゃん、ほんと優しい。
部屋から枕を持って、棗お兄ちゃんの部屋へ突撃した。
棗お兄ちゃんがお風呂に入っている間にベッドへもぐりこみ、あっという間に眠りに落ちてしまった。多分、直ぐに棗お兄ちゃんも一緒に寝たんだろうけど、ぼんやりとした記憶しかない。あ、でも棗お兄ちゃんが抱きしめてくれたのは覚えてるよ。だって暖かかったから。ついその胸に擦り寄っちゃったし。何よりの証拠に久しぶりに盛大な寝癖がついた。
―――8月9日。
棗お兄ちゃんに起こされて目を覚ました時間を見て驚愕した。8時過ぎまで寝てたの初めて…。そして、某戦闘アニメキャラばりに逆立った前髪。葵お兄ちゃんの所に走ったのは言うまでもない。
その日の夜。
樹先輩からメールが葵お兄ちゃん宛てに入った。
リビングで夕飯食べた後でまったりしていた最中だったから、タイミングとしてはバッチリで。葵お兄ちゃんが座るソファの後ろに回り携帯を一緒に覗き込む。
『美鈴に伝えろ。綾小路家を中心に怪しい所を銀川に探らせた。そしたら面白い結果が出て来たぞ。申護持の施設に火を点けたのはどうやら高瀬久治。綾小路菊のもと婚約者だ。そしてもっと驚くべきことに、その火を点ける様に指示を出したのは、父上だ。なんでそんな事指示したのかはまだ良く解らないが。これも分かり次第また連絡する』
文章を読んで、驚きのあまりソファから身を乗り出してしまい、頭から葵お兄ちゃんの膝の上に落ちてしまった。子供が良くやるよね。お父さんの後ろからお父さんの読んでいる新聞覗き込もうとして重心が頭にあるから頭ごと落下。お父さんの肩をを滑って頭から落ちると言うあれ。今の私はまさしくそれ。
「樹財閥の総帥が放火の指示?あまり面白い話じゃないんだけど」
膝の上に落下した私を難なく抱えなおしながら言う葵お兄ちゃんに私は頷く。ドジな私を嫌がることなくこうしてちゃんと膝の上に座らせてくれる葵お兄ちゃん。優しいけど、どうせなら笑って突っ込みが欲しいです。恥ずかしくて死にそう。スカートじゃなくて良かった…。
「そもそも、鈴ちゃんがいるのに放火ってあり得ない。鈴ちゃんに火傷の痕一つでもあったら僕、樹家を放火してたな」
「お、お兄ちゃん。そんなキラキラした笑顔で怖い事言わないで」
「仕方ないよ。本当の事だもの」
頭を優しく撫でられる。本当の事かー。だったら仕方ないのかなー……って、駄目でしょ。つい絆されそうになっちゃった。
「駄目だよ。本当の事でも。葵お兄ちゃんが犯罪者になったら、私泣くよ?」
すっかり乙女ゲームの攻略対象キャラに相応しい姿に成長した葵お兄ちゃんの肩口にぐりぐりと額を押し付ける。
「鈴ちゃん……。どうしよう、可愛すぎて僕今なら龍也の我儘を笑顔で許せる気がする…」
ぼそりと何か呟いてたけど、私の耳には届かなかった。
何故なら、私の視線と意識は葵お兄ちゃんの手から受け取った携帯のメールに集中していたから。
樹財閥の総帥がたかが貧乏な一施設をリスクを犯してまで放火させた意味は何?
あの施設の誰かが樹財閥総帥に関係があると考えていいよね。でも、誰が?
普通に考えるならあの施設にいる子供たちの誰かが総帥の血縁者で、その証拠隠滅の為に、って所何だろうけど。それだったらその子を引き取ってこっそりと証拠隠滅した方が早いよね?
だとしたら目的は別にある。火事を起こしたら施設の人間はどうなる?今回は別の住処を私が用意していたからどうにかなった。でも用意していなかったら?皆散り散りになって養子に行ったり別の施設に入る事になる。
…じゃあ、その時明子さんはどうなる?一人で暮らす事になるか、もしくは実家に帰るのか。あれ?そう言えば明子さんって指輪してたよね?結婚してるんだ?
旦那さん見た事なかったな。本名が申護持明子なんだから旧姓もある筈だよね?…もしかして、明子さん?樹財閥総帥と関係あるのって明子さんなんだろうか?
「ねぇ、葵お兄ちゃん」
「ん?どうしたの?」
「メールに返信、してもいい?」
「勿論、いいよ。龍也にお礼でもいうの?だったらなるべく辛辣にね?」
「うん?お礼も言うけど、そうじゃなくて、って、…ん?辛辣に?」
ニコニコ。
葵お兄ちゃんが良い笑顔をしている。うん。何も言わないでおこう。
私はテシテシと文章を打つ。
申護持と聞いても分からないだろうから『情報有難うございました。明子って名前で聞き覚えがありませんか?総帥の身近に』と端的にメールを打って送信する。
すると、数分待たずに返信が返って来た。
『確か、父上と幼馴染だった神薙の筆頭跡取りの女性が明子と言う名だった。ある日突然家を飛び出して行方を暗ましたと聞いているが』
…いるがで文章を切らないで欲しい…。その先が気になってしょうがない。
テシテシと続きを促すメールを送る。
『そこから先は聞いても答えてくれなかった。ついでに調べてもそれらしき情報は父上が全て封じてるらしいのか分からない』
……使えない。にしても、幼馴染、か。
行方不明になった…って事は、多分駆け落ちしたのかな?直後に苗字を変えられたりしたら、そりゃ分からないよね。
樹財閥総帥がその逃走を手伝ってたりしたら、増々分かり辛くなる。んー…でも、逃走を手伝ったのに今更呼び寄せるとかあり得る?
首を捻っていると、持っていた携帯がまた着信を知らせた。
何か、追加情報でも?
そう思ってメール画面を開くと、『首につけたキスマーク消えたか?』と書いていた。なんちゅー分かりやすいセクハラを…。
イラッとして葵お兄ちゃんに携帯を返す。
不思議に思った葵お兄ちゃんが携帯を操作して内容を読み込み、眉間に皺を寄せた。
「……鈴ちゃん。ちょっと、ごめんね」
「え?葵お兄ちゃん?」
グキッ。
いきなり横を向かされました。痛いです。首から変な音がなりましてん。口調も変わる痛さ…。
「…痕、少し残ってるね…。可哀想に」
マジかー。あの時吸い付かれたと同時に葵お兄ちゃんが助けに来てくれたから大丈夫かと思ってたけど、樹先輩ちゃっかりと残してたのか。
…強姦された訳じゃないから、マシと言えばマシ?
ふとあの時の事を思い出し体が震える。
「鈴ちゃん。ごめんね、怖い事思い出させたね。大丈夫だよ。僕がちゃんと龍也に拳叩き込んでおいてあげるから」
「うん…」
ぎゅっと抱きしめられる。
その時、唐突に激しい音を立ててリビングのドアが開いた。
「王子っ!私悔しいですわっ!」
そう言って桃が駆け込んで来る。
葵お兄ちゃんの膝から降りて桃の側へ行くと桃が抱き着いてくる。
「ど、どうしたの?」
「どうしたのもこうしたのもありませんわっ!旭様達に全く勝てないのですっ!毎日毎日挑んでいるのにっ!」
あー…ゲームの話ね。
どうでもいい話を聞いて、私の体を支配していた震えも恐怖も消え、一気に脱力感が。
「あのパズルゲームか~。結構難易度高いよね。簡単そうに見えてさ」
「そうなんですのっ」
「棗お兄ちゃんを味方に連れて行ったらいいのに」
「嫌ですわっ!だって棗様も殿方ですっ!私は旭様達殿方にずっと負けてますのよっ!」
なんだそりゃ。桃の理論が面白い。
良い所のご令嬢が黒髪を左右に揺らしながら熱くゲームを語る。
この状況を笑わずにいつ笑えと。
自然に浮かぶ笑みに私は頷いた。
「なら、リベンジに行こうか。えーっと誰の部屋だっけ?」
「今日は旭様のお部屋ですわ」
「じゃあ行こう」
くるっと振り返り、私は葵お兄ちゃんをみる。
「葵お兄ちゃんも行こうよ。棗お兄ちゃんも誘って皆でやろう?」
棗お兄ちゃんは夕食後部屋に戻って勉強をしているはずだ。
「いいけど、最終的には棗と鈴ちゃんの一騎打ちになるんじゃない?」
笑いながら立ち上がる。
「そんなことないよー。私だって随分久しぶりにやるんだし」
「そう?なら僕は秘密兵器を連れて行こうかな。鈴ちゃん、綾小路さんと先に行ってて」
秘密兵器とはなんぞや?
葵お兄ちゃんのこの笑みを見る限りだと絶対教えてくれないな。
ここは素直に頷き桃と一緒に旭の部屋を訪ねた。
大型のテレビの前に弟達と優兎くんがいて、旭と優兎くんが対決していた。
優兎くんが劣勢である。そしてそのまま優兎くんは落ちてくるふよふよした物体に画面を占拠され負けた。
三回勝負中3対2で優兎くんの負けみたい。
「優兎くん、惜しかったね」
「そうでもないよ。だって旭達日に日に強くなってるんだから」
「へっへー。当然でしょ。毎日やってるもんっ」
優兎くんに褒められて旭は嬉しそうに胸を張る。そんな旭をじと目で睨み付ける。
「へぇ、毎日?…旭、夏休みの宿題ちゃんとやってる?」
ギクッと弟達の肩が跳ねあがった。
わお。分かりやすい。本当に私達の弟なのかと思う程四人は素直だ。
「ちゃんと宿題やらないと、明日のおやつは抜きだよ?旭、蓮、蘭、燐?」
「ええーっ!?」
「ええー、じゃないの。それとも、ママに知らせようか?」
私には言い返してきたのにママの名前を出した途端、四人は青い顔をして明日中に終わらせますとはっきり断言した。
それに良い子ねと頭を撫でて、私はコントローラーを握った。
「それじゃ、今日は遊ぼうっ。優兎くん、相手してくれる?」
「えっ!?僕が美鈴ちゃんに勝てる訳ないじゃない。旭にも負けてるんだから。旭が相手しなよ」
持っていたコントローラーを優兎くんは旭に渡した。
私の隣にワクワクと桃が座り、旭の横には優兎くんが。そしてベッドの上に三つ子が座り観戦の態勢をとった。
ゲームスタート。
ボタンを押してゲームを開始。
そして、…私の圧勝に終わった。
「ふっ、旭。まだまだ修行が足りないわね」
「う、嘘だー…まだ敵わないなんて…」
「す、凄いですわっ!流石王子っ!」
ふっふっふ。まだまだ腕は落ちていなかったみたい。
顔では笑みを浮かべつつ、心の中で威張っていると、ドアが開き棗お兄ちゃんが入って来た。
「あぁ、本当に久しぶりのゲームしてたんだね。旭が産まれるまでは良く一緒に遊んでたけど」
「棗お兄ちゃん、勝負っ!」
「良いけど、僕も美鈴に勝つ自信はないよ?」
苦笑しながら私の隣に座り旭からコントローラーを受け取る。
早速勝負開始。結果は3対2で私の勝利。
「うぅー…また二回も負けた。棗お兄ちゃんに一度でいいから圧勝してみたい」
「えー?それは兄のプライドとして嫌だなぁ」
「…もしかして、俺達、棗兄ちゃんになら勝てるんじゃっ!?」
旭がぐっと身を乗り出してきた。その発言に棗お兄ちゃんはふっと口の端だけで笑い、
「やってみるか?」
と鴇お兄ちゃんにそっくりな口調で旭達を焚き付けた。
早速旭は私からコントローラーを奪い、棗お兄ちゃんに挑戦。
旭達はボロ負けした。完膚なきまでに叩き潰され、しくしくと四人纏まってベッドの上で泣いている。
「もしかして、王子が一番強いんですの?」
キラキラおめめで桃が迫ってくる。いや、そんな訳ないとは思うんだけど。
そう口を開こうとしたけれど、答えたのは私ではなかった。
「さー、それは、どうかな」
部屋のドアを開けて葵お兄ちゃんが今の惨状を見て笑いながら言った。
「なんだ、お前らほんっとに懐かしいゲームしてんのな」
そう言って顔出したのは鴇お兄ちゃん。部屋で仕事をしていたのかシャツとスラックス姿。ジャケットとネクタイは部屋に置いてきたんだろう。
「鴇お兄ちゃん、スラックスに皺付いちゃうよ。帰ったら直ぐに着替えないと」
「まぁ、そう言うな。急ぎの書類があったんだよ」
私の小言に苦笑して、中に入って来ると棗お兄ちゃんの代わりにコントローラーを持った。
「ほら、美鈴。やるぞ」
「えっ、あ、うんっ」
あれ?鴇お兄ちゃんってゲーム出来るの?よく考えたら私がいつもゲームしてたのは双子のお兄ちゃんとで。だって鴇お兄ちゃん、出会った時は既に私とゲームするような年齢じゃなかったんだもんね。
コントローラーを握り、ゲームスタート。
そして…惨敗しました。
「鴇お兄ちゃん、ズルいぃーっ!!」
夜だと言うのに私の声が家中に木霊する。
ずるいずるい、ずーるーいーっ!!
何やっても勝てないとか何なのー、もうっ!!
「ゲームで位勝たせてくれてもいいじゃないっ!!そもそも鴇お兄ちゃん、棗お兄ちゃんより弱い筈じゃなかったのーっ!?」
「年下相手に本気でやる訳ないだろ」
鴇お兄ちゃんのドヤ顔。ちょっと待ってっ!私だって年下だもんっ!!手加減してよっ!!いや、されたらされたで腹立つっ!!むーっ!!
床をバシバシと叩いて必死に訴える。私以外の皆はぽかんと口を開けて今の勝負を呆気にとられてみていた。
そんな中葵お兄ちゃんだけが不敵に笑い、
「どう?鈴ちゃん。秘密兵器、強かったでしょ?」
どやぁっと言われた。強すぎて腹立ちます。とは言えないから、んぐぐぐっと言葉を必死に呑み込む。
無言の講義を床にたたきつける。バシバシと。
「流石鴇兄。美鈴ちゃんを負かせるなんて…」
優兎くんをぎらりと睨み付ける。今まで負けた事なかったのにっ!棗お兄ちゃんとだって最後には必ず勝ってたのにっ!
「悔しいよぉ…。どんな事だったら、鴇お兄ちゃんに勝てるのぉー…」
「お前なぁ。俺にだって妹に負けたくないって面子があるんだよ。これでも」
「そんなの…」
「そんなの言うな。出来る妹を持つと兄としてのプライドを保つにはかなりの努力が必要なんだからな」
お兄ちゃん達がうんうんと頷き合っている。
「むーっ、むむーっ!」
鴇お兄ちゃんの言ってる事は解るし、多分私に対する戒めの意味も入ってるんだろうけど。それでも悔しい物は悔しいのだ。
「家事は覚えない癖にーっ!」
「あぁ、それは話が別だな」
別なんだ。あっさりと言い返されて、それはそれでキョトンとしてしまった自分がいる。
「いいだろう、別に。美鈴の飯が美味いんだから。俺が作れなくても」
撫でてくる手に一瞬絆されそうになるけど、負けないんだから。
その手を取ってぐいぐいと長袖シャツの袖を捲る。もうね、実力行使しかないと思うんだ。物理攻撃しかないと思うんだよねっ!
「あ、そうだ。美鈴ちゃん、話の腰折って悪いんだけど、はい、これ」
ぐるぐると喉を鳴らして威嚇する犬の様に鴇お兄ちゃんに噛みつこうとしていた私に向かって優兎くんが突然小さな箱を取り出して目の前に差し出した。
きっと優兎くんなりの鴇お兄ちゃんへの助け船だったんだろうな。まぁ、そんなの関係ないけどね。
がぷり。
鴇お兄ちゃんの腕を噛みながら私は優兎くんから箱を受け取る。
あぎあぎ。
「美鈴。地味に痛い」
「いひゃくしへるの(痛くしてるの)」
あぎあぎ。がぷがぷ。
受け取った箱を開こうと捕まえていた鴇お兄ちゃんの手を離すと、腕はすぐさま離れていった。
鴇お兄ちゃんの腕にはしっかりと私の歯形が付いている。物理的な仕返しだけど少し満足した。
今度こそ箱を開くとそこには指輪が入っていた。大きさから行くとピンキーリングかな?
「どうしたの?これ」
指輪を手に取り手の平へ乗せる。うん。可愛い。これって多分、あれだよね。商店街にあるハンバーガーチェーン店のポイント交換景品。透馬お兄ちゃんが卸してるって鴇お兄ちゃんから聞いた。これって何か見た事のある形してるよね。…あ、分かったっ。西遊記の緊箍児だ。
……ん?西遊記?西遊記ってあれだよね?猿が出てくる…。
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ほら、前世の時って一緒にいる友達っていたにはいたけど、そこまで深く付き合ってこなかったし。それに友達になった子が惚れてた男性が皆揃いも揃って私に告白してくるから、直ぐに縁が切れちゃったし。
早速いそいそと小指に嵌める。わっ、わっ、可愛いっ。
どうしよう、嬉しいよーっ!!
確か海里くんって言ってたよねっ!皆の分のポイント交換なんて絶対安い買い物じゃないしっ。お礼しなきゃっ。
「ねっ、ねっ、鴇お兄ちゃんっ。携帯貸して」
「うん?良いけど何に使うんだ?」
「海里くんにお礼の電話しなきゃっ」
「そうか。……ほら」
携帯を受け取り、部屋に戻るとアドレス帳を開き、最近携帯持ったらしいって優兎くんが言って教えてくれた番号に電話をかけた。
電話は直ぐに繋がり、暫く海里くんと会話する。電話の最中、旭の部屋から笑い声が聞こえてきた。ゲーム続行中みたい。
……もうちょっとしたら鴇お兄ちゃんが様子見に来るかも。…と思った時、鴇お兄ちゃんが部屋に入って来たから、早めに電話を切り上げなきゃ。
お礼もしたし、ユメの事も伝えたし満足して電話を切ろうとしたら呼び留められた。
そして海里くんは盛大な爆弾を落としてくれたのである。
『大好きですよ、鈴先輩。……それじゃあ、切りますね。お休みなさい。願わくばボクの夢を見てくれますように―――チュッ』
「~~~~~ッ!!」
キスのおまけつき。
私は声にならない雄たけびを上げてしまった。
うええええっ!?
何でっ!?何で今ぁっ!?
羞恥心で電話を鴇お兄ちゃんに電話を返し、顔を両手で隠す。
「美鈴?」
そうですよねっ、不審に思いますよねっ!解ってますっ!でもちょっとだけ時間下さいっ!じゃないとこの真っ赤な顔をさらす事になり、更に赤くなっちゃうんですっ!
うわあああんっ、海里くんの馬鹿ぁっ!!
何なのよ、もうっ!告白は高校卒業間際だって言ってるじゃないっ!
「美鈴、どうした?」
あぁっ、そうだった、まだ鴇お兄ちゃんが目の前にいるんだったっ!
「な、なんでもないのぉー…」
必死に顔を隠し、覗き込まれても嫌だからベッドにダイブ。
うつ伏せになってさえいれば覗き込まれまい。
「…はぁ。あのなぁ、美鈴」
近付く足音が聞こえ、のしっと背中に圧を感じた。
なんなの?
ふと顔だけで振り返ると、うつぶせになる私の背中の上に鴇お兄ちゃんの頭があった。
ベッドに腰かけそのまま後ろに倒れる形で私を枕にしてるらしい。…うん、重い。
「鴇お兄ちゃん、重い…」
「そりゃ中身が詰まってるからな」
「え、何その自慢。もう一回噛り付いて良い?」
「やめろ。あれはマジで地味に痛い」
カチカチと歯をわざとらしく鳴らして威嚇する。私は虫歯ゼロの健康体です。前世も今も虫歯はないっ!
「で?一体、電話先の相手に何言われたんだ?」
「へ?」
一瞬忘れかけていた事を思い出し、もう一度ベッドに突っ伏した。
「何となく想像はつくけどな。告白でもされたか?」
ビクゥッ!!
鴇お兄ちゃん、いきなり確信を突かないで下さいっ!超心臓に悪いっ!いっつもいっつも確信アタック辛いっ!
「お前は分かりやすいなぁ。…で?返事はどうするんだ?」
「返事…?」
何の返事?
伏せた顔を戻して、鴇お兄ちゃんの方を振り向くと背中から圧が消えて、体を起こした鴇お兄ちゃんが私を見て苦笑した。
「告白されたんだろ?だったら付き合うかどうかの返事が必要だろ」
「うぇっ!?」
考えても見なかったよ、そんな事。
きっと顔に出てたんだろうね。鴇お兄ちゃんが増々呆れ顔になった。
「そんな事全く考えてなかった、って顔だな」
「うぅ…。だって二人共好きだとしか言わなかったし。付き合ってくれとは言われなかった…し…」
弟って言うか、もう精神年齢が離れすぎて息子に近いんだもん…。私だってどっちかと言えば親戚のおばさんのようにしか接してこなかったし…。
うぅ…。私が小さく唸ってると、鴇お兄ちゃんがふっとニヒルに笑った。
「…なるほど。二人から告白された訳だ」
ハッ!?私今言わなくて良い事言ったんじゃないっ!?
「付き合ってくれとは言われなかった、か。確かにそれならただ人として好きだって言われてる可能性もあるな」
………人として?異性としてではなく?
「異性としてではないのにキス、とかする?」
敬愛のキスってあるもの?
前世でも今世でも付き合った人なんていたことなかったから解らない。
「そりゃするだろ」
チュッ。
近づいてきた鴇お兄ちゃんが私の髪を一房取りそこへキスを落とした。
「ほらな」
「で、でも口にもする?」
「する奴もいると思うけど?」
そ、そうなのかな?
口って好きな人とするものだと思ってたけど、違うの?
あぁ、でも変質者はやたら口にちゅーしたがる…ってそれと一緒にするのも何か違うっ。
ぐるぐると思考が渦を巻いてきた。
「お前だって旭や三つ子に、友達にだってしてるだろ?」
「それは、そうだけど…」
「付き合ってくれって言われてる訳じゃないんだ。そこまで深く考える必要はないだろ」
「そういうもの?」
「あぁ。ただ、念の為にそいつらと二人きりにはなるな。今の友達関係を壊したくないならな」
そういうものなのか。男の人ってそうなんだ。
鴇お兄ちゃんが言うなら間違いないよね。うん。とりあえず二人の告白は今はちょっと頭の隅においやっておこう。他にも考えなきゃいけない事は一杯あるもんねっ。
コクコクと頷く。
「…これでちょっとは牽制出来てるだろ…」
「うん?鴇お兄ちゃん何か言った?」
何かため息交じりに聞こえたような…?
気のせいかな?
鴇お兄ちゃんをじっと凝視すると鴇お兄ちゃんはふっと柔らかく微笑んだ。
「所で、美鈴。頼みがあるんだが」
「なぁに?鴇お兄ちゃん」
「腹減った。何か軽く抓める物作ってくれ」
へ?
思わずキョトンとしてそれから体を起こして鴇お兄ちゃんが腕にしている時計を見る。
10時、かぁ…。
「あまり凭れない物がいいよね。何がいいかなぁ?」
ご飯残ってたし…お握りとかでもいいかな?あ、そう言えば糠漬けが良い頃合いかも。
良し。お握りに決定っ!
「葵お兄ちゃん達も食べるかな?」
「さぁな。聞いて来たらいい。俺は部屋で着替えてくる」
「ん、分かったっ。あ、ちゃんとシャツ出しといてよっ?この前みたいに仕舞い込んだり放置したら怒るからねっ」
「はいはい」
ポンポンと頭を叩かれて、私は少し嬉しくなる。
それから旭の部屋へ行くと、桃以外は皆そこにいて、夜食を食べるかどうか問うと全員から「食べる」と即答が返って来た。
そのままキッチンへ移動して、夜中にお握りパーティが開かれた。
皆楽しそうに美味しそうに食べてくれて私は大満足。
お風呂に入り、今日は自分の部屋のベッドへ潜り込み、私なりにゆっくりと眠りについた…筈だった。
―――なのに、私が目を覚ました時にまず視界に映した天井が見知らぬものなのは何故なのだろうか…。
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