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1巻
1-2
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「最近はね、みんな『道』を歩こうとしないんだ」
「どうして、歩かなくなったんでしょう?」
「忙しいんだって。仕事だって言ってるけど、ぜったいに遊んでると思うんだよ……!」
糸さんが腕組みしながら、むむっと口を尖らせる。
「あやかしにも仕事ってあるんですか?」
驚いて、反射的に糸さんに問う。
「にんげんたちに交じって、普通に働いてるよ。最近は都会で暮らすあやかしも多いんだ。そのほうが刺激があって楽しいんだってさ」
あやかしが人間社会で仕事をしている……? 人間に交ざって生活しているということだろうか。にわかには信じがたい話だ。
糸さんの話によると、この付近に旅籠はこの紬屋しかないらしい。あやかしたちは気まぐれで、予約などはせずにふらりとやってくるという。
「まぁ、静かなところがうちのいいところだしね……」
そうは言うものの、糸さんの歯切れは悪い。
「あんまりお客さん来ないんですか?」
私のストレートな問いに、視線を彷徨わせながら糸さんが頷く。
「そう、だね……」
「こんなに趣のある建物で、料理も美味しいのに」
「小夏ちゃん、ありがとう!」
感激した様子の糸さんに両手をぎゅっと握られる。思わず生温かい感触にビクリとしてしまった。
彼に対する恐怖心はかなり薄れている。それでも過剰に反応してしまうのは、怖いからではなく、他人との接触に慣れていないからだ。
「何か営業努力はしているんですか?」
「美味しい山菜料理の献立を考えてるよ。けっこうレパートリーがあってね」
目を輝かせながら、自慢のレパートリーを教えてくれる。
「でも、それって新規のお客さんを集めるにはあまり意味なくないですか?」
「う、うん……」
またしてもストレートな言葉が出てしまった。がっくりと項垂れる彼を見て、慌ててフォローする。
「えっと、糸さんのお料理は本当に美味しいので、必ずリピーターさんは来てくれると思います」
「確かに、何度も来てくれるお客さんばかりだけど」
やっぱり。
「ということは、新規のお客さんを増やせば、あっという間に人気の旅籠になりますよ」
「うちの旅籠が……人気に……?」
「そうです」
「どうしたら新規のお客さんが来てくれるんだろう」
腕を組んで思案する姿は真剣そのものだが、アイデアはないらしい。
「まずはこの旅籠を知ってもらうことが大事なので、宣伝するしかないですね」
私が動画作成だけで生活できているのは、SNSで話題になったからだ。
「あやかし専門のSNSとかないんですか?」
「うーん、ないなぁ」
「……あやかしって動画に映りますか? 私、撮影と編集はできるんですけど」
せっかく美味しいうどんをご馳走になったのだから、少しくらい彼の役に立つことがしたい。
何より、こんなにすてきな日本家屋を埋もれさせるなんて、もったいないと思う。
もっとたくさんのあやかしたちに見てほしい。
「そういえば、動画を撮ってそれを生業にしてるってお社でも言ってたね。すごいなぁ」
感嘆する糸さんに、私はバックパックから最新式のカメラを取り出して、見せた。
彼はそれを、物珍しそうにしげしげと眺めている。
「でも、もし動画に映っても、公開できる場所がなければ意味がないですね……」
手入れの行き届いたすてきな日本家屋と美味しいごはん。それから美形の旅籠屋主人。
宣伝に必要な被写体は完璧に揃っている。でも、見てもらえなければ意味がない。
「公開って、たぶんあやかしたちは普通に動画に出てるよ」
「え?」
動画に出てる? それって、どういうことだろう。
「小夏ちゃんのチャンネル見せて」
糸さんに促され、スマホをすいすいと操作する。自分のチャンネルを検索して、彼に見せる。三日前にアップした動画を再生してしばらくすると、糸さんが指さした。
「ほら、映ってる」
目を凝らしてスマホの画面を見る。廃屋の内部にちらりと人影が映った。
ゴクリと唾を呑む。映像の中で、私が納戸の引き戸を開けた。
そこに映っていたのは、老婆だった。膝を抱えて、ちょこんと座っている。
「納戸婆だね」
「な、なんですかそれ……?」
「人家の納戸に棲んでる老婆の妖怪だよ」
まさか自分の動画にあやかしが映っているとは思わなかった。他の動画にも座敷童やら猫又やら、あやかしたちが私の知らないうちに動画に出演していた。
「このコメントはあやかしだね」
コメント欄を確認すると、糸さんが指摘した通り、「猫又が映ってる!」「撮られてるじゃん」「出演おめでとう」というひどく掠れた文字があった。
まさかコメントまで書き込まれていたなんて。
「この文字って、普通のひとには見えなかったりします?」
「そうだね」
私は頷く糸さんの手を取った。
「大丈夫です。ぜったいに成功します!」
しっとりと生温かい彼の手を、ぎゅっと両手で握る。怖さも慣れない人肌も関係ない。
ただただ動画クリエーターの血が騒ぐ。
「ひ、ひゃい……!?」
突然、前のめりになった私に糸さんは驚いたようだった。
裏返った声で返事をしながらこちらを見ている。
どうやら、私の動画はあやかしの出没率が高いらしい。どの動画にも掠れた文字、つまりあやかしたちのコメントが書き込まれていた。
あやかしたちが見ているこのチャンネルで旅籠を宣伝すれば、きっとうまくいく……!
さっそくカメラを手にして、糸さんに紬屋の案内をしてもらう。
紬屋には、なんと薪風呂があった。実際に湯を沸かし、その様子も映像におさめる。
「紬屋に来れば、この薪風呂に入れるんですね」
「体の芯まで温まるよ」
それはポイントが高い。
本当はもっと時間をかけて撮影したいのだけど、とりあえず今は全体をささっと撮ることに集中する。CMを一本完成させるためだ。
「山菜レシピのレパートリーは、たくさんあるんですよね? 作ってる様子とか、美味しそうに食べるところとか撮影したいです。薪風呂でゆったりするところとか。そういうのを動画にして、私のチャンネルで公開すれば宣伝になると思うんです」
「そ、そんなことしてもらって、いいの……?」
信じられないといった顔で糸さんが私を見る。
「協力します、ご馳走になったし。それに、もったいないじゃないですか。せっかくいい宿なのに」
「こ、小夏ちゃん……!」
小鹿のようにぷるぷる震えながら糸さんが感激している。
♦ ♦ ♦
撮影が完了したので、次は編集だ。
その場を動こうとせず、廊下の真ん中でめそめそする彼のことは、申し訳ないけれどそのまま放置した。私は忙しいのだ。
先ほどの納戸婆が映っていた動画を改めて編集する。動画が終わった後に、旅籠の宣伝映像を繋げるだけ。
バックパックからパソコンを取り出し、編集作業に集中していると、目を真っ赤にした糸さんが「よかったら食べて」と小皿を持ってきた。
小皿には、三角形をした和菓子と菓子楊枝が添えられていた。三角形の白い餅のような物体の上に小豆がのっている。
「これって、なんですか?」
「水無月だよ」
白い物体は餅ではなく、ういろうだという。
「んっ……! 美味しい!」
ういろうのほのかな甘さと、小豆のしっかりとした甘さ。ぜんぜん重くない。品のいい甘みだ。
「美味しい? 本当? 嬉しいなぁ」
赤い目のまま、糸さんがおっとりと笑う。
私はそんな彼をチラ見しながら、二口目を口に入れた。心底嬉しそうな顔をしている。
もしかしたら糸さんは、他人に食べさせるのが好きなのかもしれない。
食べさせ妖怪? いや、太らせあやかし……?
そんなことを考えていると、糸さんが冷たいお茶を出してくれた。氷がたっぷり入った麦茶で喉を潤しながら、水無月をいただく。
「京都ではね、夏越の祓が行われる頃に水無月を食べる風習があるみたい」
「物知りなんですね、糸さんは」
「まぁ、この年になるとね。いろいろ知識は増えるよ」
ごくごくっと麦茶を飲み干してから、糸さんに聞く。
「糸さんっていくつなんですか」
「え、ええっ……! そ、それは……内緒」
もぞもぞとしながら、まるで恥じらうような仕草を見せる。乙女か、と心の中でツッコむ。
そうこうしているうちに編集作業は終わった。映像を糸さんに確認してもらう。
「あやかし向けのCMですね」
あやかしに向けた文字と糸さんの姿は、普通の人間には見えていないから、このCMはただ誰もいない風景を映した、奇妙な映像となっているだろう。
でも、私のチャンネルは普段から風景ばかりを映しているので、気にする人間はそれほどいないはず。
「小夏ちゃん、天才だ……!」
「糸さん、コメント書いてください」
「う、うん」
慣れない手つきで、糸さんがポチポチと文字を打つ。
『あやかし街道沿いにある旅籠『紬屋』です。季節の山菜料理が自慢です。ぜひ来てください』
コメントにはすぐに返信がついた。
『きれいな旅籠ですね。今度おじゃまします』
これは嬉しいコメントだ。
『山菜料理、いいですね』
間違いなく美味しいので、ぜひ味わってほしい。
『イケメンの旅籠屋主人に会いたい。ちょっと頼りなさそうだけど……笑』
あやかしの世界でも彼は美形らしい。でも、頼りなさが数十秒の動画でも透けて見えるなんて、ちょっと笑ってしまう。
「反応はいいみたいですね。これから忙しくなるかもしれませんよ」
「小夏ちゃん……ありがとう……! 本当にありがとう!」
涙目でお礼を言われて、反応に困る。
糸さんのうるうると潤んだ瞳は、なんというか破壊力がすさまじい。
「旅籠のこともありがたいけど、実は僕、前から動画っていうのに出てみたかったんだよ。それが叶ってすごく嬉しい……!」
「そうなんですか?」
「うん。集落で小夏ちゃんを初めて見たとき、動画を撮るひとだって気づいて、こっそりカメラに映ろうとしてたんだよ」
そんなことをしていたのか。
「もしかして、わざと前を横切ったりとかしたんですか?」
テレビや動画に映りたい人によくある行動パターンだ。
「ま、まぁ。ちょっとだけだけどね」
視線が泳いでいるのでかなり怪しい。私は撮影した映像を確認した。
実際に見て驚いたのだけど、この旅籠はなんと村の入口付近にあった。撮影時に見えなかったのは、茅の輪に触れる前だったからだろう。
そして、確かに糸さんは映っていた。山菜の入ったカゴを持って、ちらちらとこちらの様子を窺っている。
しばらくすると、偶然を装って画面に入り込んできた。挙動が不審なので、まったく偶然を装えてはいない。
「あ、今。思いっきりカメラ目線になりましたね」
「はしゃいでしまって、申し訳ない……」
映像の中で手を振ったり、じっとカメラを覗き込んだりし始めた。いたずらっ子のようだ。
ドアップでにんまりと笑っていたりもして、私は思わず吹き出してしまった。
子どもみたいにカメラに写り込もうとする糸さんに、笑いが止まらない。
「恥ずかしいなぁ。でも、小夏ちゃんの笑顔が見れてよかったよ」
頭を掻きながら、のんびりした声で糸さんが言う。
そういえば、こんなに笑ったのは久しぶりだ。私は普段、あまり笑うことがない。
それに比べて糸さんは、真顔が笑顔というくらい、常ににこにこしている。
「今日はもう遅いから、泊まっていかない?」
そう言われて私は外を見た。どうやら雨は上がったらしい。本当にもうすっかり夜だ。
廃村なのでもちろん街灯などなく、あたりは漆黒の闇に包まれている。
都会暮らしの自分にとって、夜はネオンが光る時間帯というイメージだった。けれど、これが本当の夜なのだろう。耳を澄ますとリンリンという涼やかな虫の音が聞こえた。
「いいんですか……?」
「小夏ちゃんがよければ、どうぞ」
あやかしと、一つ屋根の下。
改めて、夜、廃村、白髪のあやかし……と頭の中で考える。ぜんぜん怖くない。
すっかり恐怖心が消えてしまっていることに自分でも驚いた。糸さんのおっとりした雰囲気のせいで、緊張感さえ薄れている。
「お言葉に甘えて一晩、お世話になります」
私が頭を下げると、糸さんは「お風呂を見てくるね」と言って、出て行った。
薪風呂を堪能できるのは嬉しい。さっきは、とりあえず映像におさめただけで詳しく聞かなかったけれど、温度調節はどうしているのだろう。薪割りも糸さんがしているのかな……?
薪風呂を堪能するなんて初めての経験だから、わくわくする。きっと気持ちがいいんだろうな。
髪をほどき、お風呂へ行く準備をしていると、和箪笥が視界に入った。趣のある桐の箪笥だった。その一番上の引き出しが、わずかに開いている。
「これって、浴衣かな……?」
引き手の金具に指をかけ、ぐっと引くと白地に紺の柄が見えた。やはりそうだ。
昔ながらの旅館にあるタイプの、シンプルな浴衣だった。
私はその場で服を脱いで、浴衣を着ることにした。
糊がきいて、触るとパリッとしている。袖を通すと気持ちよさそうだった。Tシャツは雨に濡れたせいで、なんとなくじめっとして気持ち悪かったのだ。
「汗もたくさんかいたし」
Tシャツを頭からすっぽりと脱ぎ、浴衣に袖を通す。そういえば浴衣の衿って、どっちが前だっけ……と考えていると、ふいに廊下から足音がした。
トタトタとこちらに向かってくる。そして、すとん、と小気味よい音を立てながら障子が開いた。
「言い忘れてたけど、箪笥の中に浴衣があるからね……あ、うわ……! ご、ごめん……!」
糸さんが、びゅん、と音がするくらい高速で顔を横に逸らす。
(も、もしかして、裸見られた……?)
いや、浴衣に袖を通していたし、きっと大丈夫。見られてはいないはず。でも、まだ帯は締めてなかったし。もしかしたら、ちょっと胸元とか、お腹とかが目に入ったかも……?
そう思ったら、顔から火が出そうなくらい熱くなった。
「べ、別に、平気ですから……」
平気、と言っているその声が震える。
他人に裸を見られるという事態に陥ったことがないので、こういうときになんと言えばいいのか分からない。
「責任を取ります」
低い艶のある声で糸さんが言う。
頼りないへにょへにょした声しか知らなかったので、さらにドギマギしてしまう。
「せ、責任ってなんですか……?」
あ、もしかして、宿泊料金を安くしてくれるのだろうか。そうだったら嬉しい。
「小夏ちゃんをきずものにした責任を取って、僕が小夏ちゃんをお嫁さんにします……!ぜったいに幸せにするので……!」
「こ、困ります!」
真っ青な顔でまくし立てる糸さんに、慌てて「待った」と声を掛ける。
あやかしの嫁になるという想像は一ミリもしたことのない人生だったので、とりあえず待ってほしい。さすがにまさかの提案過ぎる。
そもそも、ちょろっと裸を見ただけ(だと思いたい)なのに、きずものなんて大袈裟だ。
それに、きずものにしたから嫁にするなんて、いつの時代の話なのだ。令和の世とは思えない。でも、そういえば彼はずいぶん昔から存在したらしいから、仕方ないのかもしれないけれど……
私は、しゅるしゅると帯を結びながら「そういった責任の取られ方は困ります」と改めて口にする。
「ほ、本当にごめん……」
項垂れる糸さんに「本当に平気ですから」と声を掛ける。
「うん……」
畳の上に正座した糸さんのきれいな旋毛を見下ろしながら、こんなところまで美しいのだな、という感想を抱く。
「明日の朝ごはん、楽しみにしてます」
「え……?」
糸さんが顔を上げる。
「美味しい朝ごはんでチャラにします」
ちょっと安売りし過ぎな気がするけれど、仕方ない。
糸さんは「任せて!」と言って勢いよく頷いた。
それから、初めての薪風呂を体験した。
ちょっと熱めのお湯が心地よい。汗を流してさっぱりする。
湯加減は常に糸さんが見てくれていた。
立ち昇る湯気を見ていると、自然と体の力が抜けていく。疲労で凝り固まった体が柔らかくなって、じんわりと癒されていくような感じがする。
薪風呂で体の芯からぽかぽかになった。そのせいか、布団に入るとすぐに瞼が重くなった。ほどよく重みのある布団が妙に安心する。
布団の中で目を閉じながら、思いがけない一日になったなぁと今日の出来事を振り返る。
美味しかった山菜うどん、すてきな旅籠、美形あやかし……
そういえば、糸さんは何歳なのだろう。見た目は美青年だけど、年齢的にはおじいちゃんだったりするのかな?
いつからこの旅籠を切り盛りしているんだろう。そんなことを考えていたけれど、結局、私はすぐに寝入ってしまっていた。
おこわと天ぷらの山菜御膳
翌朝、すっきりと目が覚めた。
薪風呂の効果なのか、いい睡眠が取れた気がする。
驚いたことに、自分の肌がもっちりすべすべになっていた。昨夜、入浴中にたくさん汗をかいたせいかもしれない。しっとりと、吸いつくような頬の感触に感動する。
そして、やけに体が軽い。山を登ってこの集落まで来たのに、その疲労が少しも残っていないのだ。薪風呂おそるべし。
寝ころびながら布団の上で、ぐいぐいと体を伸ばす。昨日はパリッとしていた浴衣が、今は肌に馴染んでいる。さらさらして気持ちがいい。
寝そべった体勢で体操を続けていると、障子の向こうから糸さんの声がした。
「小夏ちゃん、起きた? 朝ごはんできてるけど食べる?」
朝ごはん、という言葉を聞いて、昨日と同じように私のお腹が「ぐるるるー!」と反応する。
自分はこんなに食いしん坊だっただろうか。普段よく食べているコンビニ弁当は、すべて食べきれないくらいなのに。
小食だと思っていたんだけどな、と思いながら「朝ごはん、お願いします」と糸さんに返事をした。
「えっと、大丈夫? 開けてもいい? 着替えてない?」
昨日のことを反省しているのだろう。糸さんが何度も尋ねてくる。
「大丈夫です」
「本当に開けるよ? いい? 平気?」
しつこいくらいに確認している。
私は起き上がり、ドタドタと障子に向かって歩く。ほとんど突進に近い。
そして勢いよく、シャン、と障子を開けた。
「お腹が空いてるので、早くお願いします」
「は、はぁい……」
さっと目を逸らす糸さんの様子を見て、自分が寝起きだったことを思い出した。
体操もしていたから、浴衣が大きくはだけている。首元がたわんで肌が露出していた。
一度見られてしまった(と思う)ので、私は特に慌てることもなく彼に背中を向け、左右の合わせを直した。
帯をゆっくり結び直して振り返ると、部屋の卓袱台の上に御膳が用意されていた。
「うわぁ、美味しそう……」
思わず声が漏れた。
色鮮やかな器に、一品ずつ料理が盛られている。
葉っぱがそれぞれの器に飾られ、彩りを添えていた。青いモミジ、ナンテン、ササの葉。特にササの葉は、なんともいえない涼しさを演出している。
主役である料理は、朝食とは思えないほどの量と豪華さだった。
「いつもこの量を出してるんですか?」
「そうだよ。季節によって採れる山菜が違うから内容は少し変わるけど、量は同じだね。あ、でも、いつも以上に気持ちを込めて作ったよ」
昨夜、私が「楽しみにしてます」と圧をかけたからだろう。
今すぐに食べたい気持ちと、動画クリエーターの撮りたい欲求がせめぎ合う。
「ぐるぐる」と主張するお腹をさすりながら、私はなんとか堪えた。
この料理を撮らないのはもったいない。豪華で、美しくて、めちゃくちゃ美味しそうなのだ。
「季節によって内容が少し変わる」というのは大事な部分だから、テロップで文字を出すよりも糸さんから直接、説明してもらったほうがいいだろう。
私は、カメラを糸さんに向けた。
「さっきの言葉、もう一度お願いします」
ついでに、料理を一品ずつ彼に紹介してもらおう。あやかし界隈でも彼はイケメンらしいので、適役だ。
「え? そ、そんな……」
なぜか糸さんは頬を染めた。恥ずかしいのだろうか。視線をあちこちに彷徨わせながら、落ち着かない様子を見せる。意味不明だ。あんなにカメラに写りたがっていたのに。
「早くしてください」
私が催促すると、意を決したようにカメラに向き直った。
「小夏ちゃんに美味しく食べてもらいたくて、いつも以上に気持ちを込めて作ったよ」
「…………ん?」
そんなこと言っていたっけ? そういえば、言っていたかもしれないけど、私が今求めているコメントはそれではない。
「どうして、歩かなくなったんでしょう?」
「忙しいんだって。仕事だって言ってるけど、ぜったいに遊んでると思うんだよ……!」
糸さんが腕組みしながら、むむっと口を尖らせる。
「あやかしにも仕事ってあるんですか?」
驚いて、反射的に糸さんに問う。
「にんげんたちに交じって、普通に働いてるよ。最近は都会で暮らすあやかしも多いんだ。そのほうが刺激があって楽しいんだってさ」
あやかしが人間社会で仕事をしている……? 人間に交ざって生活しているということだろうか。にわかには信じがたい話だ。
糸さんの話によると、この付近に旅籠はこの紬屋しかないらしい。あやかしたちは気まぐれで、予約などはせずにふらりとやってくるという。
「まぁ、静かなところがうちのいいところだしね……」
そうは言うものの、糸さんの歯切れは悪い。
「あんまりお客さん来ないんですか?」
私のストレートな問いに、視線を彷徨わせながら糸さんが頷く。
「そう、だね……」
「こんなに趣のある建物で、料理も美味しいのに」
「小夏ちゃん、ありがとう!」
感激した様子の糸さんに両手をぎゅっと握られる。思わず生温かい感触にビクリとしてしまった。
彼に対する恐怖心はかなり薄れている。それでも過剰に反応してしまうのは、怖いからではなく、他人との接触に慣れていないからだ。
「何か営業努力はしているんですか?」
「美味しい山菜料理の献立を考えてるよ。けっこうレパートリーがあってね」
目を輝かせながら、自慢のレパートリーを教えてくれる。
「でも、それって新規のお客さんを集めるにはあまり意味なくないですか?」
「う、うん……」
またしてもストレートな言葉が出てしまった。がっくりと項垂れる彼を見て、慌ててフォローする。
「えっと、糸さんのお料理は本当に美味しいので、必ずリピーターさんは来てくれると思います」
「確かに、何度も来てくれるお客さんばかりだけど」
やっぱり。
「ということは、新規のお客さんを増やせば、あっという間に人気の旅籠になりますよ」
「うちの旅籠が……人気に……?」
「そうです」
「どうしたら新規のお客さんが来てくれるんだろう」
腕を組んで思案する姿は真剣そのものだが、アイデアはないらしい。
「まずはこの旅籠を知ってもらうことが大事なので、宣伝するしかないですね」
私が動画作成だけで生活できているのは、SNSで話題になったからだ。
「あやかし専門のSNSとかないんですか?」
「うーん、ないなぁ」
「……あやかしって動画に映りますか? 私、撮影と編集はできるんですけど」
せっかく美味しいうどんをご馳走になったのだから、少しくらい彼の役に立つことがしたい。
何より、こんなにすてきな日本家屋を埋もれさせるなんて、もったいないと思う。
もっとたくさんのあやかしたちに見てほしい。
「そういえば、動画を撮ってそれを生業にしてるってお社でも言ってたね。すごいなぁ」
感嘆する糸さんに、私はバックパックから最新式のカメラを取り出して、見せた。
彼はそれを、物珍しそうにしげしげと眺めている。
「でも、もし動画に映っても、公開できる場所がなければ意味がないですね……」
手入れの行き届いたすてきな日本家屋と美味しいごはん。それから美形の旅籠屋主人。
宣伝に必要な被写体は完璧に揃っている。でも、見てもらえなければ意味がない。
「公開って、たぶんあやかしたちは普通に動画に出てるよ」
「え?」
動画に出てる? それって、どういうことだろう。
「小夏ちゃんのチャンネル見せて」
糸さんに促され、スマホをすいすいと操作する。自分のチャンネルを検索して、彼に見せる。三日前にアップした動画を再生してしばらくすると、糸さんが指さした。
「ほら、映ってる」
目を凝らしてスマホの画面を見る。廃屋の内部にちらりと人影が映った。
ゴクリと唾を呑む。映像の中で、私が納戸の引き戸を開けた。
そこに映っていたのは、老婆だった。膝を抱えて、ちょこんと座っている。
「納戸婆だね」
「な、なんですかそれ……?」
「人家の納戸に棲んでる老婆の妖怪だよ」
まさか自分の動画にあやかしが映っているとは思わなかった。他の動画にも座敷童やら猫又やら、あやかしたちが私の知らないうちに動画に出演していた。
「このコメントはあやかしだね」
コメント欄を確認すると、糸さんが指摘した通り、「猫又が映ってる!」「撮られてるじゃん」「出演おめでとう」というひどく掠れた文字があった。
まさかコメントまで書き込まれていたなんて。
「この文字って、普通のひとには見えなかったりします?」
「そうだね」
私は頷く糸さんの手を取った。
「大丈夫です。ぜったいに成功します!」
しっとりと生温かい彼の手を、ぎゅっと両手で握る。怖さも慣れない人肌も関係ない。
ただただ動画クリエーターの血が騒ぐ。
「ひ、ひゃい……!?」
突然、前のめりになった私に糸さんは驚いたようだった。
裏返った声で返事をしながらこちらを見ている。
どうやら、私の動画はあやかしの出没率が高いらしい。どの動画にも掠れた文字、つまりあやかしたちのコメントが書き込まれていた。
あやかしたちが見ているこのチャンネルで旅籠を宣伝すれば、きっとうまくいく……!
さっそくカメラを手にして、糸さんに紬屋の案内をしてもらう。
紬屋には、なんと薪風呂があった。実際に湯を沸かし、その様子も映像におさめる。
「紬屋に来れば、この薪風呂に入れるんですね」
「体の芯まで温まるよ」
それはポイントが高い。
本当はもっと時間をかけて撮影したいのだけど、とりあえず今は全体をささっと撮ることに集中する。CMを一本完成させるためだ。
「山菜レシピのレパートリーは、たくさんあるんですよね? 作ってる様子とか、美味しそうに食べるところとか撮影したいです。薪風呂でゆったりするところとか。そういうのを動画にして、私のチャンネルで公開すれば宣伝になると思うんです」
「そ、そんなことしてもらって、いいの……?」
信じられないといった顔で糸さんが私を見る。
「協力します、ご馳走になったし。それに、もったいないじゃないですか。せっかくいい宿なのに」
「こ、小夏ちゃん……!」
小鹿のようにぷるぷる震えながら糸さんが感激している。
♦ ♦ ♦
撮影が完了したので、次は編集だ。
その場を動こうとせず、廊下の真ん中でめそめそする彼のことは、申し訳ないけれどそのまま放置した。私は忙しいのだ。
先ほどの納戸婆が映っていた動画を改めて編集する。動画が終わった後に、旅籠の宣伝映像を繋げるだけ。
バックパックからパソコンを取り出し、編集作業に集中していると、目を真っ赤にした糸さんが「よかったら食べて」と小皿を持ってきた。
小皿には、三角形をした和菓子と菓子楊枝が添えられていた。三角形の白い餅のような物体の上に小豆がのっている。
「これって、なんですか?」
「水無月だよ」
白い物体は餅ではなく、ういろうだという。
「んっ……! 美味しい!」
ういろうのほのかな甘さと、小豆のしっかりとした甘さ。ぜんぜん重くない。品のいい甘みだ。
「美味しい? 本当? 嬉しいなぁ」
赤い目のまま、糸さんがおっとりと笑う。
私はそんな彼をチラ見しながら、二口目を口に入れた。心底嬉しそうな顔をしている。
もしかしたら糸さんは、他人に食べさせるのが好きなのかもしれない。
食べさせ妖怪? いや、太らせあやかし……?
そんなことを考えていると、糸さんが冷たいお茶を出してくれた。氷がたっぷり入った麦茶で喉を潤しながら、水無月をいただく。
「京都ではね、夏越の祓が行われる頃に水無月を食べる風習があるみたい」
「物知りなんですね、糸さんは」
「まぁ、この年になるとね。いろいろ知識は増えるよ」
ごくごくっと麦茶を飲み干してから、糸さんに聞く。
「糸さんっていくつなんですか」
「え、ええっ……! そ、それは……内緒」
もぞもぞとしながら、まるで恥じらうような仕草を見せる。乙女か、と心の中でツッコむ。
そうこうしているうちに編集作業は終わった。映像を糸さんに確認してもらう。
「あやかし向けのCMですね」
あやかしに向けた文字と糸さんの姿は、普通の人間には見えていないから、このCMはただ誰もいない風景を映した、奇妙な映像となっているだろう。
でも、私のチャンネルは普段から風景ばかりを映しているので、気にする人間はそれほどいないはず。
「小夏ちゃん、天才だ……!」
「糸さん、コメント書いてください」
「う、うん」
慣れない手つきで、糸さんがポチポチと文字を打つ。
『あやかし街道沿いにある旅籠『紬屋』です。季節の山菜料理が自慢です。ぜひ来てください』
コメントにはすぐに返信がついた。
『きれいな旅籠ですね。今度おじゃまします』
これは嬉しいコメントだ。
『山菜料理、いいですね』
間違いなく美味しいので、ぜひ味わってほしい。
『イケメンの旅籠屋主人に会いたい。ちょっと頼りなさそうだけど……笑』
あやかしの世界でも彼は美形らしい。でも、頼りなさが数十秒の動画でも透けて見えるなんて、ちょっと笑ってしまう。
「反応はいいみたいですね。これから忙しくなるかもしれませんよ」
「小夏ちゃん……ありがとう……! 本当にありがとう!」
涙目でお礼を言われて、反応に困る。
糸さんのうるうると潤んだ瞳は、なんというか破壊力がすさまじい。
「旅籠のこともありがたいけど、実は僕、前から動画っていうのに出てみたかったんだよ。それが叶ってすごく嬉しい……!」
「そうなんですか?」
「うん。集落で小夏ちゃんを初めて見たとき、動画を撮るひとだって気づいて、こっそりカメラに映ろうとしてたんだよ」
そんなことをしていたのか。
「もしかして、わざと前を横切ったりとかしたんですか?」
テレビや動画に映りたい人によくある行動パターンだ。
「ま、まぁ。ちょっとだけだけどね」
視線が泳いでいるのでかなり怪しい。私は撮影した映像を確認した。
実際に見て驚いたのだけど、この旅籠はなんと村の入口付近にあった。撮影時に見えなかったのは、茅の輪に触れる前だったからだろう。
そして、確かに糸さんは映っていた。山菜の入ったカゴを持って、ちらちらとこちらの様子を窺っている。
しばらくすると、偶然を装って画面に入り込んできた。挙動が不審なので、まったく偶然を装えてはいない。
「あ、今。思いっきりカメラ目線になりましたね」
「はしゃいでしまって、申し訳ない……」
映像の中で手を振ったり、じっとカメラを覗き込んだりし始めた。いたずらっ子のようだ。
ドアップでにんまりと笑っていたりもして、私は思わず吹き出してしまった。
子どもみたいにカメラに写り込もうとする糸さんに、笑いが止まらない。
「恥ずかしいなぁ。でも、小夏ちゃんの笑顔が見れてよかったよ」
頭を掻きながら、のんびりした声で糸さんが言う。
そういえば、こんなに笑ったのは久しぶりだ。私は普段、あまり笑うことがない。
それに比べて糸さんは、真顔が笑顔というくらい、常ににこにこしている。
「今日はもう遅いから、泊まっていかない?」
そう言われて私は外を見た。どうやら雨は上がったらしい。本当にもうすっかり夜だ。
廃村なのでもちろん街灯などなく、あたりは漆黒の闇に包まれている。
都会暮らしの自分にとって、夜はネオンが光る時間帯というイメージだった。けれど、これが本当の夜なのだろう。耳を澄ますとリンリンという涼やかな虫の音が聞こえた。
「いいんですか……?」
「小夏ちゃんがよければ、どうぞ」
あやかしと、一つ屋根の下。
改めて、夜、廃村、白髪のあやかし……と頭の中で考える。ぜんぜん怖くない。
すっかり恐怖心が消えてしまっていることに自分でも驚いた。糸さんのおっとりした雰囲気のせいで、緊張感さえ薄れている。
「お言葉に甘えて一晩、お世話になります」
私が頭を下げると、糸さんは「お風呂を見てくるね」と言って、出て行った。
薪風呂を堪能できるのは嬉しい。さっきは、とりあえず映像におさめただけで詳しく聞かなかったけれど、温度調節はどうしているのだろう。薪割りも糸さんがしているのかな……?
薪風呂を堪能するなんて初めての経験だから、わくわくする。きっと気持ちがいいんだろうな。
髪をほどき、お風呂へ行く準備をしていると、和箪笥が視界に入った。趣のある桐の箪笥だった。その一番上の引き出しが、わずかに開いている。
「これって、浴衣かな……?」
引き手の金具に指をかけ、ぐっと引くと白地に紺の柄が見えた。やはりそうだ。
昔ながらの旅館にあるタイプの、シンプルな浴衣だった。
私はその場で服を脱いで、浴衣を着ることにした。
糊がきいて、触るとパリッとしている。袖を通すと気持ちよさそうだった。Tシャツは雨に濡れたせいで、なんとなくじめっとして気持ち悪かったのだ。
「汗もたくさんかいたし」
Tシャツを頭からすっぽりと脱ぎ、浴衣に袖を通す。そういえば浴衣の衿って、どっちが前だっけ……と考えていると、ふいに廊下から足音がした。
トタトタとこちらに向かってくる。そして、すとん、と小気味よい音を立てながら障子が開いた。
「言い忘れてたけど、箪笥の中に浴衣があるからね……あ、うわ……! ご、ごめん……!」
糸さんが、びゅん、と音がするくらい高速で顔を横に逸らす。
(も、もしかして、裸見られた……?)
いや、浴衣に袖を通していたし、きっと大丈夫。見られてはいないはず。でも、まだ帯は締めてなかったし。もしかしたら、ちょっと胸元とか、お腹とかが目に入ったかも……?
そう思ったら、顔から火が出そうなくらい熱くなった。
「べ、別に、平気ですから……」
平気、と言っているその声が震える。
他人に裸を見られるという事態に陥ったことがないので、こういうときになんと言えばいいのか分からない。
「責任を取ります」
低い艶のある声で糸さんが言う。
頼りないへにょへにょした声しか知らなかったので、さらにドギマギしてしまう。
「せ、責任ってなんですか……?」
あ、もしかして、宿泊料金を安くしてくれるのだろうか。そうだったら嬉しい。
「小夏ちゃんをきずものにした責任を取って、僕が小夏ちゃんをお嫁さんにします……!ぜったいに幸せにするので……!」
「こ、困ります!」
真っ青な顔でまくし立てる糸さんに、慌てて「待った」と声を掛ける。
あやかしの嫁になるという想像は一ミリもしたことのない人生だったので、とりあえず待ってほしい。さすがにまさかの提案過ぎる。
そもそも、ちょろっと裸を見ただけ(だと思いたい)なのに、きずものなんて大袈裟だ。
それに、きずものにしたから嫁にするなんて、いつの時代の話なのだ。令和の世とは思えない。でも、そういえば彼はずいぶん昔から存在したらしいから、仕方ないのかもしれないけれど……
私は、しゅるしゅると帯を結びながら「そういった責任の取られ方は困ります」と改めて口にする。
「ほ、本当にごめん……」
項垂れる糸さんに「本当に平気ですから」と声を掛ける。
「うん……」
畳の上に正座した糸さんのきれいな旋毛を見下ろしながら、こんなところまで美しいのだな、という感想を抱く。
「明日の朝ごはん、楽しみにしてます」
「え……?」
糸さんが顔を上げる。
「美味しい朝ごはんでチャラにします」
ちょっと安売りし過ぎな気がするけれど、仕方ない。
糸さんは「任せて!」と言って勢いよく頷いた。
それから、初めての薪風呂を体験した。
ちょっと熱めのお湯が心地よい。汗を流してさっぱりする。
湯加減は常に糸さんが見てくれていた。
立ち昇る湯気を見ていると、自然と体の力が抜けていく。疲労で凝り固まった体が柔らかくなって、じんわりと癒されていくような感じがする。
薪風呂で体の芯からぽかぽかになった。そのせいか、布団に入るとすぐに瞼が重くなった。ほどよく重みのある布団が妙に安心する。
布団の中で目を閉じながら、思いがけない一日になったなぁと今日の出来事を振り返る。
美味しかった山菜うどん、すてきな旅籠、美形あやかし……
そういえば、糸さんは何歳なのだろう。見た目は美青年だけど、年齢的にはおじいちゃんだったりするのかな?
いつからこの旅籠を切り盛りしているんだろう。そんなことを考えていたけれど、結局、私はすぐに寝入ってしまっていた。
おこわと天ぷらの山菜御膳
翌朝、すっきりと目が覚めた。
薪風呂の効果なのか、いい睡眠が取れた気がする。
驚いたことに、自分の肌がもっちりすべすべになっていた。昨夜、入浴中にたくさん汗をかいたせいかもしれない。しっとりと、吸いつくような頬の感触に感動する。
そして、やけに体が軽い。山を登ってこの集落まで来たのに、その疲労が少しも残っていないのだ。薪風呂おそるべし。
寝ころびながら布団の上で、ぐいぐいと体を伸ばす。昨日はパリッとしていた浴衣が、今は肌に馴染んでいる。さらさらして気持ちがいい。
寝そべった体勢で体操を続けていると、障子の向こうから糸さんの声がした。
「小夏ちゃん、起きた? 朝ごはんできてるけど食べる?」
朝ごはん、という言葉を聞いて、昨日と同じように私のお腹が「ぐるるるー!」と反応する。
自分はこんなに食いしん坊だっただろうか。普段よく食べているコンビニ弁当は、すべて食べきれないくらいなのに。
小食だと思っていたんだけどな、と思いながら「朝ごはん、お願いします」と糸さんに返事をした。
「えっと、大丈夫? 開けてもいい? 着替えてない?」
昨日のことを反省しているのだろう。糸さんが何度も尋ねてくる。
「大丈夫です」
「本当に開けるよ? いい? 平気?」
しつこいくらいに確認している。
私は起き上がり、ドタドタと障子に向かって歩く。ほとんど突進に近い。
そして勢いよく、シャン、と障子を開けた。
「お腹が空いてるので、早くお願いします」
「は、はぁい……」
さっと目を逸らす糸さんの様子を見て、自分が寝起きだったことを思い出した。
体操もしていたから、浴衣が大きくはだけている。首元がたわんで肌が露出していた。
一度見られてしまった(と思う)ので、私は特に慌てることもなく彼に背中を向け、左右の合わせを直した。
帯をゆっくり結び直して振り返ると、部屋の卓袱台の上に御膳が用意されていた。
「うわぁ、美味しそう……」
思わず声が漏れた。
色鮮やかな器に、一品ずつ料理が盛られている。
葉っぱがそれぞれの器に飾られ、彩りを添えていた。青いモミジ、ナンテン、ササの葉。特にササの葉は、なんともいえない涼しさを演出している。
主役である料理は、朝食とは思えないほどの量と豪華さだった。
「いつもこの量を出してるんですか?」
「そうだよ。季節によって採れる山菜が違うから内容は少し変わるけど、量は同じだね。あ、でも、いつも以上に気持ちを込めて作ったよ」
昨夜、私が「楽しみにしてます」と圧をかけたからだろう。
今すぐに食べたい気持ちと、動画クリエーターの撮りたい欲求がせめぎ合う。
「ぐるぐる」と主張するお腹をさすりながら、私はなんとか堪えた。
この料理を撮らないのはもったいない。豪華で、美しくて、めちゃくちゃ美味しそうなのだ。
「季節によって内容が少し変わる」というのは大事な部分だから、テロップで文字を出すよりも糸さんから直接、説明してもらったほうがいいだろう。
私は、カメラを糸さんに向けた。
「さっきの言葉、もう一度お願いします」
ついでに、料理を一品ずつ彼に紹介してもらおう。あやかし界隈でも彼はイケメンらしいので、適役だ。
「え? そ、そんな……」
なぜか糸さんは頬を染めた。恥ずかしいのだろうか。視線をあちこちに彷徨わせながら、落ち着かない様子を見せる。意味不明だ。あんなにカメラに写りたがっていたのに。
「早くしてください」
私が催促すると、意を決したようにカメラに向き直った。
「小夏ちゃんに美味しく食べてもらいたくて、いつも以上に気持ちを込めて作ったよ」
「…………ん?」
そんなこと言っていたっけ? そういえば、言っていたかもしれないけど、私が今求めているコメントはそれではない。
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